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【2】 惣岳山
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検索通り、荻窪から、三鷹、青梅と乗換え、軍畑の駅に立った。
空腹に腹を押さえると既に十二時を回っていた。朝から何も食べていない。周辺を見回したが飲食店はおろか一軒の店すらない。今にも大きな音を鳴らしそうな腹を抱え、どこへ向かえばいいのかと周りを見回してみる。
「山登りにしては、えらく軽装だねえ」
同じ電車から降りた年配の女性に声を掛けられる。注意を払い周りを見れば、同じ電車から降りた乗客が十人程いる。乗客達はこれから山に入る事が予測できる服装だ。まだ五月の初めだと言うのに、Tシャツ一枚で飛び出した装いとは明らかに違う。
「すみません。この辺りに花水木の木、ご存知ないですか?」
年配の女性があからさまな怪訝顔を作る。
「あんな騒ぎがあったから、あんたも冷やかしにでも来たのかい? 一息つくのにちょうどいい場所だったのに、本当ふざけた話だよ」
少しの怒りと呆れを含んだ言い方だった。
「すみません。そう言うつもりじゃないんです。ただあの花水木に見覚えがあって、どこにあるんだろうと思ったんです」
「あの花水木なら、登山道の途中だよ。ここから三十分もあれば着けるけど、若いあんたの足なら二十分で行けるだろう」
年配の女性は手にしたステッキで登山道の登り口を指している。
「ありがとうございます」
小さく礼を告げ、もう一度周りを見回してみる。準備運動を始める人や、早速歩き始める人。二十分で着けるなら慌てる必要はない。
他の乗客達が全員、登山道へ吸い込まれた事を確認し、ゆっくりと歩き始める。目的が定まった事にさっきの空腹は忘れている。だがいつ鳴り出すか分からない腹だ。他の乗客達とは距離を取っておきたい。それに花水木を見る事で、どんな感情が生まれるかも分からない。
歩き始めた登山道は険しいものではなかった。登山道と言うよりは散策路と言った方が似合う緩やかなものだ。
そんな緩やかな坂を、息を切らす事もなくゆっくりと歩いていると、教えられた通り二十分ほどで目的の場所に辿り着いた。真っ白な花を満開に咲かせた大きな花水木。知識ではなく感覚が花水木で間違いないと教えてくれている。
大木の周りは開けていたが、ロープが張られているため、近付く事はできない。幾つか設けられたベンチもロープの向こう側だ。今日はここで一休みと言う登山客もいないようで、他の乗客の姿はもう見えなかった。ただ近くに寄れなくても、目の前のこの木が何度も見た光景と同じだと言う事は、誰に確認を取る必要もなかった。
この木の下で幼い少年の手を引く若い男。目を閉じて描かれる光景と、今、目の前にあるこの景色は間違いなく同じものだ。目を閉じて、開いて、閉じて、開いて。何度かそんな事を繰り返していると、また悲しいと言う感情が纏わりついてきた。
——夢ではなかった。
きっと幼い日にこの場所を、満開の花水木の下を訪れた事があったのだろう。
数日前、この大木の下から発見された白骨死体。この花水木に見覚えがあるなら、やはり自分に関りのある人間に違いない。……若い女性。やはり母親の茜なのだろうか。それならどうして描かれる光景に母親は登場しないのだろうか。
ただぼんやりと白い花の塊を見上げる。発見された白骨死体が母親だなんて仮説を立てても、証明する物は何一つない。それでもこのまま立ち去り、何もなかったように元の生活に戻るのは、難しい気もする。一年に一度、この時季にしか咲かないこの白い花に呼ばれたような、それは勝手な理由だが、この場所にもう暫く佇むための言い訳になる。
『お前も俺もひとりぼっち、取り残されたんだ』
どこから聞こえた声だろうか。耳にではなく、直接頭の中に響いた声。
若い男の声だった。周りを見回しても、誰かがいる訳ではない。記憶に刷り込まれた声が、いま蘇ったのだろうか。目の前に満開の花水木があるにも拘わらず、あの光景が全身を支配していくようだ。
「お前も俺もひとりぼっち、取り残されたんだ」
