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12 平成十三年・秘密
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「ハル! どうするんだよ!」
傘を叩き付ける雨の音が煩すぎて、怒鳴りつけたはずの声が小さく聞こえていた。
「俺に聞くなよ! それより今、誰かが押したのか? もしかしてナッチ、お前?」
「……何もしてないよ! ずっとヨッシーの後ろにいたし」
「俺だって何もしてないよ! タカちゃんが一番近くにいたんじゃないのか?」
「一番近くにいたのはハルだろ? 俺じゃないよ」
雨が叩きつけるのは傘だけではなかった。こんな土砂降りの日には、子供用の小さな傘など無用になる事は、まだ教えられていなかった。激しい雨が真夏だと言うのに体温を奪っていく。
「早く帰ろうよ。もうパンツまで濡れて気持ち悪いよ」
「でも、このまま帰るって、そんな事できないだろ?」
「でも、じゃあ、どうするんだよ」
「もう帰ろうよ。ねえ、もう帰ろう。早く帰ろうよ」
見下ろした階段の踊り場には自分たちと同じように、激しい雨に叩き付けられている大きな体があった。ただ傘が上手いこと指にでも引っ掛かっているのか、激しい雨に上半身が叩き付けられる事はないようだった。だが右方の下半身に目をやれば、ぐっしょりと濡らされたチノパンが元のベージュと言う色を無くしている事が分かった。
透明のビニール越しに見える頭に、何か赤い物が付いているような気もしたが、誰かの最後の言葉に従うしかない事は四人とも理解していた。幸いそんな土砂降りの中、わざわざ階段を上がり歩道橋を渡る通行人は見えない。
激しい雨に叩き付けられる大きな体に背を向け、最初に走り出したのが誰だったかは分からない。四人が一斉に走り出していたのかもしれないが、例え小学生だからと言って、四人が並べるほど歩道橋の階段は広いものではなかった。先頭ではなく誰かの背中を見ながら駆け下りた階段。その背中が一つだった事だけは覚えている。
土砂降りの雨の日の出来事が、四人で共有すべき秘密となったのは、夏休みを終えた始業式の日の放課後だった。夏休みの間、四人が顔を合わす事はなかった。もともと仲が良くいつも一緒にいると言う訳でもなかったし、それぞれみんな別の友達を持っていた。
始業式の日の朝も顔を合わす事になったが、それぞれみんな別の誰かと話し、四人のうちの誰かと誰かが話す事はなかった。四人がそれぞれ関わらずにやり過ごせば何もなかったように、全てが消える。
そんな浅はかな考えは瞬時に崩された。
「担任の小林先生ですが、学校をお辞めになりました。今日から私がみんなの担任になります」
そう告げたのは副担の金子先生だった。小林先生が辞めた事は伝えられたが、それ以上の事は何も話さず、二学期の予定や、行事を次々と発表していく金子先生。いくらそんな行事を伝えられても頭に入ってくる訳でもなく、四人でちらちらと目配せし教室での時間をやり過ごした。
「おい、ハル。待てよ!」
ハルが廊下に出ると、ナッチとタカちゃんとヨッシーが待ち構えていた。大きな声で呼び止めたのはヨッシーだったが、その顔には声のような威勢はない。みんな同じ気持ちで始業式の日を乗り切っていた。
午前中だけで終わった学校の門を抜け、人目を気にしながら四人で並んで歩く。クラスの中で四人に共通点はなく、クラスメイトだと言っても、それぞれに仲のいい友達がいる。そんな友達を振り切って、四人で一緒にいる訳だから、人目を気にしても仕方がない。
「小林先生、死んだのかな?」
「辞めたって事は、死んだのかも……」
不安そうなヨッシーの顔が、タカちゃんの言葉で見る見るうちに色を失っていく。
「死んだって事は、僕らが殺したの?」
ナッチのか細い声が、色を失くしたヨッシーの顔を更に青褪めさせていく。
