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Capitulo 1 ~en Japon~
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『ごめん。連絡しなくて』
テルが訪れたら第一声で謝ってしまおう。例え言い訳しか浮かばなかったとしても、それ位の誠意は示さないといけないだろう。
「あっ、テル。ごめん。連絡しなくて」
ベッドを囲むカーテンの隙間にテルの顔が見え、数時間前に誓った言葉を発する事ができた。
「大丈夫なの? あ、腕なんだ。しかも両腕。骨折とか?」
右腕と左腕。それぞれを覆うギプスが目に入ったからかテルが不安そうな声を出す。
「ごめん。心配かけて。チャリで転んでしまって。どう言う転び方したのか両腕やられちゃったよ。でも明日退院だから大丈夫。それに右腕は明日ギプス外れそうだし」
「何かできる事があったら何でも言ってよ」
「それよりわざわざ来てもらって本当ごめん」
「何言ってんの。こんな時だから当たり前じゃん。それより本当に良かった。梗佑君と連絡が取れて。あ、ごめん。梗佑君、骨折したのに、良かったなんて、本当ごめん」
申し訳なさそうに下がったテルの眉に指先を伸ばす。伸ばすと言っても固定された腕が上がるはずもなく、指先は眉には届かない。
「どうしたの?」
「今の顔が可愛かったから触りたいなって。手を伸ばそうと思ったけど、伸びなかった」
ベッドの脇の椅子を見つけ腰を下ろすテル。
「これなら届くよね」
指先に頬を当ててくる。
触れた爪を返し何とか指の腹を頬に触れさせた時。テルの柔らかさが伝わってきた。
「あ、何かムラムラしてきた」
「何言ってんの?」
「いや、ほら。今日で入院も八日目でさ。この腕だから。自分でする事も出来なくてね。仕方ないだろ?」
不適と言われても仕方ない顔をテルへと向ける。個室でもない大部屋のこんな病室ではモラルに反する企みだ。そんな企みを察したテルが顔を赤らめる。
「ここでは無理だよ」
困った顔を作るテルに不敵な顔を更ににやけさせた時。
「おいおい、こんな所でおっ始めるなよ! ってか、男二人かよ!」
勢いよくカーテンを引き開け見覚えのない男が大きな声で冷やかしてきた。テルが顔を覗かせた反対側。同じ薄いブルーの患者衣を着せられている事から入院患者だとは分かるがいきなり入って来るとは失礼な奴だ。
「ってか、誰だよお前。勝手にカーテン開けんなよ!」
男に対抗し思わず声が大きくなる。
「いやいや。隣でいちゃいちゃされたら気にもなるだろ? それに今にもおっ始めそうな雰囲気だったしな」
「だから誰だよ。お前? 勝手に俺の領域に入ってくんな!」
「誰って、見りゃ分かるだろ? お隣さんだよ」
男が両手で更にカーテンを引き開ける。
その時。ベッドの枕元のプレートが目に飛び込んできた。面の皮の厚い男の名前は恩田和也と言うらしい。
「いちゃいちゃなんてしていないが。うるさかったなら謝るさ。すまない。だからさっさとカーテンを閉めて自分のベッドに戻れよ」
「折角の同室なんだ。仲良くしようぜ。今朝向かいの爺さんが退院したから、俺とお前の二人じゃないか。おっと、もうすぐ五時になるなあ」
恩田が手にしたスマホで時間を確認し顔をにやけさせる。
「五時がなんだ? それに何を笑ってんだ?」
「五時と言えば、夕飯の三十分前だろ。嬉しくもなるさ」
置いていかれたままのテルが少し顔を赤らめ俯いている。男二人でいちゃいちゃだなんて言われれば居心地がいいはずはない。
「分かったから消えてくれ」
恩田を追い払うために手の甲で空を払った時。
「矢倉さん、開けるわよ」
声と共に反対側のカーテンが勢いよく引き開けられた。テルがそっと顔を見せた側だ。恩田同様の遠慮のなさに、ナースへ向けた顔が歪む。恩田とナースの手で見事にプライバシーなんてものは剥がされてしまった。
「何でしょうか? 何か用ですか? まだ飯には早いと思いますが」
ナースへと向けた声は明らかな不機嫌さを表している。だからと言って態度を変えるつもりはない。
「……お花屋さんよ。お花の配達だって」
