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31 エピローグ
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朝起きた時には必ず布団の中で眠っている母さんが、今日は朝から忙しそうにしていた。
小学校に入ってから初めて見る光景に驚きはしたけど、驚きの理由を確認できるほど、母さんに余裕がない事もすぐに分かった。
「晴人、起きたら着替えて出掛ける準備をして」
母さんがいつものように寝ていてくれれば、何の問題もなく準備が出来るのに。押入れやたん笥から洋服や下着を引っ張り出し、山のように積み上げていく母さんを見ていたら、気が気でなくて学校へ行く準備どころではない。
「母さん、これからどこか出掛けるの?」
「そうよ。だから晴人も早く準備して。顔洗って、歯を磨いて、服に着替えて。それと教科書とかノートとか学校で必要な物全部ランドセルに入れてね」
「う、うん」
「あ、朝ごはんは後で食べればいいから、とにかく準備して。時間がないのよ」
何が何だかさっぱり分からなかった。旅行鞄に入るだけの服を詰める母さんに朝から嫌な気分になった。
旅行鞄には自分の服や下着も詰められている。それに全部を詰めろと言われたランドセルは、蓋ができないほどぱんぱんだ。
「母さん、準備できたけど」
恐る恐る声を掛けてみる。だけど「待ってて」と、一言返されただけで、母さんは忙しそうに荷造りをしている。
この行為を夜逃げと呼ぶんだ知ったのは、もう少し大きくなってからの事だ。母さんは大きな旅行鞄を二つ持っている。ぱんぱんになったランドセルを背負って、一番小さな鞄まで持たされて、学校へは行けない事がすぐに分かった。
「母さん、どこへ行くの?」
鍵も掛けずに飛び出した家から、駅へ続く道を急ぐ母さんに聞いてみる。まだ通勤にも通学にも早いのか、薄らと明るくなり始めた道を行き交う人の姿はまばらだ。
「博多よ。晴人のおじいちゃんとおばあちゃんの所」
「博多? おじいちゃん? おばあちゃん?」
「そう。これから東京駅まで行って、新幹線に乗るのよ。晴人、新幹線に乗るの初めてだよね。朝ごはん、もうちょっと我慢してね。東京駅まで行ったらお弁当買うから。やっとあいつ捕まったから、ようやく離婚が出来たの」
おじいちゃん。おばあちゃん。新幹線。お弁当。どれも新鮮なものばかりだ。母さんと出掛けるなんて事も、思い出せる記憶の中にはない。
新鮮なものを沢山並べられて、最初は気持ちも浮いたけど、そんな浮いた気持ちはすぐに沈んでしまった。
——あいつ捕まったから、ようやく離婚。
離婚って言葉の意味は知っている。夫婦が別れる事だ。
——夫婦?
母さんと父さんの事だけど。父さんの存在は知らない。気付いた時には母さんと二人だけの生活が始まっていた。
新幹線が発車する頃、一度も会った事のない父さんの事ばかりを考えていた。だけど発車してすぐに弁当を食べ終えた母さんはずっと眠っていて、父さんの事を聞く隙なんてなかった。
新幹線が新大阪駅に着いてようやく目を覚ましたけど、乗り換えた新幹線の中でも母さんはずっと眠っていて、一人で退屈な時間がずっと続いていた。退屈な時間はあまりにも長すぎて、朝は考えていた父さんの存在も、いつの間にか消えていた。楽しくない時間。博多に着く頃は今日行けなかった学校の事だけを考えていた。
新幹線を下りて、地下鉄に乗って、少し歩いて。おじいちゃんとおばあちゃんの所に着いた時には、もう夕方になっていた。初めて会うおじいちゃんとおばあちゃんに、少しだけ緊張していたけど、そんな緊張は大きな萎縮に変えられてしまった。
母さんに紹介されたおじいちゃんは、会うなり母さんを怒鳴りつけた。母さんも負けじと怒鳴り返すから、隠れる場所もなくただ小さく固まるしかなかった。それにおばあちゃんも二人を止める訳でもなく、母さんへぶつぶつ文句を言っていた。
「学校には行かなくていいの?」
母さんにこっそり聞いてみた。だけど答えは、新しい学校の手続きをするから、少し待ってと言うものだった。
この時、初めて旅行に来たのではなく、ここで新しい生活が始まる事を知った。
