Syn.(シノニム)

かの翔吾

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Capitulo 1 ~en Japon~

1-8

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 小さな異変が大きなものに姿を変えるまでそれ程の時間は要さなかった。

 見舞いの花が荒らされ、アパートの窓が割られた。脅迫めいた文面も何が余計な事なのか。何を嗅ぎまわるなと言われているのか。答えさえ見出せない短い時間。そんな中で起きた許容など出来るはずのない異変。

 テルに会うのは三日ぶりだった。三日の間に変わった事と言えば、アパートの窓に新しいガラスが入った事と実家に戻った事。そして今月いっぱいでアパートを引き払う手続きをしたくらいだ。だがその三日の間でテルには大き過ぎる異変が降りかかっていた。

 八日間もスマホを放り出していたのだから、テルに何一つ不満はぶつけられないが、丸二日間テルへと送ったメッセージは既読にならなかった。そして三日目の朝。ようやく既読となったメッセージに返信があった。

〔梗佑君。本当にごめん。連絡できなくて〕

〔交通事故に遭って今入院中なの〕

——交通事故?

 何か嫌な予感に鼓動が早くなった。

〔すぐに見舞いに行く〕

 どういう事か全く意味が分からなかった。フーデリで自転車を乗り回していた自分なら交通事故に遭う確率も高いはずだ。だが花屋で働くテルにどうしてそんな難が降りかかったのか。

 
 テルが入院した病院は信濃町にあった。勤める花屋は四谷にあると聞いていたから近くではある。勤務中に何か事故にでも巻き込まれたのだろうか? そんな事を考えながら面会の手続きを済ませる。

 B棟のB-14。送られてきたメッセージに書かれていた病室を探す。

「あ、すみません」

 B-14の部屋に入ろうとした時。若い男と肩がぶつかった。咄嗟に謝ったものの男は廊下を急ぐ。その男の後姿に妙な違和感を覚える。黒いスーツ姿ではあるがジャケットの袖がやけに短く、白いシャツが大きくはみ出している。それにズボンの丈もやけに短く靴下が十センチ以上は見えている。その靴下の色がオレンジ色だった事もあり、男の印象が深く刻まれた。だがそんな男に構っている時間はない。

「テル。起きてるか?」

 B-14の部屋にいたナースにテルのベッドを教えてもらい、そのカーテンをそっと開ける。ギプスに固められた左足に骨折の箇所はすぐに分かる。

「梗佑君。ありがとう。来てくれて」

「ああ。大丈夫か?」

「全治二カ月だけど、一週間で退院は出来るって。って、何かおかしいね」

「何が?」

「だって。梗佑君の左腕にギプス。僕の左足にギプス。梗佑君が退院したばっかりなのに、続いて僕が入院してって」

 元気そうなテルの姿に一先ひとまず安心させられる。

「それで? どう言う事なんだ? 何でこんな事に?」

「ごめん。心配掛けちゃったね。一昨日ね。店から帰る時に車にかれて。轢き逃げだったんだけど」

「轢き逃げ?」

 思わず声が裏返る。

「心配しないで。警察が今探してくれてるし。それに左足以外は何ともないし。一応、脳も検査してもらったけど異常はなかったから安心して」

「ああ。無事なら良かったけど。早くその轢き逃げ犯を捕まえないとな」

「うん。そうだね。……それでね。折角お見舞いに来てくれたばかりで悪いんだけど、梗佑君にお願いがあるの」

 テルが申し訳なさそうな顔を作る。テルの頼みなら何だって聞けるのに、そんな顔をさせて逆にこっちが申し訳なくなる。

「何? 何でも言ってくれよ」

「お店にね行って来て欲しいの」

「お店って、テルが働く花屋にか?」

「うん。入院している事まだお店に伝えていないんだ。無断欠勤中で」

「無断欠勤って。交通事故に遭って入院してるんだから仕方ないだろ?」

「うん。そうだね。入院した一昨日は本当に無断欠勤。電話も掛けられなくて。でも昨日も今日も電話しているのに、お店の電話も誰も出ないし。安田さん。店長の携帯に掛けても繋がらなくて。お店に行って一週間休みますって伝えたいんだけど、こんな状態だから行けなくて」

 大きな花籠を抱えた安田の顔を思い出す。薄いブルーのトルコキキョウ。確かテルにボヤージュ・スカイと言う名前だと教えられた。

「何だ。そんな事ならすぐにでも行ってくるよ。それに慌てて来てしまったから、俺、見舞いの花すら持って来ていないし。ボヤージュ・スカイだっけ? 一週間休むって伝えて、テルの好きなトルコキキョウをついでに買ってくるよ」

