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かの翔吾

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Capitulo 1 ~en Japon~

1-5

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 聖ドミニコこどもの家

 麻里央が聖ドミニコこどもの家の一員となり三回目の春を迎えていた。

 四月六日。

 麻里央が袖を通した黒いトレーナーは斗真のお下がりで、黒と言ってもすっかり色は褪せ胸のロゴも読めないほど剥がれていた。ひと言で形容すればボロボロとかヨレヨレと言われそうなトレーナーだったが、麻里央の一番のお気に入りでもあった。

「恵令奈、麻里央。準備は出来たかい?」

「うん。早く行こうよ」

 麻里央が答えるより先。恵令奈が園長先生の袖を引く。恵令奈に出遅れてしまったのは初めて背負うランドセルの重さが原因だった。三歳の頃の麻里央と恵令奈の背はさほど変わらなかった。だが六歳になった麻里央の背は拳骨げんこつ一つ分、恵令奈より高くなっていた。それでも二人の体重は同じで見た目通りひ弱な麻里央にとって、重いランドセルを背負う事はバランスを保つに難しい事だった。

「麻里央も準備はいいかい?」

「うん」

 改めての園長先生の問いに、後ろに倒れそうになりながらも麻里央は答えた。

「レイコ先生。そろそろ行きますよ。恵令奈も麻里央ももう準備は出来ていますよ。……まったく女性は本当に準備に時間が掛かる」

 園長先生がぼやいた先。職員室の扉が開きレイコ先生が姿を現す。

「今日のレイコ先生。すごくキレイ!」

 恵令奈が感嘆の声を上げる。麻里央の頭の中にもキレイと言う言葉が浮かびはしたが、恵令奈の瞬発力に麻里央は勝てなかった。

 普段のレイコ先生はジャージ姿なのに、今日のレイコ先生は薄いピンクのスカートに同じ色のジャケットを羽織っている。そのジャケットの下のブラウスの首元には真珠のネックレスがピカピカと光っている。

「レイコ先生。随分と着飾りましたね。今日の主役は恵令奈と麻里央なのに」

「園長先生だってスーツにネクタイじゃないですか。珍しい」

「この子達の入学式。晴れ舞台なんだから当然の事だろう」

 春になれば小学校に上がる事を麻里央は聞かされていた。

 二年先に小学校に通いだした斗真の姿を見て、麻里央も早く小学校に通いたいとは思っていた。ただ入学式がどんなものなのか麻里央には想像できなかった。

 普段はジャージ姿のレイコ先生が薄いピンクの服で着飾り、園長先生も普段は絞めないネクタイを閉めている。入学式と言うものが、普段の一日と何かが違う事は麻里央にも理解は出来た。だが園長先生に右手を引かれる麻里央は斗真のお下がりのトレーナー姿だ。

 少し俯きかけた麻里央の目に左手を繋がれた恵令奈の腕が映る。袖口から白いレースが見えてはいるが、恵令奈が着ているのも斗真のお下がりの水色のトレーナーだ。大人達が着飾ったとしても、子供には関係のない事だと麻里央は納得をした。

 こどもの家から小学校までは五分ちょっとで歩ける距離だった。明日からは斗真たち年長者と一緒に通う事も教えられていたから、初めての道も覚える必要はない。

「ねえ、ねえ。あのお花、レイコ先生と同じ色」

 小学校の門の横の桜の木に恵令奈が目を奪われる。

 だけど麻里央の目には門の横で写真を撮る親子の姿しか映らなかった。園長先生のようにスーツにネクタイの男の人はきっと父さんで、レイコ先生のようにキレイに着飾っている人が母さんなんだろう。そんな二人に手を引かれる男の子はピカピカ光る金ぼたんが目立つ紺色の服の下に赤いネクタイを絞めている。大人達と同じようにキレイな服を着た男の子に麻里央は少し悲しくなった。

