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Capitulo 1 ~en Japon~
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テルの顔は穏やかだった。
今まできっと誰にも吐き出せなかった心の内を全部吐き出したのだろう。その表情をみればすっきり出来た事は分かる。
「……梗佑君。ごめんね。こんな話しちゃって。でも梗佑君にはいつかちゃんと話さないといけないって。ちょっとだけ梗佑君が僕に興味を持ってくれたような気になって話したけど。親もいないし、施設で育った僕なんかの事好きになれないよね」
「何言っているんだよ。テルの人生がどんなであろうと、親がいなくても施設で育ったとしても、俺が好きだって気持ちは変わらないよ」
そうは言ったものの、それ程の興味を持たずに今まで付き合ってきた事は確かだ。勿論声には出せないがテルに向き合う態度を改めなければならない事は分かっている。
「ありがとう。今までずっと一人なんだって。僕なんて誰かを好きになる資格も、好きになって貰える資格もないって、そんな風に考えて生きてきたから。梗佑君と出会えた事は奇跡みたいなものなんだ」
「奇跡なんて大袈裟な。テルが桜が嫌いな理由もテルって名前が小学生の頃に付けられたあだ名だって事も分かって、少しだけテルの事が知れたようで俺も嬉しいよ」
そう笑ってみせた脳裏に一つの疑問が引っ掛かった。テルにそれ程の興味を持たずに過ごしていた頃なら、気にも留めずに流していたかもしれない疑問。
「テルって、てるてる坊主のテルなんだよな」
「うん」
「俺はてっきり君輝のテルだと思っていた。……桜井君輝。だよな? でも、麻里央なんだよな。今話してくれた麻里央がテルなんだよな?」
「ごめん。何か混乱させたね。僕は三歳の時に母親に捨てられて、聖ドミニコこどもの家で林麻里央って名前を付けてもらったんだ。……ねえ、梗佑君。シノニムって知っている?」
「えっ? シノニム? 今初めて聞いた言葉だけど。そのシノニムがどうしたの?」
「僕の好きな花。トルコキキョウなんだけど。トルコキキョウって言うのは和名で、学名はユーストマって言うんだ。でも今はユーストマが学名だけど、長い間トルコキキョウの学名はリシアンサスで知られていたの」
「えっ? どう言う事? 全然意味が分からない」
「……ある人がリシアンサスって言う名前をあの花に付けたの。だからずっとリシアンサスって言う名前で呼ばれてきたんだ。でもリシアンサスって名前が付けられる一世紀も前に別のある人がユーストマって言う名前を付けていた事が判明したの。植物の学名って最初に付けられた名前が正式な学名になるんだって。だから長年リシアンサスと言う名前で親しまれてきた花だけど今は最初に付けられたユーストマと言う名前で呼ばれるようになったの。学名が複数ある植物の名前をシノニムって言うの。リシアンサスはユーストマのシノニム。もう一つの学名って事。……ごめん。説明が上手くなくて。余計混乱させたかな?」
「いや、何となくは分かったけど」
「林麻里央って言うのは僕のシノニム。僕は三歳の時にこの名前を貰ったんだ。誰も僕の本当の名前を知らなかったから、新しい名前を付けるしかなかったんだ。でも僕の本当の名前は桜井君輝だった。十八になるまで林麻里央って名前だったのに。本当の名前が分かって十八の時に僕は林麻里央から桜井君輝になったんだ」
——シノニム。
どうしてテルがそんな例えを出したのか意図は分からないが、何故かテルが特別な存在である事を教えられたようだった。だがすぐに切り替えられた脳裏に浮かんだのはあの荒らされた花籠だ。
——トルコキキョウ。
今テルが好きだと言った花の名前は、今朝ナースの口から聞かされた花の名前だ。
「ごめん。おかしな事を話しちゃったね」
余程難しい顔をしていたのかテルの顔が歪む。
「いや、ごめん。そうじゃないんだ。今の話でテルの事を何故か特別に思えて。何か不思議な感覚なんだけど。テルの好きな花……。トルコキキョウって花の名前を聞いて思い出した事があるんだ」
「えっ? トルコキキョウ? 何を?」
「昨日、俺の病室に見舞いの花が届いただろ?」
「ああ。あのアレンジにトルコキキョウが入っていたよね。ボヤージュ・スカイが」
「ボヤージュ・スカイ?」
「うん。空色のトルコキキョウだよ。ボヤージュ・スカイって言うのはトルコキキョウの品種名。すごく珍しい色なんだ」
「ああ、だからか」
朝のナースの言葉を思い出す。荒らされた花なんてゴミ箱に放り投げるしかないだろう。そんな考えをナースは否定していた。
「トルコキキョウって、白とかピンクとか紫が一般的なんだけど。空色のトルコキキョウは珍しくて、都内だとうちの店くらいでしか扱っていないよ」
「そんなに珍しいのか?」
「うん。うちの店もメキシコの農園から直輸入していて」
「メキシコ?」
それ程珍しい花を今日だけで二回も目にしたなんて。
——二回?