カーテンを閉める事もせず、ナースが戻っていく。そのナースと入れ替わりで大きな花籠がベッドの脇に迫ってくる。花屋の顔は大きすぎる花籠に隠されまだ見えない。
「えっ? 安田さんじゃないですか?」
俯いていたはずのテルが花籠を振り返り声を上げる。
「桜井か? どうしてここに? あ、すみません。矢倉梗佑様にこちらの花をお届けに来ました」
テルに安田と呼ばれた男が花籠の横から顔を見せる。
「……こちらにサインを頂けますか?」
片腕で抱えるように花籠を持ち替え、エプロンのポケットから伝票とボールペンを取り出している。
「ええっと。空いている所どこでもいいですか?」
手渡された伝票にサインをする。テルが花屋で働いている事は聞かされていたが、テルが見舞いに来てくれているタイミングでまさかテルの花屋から花が届けられるなんて。
「ありがとうございます。それでこちらはどこに置かせて頂きましょうか?」
安田が花籠を両腕で持ち直しベッド周りで目を泳がせている。個室ではない病室の個人のスペースなんて限られている。
「……窓際に置けばいいじゃないか。今この部屋は俺とお前だけだし、俺が許可すれば共有スペースを使ったって問題ないだろ」
口を挟んできたのは恩田だった。恩田の提案になど乗りたくはないが、大きな花籠を置くスペースなんてベッド周りにはない。
「それじゃ、あちらに置かせて頂きます」
安田が一歩二歩とベッド脇から離れていく。届け先でもない恩田の提案を受け入れた安田に何か一つ言ってやりたかったが、テルの店の人間に悪態を付く訳にはいかない。ただ黙って安田が置いた花籠に目をやる。
するとその後ろには今日の空があった。数時間前に思い描いた色はそこにはなくどんよりとした灰色を拡げている。だが窓の外から花籠へと目を移すと思い描いた空と同じ色の花があった。
「……それでは失礼します」
そう言った安田に呼び掛けようとしたのかテルが立ち上がる。
「次の配達があるんだ」
テルにだけ声を掛け、安田が病室を後にする。
「まさかお隣さんの知り合いの花屋だったなんて。世間は狭いねえ」
恩田が呼んでもいないのにまたしゃしゃり出てくる。そんな恩田に一つ睨みを効かせ立ち上がったままのテルに単純な疑問を投げる。
「誰からだろ?」
「ああ、カードがあるから、見てみるね」
疑問を受けたテルが花籠からメッセージカードを抜き取りベッド脇に戻る。母さんなら豪勢な花を送りかねないがそんな話はしていなかった。
「カズヤよりって。名前しか書いてないけど」
「カズヤ?」
テルに読み上げられた名前を何回転か頭の中巡らせてみたが、該当人物の顔は浮かばない。
「心当たりないの?」
「ああ、ないかな? 知り合いにカズヤなんていないような。……誰だろ?」
送り主の見当が付かないまま窓際に置かれた花籠に目を戻す。
今日の空より空色と呼ぶに相応しい淡いブルーの花の塊を凝視しても、やはり送り主が誰かなんて浮かんではこない。
「俺じゃないよ。俺も和也だけど」
また恩田だ。
「お前が俺に見舞いの花を送るなんて考えてねえよ! ってか、自分のベッドに戻れよ。……テル、すまない。カーテンを閉めてくれないか。そいつが目障りで」
明日退院するからいいが恩田のような奴とは関りになりたくはない。同じ病室に入りベッドが隣になっただけだ。もう一生涯関わる事のない男に気を遣う必要なんてない。
「悪りぃ、悪りぃ。邪魔したな」
申し訳なさそうな顔を恩田に向けながらテルがカーテンを閉める。そのカーテンの向こうにようやく恩田が消えてくれた。幾らカーテンで遮られたとは言っても、いつ勝手に入り込んで来るかは分からない。思わず声が小さくなる。
「さっきの人って、テルの店の人だったんだな」
「うん。うちの店の店長だよ。店長って呼ばれるのが嫌みたいで、安田さんって名前で呼んでいるけど」
「店長なんだ。ってか、ああ、名前。テル、桜井って言うんだな」
「あれ? 知らなかったの? ってか、梗佑君、本当、僕に興味なさすぎ。知らなかったんじゃなくて憶えていなかったんだよ。桜井君輝って最初会った日に言ったよ」
テルの言う通りだ。入院したのに、八日間も連絡を取らず心配させ名前すらちゃんと憶えていなかった。希薄な関係が心地いいものだと勝手に思っていたが、それは独りよがりでしかない。