「やめろよ! 誰かが聞いているかもしれないだろ。殺したとか口に出すなよ」
「でも、ハルは怖くないの?」
「いま誰かに聞かれるほうが怖いよ。こんな話!」
ヨッシーとタカちゃんは黙っていた。ヨッシーはまだ顔を青褪めさせたままだ。
「もうこれ以上、先生の話をするのはなしにしようよ」
黙っていたはずのタカちゃんが、ぼそりと口を開く。
「そうだよ、もう何もなかった事にしよう。それが一番いいよ」
青褪めていたはずのヨッシーがタカちゃんに続く。
「そうだな。もう小林先生の話はしない。何もなかったし、何も俺たちは知らない。それでいいよな? ナッチも、それでいいだろ?」
「うん。みんなに合わせるよ」
「ヨッシーとタカちゃんも、それでいいだろ? この話はこれで終わり。もう小林先生の話は二度としない。何もなかったし、俺たちは何も知らない」
「分かったよ、俺たちは何も知らない」
「そうだよ、俺たちは何も知らないし、何もなかったんだ」
「じゃあ、これで終わりだ」
それぞれみんなが自分に言い聞かせるように全てを終わらせた。四人のうちの誰かが話さなければ、何もなかった事になる。
——俺たちは何も知らない。
そう思い込めばそれが現実になる。そんな気になっていた。
「四人だけの秘密だね」
最後にそう言ったのはナッチだった。
「そうだよ、四人だけの秘密。もう誰にも言わないし言っちゃいけない」
「そう、四人だけの秘密」
ナッチに続いたタカちゃんとヨッシーの言葉を最後に、それぞれが家路へと向かう。
——四人だけの秘密。
こうしてあの土砂降りの雨の日の出来事は四人だけの秘密になった。小林先生が死んだ。僕ら四人が小林先生を殺した。
「また四人で先生の家に来いって、またこの間みたいな事になるよ」
不安そうな声を出したのはタカちゃんだった。それは午前中だけで終わった登校日の放課後。
「……次の日曜日にまた遊びにおいで、同じ時間に」
終業のチャイムが鳴り、みんなが帰り支度を始めた頃、小林先生がハルの肩を叩いた。体を強張らせるハルの目には、ナッチとヨッシーとタカちゃんの肩を順に叩く、小林先生の姿が映っていた。
「なあ、ちょっと話があるんだけど」
ハルの声に、帰ろうとしていた三人が足を止める。
「ここじゃ話せないから、どっか行こうぜ」
ハルに続く三人。一緒に帰ろうぜと、それぞれの友達が声を掛けてはきたが、声を振り切り四人で校門を抜けた。
「次の日曜にまた先生の家に来いって言われたんだけど」
「俺もだよ」「俺も」「僕も」
切り出したハルに三人が続く。
「なあ、みんなどうする? 行くのか?」
「また四人で先生の家に来いって、この間みたいな事になるよ」
学校から一番近いコンビニの駐車場で円陣を組んでしゃがみ込む。不安そうなタカちゃんの声が、ナッチを今にも泣きそうな声に変えていく。
「もうこの間みたいな事は嫌だよ」
「でも、先生の言う事を聞かなかったら、問題になるよ」
ヨッシーの意見にナッチの顔が見る見るうちに歪んでいく。
「俺、考えたんだ。とりあえず四人で待ち合わせして、先生には駅前かどこかに迎えに来てもらおう。そして何の用か聞こうぜ。外で用が済むなら、済ませてもらって、先生の家には行かない」
「そんな簡単な事でいいのかな?」
ハルの意見をタカちゃんが否定する。少し渋い顔をするタカちゃんに、ハルは少しの苛立ちを見せる。
「それじゃ、どうするんだよ」
「どうって? 分からないけど。でも、小林先生がいる限り、この前みたいな事が起こってもおかしくないだろ? ナッチはもう嫌なんだよね? この前みたいな……」
何かを思い出しているのか、ナッチの顔が再び大きく歪んでいく。そして四人で頭を突き合わせた円陣の中、少しの間の後、小さな声が響く。
「小林先生なんて、死んじゃえばいいのにね」
確かに聞こえた声ではあったが、誰が発した声なのかは分からなかい。
——死んじゃえばいいのに。