何も気にせずに過ごせば、ここで終わらせられる話だ。没頭すべきはテルと二人で過ごす時間だけ。病室ではモラルに反する行為もこのアパートでは誰に咎められる事もない。
それなのにどうしてだろうか? あのトルコキキョウの色が脳裏に焼き付いて他の色を描けない。
「昨日の花あっただろ?」
「昨日の花? お見舞いの花の事?」
「ああ。結局送り主が誰かは分からないんだけどど。今日の朝めちゃくちゃに荒らされていたんだ」
「荒らされていたって?」
「ああ。花が全部抜かれて花を差していた緑色のフォームまでめちゃくちゃに崩されていたんだ」
「えっ?! オアシスまでめちゃくちゃに?」
驚きを漏らさないためにかテルが口を手で塞ぐ。
「それにさっきニュースで見たんだ。西新宿のホテルから飛び降りた男のニュース。確か結城慎吾って奴だったけど、その男が飛び降りたホテルの屋上にも同じように荒らされた花籠が残ってたって。テレビが薄いブルーのトルコキキョウを映していたんだ」
テルの表情は変わらない。スマホ同様に八日も放り出していたテルに今すべき話ではない事は分かっている。本当なら肩を抱き寄せて。いや、肩だけじゃない。全身に覆い被さり八日分の性欲を甘ったるい言葉と共にぶつければ、テルと言う人間にどれだけ自分が傾いているかを示せるだろう。
「ごめん。余計な事を話したな」
「ううん。僕の方こそごめん」
「何が? 何でテルが謝る事はないだろ」
「梗佑君に送られた花。考えてみれば店の伝票を見れば送り主が誰かなんて分かるのに、俺そこまで考えていなかった。やっぱり送り主が分からないお見舞いなんて気持ち悪いよね。僕今から店に行って見てくるよ」
不安そうなテルの顔を前にギプスの取れた右腕をその背中へと回す。本当は両腕で抱き締めたいが左腕を思いのままに動かす事は出来ない。
「ごめん。余計な気を遣わせて。今日休みなんだろ? それなのにわざわざ店に行かなくていいよ。ちょっと気になっただけだから」
テルは片腕に抱かれたままじっとしている。
「明日でも大丈夫?」
「ああ、もちろん。今日はずっとこうしていよう」
ずっとなんて言いはしたが、八日ぶりの性欲をぶつけた後。その疲れからかうとうとと眠りに落ちていた。
夜が近くなって目を覚ました時には裸で抱き合っていたはずのテルの姿はもうなかった。
〔明日も仕事早いから帰るね。梗佑君寝てるから黙って帰るけど許してね〕
スマホはそんなメッセージを受信していた。だが放り出したスマホに手を伸ばしたのは次の日の朝になってからだ。
いったい何時間寝ていたんだろう。スマホを手に取り画面を見ると九時二十三分と言う時間を示していた。窓の外の明るさから夜でない事はすぐに分かる。
テルからのメッセージは二通だった。昨日の夕方送られたものと今朝送られたもの。だがすぐには開かずまず返信を打つ。返事が遅くなればなるほど自分の気持ちが希薄なものになりそうで怖かった。
〔ごめん。今起きた。帰ったのも気付かなくてごめん〕
すぐには既読にならない。きっと仕事中なのだろう。花屋の朝が早い事は前に聞かされたように思う。そのままベッドに寝転んだままでもよかったが。何故だろうか? だらしない体勢でテルのメッセージに向き合う事に申し訳なさが生まれる。床に足を伸ばしベッドに腰掛ける。
〔梗佑君に見舞いの花を送ったのは恩田和也って人だったよ。一応携帯番号。080-✕✕✕✕-✕✕✕✕〕
——恩田和也だって?