「そんな気を遣わなくていいよ。ただ休むって伝えてくれれば」


 信濃町から四谷なんて一駅電車に乗る必要もない距離だ。それにテルに教えられた店はJRの四ツ谷と地下鉄の四谷三丁目に間だ。歩いたって十五分とかからないだろう。

 まだ一週間も経っていない。入院していた八日間。いや、付き合いだして半年は経つがテルへの興味が大きかった訳ではない。それが今では百八十度想いの向きが変わったようにも思える。もし半年の間。テルがこんな想いで接してくれていたなら申し訳ない気持ちでいっぱいだが、彼氏としてこれから挽回していけばいいと。そんな自信にも繋がる。

 安田に一週間休む事を伝え、店にあるだけのトルコキキョウを抱えてテルの病室に戻ろう。そしてテルが入院している間は毎日見舞いに通えばいい。だがそんな簡単なテルの頼みも叶えられない事に小さな焦りと大きな不安が生まれる。

——どうなっているんだ?

 テルが働く花屋はすぐに見つける事が出来た。住所も店の名前も合っている。

 だが下ろされたシャッターには『長い間ありがとうございました。当店は閉店いたしました。店主』の貼り紙だ。長い時間晒された訳でもなさそうな貼り紙に、つい最近閉店した事が分かる。

 テルと言う従業員がいながら、その従業員に何も知らせる事なく閉店?

 さっき生まれたばかりの焦りと不安が怒りへと変わっていく。その怒りの矛先。浮かぶのは花籠を抱えた安田の顔だ。一体テルに何て伝えればいいのだろう。

 その時だ。店の前を通り過ぎる男の姿が視界の端に入ってきた。やけに袖丈と裾が短い黒いスーツ。それにオレンジ色の靴下だ。

「おい、ちょっと」

 さっき肩がぶつかったからではない。少し横柄な態度になったのは安田への怒りがまだ鎮まっていないからだ。

 男が立ち止まり振り返る。睨みを効かす鋭い目つきにひるみそうになったが、男の口調は目つきほど鋭いものではなかった。

「ええと。何でしょうか?」

「あ、すみません。さっき病院でも見掛けたもので」

「ああ。桜井の古い知り合いです。日外あぐいと言います。日外良樹よしき

 日外と名乗る男に名乗り返そうかとも思ったが、男の足は既に動き出していた。黒いスーツが遠ざかる。だがやはりオレンジ色は目立つようだ。五十メートルは離れただろうが、その靴下の色だけが目に映っていた。


 B-14。開けっ放しのドアはテルの元へ戻る時間を短縮する。

 テルの店から病院へ戻る道中。他の花屋を探してみたが見つける事も出来ず、腕いっぱいのトルコキキョウを抱える事は出来なかった。それに簡単な頼みすら聞けずに戻る事にどうしようもない情けなさが付き纏う。

 嘘を付いて安心させる事も考えはした。だがそんな嘘は一週間後にはバレてしまう。テルのベッドの脇。丸椅子に腰掛け正直に向かう。

「店は開いていなかったよ。シャッターが閉まっていて。閉店しましたの貼り紙があった」

 突然職を失った事を知らされテルは何を思うだろうか。やはり一週間しか効力がなくても嘘を付けばよかった。だが予想に反してテルの反応は冷静だった。

「そうなんだ」

「ごめん。戻って来る途中、他の花屋も探したんだけど見つからなくて。トルコキキョウも買って来れなかった」

「梗佑君。気を遣わないでって言ったでしょ」

「でも」

 テルが笑う。逆に気を遣わせている事が本当に情けない。

「薄々は勘付いていたから。大丈夫だよ」

「勘付いていたって?」

「お店を閉める事。花が好きでもないのに嫌々店をやってたって感じだったし。お店は僕や他のスタッフに任せきりで。でも安田さんが受けた注文だけは僕達には触らせなくて」

 思い当たるところばかりなのだろう。

 テルを知りたいと言う思いが膨らみ、何が待ち受けるかは分からないが、テルと過ごすの時間を楽しみにしているのに。

——これから?

