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【0】 日常
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小泉陽太は、ほんの二十分前に顔を合わせたばかりの男に、全身を舐め回されていた。
——好きなだけ貪ればいい。
二時間で二万二千円。店の取り分の一万円を引いても、二時間で一万二千円が手元に残る。たったの二時間だ。
週に五日。昼に勤めている修理工場は一日八時間働いたところで、こうして固く目を閉じる二時間には届かない。
ビジネスホテルの窓は夜だと言うのに、夜景など映す事はない。厚いカーテンで外の世界と遮断された小さな部屋。明々と付けられた照明に違和感を覚えながらも、見えない東京の夜景を思い描く。そうは言っても、ろくに夜景なんて見た事がないから、東京の夜景を思い描く事は難しくもある。
——二十一年も生きてきたのに、夜景一つ思い描けないなんて。
男のざらついた舌の感触を受けながら一層固く目を閉じるしかない。そんな時、決まって脳裏に浮かぶ光景はいつも同じだ。夜景を思い描く事が出来なくても、脳裏に描く事ができる光景。大きな花水木の下に立つ幼い少年。満開を迎えた真っ白な花。その木の名前が花水木だと言う事は、知識ではなく感覚で知っている。
幼い少年の手を引く若い男。その男が誰なのかは分からない。少年の背は低すぎて、男の顔までは見えない。いや、見えないのではなく知らないのかもしれない。だがその少年が幼い日の自分であると言う事は、これも感覚で知っている。
目を閉じれば色鮮やかな光景が浮かぶのに、何故か悲しいと言う感情も付き纏う。見知らぬ男に不快なほど舐め回されても、あの花水木の下にいる少年に付き纏う感情には到底及ばない。
「あと五分です」
ベッドサイドに置いたスマホがアラーム音を響かせる。男の体がびくっと驚きを見せたが、気にも留めず、自身の下半身に埋められた男の頭を剥がす。
「どうしますか? 延長しますか? するなら店に電話しないとなんで」
「いや、大丈夫」
微かにしか聞き取れない男の声を拾い、ベッドから飛び出す。シーツが捲れ、男のだらしない体が露わになったが、気にする必要はない。きっかり二時間。脱ぎ散らかされた服に袖を通し、夜景の見えない部屋を後にする。
「ありがとうございました。また指名お願いします」
さっきまであれほど固く閉じていた目を大きく見開き、これ以上ないと言う笑顔を、裸の男へ向けた。
十八歳まで児童養護施設で過ごした。ろくに学校も出ていない二十一歳の男が、簡単に金を稼ぐ術なんて一つしかない。昼間の修理工場だけでは生活するだけがやっとだ。未来に夢を見る事すら出来ない。ジーンズのポケットに捻じ込んだ二万二千円を取り出し、まじまじと眺めてみる。それは二万二千円の価値しかない自分を嫌と言うほど、思い知らされる行為だ。
エレベーターに乗りロビーへと降りる。例えビジネスホテルでも、自分で金を出して泊まる事のないホテルだ。ロビーのソファに腰を下ろす。特別な意味がある訳ではない。ただ腰を下してみたかった。
腰掛けたソファの前には大画面のテレビがあった。一体何インチくらいあるのだろうか。ふと自分のアパートにあるテレビが頭を過った。もらい物の古いテレビは確か十四インチしかなかった。それでも寝るだけに帰るアパートのテレビだからどれだけ小さくても気にはならない。
ソファに浅く腰を掛け、宿泊客でもないのに大画面に目を向ける。何の意味も持たないただの暇つぶしだ。取り留めのないニュースを伝える大画面にただ目を向ける。だがそこに一瞬にして視線を外せなくなる映像が映し出された。
——花水木だ。
画面に映し出された大きな木が花水木だと言う事はすぐに分かった。そろそろ満開を迎える白い花の塊。だがニュースは花水木の満開を伝えるものではなかった。
花水木の下に眠っていた白骨死体。
ニュースが伝えるその白骨死体は身元不明だが、三十歳前後の女性のものだと判明していた。