頭の中に響いた声を、声に出してみる。だがそれは響いた若い男の声ではなく、自身の声だ。男の顔が浮かばないように、男の声を思い出す事も出来ない。
空腹に腹を押さえると既に十二時を回っていた。朝から何も食べていない。周辺を見回したが飲食店はおろか一軒の店すらない。今にも大きな音を鳴らしそうな腹を抱え、どこへ向かえばいいのかと周りを見回してみる。
「山登りにしては、えらく軽装だねえ」
同じ電車から降りた年配の女性に声を掛けられる。注意を払い周りを見れば、同じ電車から降りた乗客が十人程いる。乗客達はこれから山に入る事が予測できる服装だ。まだ五月の初めだと言うのに、Tシャツ一枚で飛び出した装いとは明らかに違う。
「すみません。この辺りに花水木の木、ご存知ないですか?」
年配の女性があからさまな怪訝顔を作る。
「あんな騒ぎがあったから、あんたも冷やかしにでも来たのかい? 一息つくのにちょうどいい場所だったのに、本当ふざけた話だよ」
少しの怒りと呆れを含んだ言い方だった。
「すみません。そう言うつもりじゃないんです。ただあの花水木に見覚えがあって、どこにあるんだろうと思ったんです」
「あの花水木なら、登山道の途中だよ。ここから三十分もあれば着けるけど、若いあんたの足なら二十分で行けるだろう」
年配の女性は手にしたステッキで登山道の登り口を指している。
「ありがとうございます」
小さく礼を告げ、もう一度周りを見回してみる。準備運動を始める人や、早速歩き始める人。二十分で着けるなら慌てる必要はない。
他の乗客達が全員、登山道へ吸い込まれた事を確認し、ゆっくりと歩き始める。目的が定まった事にさっきの空腹は忘れている。だがいつ鳴り出すか分からない腹だ。他の乗客達とは距離を取っておきたい。それに花水木を見る事で、どんな感情が生まれるかも分からない。
歩き始めた登山道は険しいものではなかった。登山道と言うよりは散策路と言った方が似合う緩やかなものだ。
そんな緩やかな坂を、息を切らす事もなくゆっくりと歩いていると、教えられた通り二十分ほどで目的の場所に辿り着いた。真っ白な花を満開に咲かせた大きな花水木。知識ではなく感覚が花水木で間違いないと教えてくれている。
大木の周りは開けていたが、ロープが張られているため、近付く事はできない。幾つか設けられたベンチもロープの向こう側だ。今日はここで一休みと言う登山客もいないようで、他の乗客の姿はもう見えなかった。ただ近くに寄れなくても、目の前のこの木が何度も見た光景と同じだと言う事は、誰に確認を取る必要もなかった。
この木の下で幼い少年の手を引く若い男。目を閉じて描かれる光景と、今、目の前にあるこの景色は間違いなく同じものだ。目を閉じて、開いて、閉じて、開いて。何度かそんな事を繰り返していると、また悲しいと言う感情が纏わりついてきた。
——夢ではなかった。
きっと幼い日にこの場所を、満開の花水木の下を訪れた事があったのだろう。
数日前、この大木の下から発見された白骨死体。この花水木に見覚えがあるなら、やはり自分に関りのある人間に違いない。……若い女性。やはり母親の茜なのだろうか。それならどうして描かれる光景に母親は登場しないのだろうか。
ただぼんやりと白い花の塊を見上げる。発見された白骨死体が母親だなんて仮説を立てても、証明する物は何一つない。それでもこのまま立ち去り、何もなかったように元の生活に戻るのは、難しい気もする。一年に一度、この時季にしか咲かないこの白い花に呼ばれたような、それは勝手な理由だが、この場所にもう暫く佇むための言い訳になる。
『お前も俺もひとりぼっち、取り残されたんだ』
どこから聞こえた声だろうか。耳にではなく、直接頭の中に響いた声。
若い男の声だった。周りを見回しても、誰かがいる訳ではない。記憶に刷り込まれた声が、いま蘇ったのだろうか。目の前に満開の花水木があるにも拘わらず、あの光景が全身を支配していくようだ。
「お前も俺もひとりぼっち、取り残されたんだ」
頭の中に響いた声を、声に出してみる。だがそれは響いた若い男の声ではなく、自身の声だ。男の顔が浮かばないように、男の声を思い出す事も出来ない。
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