【完結】汚れた雨

かの翔吾

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21 平成十三年 小林先生

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 今年の海の日は金曜日に当るからと、終業式が行われたのは木曜日だった。午前中だけの登校で一学期が終わり、夏休みに向け、両腕を上げると、小林先生に肩をぽんと叩かれた。

「この後、職員室に来なさい」

 一瞬ピクっと体が反応したけど、小林先生は同じようにヨッシーとタカちゃんの肩を叩いていた。

「何の用かな? 俺何も悪い事していないし」

「俺も何もしていないよ。通知表だってそんな悪くなかったし」

 ハルの言葉を受けて、ヨッシーが答えていた。

「ハルとヨッシーとナッチも呼ばれたんだ」

 タカちゃんの顔は何故か少し歪んでいた。面倒臭そうな顔とも少し違う表情。

 教室を最初に出たのはハルだった。そのハルにヨッシーとタカちゃんが続く。ナッチは三人に続いて一番最後に教室を出た。

 職員室の扉を誰が開けるかで揉めていると、小林先生が廊下へ出てきてくれた。四人にとって職員室の窓は高く、中を見る事は出来ない。だけど小林先生にとっての窓は低いようで、四つ並んだ頭が見えたようだ。

「晴人と夏樹の母さん忙しいのか? 何回か連絡したんだけど、一学期の面談にまだ来てくれていないんだよ。もし忙しいなら、それはそれで仕方ないから、代わりにお前たち二人とちゃんと話をしないとな」

「すみません」

 ハルとナッチが同時に口を開いた。

「謝らなくていいよ。ただ保護者面談で皆と色々話をしているから、二人からも話を聞かないといけないだろ。次の日曜日に先生の所に来れるか? もし用事がなければ、次の日曜に先生の家で話を聞くよ」

「用事はないです」

 ハルとナッチがまた同時に口を開いた。その隣でヨッシーが退屈そうにしている。まだ自分が呼ばれた理由が分からないヨッシーにとっては当然の事だ。そのヨッシーの隣でタカちゃんは何故か顔を歪めている。

「それと……新しいデジタルビデオカメラ買ったんだ。お前たち前に質問していただろ? 普通のビデオカメラとデジタルビデオカメラがどう違うのかって。貴久と由之も日曜日に先生の家に来るか?」

「えっ? デジタルビデオカメラ? えっ? はい、行きます!」

 さっきまで退屈そうにしていたはずのヨッシーが威勢のいい返事する。タカちゃんは相変わらず顔を歪めたまま何も言わない。

「じゃあ、十一時でいいか? 昼飯は食わせてやるから。これ地図と住所だ」

 差し出されたメモを受け取ったのはハルだった。夏休みと言っても特に予定のないナッチにとって、先生との約束は楽しみの一つになった。

「……ねえ、ハルの母さんは何で面談に来れないの?」

 ナッチの質問は自分の家庭環境と比べてのものだった。母子家庭で育った自分とは違う家庭環境。

「今、病気で入院しているんだ。一か月くらいかな。父さんは仕事忙しいから面談なんて来られないし」

「ええ、じゃあ誰がご飯作っているの?」

「田舎からばあちゃんが来て、ご飯作ってくれているよ。母さんが作るご飯より美味しいし。ナッチの母さんは夜働いているんだよな?」

「うん」

 ナッチは小さな声で答えた。母子家庭を恥ずかしいと思った事はないけど、大きな声で自慢できない事は知っている。

「それより、日曜日どうする? 先生のメモ見せてよ」

 ヨッシーがハルの手からメモを奪い取る。

「駅の反対側だな。北口って書いてある。そうしたら日曜日、阿佐ヶ谷の駅に十一時集合でいい?」

 目的がはっきりしたヨッシーが場を仕切る。デジタルビデオカメラがどんな物か想像できなかったが、ヨッシーの態度を簡単に変えるほど、凄い物なんだとナッチは感心していた。

 いつもならこんな時に仕切るのは間違いなくハルだ。そんなハルの手からメモを奪い取って、仕切り出したヨッシー。だけどメモを奪い取られたハルは何も気にしていない様子だった。


 日曜日の朝、ナッチは食パンを焼いて一人で食べていた。仕事が終わって寝ている母さんを起こさないように、音を立てないよう注意を払う。

 八時になる少し前。食パンにマーガリンを塗って、コップに牛乳を注いでテレビの前に座った。アギトが始まる前にイヤフォンをしないといけない。アギトが特別好きな訳じゃないけど、月曜日の学校で、友達と話を合わせるためには、毎週欠かさず観る必要があった。それに日曜日だからと言って、どこかへ連れ出してくれる人もいなかった。仕事で疲れて夕方まで寝ている母さんに、何かを強請ねだるなんて考えはナッチの頭の中にはない。

 アギトが終わって、カーテンをそっと開けると、雨が降っていた。出掛ける予定があるのに何か嫌だな。窓の外の雨を眺めて、十一時が近くなるのを待っていたけど、音を立てずにじっとしている事が退屈になってきた。

 家から駅までは歩いて十分も掛からない。本当は約束の十分前に家を出れば充分だけど、じっとしている事が、退屈を通り越して苦痛になってきていた。まだ早過ぎる事は分かっていた。だけど時計の針が十時を差したのと同時。ナッチは家を出た。

 腕時計なんて持っていないから、今の時間は分からない。北口の屋根の下、滴を払って、丁寧に傘を畳む。駅に着いて何分か経ってはいたけど、三人がくる様子はない。家にいても、駅にいても、退屈は変わらない。ナッチは屋根の下、濡れていない地面を探して、しゃがみ込んだ。

「もう来てたんだ、早いな」

 しゃがんだまま声を見上げると、ハルが立っていた。

「あ、ハル。おはよう、今日のアギト見た?」

「えっ? 見てないけど何で?」

「ううん、別に何でもない」

 ゆっくりと立ちながら答えたナッチの横で、ハルは傘をバタバタと振り始めた。その傘からの雫が勢いよくナッチのお腹と足に降りかかる。

「ハル! 冷たいよ」

「ああ、ごめんごめん」

 ナッチはハルが苦手だった。いつもクラスの中心にいるハルとじゃ話が合わない事は分かっていた。さっきもそうだ。アギトの話を切り出したのに、見てないの一言で終わらせる。

「ヨッシーとタカちゃんまだかな?」

「まだ十五分あるからな」

「ハルは何でこんなに早く来たの?」

「母さんの病院にお見舞いに行ってたんだ。ばあちゃんと兄貴と一緒に。でも、ばあちゃんと兄貴は買い物に行くって。俺も先生の所じゃなく買い物に行きたかったな」

「あっ、ヨッシーとタカちゃんだ」

 自分から聞いておきながら、水色の小さな傘に並んだヨッシーとタカちゃんに、ナッチは興味を奪われた。タカちゃんは紺色の傘を手に持っている。それなのに何で二人で一つの傘なんだろう?

「揃ったから早く行こうぜ」

 ナッチの疑問なんて、ハルにはどうでもいい事だった。さっき畳んだばかりの傘を開き始めるハル。

 足を止めたヨッシーとタカちゃんはびしょ濡れになっている。ヨッシーは右肩を、タカちゃんは左肩を少し濡らしていないだけで、それ以外の所は服の色が変わるくらいびしょ濡れになっていた。

 大丈夫? 声を掛けようとした時。隣にいたハルがヨッシーとタカちゃんに並んで歩き始めた。ナッチは慌てて傘を開いて、三人の後ろに続いた。
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