母さんの実家は古賀与一郎商店と言う明太子屋で、家の中にはいつも明太子の匂いが充満していた。明太子と言うものを食べた事はなかったけど、匂いだけで委縮させられた初日の自分を思い出させた。
最初の一週間は委縮したまま小さく固まっていた。だけど母さんが夜働きに行くようになって、おじいちゃんとおばあちゃんと三人だけの時間が増えて、委縮した気持ちは解されていった。
「来週から新しい学校に行けるように手続き終わったから」
手続きをしてくれたのはおばあちゃんだった。今までは母さんしかいなかったけど、自分のために何かをしてくれる人がいる。初めての事に嬉しくて、おばあちゃんの事を好きになっていた。
「晴人、何か欲しい物なかと? 欲しい物あったら何でも買うちゃるから遠慮なく言うんだぞ」
おじいちゃんも自分のために何かをしてくれる人だった。
だけど欲しいお菓子もおもちゃも浮かばない。でも何かを強請った方がいいようなそんな気にもした。
「おじいちゃん、葉書が欲しいんだけど」
「葉書? そんな物どうするんだ? 誰かに手紙を書くんか?」
「うん。前の学校で友達に何も言わずに来てしまったから。誰にも転校するって言ってなくて。転校しましたって書いて送りたくて」
「おおそうか。それで何枚じゃ? 百枚か?」
「そんなにいらないよ。十七枚」
クラスの男子を頭に浮かべていた。クラスの男子十八人から自分を引いて十七人。
十七枚と言う数はとても多いように思えて、申し訳ない気持ちにはなったけど、おじいちゃんはそんな事気にしていない様子だった。
「明日買って来てやるから」
おじいちゃんは次の日すぐに葉書を十七枚買って来てくれた。
『博多に引っ越しました。これからは新しい道を進んで行きます。今までありがとう』
十七枚の葉書に同じ文章を書いていく。いざ白い葉書を目の前にすると、丁度いい言葉が浮かばなくて、何となく思い付きで書いた文章だ。
十七枚全部を書き終えて見直した葉書。
『新しい道を進んで行きます』だなんて、格好つけ過ぎているように思えたけど、書き直すために新しい葉書を強請るなんて事は出来ない。
——新しい道を進んで行きます。
改めて十七枚目に書いた文字に目を落とす。新しい道があるなら、古い道があるはずだ。
ぼんやりとではあるが、昨日までの自分を思い描いた。何か楽しかった事を思い出そうと、頭を捻ってみる。だけど楽しかった事は何も出てこない。
雲が掛かりだした頭の中。その雲を頭の中で映像にしてみると、真っ黒になって、突然雨を降らし始めた。次第に強くなる雨。頭の中に描いた映像に固く目を瞑る。
伸ばした手によろけた小林先生。歩道橋の踊り場に倒れた小林先生。
激しい雨が呼び起こしたイメージに、瞑った目をもっと固く瞑る。
——小林先生を殺したのは誰?
激しい雨の歩道橋。どうしてだろうか。一緒にいた三人の伸ばされた手を思い描けない。
いや、違う。思い描く必要なんてない。新しい道だ。
固く瞑った目を恐る恐る開くと、目の前には十七枚の葉書があった。
——新しい道を進んで行きます。
さっきは格好つけ過ぎているように思えた文章に、何故か救われる。
新しい道だ。昨日までの事は全部消してしまっていい事。全部忘れてしまっていい事。そのためには十七枚の葉書を早く書き上げなきゃいけない。昨日までの自分を消してしまうために。
ぱんぱんになったランドセルを逆さにして、中の物を全部放り出す。ランドセルの内ポケットに入れていたプリント。四月の最初に渡されたプリントにはクラス全員の住所と電話番号が書かれている。
葉書を引っくり返し、もう一度ボールペンを手にする。
東京都杉並区成田東……。高原由之様。宛名を書いて、またひっくり返して、さっきの言葉の上にタカちゃんへと書く。もっと仲がいい友達がいたのに、どうして一枚目にタカちゃんを選んだかは自分でも分からない。だけどまだ十六枚もある。細かい事は気にせず二枚目の葉書をひっくり返す。
東京都杉並区成田東……。三芳貴久様。葉書をひっくり返して、ヨッシーへ。
十六枚の宛名を書き終えたけど、手はもう字が書けないほど痺れていた。
少し手を休めてプリントを一度見直す。葉書を並べて宛名が間違っていないか、見比べて行く。十六枚の宛名を見比べている間に、手の痺れはなくなっていた。
