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Chapter 1 『苺とチョコレート』
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十七年前の事件の概要はこうだ。ただこれは小峰駿の口を介したものであって、その小峰も自身の目で見た話ではない。警察に聞かされただけの話だ。
十七年前の二月。バレンタインのデートを楽しむと言って、小峰遼と成田和弥は新宿へ出掛けた。当時の二人は十九歳だった。
新宿三丁目のイタリアンレストランで夕食を済ませた二人は御苑大通りを越え、新宿二丁目へと足を踏み入れた。まだ十九歳ではあったが、二丁目のゲイバーにも数度訪れた事があったようだ。
仲通りを越え、新宿公園の先の路地。寺の垣根を右手にした所で、小峰と成田は突然パイプで殴り付けられた。相手は自分達とさほど歳が変わらないだろう男三人。成田は肩から背中を殴られたが、小峰は頭を殴られていた。ただ二人がまだ血を滲ませていない事に、三人の男達はもう一度パイプを振り下ろそうとした。
その時。瞬時に立ち上がった成田は小峰の手を引き走り出した。頭を殴られてはいたが、小峰にもまだ瞬発力は残っていた。
走り出した二人は花園通りから、靖国通りへと、路地を全速力で走り抜けた。三人の男も続いてはいたが、重いパイプを手にしているからか、それとも追いかける人間より、逃げる人間の方が、全力を出し切れるからか、逃げる二人と追う三人の差は広がっていった。ようやく靖国通りへ出た二人は赤信号に足を停められる。そして右手に見えた歩道橋の階段を駆け上っていった。
だが概要はここで一度途切れる。
三人が歩道橋の下に到着した瞬間。歩道橋の上から男が一人落下した。その落下した男が小峰だと言う事は、三人も後から聞かされた話のようだ。
落下した小峰は、靖国通りを四谷方面へ向かう車のフロントガラスでバウンドし、地面に叩きつけられ、後続車の下敷きとなった。即死した小峰を通報したのは、三人ではなく事故を起こした運転手達だったが、全速力で走る小峰と成田を追いかける三人の姿は、靖国通り沿いにあるコインパーキングの防犯カメラが捕えていた。
だが重要参考人として呼び出された三人が罪に問われる事はなかった。あくまで小峰は歩道橋からの転落死であって、三人に殺された訳ではない。パイプで殴ったと三人は素直に供述をしたが、その現場に血痕はなく、立証されるものは何もない。それに証人と成り得る成田和弥は歩道橋から忽然と姿を消していた。
軽い気持ちのホモ狩りが、小峰遼の死に繋がったのは間違いないが、警察は掘り下げる事もなく、小峰の死を事故死と判断したのだ。
——十七年前だ。
まだ自分達ゲイは、ホモと指を差される事もあった時代。ホモだから標的にされても仕方がない。この事件に関わった警察の人間の中にも、少なからずそんな考えがあったはずだ。
「お兄さんの、小峰遼さんの死については分かりました。その後、成田和弥さんをお探しになったんですか?」
「はい。和弥の両親が杉並の警察署に失踪届を出したようですが、特に捜査をしてもらえたと言う話は聞いていません。私も連絡できる知人、心当たりは回ってみましたが、十七年経っても、何も手掛かりはないままです」
ホモ狩りと言うワードの威力に気を取られはしたが、小峰駿の話には何か引っ掛かるものがある。何だろうか? 小峰に対峙した時間を頭の中でもう一度なぞる。
「——ああ」
少し大きくなったその声に小峰がぴくりと反応を示す。もし逆の立場なら、何か閃いたのかもと期待してしまうだろう。相手は探偵なんだから。
「何か分かったんですか?」
「いえ、すみません。一つお聞きしたいのですが、小峰さんはお兄さんの恋人である成田和弥さんとも親しかったんですか? さっきから和弥と下の名前で呼んでいらっしゃるものですから」
「あ、はい。和弥とは高校の同級生でした。あの」
「何でしょうか?」
「辻山さんもこの新宿二丁目で探偵事務所とバーを構えていらっしゃると言う事は勿論こちらの方なんですよね?」
「ええ、勿論」
ふと黒川オーナーの顔が浮かんだ。最も大事だとは言わないが、依頼主に事前に伝えておくべき情報だ。何故かそれを怠ったオーナーに、今度会った時には絶対ダメ出しをしてやるんだと、拳に力が入る。
「実は和弥とは高校の時に付き合っていました。付き合っていたと言っても、親友の延長みたいなもので、まだ自分がゲイであるかも受け入れられない頃でした。もちろん和弥の事は好きだったんですけど……」
濁された言葉にまだ何かを吐き出したい事は分かったが、ふと浮かんだ直樹の顔が、小峰から新たな言葉を引き出すきっかけを奪う。
直樹との高校時代。互いが同じ性趣向を持っているなんて知らずに過ごした高校時代。同じような青春の一ページのはずが、小峰と成田の高校時代には重ならない。
「聞かないんですか?」
「えっ? 何をですか?」
高校時代付き合っていた小峰と成田。その口ぶりからそれは淡いものである事が分かる。いや、成田と付き合っていたのは小峰だが、その小峰は今、目の前にいるこの駿だ。テーブルに置かれたままの写真の二人に目を落とす。