勢いよくカーテンを開けた面の皮の厚い男の顔を思い出す。
どうして奴が見舞いの花を送る必要がある? そもそも知り合いでもなんでもない。たまたま病室で隣り合わせになっただけだ。それにお互い名前すら知らないのに。ふとそんな考えが浮かびはしたが、ベッドの枕元のプレートを思い出す。気にも留めなかったが恩田に枕元のプレートを見られていてもおかしくはない。
意味が分からないがテルが併記してくれた携帯番号をタップする。ただ同室と言うだけだ。何の関りもない相手に見舞いの花を送り、その花をめちゃくちゃにする。どんな趣味をしているんだ? 考えてみればあの部屋には二人しかいなかった。花を荒らした犯人が恩田だと言うなら納得もいく。
だが恩田が電話に出る事はなかった。十数回のコールのあと機械の音声を経てぷつりと切れる。
ふと八日間もスマホを放り投げていた自分を思い出す。病院内だ。恩田が電話に出なくても当然の話だ。だがもやもやを抱えたまま何事もなかったように終わらせる事はやはり難しい。恩田をとっ捕まえて事の顛末を吐かせれば気分も晴れるだろう。
「あら。矢倉さん。今日診察の日ですか?」
名前は分からないが見覚えのあるナースに声を掛けられる。診察なら病棟に来る必要もないのに。そんな事を言いたそうな含みのある表情だ。
「すみません。そうじゃないんですが、ちょっと用事があって」
「忘れ物か何かですか?」
ナースの含みのある表情は戻らない。
「いえ。あの恩田和也に。同じ病室だった恩田和也に用事があって」
ナースの顔が不信感を露わにする。同室で歳もそれほど離れていなかっただろう。入院中に仲良くなっていてもおかしくはない。いや、仲良くなれるような相手ではなかったが。だがそう捉えれば退院後に見舞いに来てもおかしくはない話だ。
「恩田さんならもういないわよ」
「えっ? もういないって退院したって事ですか?」
「正式な退院じゃないんだけど。今朝から姿が見えないの。今日退院の予定だったんだけど、その前に入院費も払わずに消えたのよ。矢倉さん。お知り合いなら何か知らないかしら?」
「消えたって、逃げたって事ですか?」
「さあ」
べらべらと喋り過ぎたと思ったのかナースが自分は関係ないと言わんばかりにナースステーションに引っ込む。
——恩田が逃げた?