「ごめん。怒っているよね」
恐る恐るテルの顔を見上げてみる。
「怒ってなんかないよ。何で怒る必要があるの?」
「だって、名前もちゃんと憶えていなかったし」
「何で? ちゃんとテルって呼んでくれているじゃん。テルって呼ばれるのが一番しっくりくるから、桜井君輝なんて名前、憶えていなくても何も問題ないよ」
そう言って笑うテルに救われる。
自転車で事故を起こして八日。スマホすら放り出し連絡を取らなかった事。彼氏と呼ぶのも憚れるこんな奴だ。もし逆なら、酷い事をされたと怒り狂うだろうが、テルは穏やかに笑うだけだ。全ての非が自分にある事を教えられ、成長を願う今。人間なんて簡単に変われるんじゃないかと思えてくる。
「もうすぐ食事の時間なので、バイタル見ますね」
同じ表情を返したテルの背後で、また不躾にカーテンが開かれる。恩田同様の遠慮のない声は夕方からの担当ナースらしい。恩田になら強気に出る事もできるがナース相手ではそうもいかない。
「食事の時間なら僕もう帰るね。梗佑君の顔を見られて安心したし。それに明日は休みだから退院の時にまた来るよ」
テルの提案を素直に受け入れたかったが、ナースに腕を取られながらも母さんの顔が浮かんだ。
「いや、大丈夫。退院手続きに明日母親が来るんだ」
「そっか。じゃあ、帰って落ち着いた頃見計らって、アパートに行くね。昼過ぎ位なら帰っているよね?」
「ああ、そうだな。昼過ぎなら、帰って、落ち着いていると思う」
「うん。じゃあ、明日」
ナースへと軽く会釈しテルが病室から出て行く。
血圧を測るナースの顔は何か言いたそうだが、患者のプライバシーにずけずけと踏み込む事はさすがに出来ないようだ。何も言われないならこちらから何かを言う必要はない。
運ばれてきた夕食を済ませた後はいつ眠りについたかも覚えていない。八日間も放り出していたスマホだ。今更何をチェックする訳でもない。備え付けのテレビもあるがテレビカードを買ってまで時間を潰す必要もない。
事件を知ったのは、用を足すためにそんな眠りから体を起こした時だった。事件なんて大袈裟な言い方ではあるが、病室内で起きたちょっとした異変に目を背ける事は狭い空間では難しい事だ。
テルが訪れたら第一声で謝ってしまおう。例え言い訳しか浮かばなかったとしても、それ位の誠意は示さないといけないだろう。
「あっ、テル。ごめん。連絡しなくて」
ベッドを囲むカーテンの隙間にテルの顔が見え、数時間前に誓った言葉を発する事ができた。
「大丈夫なの? あ、腕なんだ。しかも両腕。骨折とか?」
右腕と左腕。それぞれを覆うギプスが目に入ったからかテルが不安そうな声を出す。
「ごめん。心配かけて。チャリで転んでしまって。どう言う転び方したのか両腕やられちゃったよ。でも明日退院だから大丈夫。それに右腕は明日ギプス外れそうだし」
「何かできる事があったら何でも言ってよ」
「それよりわざわざ来てもらって本当ごめん」
「何言ってんの。こんな時だから当たり前じゃん。それより本当に良かった。梗佑君と連絡が取れて。あ、ごめん。梗佑君、骨折したのに、良かったなんて、本当ごめん」
申し訳なさそうに下がったテルの眉に指先を伸ばす。伸ばすと言っても固定された腕が上がるはずもなく、指先は眉には届かない。
「どうしたの?」
「今の顔が可愛かったから触りたいなって。手を伸ばそうと思ったけど、伸びなかった」
ベッドの脇の椅子を見つけ腰を下ろすテル。
「これなら届くよね」
指先に頬を当ててくる。
触れた爪を返し何とか指の腹を頬に触れさせた時。テルの柔らかさが伝わってきた。
「あ、何かムラムラしてきた」
「何言ってんの?」
「いや、ほら。今日で入院も八日目でさ。この腕だから。自分でする事も出来なくてね。仕方ないだろ?」
不適と言われても仕方ない顔をテルへと向ける。個室でもない大部屋のこんな病室ではモラルに反する企みだ。そんな企みを察したテルが顔を赤らめる。
「ここでは無理だよ」
困った顔を作るテルに不敵な顔を更ににやけさせた時。
「おいおい、こんな所でおっ始めるなよ! ってか、男二人かよ!」