「……恵令奈と麻里央も門の前で、桜の下で写真を撮るよ」

 園長先生の提案に「うん」と恵令奈は大きく返事をしていたが、麻里央は首を横に振った。

「僕、写真は撮らない。恵令奈だけ撮って」

 さっきまで門で写真を撮っていた父さんらしき男の人にレイコ先生がカメラを預けた。恵令奈も脇に立つ園長先生もレイコ先生も満面の笑みだ。

 麻里央はただ三人の姿を眺める。もし自分がいなければ園長先生は恵令奈の父さんでレイコ先生は母さんだ。

 キレイな服を着た男の子を見た時以上に麻里央は悲しくなった。

「……ねえ、僕の父さんと母さんはどこ?」

 写真を撮り終えた三人に近付き麻里央がぼそりと漏らす。そんな麻里央の問いにレイコ先生は困った顔を園長先生へと向けている。

「麻里央には父さんも母さんもいないの!」

 恵令奈が大きな声を上げた。そんな恵令奈に対抗して麻里央も大きな声を上げる。

「恵令奈にだって!」

「うん。あたしにも今は父さんと母さんはいない。でも今日は園長先生とレイコ先生が父さんと母さんなの。それにあたしにはお兄ちゃんがいるもん!」

 何も返せずにじっと見つめた地面に一枚の花弁が落ちてきた。みんなが満面の笑みになる桜の花だけど、麻里央を笑顔にする事は出来ない。

「恵令奈が言うように、私が父さんでレイコ先生が母さんだ。こどもの家の子供達はみんな先生達の子供なんだよ。……おっと、式が始まるからそろそろ行かないと」

 麻里央の手は再び園長先生に引かれていた。

 その大きな手を父さんのものだと思えればいいけど麻里央には難しい事だった。周りの子達のように父さんも母さんもいない。恵令奈のようにお兄ちゃんもいない。みんなが笑顔になる桜を見ると、自分にはないものが大きく圧し掛かってきてただ俯くしか出来なかった。


 花が終わり大きく葉が育ち、桜の木が淡いピンクから眩しい程の緑に変わった頃。恵令奈は学校にもクラスにもすっかり馴染んでいた。

 休み時間に話をする友達もすぐに見つけ、そんな友達と恵令奈が楽しそうに話している間。麻里央は図書室から借りてきた図鑑をただ眺めていた。

「……五時間目はみんなでてるてる坊主を作るんだって」

 同級生の声が耳に入ってはいたが麻里央は図鑑から目を離さなかった。何か口を開けば大勢に寄ってたかっていじめられる事が分かっていたからだ。

 体育の時間。ただ背の順に並んだだけだった。

「……麻里央みたいに背だけ高い奴の事を木偶でくの棒って言うんだぜ」

 同級生の一言にいつしかクラスの男子からはデクと呼ばれるようになっていた。

 一度だけ「デクじゃない! 麻里央だ!」そう反論したら、

 デクのくせに生意気だとすねを蹴られ、みんなの前で転ばされた。

「施設の子はちゃんとご飯食べてないから、すぐ倒れるんだな」

 一人が笑い出しそんな笑いの輪はすぐに広まった。

「施設で暮らしてて何が悪いの! ご飯だってちゃんと食べてる!」

 恵令奈が大声を上げた事で笑いの輪は鎮まったけれど、自分が馬鹿にされる事は恵令奈も馬鹿にされる事だと麻里央は理解させられた。

 それが休み時間にずっと図鑑を眺める理由だ。誰とも話さず誰の目にも留まらなければ、恵令奈を巻き込まず何事もなくこどもの家に帰る事が出来る。

「……それじゃ、班ごとに机をくっつけて」

 昼休みが終わり五時間目が始まった。担任の山田先生の声にみんな一斉に机を持って動き始める。麻里央も席を立ちみんなと同じように机の角を持ちはしたが、みんなのようには動けずにいた。