関係のない男ではあるが、見舞いの花を送ってきた事。その花をめちゃくちゃに荒らした事。抱えたもやもやをクリアに出来ないまま病院を後にする事に小さな怒りが生まれる。いったい何だって言うんだ。
その時。手にしていたスマホが受信を知らせる。テルからだ。
〔仕事で返事遅くなってごめんね。おはよう。起きたんだね。今はお家?〕
〔気になった事があって病院に来てる。もう帰るとこ〕
〔この後予定ある?〕
〔ないよ〕
〔それじゃランチしよう。今日昼で仕事が終わるから〕
今まできっと誰にも吐き出せなかった心の内を全部吐き出したのだろう。その表情をみればすっきり出来た事は分かる。
「……梗佑君。ごめんね。こんな話しちゃって。でも梗佑君にはいつかちゃんと話さないといけないって。ちょっとだけ梗佑君が僕に興味を持ってくれたような気になって話したけど。親もいないし、施設で育った僕なんかの事好きになれないよね」
「何言っているんだよ。テルの人生がどんなであろうと、親がいなくても施設で育ったとしても、俺が好きだって気持ちは変わらないよ」
そうは言ったものの、それ程の興味を持たずに今まで付き合ってきた事は確かだ。勿論声には出せないがテルに向き合う態度を改めなければならない事は分かっている。
「ありがとう。今までずっと一人なんだって。僕なんて誰かを好きになる資格も、好きになって貰える資格もないって、そんな風に考えて生きてきたから。梗佑君と出会えた事は奇跡みたいなものなんだ」
「奇跡なんて大袈裟な。テルが桜が嫌いな理由もテルって名前が小学生の頃に付けられたあだ名だって事も分かって、少しだけテルの事が知れたようで俺も嬉しいよ」
そう笑ってみせた脳裏に一つの疑問が引っ掛かった。テルにそれ程の興味を持たずに過ごしていた頃なら、気にも留めずに流していたかもしれない疑問。
「テルって、てるてる坊主のテルなんだよな」
「うん」
「俺はてっきり君輝のテルだと思っていた。……桜井君輝。だよな? でも、麻里央なんだよな。今話してくれた麻里央がテルなんだよな?」
「ごめん。何か混乱させたね。僕は三歳の時に母親に捨てられて、聖ドミニコこどもの家で林麻里央って名前を付けてもらったんだ。……ねえ、梗佑君。シノニムって知っている?」
「えっ? シノニム? 今初めて聞いた言葉だけど。そのシノニムがどうしたの?」
「僕の好きな花。トルコキキョウなんだけど。トルコキキョウって言うのは和名で、学名はユーストマって言うんだ。でも今はユーストマが学名だけど、長い間トルコキキョウの学名はリシアンサスで知られていたの」
「えっ? どう言う事? 全然意味が分からない」
「……ある人がリシアンサスって言う名前をあの花に付けたの。だからずっとリシアンサスって言う名前で呼ばれてきたんだ。でもリシアンサスって名前が付けられる一世紀も前に別のある人がユーストマって言う名前を付けていた事が判明したの。植物の学名って最初に付けられた名前が正式な学名になるんだって。だから長年リシアンサスと言う名前で親しまれてきた花だけど今は最初に付けられたユーストマと言う名前で呼ばれるようになったの。学名が複数ある植物の名前をシノニムって言うの。リシアンサスはユーストマのシノニム。もう一つの学名って事。……ごめん。説明が上手くなくて。余計混乱させたかな?」
「いや、何となくは分かったけど」
「林麻里央って言うのは僕のシノニム。僕は三歳の時にこの名前を貰ったんだ。誰も僕の本当の名前を知らなかったから、新しい名前を付けるしかなかったんだ。でも僕の本当の名前は桜井君輝だった。十八になるまで林麻里央って名前だったのに。本当の名前が分かって十八の時に僕は林麻里央から桜井君輝になったんだ」
——シノニム。
どうしてテルがそんな例えを出したのか意図は分からないが、何故かテルが特別な存在である事を教えられたようだった。だがすぐに切り替えられた脳裏に浮かんだのはあの荒らされた花籠だ。
——トルコキキョウ。
今テルが好きだと言った花の名前は、今朝ナースの口から聞かされた花の名前だ。
「ごめん。おかしな事を話しちゃったね」
余程難しい顔をしていたのかテルの顔が歪む。
「いや、ごめん。そうじゃないんだ。今の話でテルの事を何故か特別に思えて。何か不思議な感覚なんだけど。テルの好きな花……。トルコキキョウって花の名前を聞いて思い出した事があるんだ」
「えっ? トルコキキョウ? 何を?」
「昨日、俺の病室に見舞いの花が届いただろ?」
「ああ。あのアレンジにトルコキキョウが入っていたよね。ボヤージュ・スカイが」
「ボヤージュ・スカイ?」
「うん。空色のトルコキキョウだよ。ボヤージュ・スカイって言うのはトルコキキョウの品種名。すごく珍しい色なんだ」
「ああ、だからか」
朝のナースの言葉を思い出す。荒らされた花なんてゴミ箱に放り投げるしかないだろう。そんな考えをナースは否定していた。
「トルコキキョウって、白とかピンクとか紫が一般的なんだけど。空色のトルコキキョウは珍しくて、都内だとうちの店くらいでしか扱っていないよ」
「そんなに珍しいのか?」
「うん。うちの店もメキシコの農園から直輸入していて」
「メキシコ?」
それ程珍しい花を今日だけで二回も目にしたなんて。
——二回?