勢いよくカーテンを引き開け見覚えのない男が大きな声で冷やかしてきた。テルが顔を覗かせた反対側。同じ薄いブルーの患者衣を着せられている事から入院患者だとは分かるがいきなり入って来るとは失礼な奴だ。
「ってか、誰だよお前。勝手にカーテン開けんなよ!」
男に対抗し思わず声が大きくなる。
「いやいや。隣でいちゃいちゃされたら気にもなるだろ? それに今にもおっ始めそうな雰囲気だったしな」
「だから誰だよ。お前? 勝手に俺の領域に入ってくんな!」
「誰って、見りゃ分かるだろ? お隣さんだよ」
男が両手で更にカーテンを引き開ける。
その時。ベッドの枕元のプレートが目に飛び込んできた。面の皮の厚い男の名前は恩田和也と言うらしい。
「いちゃいちゃなんてしていないが。うるさかったなら謝るさ。すまない。だからさっさとカーテンを閉めて自分のベッドに戻れよ」
「折角の同室なんだ。仲良くしようぜ。今朝向かいの爺さんが退院したから、俺とお前の二人じゃないか。おっと、もうすぐ五時になるなあ」
恩田が手にしたスマホで時間を確認し顔をにやけさせる。
「五時がなんだ? それに何を笑ってんだ?」
「五時と言えば、夕飯の三十分前だろ。嬉しくもなるさ」
置いていかれたままのテルが少し顔を赤らめ俯いている。男二人でいちゃいちゃだなんて言われれば居心地がいいはずはない。
「分かったから消えてくれ」
恩田を追い払うために手の甲で空を払った時。
「矢倉さん、開けるわよ」
声と共に反対側のカーテンが勢いよく引き開けられた。テルがそっと顔を見せた側だ。恩田同様の遠慮のなさに、ナースへ向けた顔が歪む。恩田とナースの手で見事にプライバシーなんてものは剥がされてしまった。
「何でしょうか? 何か用ですか? まだ飯には早いと思いますが」
ナースへと向けた声は明らかな不機嫌さを表している。だからと言って態度を変えるつもりはない。
「……お花屋さんよ。お花の配達だって」
カーテンを閉める事もせず、ナースが戻っていく。そのナースと入れ替わりで大きな花籠がベッドの脇に迫ってくる。花屋の顔は大きすぎる花籠に隠されまだ見えない。
「えっ? 安田さんじゃないですか?」
俯いていたはずのテルが花籠を振り返り声を上げる。
「桜井か? どうしてここに? あ、すみません。矢倉梗佑様にこちらの花をお届けに来ました」
テルに安田と呼ばれた男が花籠の横から顔を見せる。
「……こちらにサインを頂けますか?」
片腕で抱えるように花籠を持ち替え、エプロンのポケットから伝票とボールペンを取り出している。
「ええっと。空いている所どこでもいいですか?」
手渡された伝票にサインをする。テルが花屋で働いている事は聞かされていたが、テルが見舞いに来てくれているタイミングでまさかテルの花屋から花が届けられるなんて。
「ありがとうございます。それでこちらはどこに置かせて頂きましょうか?」
安田が花籠を両腕で持ち直しベッド周りで目を泳がせている。個室ではない病室の個人のスペースなんて限られている。
「……窓際に置けばいいじゃないか。今この部屋は俺とお前だけだし、俺が許可すれば共有スペースを使ったって問題ないだろ」
口を挟んできたのは恩田だった。恩田の提案になど乗りたくはないが、大きな花籠を置くスペースなんてベッド周りにはない。
「それじゃ、あちらに置かせて頂きます」
安田が一歩二歩とベッド脇から離れていく。届け先でもない恩田の提案を受け入れた安田に何か一つ言ってやりたかったが、テルの店の人間に悪態を付く訳にはいかない。ただ黙って安田が置いた花籠に目をやる。
するとその後ろには今日の空があった。数時間前に思い描いた色はそこにはなくどんよりとした灰色を拡げている。だが窓の外から花籠へと目を移すと思い描いた空と同じ色の花があった。
「……それでは失礼します」
そう言った安田に呼び掛けようとしたのかテルが立ち上がる。
「次の配達があるんだ」
テルにだけ声を掛け、安田が病室を後にする。
「まさかお隣さんの知り合いの花屋だったなんて。世間は狭いねえ」
恩田が呼んでもいないのにまたしゃしゃり出てくる。そんな恩田に一つ睨みを効かせ立ち上がったままのテルに単純な疑問を投げる。
「誰からだろ?」
「ああ、カードがあるから、見てみるね」
疑問を受けたテルが花籠からメッセージカードを抜き取りベッド脇に戻る。母さんなら豪勢な花を送りかねないがそんな話はしていなかった。