東京都杉並区阿佐ヶ谷南……。三春夏樹様。葉書をひっくり返して、一番上にハルへと書く。
ハルへの宛名を書き終え、ようやく十七枚の葉書が完成した。
その達成感は、『新しい道を進んで行きます』と、言う格好付けた文章を満更でもないものに変えていた。
おばあちゃんのお陰で、次の週の月曜日から新しい学校へ行く事になった。
その前の日。日曜日の夜。母さんから初めて名前が変わった事を教えられた。
そして月曜日の朝、少し緊張しながら新しい学校へと向かった。初日だからと、おばあちゃんが学校までついて来てくれて、職員室で新しい担任の先生に挨拶をしてくれた。
「今日からこのクラスの新しい友達になる古賀晴人君です。東京からこの博多に引っ越してきました」
そう紹介してくれた新しい担任の先生は若い女の先生だった。少しの緊張が残っていたから、小さな声でしか挨拶出来なかったけど、みんなの大きな拍手のあと、先生に指差された席に座った。すぐ馴染める訳ではなかったけど、みんなの拍手のお陰で緊張はなくなっていた。
「東京からと、カッコよかね」
前の席に座る男子が振り返って話しかけてくる。まだ名前も知らない相手を、何と呼んで話せばいいのか分からず、「ああ」と、一言だけ返事をする。
「俺、太一。黒木太一って言うんだ。みんな太一って呼ぶから、太一でいいよ。で、お前は? 何て呼んだらいい?」
「ナッ……、俺は晴人でいいよ」
振り返ったままの太一に、ナッチと言いかけて止めた。
もう夏目晴人じゃない。
古賀晴人になったのだから、ナッチなんて呼び方おかしいはずだ。それよりも咄嗟に自分の事を僕ではなく、俺と呼んでいた事に気が回った。
僕じゃなく俺だ。自分の事を僕と呼んでいたナッチはもういない。
古賀晴人だ。今日から古賀晴人として新しい道を進んで行こう。
―終―
小学校に入ってから初めて見る光景に驚きはしたけど、驚きの理由を確認できるほど、母さんに余裕がない事もすぐに分かった。
「晴人、起きたら着替えて出掛ける準備をして」
母さんがいつものように寝ていてくれれば、何の問題もなく準備が出来るのに。押入れやたん笥から洋服や下着を引っ張り出し、山のように積み上げていく母さんを見ていたら、気が気でなくて学校へ行く準備どころではない。
「母さん、これからどこか出掛けるの?」
「そうよ。だから晴人も早く準備して。顔洗って、歯を磨いて、服に着替えて。それと教科書とかノートとか学校で必要な物全部ランドセルに入れてね」
「う、うん」
「あ、朝ごはんは後で食べればいいから、とにかく準備して。時間がないのよ」
何が何だかさっぱり分からなかった。旅行鞄に入るだけの服を詰める母さんに朝から嫌な気分になった。
旅行鞄には自分の服や下着も詰められている。それに全部を詰めろと言われたランドセルは、蓋ができないほどぱんぱんだ。
「母さん、準備できたけど」
恐る恐る声を掛けてみる。だけど「待ってて」と、一言返されただけで、母さんは忙しそうに荷造りをしている。
この行為を夜逃げと呼ぶんだ知ったのは、もう少し大きくなってからの事だ。母さんは大きな旅行鞄を二つ持っている。ぱんぱんになったランドセルを背負って、一番小さな鞄まで持たされて、学校へは行けない事がすぐに分かった。
「母さん、どこへ行くの?」
鍵も掛けずに飛び出した家から、駅へ続く道を急ぐ母さんに聞いてみる。まだ通勤にも通学にも早いのか、薄らと明るくなり始めた道を行き交う人の姿はまばらだ。
「博多よ。晴人のおじいちゃんとおばあちゃんの所」
「博多? おじいちゃん? おばあちゃん?」
「そう。これから東京駅まで行って、新幹線に乗るのよ。晴人、新幹線に乗るの初めてだよね。朝ごはん、もうちょっと我慢してね。東京駅まで行ったらお弁当買うから。やっとあいつ捕まったから、ようやく離婚が出来たの」
おじいちゃん。おばあちゃん。新幹線。お弁当。どれも新鮮なものばかりだ。母さんと出掛けるなんて事も、思い出せる記憶の中にはない。
新鮮なものを沢山並べられて、最初は気持ちも浮いたけど、そんな浮いた気持ちはすぐに沈んでしまった。
——あいつ捕まったから、ようやく離婚。
離婚って言葉の意味は知っている。夫婦が別れる事だ。
——夫婦?