物騒な言葉だが、誰が発した声かは分からないが、それは四人全員の頭にふと浮かんだ言葉を誰かが代弁した事に違いなかった。
傘を叩き付ける雨の音が煩すぎて、怒鳴りつけたはずの声が小さく聞こえていた。
「俺に聞くなよ! それより今、誰かが押したのか? もしかしてナッチ、お前?」
「……何もしてないよ! ずっとヨッシーの後ろにいたし」
「俺だって何もしてないよ! タカちゃんが一番近くにいたんじゃないのか?」
「一番近くにいたのはハルだろ? 俺じゃないよ」
雨が叩きつけるのは傘だけではなかった。こんな土砂降りの日には、子供用の小さな傘など無用になる事は、まだ教えられていなかった。激しい雨が真夏だと言うのに体温を奪っていく。
「早く帰ろうよ。もうパンツまで濡れて気持ち悪いよ」
「でも、このまま帰るって、そんな事できないだろ?」
「でも、じゃあ、どうするんだよ」
「もう帰ろうよ。ねえ、もう帰ろう。早く帰ろうよ」
見下ろした階段の踊り場には自分たちと同じように、激しい雨に叩き付けられている大きな体があった。ただ傘が上手いこと指にでも引っ掛かっているのか、激しい雨に上半身が叩き付けられる事はないようだった。だが右方の下半身に目をやれば、ぐっしょりと濡らされたチノパンが元のベージュと言う色を無くしている事が分かった。
透明のビニール越しに見える頭に、何か赤い物が付いているような気もしたが、誰かの最後の言葉に従うしかない事は四人とも理解していた。幸いそんな土砂降りの中、わざわざ階段を上がり歩道橋を渡る通行人は見えない。
激しい雨に叩き付けられる大きな体に背を向け、最初に走り出したのが誰だったかは分からない。四人が一斉に走り出していたのかもしれないが、例え小学生だからと言って、四人が並べるほど歩道橋の階段は広いものではなかった。先頭ではなく誰かの背中を見ながら駆け下りた階段。その背中が一つだった事だけは覚えている。
土砂降りの雨の日の出来事が、四人で共有すべき秘密となったのは、夏休みを終えた始業式の日の放課後だった。夏休みの間、四人が顔を合わす事はなかった。もともと仲が良くいつも一緒にいると言う訳でもなかったし、それぞれみんな別の友達を持っていた。
始業式の日の朝も顔を合わす事になったが、それぞれみんな別の誰かと話し、四人のうちの誰かと誰かが話す事はなかった。四人がそれぞれ関わらずにやり過ごせば何もなかったように、全てが消える。
そんな浅はかな考えは瞬時に崩された。
「担任の小林先生ですが、学校をお辞めになりました。今日から私がみんなの担任になります」
そう告げたのは副担の金子先生だった。小林先生が辞めた事は伝えられたが、それ以上の事は何も話さず、二学期の予定や、行事を次々と発表していく金子先生。いくらそんな行事を伝えられても頭に入ってくる訳でもなく、四人でちらちらと目配せし教室での時間をやり過ごした。
「おい、ハル。待てよ!」
ハルが廊下に出ると、ナッチとタカちゃんとヨッシーが待ち構えていた。大きな声で呼び止めたのはヨッシーだったが、その顔には声のような威勢はない。みんな同じ気持ちで始業式の日を乗り切っていた。
午前中だけで終わった学校の門を抜け、人目を気にしながら四人で並んで歩く。クラスの中で四人に共通点はなく、クラスメイトだと言っても、それぞれに仲のいい友達がいる。そんな友達を振り切って、四人で一緒にいる訳だから、人目を気にしても仕方がない。
「小林先生、死んだのかな?」
「辞めたって事は、死んだのかも……」
不安そうなヨッシーの顔が、タカちゃんの言葉で見る見るうちに色を失っていく。
「死んだって事は、僕らが殺したの?」
ナッチのか細い声が、色を失くしたヨッシーの顔を更に青褪めさせていく。
「やめろよ! 誰かが聞いているかもしれないだろ。殺したとか口に出すなよ」
「でも、ハルは怖くないの?」
「いま誰かに聞かれるほうが怖いよ。こんな話!」
ヨッシーとタカちゃんは黙っていた。ヨッシーはまだ顔を青褪めさせたままだ。