何も気にせずに過ごせば、ここで終わらせられる話だ。没頭すべきはテルと二人で過ごす時間だけ。病室ではモラルに反する行為もこのアパートでは誰に咎められる事もない。
それなのにどうしてだろうか? あのトルコキキョウの色が脳裏に焼き付いて他の色を描けない。
「昨日の花あっただろ?」
「昨日の花? お見舞いの花の事?」
「ああ。結局送り主が誰かは分からないんだけどど。今日の朝めちゃくちゃに荒らされていたんだ」
「荒らされていたって?」
「ああ。花が全部抜かれて花を差していた緑色のフォームまでめちゃくちゃに崩されていたんだ」
「えっ?! オアシスまでめちゃくちゃに?」
驚きを漏らさないためにかテルが口を手で塞ぐ。
「それにさっきニュースで見たんだ。西新宿のホテルから飛び降りた男のニュース。確か結城慎吾って奴だったけど、その男が飛び降りたホテルの屋上にも同じように荒らされた花籠が残ってたって。テレビが薄いブルーのトルコキキョウを映していたんだ」
テルの表情は変わらない。スマホ同様に八日も放り出していたテルに今すべき話ではない事は分かっている。本当なら肩を抱き寄せて。いや、肩だけじゃない。全身に覆い被さり八日分の性欲を甘ったるい言葉と共にぶつければ、テルと言う人間にどれだけ自分が傾いているかを示せるだろう。
「ごめん。余計な事を話したな」
「ううん。僕の方こそごめん」
「何が? 何でテルが謝る事はないだろ」
「梗佑君に送られた花。考えてみれば店の伝票を見れば送り主が誰かなんて分かるのに、俺そこまで考えていなかった。やっぱり送り主が分からないお見舞いなんて気持ち悪いよね。僕今から店に行って見てくるよ」
不安そうなテルの顔を前にギプスの取れた右腕をその背中へと回す。本当は両腕で抱き締めたいが左腕を思いのままに動かす事は出来ない。
「ごめん。余計な気を遣わせて。今日休みなんだろ? それなのにわざわざ店に行かなくていいよ。ちょっと気になっただけだから」
テルは片腕に抱かれたままじっとしている。
「明日でも大丈夫?」
「ああ、もちろん。今日はずっとこうしていよう」
ずっとなんて言いはしたが、八日ぶりの性欲をぶつけた後。その疲れからかうとうとと眠りに落ちていた。
夜が近くなって目を覚ました時には裸で抱き合っていたはずのテルの姿はもうなかった。
〔明日も仕事早いから帰るね。梗佑君寝てるから黙って帰るけど許してね〕
スマホはそんなメッセージを受信していた。だが放り出したスマホに手を伸ばしたのは次の日の朝になってからだ。
いったい何時間寝ていたんだろう。スマホを手に取り画面を見ると九時二十三分と言う時間を示していた。窓の外の明るさから夜でない事はすぐに分かる。
テルからのメッセージは二通だった。昨日の夕方送られたものと今朝送られたもの。だがすぐには開かずまず返信を打つ。返事が遅くなればなるほど自分の気持ちが希薄なものになりそうで怖かった。
〔ごめん。今起きた。帰ったのも気付かなくてごめん〕
すぐには既読にならない。きっと仕事中なのだろう。花屋の朝が早い事は前に聞かされたように思う。そのままベッドに寝転んだままでもよかったが。何故だろうか? だらしない体勢でテルのメッセージに向き合う事に申し訳なさが生まれる。床に足を伸ばしベッドに腰掛ける。
〔梗佑君に見舞いの花を送ったのは恩田和也って人だったよ。一応携帯番号。080-✕✕✕✕-✕✕✕✕〕
——恩田和也だって?