「林君。どうしたの? あなた二班でしょ? 二班のみんなと机をくっつけて」

「でも……」

 俯いた麻里央は小さな声しか漏らせない。

「先生! 麻里央は二班の僕らの事を嫌いだから三班になりました」

「えっ? どう言う事? 勝手に班を変えちゃダメじゃない」

「先生! 麻里央は三班の僕らの事も嫌いだから四班になりました」

「先生! 違います。四班じゃなくて一班です」

「だから勝手に班を変えちゃダメでしょ。林君は二班。みんなの事を嫌いだとか言わないで。二班の所に机をくっつけて」

 山田先生に言われた通り麻里央は黙って二班へと机を付ける。だが二班の男子は面白くない顔をして麻里央をじっと睨んでいる。

「先生! 麻里央は誰の事も嫌っていないです。みんなが麻里央の事を嫌っているんです」

 恵令奈が手を挙げた事に山田先生の表情が変わる。事ある毎に麻里央をかばう恵令奈はクラスの輪を乱す生徒。山田先生の目にはそう映っているようだった。

「郷田さん。あなたは関係ないでしょ」

「でも……」

 言葉を繋げようとした恵令奈を山田先生が遮る。

「班別に机を動かすだけでこんなに時間を使っちゃしょうがないでしょ。さ、班長は人数分の布を取りに来てちょうだい。もうすぐ雨が多い季節だから、今日はみんなでてるてる坊主を作ります」

 くだらない事で使った時間を取り戻すように山田先生の口調が早くなる。

「先生! 作ったてるてる坊主はどうするんですか?」

「もちろんこの教室に飾るわよ。窓側にみんなが作ったてるてる坊主を並べれば、きっとお天気になるはずだから」

「てるてる坊主じゃなくて麻里央をぶら下げた方が絶対お天気になりますよ。てるてる坊主より麻里央の方が大きいから」

「どうして林君なの? 林君は関係ないでしょ?」

「だって麻里央の頭。てるてる坊主と同じ坊主だし」

「あ、麻里央じゃなくて、デクじゃなくて、テルだ! てるてる坊主のテル!」

 誰かが言い出したテルと言う呼び名の大合唱が起こる。クラスの男子全員がテルと言う呼び名を何度も叫んでいる。だが麻里央は反論しなかった。あと数十分我慢すれば五時間目が終わる。そしてホームルームが終わり帰り支度をした斗真が迎えに来てくれる。

「恵令奈、麻里央。帰るぞ」

「お兄ちゃん。ちょっとだけ待って」

 ホームルームの間もずっとてるてる坊主の顔を描いていた恵令奈だったが、まだてるてる坊主の首に紐を付け終わっていなかった。

 麻里央は我慢をする数十分をてるてる坊主に集中させた事で、誰よりも早く作り終えていた。だがそれは我慢をする時間を増やすに過ぎなかった。斗真の声を聞いて一刻も早く教室を出たかった。

 だが恵令奈を置いて先には教室を出られない。

「何だよ。てるてる坊主か。何でそんなに時間が掛かるんだ?」

 斗真が恵令奈の手元を覗き込んでいる。器用ではない恵令奈の指先を見ればその理由なんて簡単に弾き出せる。

「……だってクラスのみんなが、麻里央が坊主頭だからって、てるてる坊主のテルだって。テル、テル、テル、テルって。麻里央を苛めて全然作る時間がなかったんだもん」

 恵令奈の言い訳は麻里央に矛先が向くものだった。同級生達はもう教室を後にしている。そんな同級生達に気を遣う必要なんてないが、苛められている事を斗真に言い出した恵令奈に対し、麻里央は小さな怒りを感じていた。

「苛められてなんてないよ。恵令奈が勝手に言っているだけ。麻里央って名前は僕の本当の名前じゃない。僕が三歳の時に園長先生が付けた名前だって。斗真が教えてくれたんじゃない。だから名前なんて何でもいい。麻里央でもテルでも」

「本当に苛められていないんだな?」

 恵令奈の手元から目線を上げ、斗真が睨んでくる。

「うん。いじめられていないよ。もしいじめられたら斗真に助けてもらうから大丈夫。それより恵令奈はてるてる坊主出来たの?」

 時間を掛けた割に不細工な顔に仕上がった恵令奈のてるてる坊主を手に取る。本当は下手くそだなって馬鹿にしたかったけど麻里央はぐっと堪えた。余計な事を言って帰る時間がもっと遅くなるのは困る。

「じゃあ、俺と麻里央は先に校門に行って待っているから。恵令奈は先生に出来ましたって、てるてる坊主を渡して来いよ」

 斗真に手を引かれ恵令奈より先に教室を出る。

 それはほんの数分の事だが麻里央にとっては幸せな時間だった。恵令奈に邪魔をされず斗真を独り占め出来る時間。父さんも母さんもいない。恵令奈のようにお兄ちゃんがいる訳でもない。そんな歪みそうな気持を一瞬だけでも忘れる事が出来る。麻里央は繋がれた手が解けないようにしっかりと握り返した。
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