「もうこれ以上、先生の話をするのはなしにしようよ」
黙っていたはずのタカちゃんが、ぼそりと口を開く。
「そうだよ、もう何もなかった事にしよう。それが一番いいよ」
青褪めていたはずのヨッシーがタカちゃんに続く。
「そうだな。もう小林先生の話はしない。何もなかったし、何も俺たちは知らない。それでいいよな? ナッチも、それでいいだろ?」
「うん。みんなに合わせるよ」
「ヨッシーとタカちゃんも、それでいいだろ? この話はこれで終わり。もう小林先生の話は二度としない。何もなかったし、俺たちは何も知らない」
「分かったよ、俺たちは何も知らない」
「そうだよ、俺たちは何も知らないし、何もなかったんだ」
「じゃあ、これで終わりだ」
それぞれみんなが自分に言い聞かせるように全てを終わらせた。四人のうちの誰かが話さなければ、何もなかった事になる。
——俺たちは何も知らない。
そう思い込めばそれが現実になる。そんな気になっていた。
「四人だけの秘密だね」
最後にそう言ったのはナッチだった。
「そうだよ、四人だけの秘密。もう誰にも言わないし言っちゃいけない」
「そう、四人だけの秘密」
ナッチに続いたタカちゃんとヨッシーの言葉を最後に、それぞれが家路へと向かう。
——四人だけの秘密。
こうしてあの土砂降りの雨の日の出来事は四人だけの秘密になった。小林先生が死んだ。僕ら四人が小林先生を殺した。
「また四人で先生の家に来いって、またこの間みたいな事になるよ」
不安そうな声を出したのはタカちゃんだった。それは午前中だけで終わった登校日の放課後。
「……次の日曜日にまた遊びにおいで、同じ時間に」
終業のチャイムが鳴り、みんなが帰り支度を始めた頃、小林先生がハルの肩を叩いた。体を強張らせるハルの目には、ナッチとヨッシーとタカちゃんの肩を順に叩く、小林先生の姿が映っていた。
「なあ、ちょっと話があるんだけど」
ハルの声に、帰ろうとしていた三人が足を止める。
「ここじゃ話せないから、どっか行こうぜ」
ハルに続く三人。一緒に帰ろうぜと、それぞれの友達が声を掛けてはきたが、声を振り切り四人で校門を抜けた。
「次の日曜にまた先生の家に来いって言われたんだけど」
「俺もだよ」「俺も」「僕も」
切り出したハルに三人が続く。
「なあ、みんなどうする? 行くのか?」
「また四人で先生の家に来いって、この間みたいな事になるよ」
学校から一番近いコンビニの駐車場で円陣を組んでしゃがみ込む。不安そうなタカちゃんの声が、ナッチを今にも泣きそうな声に変えていく。
「もうこの間みたいな事は嫌だよ」
「でも、先生の言う事を聞かなかったら、問題になるよ」
ヨッシーの意見にナッチの顔が見る見るうちに歪んでいく。
「俺、考えたんだ。とりあえず四人で待ち合わせして、先生には駅前かどこかに迎えに来てもらおう。そして何の用か聞こうぜ。外で用が済むなら、済ませてもらって、先生の家には行かない」
「そんな簡単な事でいいのかな?」
ハルの意見をタカちゃんが否定する。少し渋い顔をするタカちゃんに、ハルは少しの苛立ちを見せる。
「それじゃ、どうするんだよ」
「どうって? 分からないけど。でも、小林先生がいる限り、この前みたいな事が起こってもおかしくないだろ? ナッチはもう嫌なんだよね? この前みたいな……」
何かを思い出しているのか、ナッチの顔が再び大きく歪んでいく。そして四人で頭を突き合わせた円陣の中、少しの間の後、小さな声が響く。
「小林先生なんて、死んじゃえばいいのにね」
確かに聞こえた声ではあったが、誰が発した声なのかは分からなかい。
——死んじゃえばいいのに。
物騒な言葉だが、誰が発した声かは分からないが、それは四人全員の頭にふと浮かんだ言葉を誰かが代弁した事に違いなかった。
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