勢いよくカーテンを開けた面の皮の厚い男の顔を思い出す。
どうして奴が見舞いの花を送る必要がある? そもそも知り合いでもなんでもない。たまたま病室で隣り合わせになっただけだ。それにお互い名前すら知らないのに。ふとそんな考えが浮かびはしたが、ベッドの枕元のプレートを思い出す。気にも留めなかったが恩田に枕元のプレートを見られていてもおかしくはない。
意味が分からないがテルが併記してくれた携帯番号をタップする。ただ同室と言うだけだ。何の関りもない相手に見舞いの花を送り、その花をめちゃくちゃにする。どんな趣味をしているんだ? 考えてみればあの部屋には二人しかいなかった。花を荒らした犯人が恩田だと言うなら納得もいく。
だが恩田が電話に出る事はなかった。十数回のコールのあと機械の音声を経てぷつりと切れる。
ふと八日間もスマホを放り投げていた自分を思い出す。病院内だ。恩田が電話に出なくても当然の話だ。だがもやもやを抱えたまま何事もなかったように終わらせる事はやはり難しい。恩田をとっ捕まえて事の顛末を吐かせれば気分も晴れるだろう。
「あら。矢倉さん。今日診察の日ですか?」
名前は分からないが見覚えのあるナースに声を掛けられる。診察なら病棟に来る必要もないのに。そんな事を言いたそうな含みのある表情だ。
「すみません。そうじゃないんですが、ちょっと用事があって」
「忘れ物か何かですか?」
ナースの含みのある表情は戻らない。
「いえ。あの恩田和也に。同じ病室だった恩田和也に用事があって」
ナースの顔が不信感を露わにする。同室で歳もそれほど離れていなかっただろう。入院中に仲良くなっていてもおかしくはない。いや、仲良くなれるような相手ではなかったが。だがそう捉えれば退院後に見舞いに来てもおかしくはない話だ。
「恩田さんならもういないわよ」
「えっ? もういないって退院したって事ですか?」
「正式な退院じゃないんだけど。今朝から姿が見えないの。今日退院の予定だったんだけど、その前に入院費も払わずに消えたのよ。矢倉さん。お知り合いなら何か知らないかしら?」
「消えたって、逃げたって事ですか?」
「さあ」
べらべらと喋り過ぎたと思ったのかナースが自分は関係ないと言わんばかりにナースステーションに引っ込む。
——恩田が逃げた?
関係のない男ではあるが、見舞いの花を送ってきた事。その花をめちゃくちゃに荒らした事。抱えたもやもやをクリアに出来ないまま病院を後にする事に小さな怒りが生まれる。いったい何だって言うんだ。
その時。手にしていたスマホが受信を知らせる。テルからだ。
〔仕事で返事遅くなってごめんね。おはよう。起きたんだね。今はお家?〕
〔気になった事があって病院に来てる。もう帰るとこ〕
〔この後予定ある?〕
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〔それじゃランチしよう。今日昼で仕事が終わるから〕
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