浅く腰掛けたソファから思わず立ち上がる。自動ドアを抜け、生温い空気を全身に纏わせる。五月に入ったばかりだと言うのに、不快さが体を嘗めていく。その不快さは解れたTシャツの脇をじっとりと湿らせていく。
——好きなだけ貪ればいい。
二時間で二万二千円。店の取り分の一万円を引いても、二時間で一万二千円が手元に残る。たったの二時間だ。
週に五日。昼に勤めている修理工場は一日八時間働いたところで、こうして固く目を閉じる二時間には届かない。
ビジネスホテルの窓は夜だと言うのに、夜景など映す事はない。厚いカーテンで外の世界と遮断された小さな部屋。明々と付けられた照明に違和感を覚えながらも、見えない東京の夜景を思い描く。そうは言っても、ろくに夜景なんて見た事がないから、東京の夜景を思い描く事は難しくもある。
——二十一年も生きてきたのに、夜景一つ思い描けないなんて。
男のざらついた舌の感触を受けながら一層固く目を閉じるしかない。そんな時、決まって脳裏に浮かぶ光景はいつも同じだ。夜景を思い描く事が出来なくても、脳裏に描く事ができる光景。大きな花水木の下に立つ幼い少年。満開を迎えた真っ白な花。その木の名前が花水木だと言う事は、知識ではなく感覚で知っている。
幼い少年の手を引く若い男。その男が誰なのかは分からない。少年の背は低すぎて、男の顔までは見えない。いや、見えないのではなく知らないのかもしれない。だがその少年が幼い日の自分であると言う事は、これも感覚で知っている。
目を閉じれば色鮮やかな光景が浮かぶのに、何故か悲しいと言う感情も付き纏う。見知らぬ男に不快なほど舐め回されても、あの花水木の下にいる少年に付き纏う感情には到底及ばない。
「あと五分です」
ベッドサイドに置いたスマホがアラーム音を響かせる。男の体がびくっと驚きを見せたが、気にも留めず、自身の下半身に埋められた男の頭を剥がす。
「どうしますか? 延長しますか? するなら店に電話しないとなんで」
「いや、大丈夫」
微かにしか聞き取れない男の声を拾い、ベッドから飛び出す。シーツが捲れ、男のだらしない体が露わになったが、気にする必要はない。きっかり二時間。脱ぎ散らかされた服に袖を通し、夜景の見えない部屋を後にする。
「ありがとうございました。また指名お願いします」
さっきまであれほど固く閉じていた目を大きく見開き、これ以上ないと言う笑顔を、裸の男へ向けた。
十八歳まで児童養護施設で過ごした。ろくに学校も出ていない二十一歳の男が、簡単に金を稼ぐ術なんて一つしかない。昼間の修理工場だけでは生活するだけがやっとだ。未来に夢を見る事すら出来ない。ジーンズのポケットに捻じ込んだ二万二千円を取り出し、まじまじと眺めてみる。それは二万二千円の価値しかない自分を嫌と言うほど、思い知らされる行為だ。
エレベーターに乗りロビーへと降りる。例えビジネスホテルでも、自分で金を出して泊まる事のないホテルだ。ロビーのソファに腰を下ろす。特別な意味がある訳ではない。ただ腰を下してみたかった。
腰掛けたソファの前には大画面のテレビがあった。一体何インチくらいあるのだろうか。ふと自分のアパートにあるテレビが頭を過った。もらい物の古いテレビは確か十四インチしかなかった。それでも寝るだけに帰るアパートのテレビだからどれだけ小さくても気にはならない。
ソファに浅く腰を掛け、宿泊客でもないのに大画面に目を向ける。何の意味も持たないただの暇つぶしだ。取り留めのないニュースを伝える大画面にただ目を向ける。だがそこに一瞬にして視線を外せなくなる映像が映し出された。
——花水木だ。
画面に映し出された大きな木が花水木だと言う事はすぐに分かった。そろそろ満開を迎える白い花の塊。だがニュースは花水木の満開を伝えるものではなかった。
花水木の下に眠っていた白骨死体。
ニュースが伝えるその白骨死体は身元不明だが、三十歳前後の女性のものだと判明していた。
浅く腰掛けたソファから思わず立ち上がる。自動ドアを抜け、生温い空気を全身に纏わせる。五月に入ったばかりだと言うのに、不快さが体を嘗めていく。その不快さは解れたTシャツの脇をじっとりと湿らせていく。
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