母さんと父さんの事だけど。父さんの存在は知らない。気付いた時には母さんと二人だけの生活が始まっていた。
新幹線が発車する頃、一度も会った事のない父さんの事ばかりを考えていた。だけど発車してすぐに弁当を食べ終えた母さんはずっと眠っていて、父さんの事を聞く隙なんてなかった。
新幹線が新大阪駅に着いてようやく目を覚ましたけど、乗り換えた新幹線の中でも母さんはずっと眠っていて、一人で退屈な時間がずっと続いていた。退屈な時間はあまりにも長すぎて、朝は考えていた父さんの存在も、いつの間にか消えていた。楽しくない時間。博多に着く頃は今日行けなかった学校の事だけを考えていた。
新幹線を下りて、地下鉄に乗って、少し歩いて。おじいちゃんとおばあちゃんの所に着いた時には、もう夕方になっていた。初めて会うおじいちゃんとおばあちゃんに、少しだけ緊張していたけど、そんな緊張は大きな萎縮に変えられてしまった。
母さんに紹介されたおじいちゃんは、会うなり母さんを怒鳴りつけた。母さんも負けじと怒鳴り返すから、隠れる場所もなくただ小さく固まるしかなかった。それにおばあちゃんも二人を止める訳でもなく、母さんへぶつぶつ文句を言っていた。
「学校には行かなくていいの?」
母さんにこっそり聞いてみた。だけど答えは、新しい学校の手続きをするから、少し待ってと言うものだった。
この時、初めて旅行に来たのではなく、ここで新しい生活が始まる事を知った。
母さんの実家は古賀与一郎商店と言う明太子屋で、家の中にはいつも明太子の匂いが充満していた。明太子と言うものを食べた事はなかったけど、匂いだけで委縮させられた初日の自分を思い出させた。
最初の一週間は委縮したまま小さく固まっていた。だけど母さんが夜働きに行くようになって、おじいちゃんとおばあちゃんと三人だけの時間が増えて、委縮した気持ちは解されていった。
「来週から新しい学校に行けるように手続き終わったから」
手続きをしてくれたのはおばあちゃんだった。今までは母さんしかいなかったけど、自分のために何かをしてくれる人がいる。初めての事に嬉しくて、おばあちゃんの事を好きになっていた。
「晴人、何か欲しい物なかと? 欲しい物あったら何でも買うちゃるから遠慮なく言うんだぞ」
おじいちゃんも自分のために何かをしてくれる人だった。
だけど欲しいお菓子もおもちゃも浮かばない。でも何かを強請った方がいいようなそんな気にもした。
「おじいちゃん、葉書が欲しいんだけど」
「葉書? そんな物どうするんだ? 誰かに手紙を書くんか?」
「うん。前の学校で友達に何も言わずに来てしまったから。誰にも転校するって言ってなくて。転校しましたって書いて送りたくて」
「おおそうか。それで何枚じゃ? 百枚か?」
「そんなにいらないよ。十七枚」
クラスの男子を頭に浮かべていた。クラスの男子十八人から自分を引いて十七人。
十七枚と言う数はとても多いように思えて、申し訳ない気持ちにはなったけど、おじいちゃんはそんな事気にしていない様子だった。
「明日買って来てやるから」
おじいちゃんは次の日すぐに葉書を十七枚買って来てくれた。
『博多に引っ越しました。これからは新しい道を進んで行きます。今までありがとう』
十七枚の葉書に同じ文章を書いていく。いざ白い葉書を目の前にすると、丁度いい言葉が浮かばなくて、何となく思い付きで書いた文章だ。
十七枚全部を書き終えて見直した葉書。
『新しい道を進んで行きます』だなんて、格好つけ過ぎているように思えたけど、書き直すために新しい葉書を強請るなんて事は出来ない。
——新しい道を進んで行きます。
改めて十七枚目に書いた文字に目を落とす。新しい道があるなら、古い道があるはずだ。
ぼんやりとではあるが、昨日までの自分を思い描いた。何か楽しかった事を思い出そうと、頭を捻ってみる。だけど楽しかった事は何も出てこない。
雲が掛かりだした頭の中。その雲を頭の中で映像にしてみると、真っ黒になって、突然雨を降らし始めた。次第に強くなる雨。頭の中に描いた映像に固く目を瞑る。
伸ばした手によろけた小林先生。歩道橋の踊り場に倒れた小林先生。
激しい雨が呼び起こしたイメージに、瞑った目をもっと固く瞑る。
——小林先生を殺したのは誰?