 テルのこれからはどうなるのだろう。

「なあ。店がなくなって、テルはどうするんだ? 別の花屋で?」

「そうだね。いずれは自分で花屋を持つのが夢だけど、もう少し資金を貯めないと無理だし。退院したらどこか他のお店探して働くしかないね。多分、バイトになるけど」

「夢があるんだな」

「勿論あるよ。僕は梗佑君みたいに大学にも行っていないし、手に付けた職で何とか自分の店を持てたらなって」

 卑下しているのかもしれないが。テルが羨ましくもあった。確かに大学に行き一度は通訳士なんて仕事に就いたが、今じゃフーデリで日銭を稼いでいる身だ。親にはそんな仕事は辞めて実家に戻って来いと言われる始末だ。ふとテルのではなく自分のが不安になる。

「夢があるって凄いな。俺なんて何にもないからテルが羨ましいよ」

「そんな事ないよ。夢って言っても実現までにはもう少し時間が掛かりそうだし。ほら、ボヤージュ・スカイ……」

 名前を聞くだけでテルの好きなトルコキキョウの色を思い出す事が出来る。勿論、恩田や西新宿での飛び降りがチラつかない訳ではないが、それらは忘れなければいけない事と脳が認識し始めている。

「ボヤージュ・スカイ。確かメキシコの農園って言っていたよな」

「うん。いつか自分で店を持ったらメキシコの農園と契約して、ボヤージュ・スカイを扱いたいなって。でもメキシコだなんて大きすぎる話だよね。僕なんか飛行機にも乗った事がないのに。メキシコだなんて」

 テルが生きてきた小さな世界を目の当たりにさせられる。

——飛行機にも乗った事がない。

 これからゆっくり知っていけばいいが、テルがこれまで歩いて来た道が気になりもする。だが誰にだって過去はあるものだ。現在いまと未来。ただそれだけがあれば充分な気もする。

「それじゃ。テルが初めて飛行機に乗る時は俺と一緒にだな」

 笑いながらテルの頬に右手を伸ばす。そんな指先がテルの両手に包まれる。

「ありがとう。一人で乗るのはちょっと怖いけど。梗佑君となら安心だね」

 笑い返すテルに大きな自信が生まれる。三十二年生きてきたがこんな気持ちにさせられるのは初めての事だ。守りたいと思う者に頼りにされると言う事が人を成長させるのだろう。

 そんな成長がとんでもない発想を生むまでに時間は掛からなかった。

「退院したら一緒にメキシコへ行こう。勿論、飛行機の手配やら何だで、退院してすぐには無理だろうけど」

「えっ? メキシコ?」

「ああ。メキシコ」

 最初は旅行程度のつもりで言い出したはずだった。だがテルの脳裏に描かれただろう光景がさらにとんでもない方向へと話を持っていく。

「トルコキキョウの原産地って。アメリカのテキサスからメキシコなんだって。花屋でずっと働いてきたけど自生するトルコキキョウなんて見た事ないし。切り花しか見た事がないから……」

 トルコキキョウがどんなふうに自生しているのかなんて知る由もない。だがどうしてだろう? 一面のトルコキキョウを前にテルと並ぶ自分を描く事が出来る。

 母さんが振り込んでくれただろう金額はまだ確認していない。だが母さんの事だから、二人分の旅費以上のものを振り込んでくれているだろう。

 もし足らなくても言う事を聞いてアパートを引き払う手続きをしたんだ。

「俺も今夢が見つかった」

「えっ? 何? 突然」

「俺はテルとメキシコに行って、テルに一面のトルコキキョウを見せる。それとボヤージュ・スカイの農園に行って契約を交わして、テルと一緒に花屋を経営する。それが俺の夢だ」

 自分でも大それた事を口にしている事は分かっていた。だが口にした事で何故か目標が定まった気にもなれる。

「梗佑君……」

 テルの表情が険しくなる。信用されていないのかもしれないが、さっさと行動に移せば納得もするだろう。

「大丈夫だって。飛行機は俺が手配しておくし、全部俺に任せれば大丈夫だから」

「でもメキシコだよ」

「ああ、メキシコだよ。心配しなくて大丈夫。俺一度メキシコに行った事があるし。メキシコの公用語はスペイン語だから言葉の壁も問題なし。俺が自慢できる事ってスペイン語くらいしかないんだから。なっ。俺に任せておけって」

 少しは安心させれただろうか。テルの顔に穏やかさが戻る。メキシコのどこに行けばいいのか。さっぱり検討も付かないが。だが折角手にした夢だ。投げ出さすに邁進するしかない。



Capitulo 1  Fin
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