「カズヤよりって。名前しか書いてないけど」
「カズヤ?」
テルに読み上げられた名前を何回転か頭の中巡らせてみたが、該当人物の顔は浮かばない。
「心当たりないの?」
「ああ、ないかな? 知り合いにカズヤなんていないような。……誰だろ?」
送り主の見当が付かないまま窓際に置かれた花籠に目を戻す。
今日の空より空色と呼ぶに相応しい淡いブルーの花の塊を凝視しても、やはり送り主が誰かなんて浮かんではこない。
「俺じゃないよ。俺も和也だけど」
また恩田だ。
「お前が俺に見舞いの花を送るなんて考えてねえよ! ってか、自分のベッドに戻れよ。……テル、すまない。カーテンを閉めてくれないか。そいつが目障りで」
明日退院するからいいが恩田のような奴とは関りになりたくはない。同じ病室に入りベッドが隣になっただけだ。もう一生涯関わる事のない男に気を遣う必要なんてない。
「悪りぃ、悪りぃ。邪魔したな」
申し訳なさそうな顔を恩田に向けながらテルがカーテンを閉める。そのカーテンの向こうにようやく恩田が消えてくれた。幾らカーテンで遮られたとは言っても、いつ勝手に入り込んで来るかは分からない。思わず声が小さくなる。
「さっきの人って、テルの店の人だったんだな」
「うん。うちの店の店長だよ。店長って呼ばれるのが嫌みたいで、安田さんって名前で呼んでいるけど」
「店長なんだ。ってか、ああ、名前。テル、桜井って言うんだな」
「あれ? 知らなかったの? ってか、梗佑君、本当、僕に興味なさすぎ。知らなかったんじゃなくて憶えていなかったんだよ。桜井君輝って最初会った日に言ったよ」
テルの言う通りだ。入院したのに、八日間も連絡を取らず心配させ名前すらちゃんと憶えていなかった。希薄な関係が心地いいものだと勝手に思っていたが、それは独りよがりでしかない。
「ごめん。怒っているよね」
恐る恐るテルの顔を見上げてみる。
「怒ってなんかないよ。何で怒る必要があるの?」
「だって、名前もちゃんと憶えていなかったし」
「何で? ちゃんとテルって呼んでくれているじゃん。テルって呼ばれるのが一番しっくりくるから、桜井君輝なんて名前、憶えていなくても何も問題ないよ」
そう言って笑うテルに救われる。
自転車で事故を起こして八日。スマホすら放り出し連絡を取らなかった事。彼氏と呼ぶのも憚れるこんな奴だ。もし逆なら、酷い事をされたと怒り狂うだろうが、テルは穏やかに笑うだけだ。全ての非が自分にある事を教えられ、成長を願う今。人間なんて簡単に変われるんじゃないかと思えてくる。
「もうすぐ食事の時間なので、バイタル見ますね」
同じ表情を返したテルの背後で、また不躾にカーテンが開かれる。恩田同様の遠慮のない声は夕方からの担当ナースらしい。恩田になら強気に出る事もできるがナース相手ではそうもいかない。
「食事の時間なら僕もう帰るね。梗佑君の顔を見られて安心したし。それに明日は休みだから退院の時にまた来るよ」
テルの提案を素直に受け入れたかったが、ナースに腕を取られながらも母さんの顔が浮かんだ。
「いや、大丈夫。退院手続きに明日母親が来るんだ」
「そっか。じゃあ、帰って落ち着いた頃見計らって、アパートに行くね。昼過ぎ位なら帰っているよね?」
「ああ、そうだな。昼過ぎなら、帰って、落ち着いていると思う」
「うん。じゃあ、明日」
ナースへと軽く会釈しテルが病室から出て行く。
血圧を測るナースの顔は何か言いたそうだが、患者のプライバシーにずけずけと踏み込む事はさすがに出来ないようだ。何も言われないならこちらから何かを言う必要はない。
運ばれてきた夕食を済ませた後はいつ眠りについたかも覚えていない。八日間も放り出していたスマホだ。今更何をチェックする訳でもない。備え付けのテレビもあるがテレビカードを買ってまで時間を潰す必要もない。
事件を知ったのは、用を足すためにそんな眠りから体を起こした時だった。事件なんて大袈裟な言い方ではあるが、病室内で起きたちょっとした異変に目を背ける事は狭い空間では難しい事だ。
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