激しい雨の歩道橋。どうしてだろうか。一緒にいた三人の伸ばされた手を思い描けない。
いや、違う。思い描く必要なんてない。新しい道だ。
固く瞑った目を恐る恐る開くと、目の前には十七枚の葉書があった。
——新しい道を進んで行きます。
さっきは格好つけ過ぎているように思えた文章に、何故か救われる。
新しい道だ。昨日までの事は全部消してしまっていい事。全部忘れてしまっていい事。そのためには十七枚の葉書を早く書き上げなきゃいけない。昨日までの自分を消してしまうために。
ぱんぱんになったランドセルを逆さにして、中の物を全部放り出す。ランドセルの内ポケットに入れていたプリント。四月の最初に渡されたプリントにはクラス全員の住所と電話番号が書かれている。
葉書を引っくり返し、もう一度ボールペンを手にする。
東京都杉並区成田東……。高原由之様。宛名を書いて、またひっくり返して、さっきの言葉の上にタカちゃんへと書く。もっと仲がいい友達がいたのに、どうして一枚目にタカちゃんを選んだかは自分でも分からない。だけどまだ十六枚もある。細かい事は気にせず二枚目の葉書をひっくり返す。
東京都杉並区成田東……。三芳貴久様。葉書をひっくり返して、ヨッシーへ。
十六枚の宛名を書き終えたけど、手はもう字が書けないほど痺れていた。
少し手を休めてプリントを一度見直す。葉書を並べて宛名が間違っていないか、見比べて行く。十六枚の宛名を見比べている間に、手の痺れはなくなっていた。
東京都杉並区阿佐ヶ谷南……。三春夏樹様。葉書をひっくり返して、一番上にハルへと書く。
ハルへの宛名を書き終え、ようやく十七枚の葉書が完成した。
その達成感は、『新しい道を進んで行きます』と、言う格好付けた文章を満更でもないものに変えていた。
おばあちゃんのお陰で、次の週の月曜日から新しい学校へ行く事になった。
その前の日。日曜日の夜。母さんから初めて名前が変わった事を教えられた。
そして月曜日の朝、少し緊張しながら新しい学校へと向かった。初日だからと、おばあちゃんが学校までついて来てくれて、職員室で新しい担任の先生に挨拶をしてくれた。
「今日からこのクラスの新しい友達になる古賀晴人君です。東京からこの博多に引っ越してきました」
そう紹介してくれた新しい担任の先生は若い女の先生だった。少しの緊張が残っていたから、小さな声でしか挨拶出来なかったけど、みんなの大きな拍手のあと、先生に指差された席に座った。すぐ馴染める訳ではなかったけど、みんなの拍手のお陰で緊張はなくなっていた。
「東京からと、カッコよかね」
前の席に座る男子が振り返って話しかけてくる。まだ名前も知らない相手を、何と呼んで話せばいいのか分からず、「ああ」と、一言だけ返事をする。
「俺、太一。黒木太一って言うんだ。みんな太一って呼ぶから、太一でいいよ。で、お前は? 何て呼んだらいい?」
「ナッ……、俺は晴人でいいよ」
振り返ったままの太一に、ナッチと言いかけて止めた。
もう夏目晴人じゃない。
古賀晴人になったのだから、ナッチなんて呼び方おかしいはずだ。それよりも咄嗟に自分の事を僕ではなく、俺と呼んでいた事に気が回った。
僕じゃなく俺だ。自分の事を僕と呼んでいたナッチはもういない。
古賀晴人だ。今日から古賀晴人として新しい道を進んで行こう。
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はじめまして。
まだ読みはじめですがすごく面白いです。高村薫先生が好きで、刑事物も大好物です。これから、ゆっくり読ませてもらいますね。
はじめまして。
読みはじめで面白いと言って頂き
本当に嬉しいです。
最後まで読んで頂けるよい、精進します!