成田と並んだ小峰……、小峰遼。転落死と失踪を招いたバレンタインのデートは、駿ではなく遼と成田だ。
「この成田和弥さんはあなたと付き合ったあと、お兄さんの遼さんと付き合っていた?」
声にした事で小峰の傷を抉ったのは間違いなかった。体と声を震わせながら小峰がその経緯を絞り出す。
「和弥の事は好きだったんですけど、まだ高校生で、その頃はまだ体の……」
言葉を詰まらせる小峰に全てを悟る事が出来た。これ以上その口から何かを絞り出させる事は、傷を抉るだけではない。それは触れてはいけないものに触れる事。幾ら探偵と言う稼業であれ、更に傷を負わせる訳にはいかない。
「あなたは成田さんと体の関係を持つ事を拒んだ。それはまだ高校生で、そこまで踏み込めなかったからで、だが成田さんはあなたと同じ顔を持つ遼さんと関係を持った。結果、成田さんは体の関係を持てないあなたではなく、兄の遼さんを選んだ」
感情を持たない声。抉る傷を極力浅くするために、淡々と続けてみたが、その効果はあまりなかったようで、小峰が大きく肩を揺らす。その肩に目を落とし、申し訳なさそうな顔を作ってみたが、小峰の目には映っていなかった。
「はい、その通りです」
十七年以上経った今でも何か引っ掛かるものがあるのだろう。いや、十七年と言う時間ずっと引き摺って生きてきたのかもしれない。もしかすればこの目の前の小峰の時間は、兄の遼が転落死し、成田が失踪した十七年前で止まっているのかもしれない。だが今更失踪した成田を探してどうなると言うのだろう。
淡い時間を過ごした高校生の頃のように、もう一度やり直したい? いや、そんな事を考えているようには見えない。
「それで依頼は受けて頂けますか? 和弥を探して頂けますか?」
振り絞るような声だった。
「そうですね。小峰さんのご依頼はお受け致します。ただ一つ気になる事が。どうして今なんですか? どうして十七年経った今、成田さんをお探しに? 今野陽介と高橋潤の死で成田さんを思い出したからでしょうか?」
「憶測でしかありませんが、今回の今野陽介と高橋潤の事件に和弥が関わっているような気がしてならないんです。もう十七年です。もしかしたら和弥はもう死んでいるのかも? そんな事も考えてきました。でも、今野と高橋の事件に和弥が関わっているなら、死んではいなかった。もし生きているなら——」
「分かりました。先ほどお兄さんが転落死した際、お兄さんと成田さんを襲った犯人は三人だと仰りましたよね? 今野と高橋と、もう一人はお分かりですか?」
「ええ、勿論。河野太一です。警察から三人の名前を聞かされました。当時、三人とも十九歳で。私も三人と同じ歳なので、今は三十六位になっていると思います」
「分かりました。それでは成田和弥さんの捜索と合わせ、十七年前の事件も当ってみます。十七年前の靖国通りの歩道橋まで遡らないと、成田さんの行方は掴めないでしょうから」
「どうか、よろしくお願いします」
深々と頭を下げる小峰に同情のようなものが芽生える。残された者の痛みの波長に肌を刺されているような気分だ。
ドアを抜けた踊り場でもう一度振り返り、深々と頭を下げる小峰に、「早急に取り掛かります」と、労いの言葉を投げる。まずは十七年前の事件だ。転落死。事故として扱われたのなら、手掛かりは少ないかもしれない。それでも十七年前の事件の詳細を知り得なければ、何も見つけられるもの等ないだろう。
放り投げていたスマホを手にし、下らないDMだけを増やし続けるメッセージをタップする。十七年前の事件。現場が靖国通りの歩道橋なら、管轄は新宿東署だ。君生が何かを探ってくれる事に期待する。それと杉並署だ。直樹ならフードデリバリーで杉並まで足を延ばす事があるかもしれない。
十七年前の二月。バレンタインのデートを楽しむと言って、小峰遼と成田和弥は新宿へ出掛けた。当時の二人は十九歳だった。
新宿三丁目のイタリアンレストランで夕食を済ませた二人は御苑大通りを越え、新宿二丁目へと足を踏み入れた。まだ十九歳ではあったが、二丁目のゲイバーにも数度訪れた事があったようだ。
仲通りを越え、新宿公園の先の路地。寺の垣根を右手にした所で、小峰と成田は突然パイプで殴り付けられた。相手は自分達とさほど歳が変わらないだろう男三人。成田は肩から背中を殴られたが、小峰は頭を殴られていた。ただ二人がまだ血を滲ませていない事に、三人の男達はもう一度パイプを振り下ろそうとした。
その時。瞬時に立ち上がった成田は小峰の手を引き走り出した。頭を殴られてはいたが、小峰にもまだ瞬発力は残っていた。
走り出した二人は花園通りから、靖国通りへと、路地を全速力で走り抜けた。三人の男も続いてはいたが、重いパイプを手にしているからか、それとも追いかける人間より、逃げる人間の方が、全力を出し切れるからか、逃げる二人と追う三人の差は広がっていった。ようやく靖国通りへ出た二人は赤信号に足を停められる。そして右手に見えた歩道橋の階段を駆け上っていった。
だが概要はここで一度途切れる。
三人が歩道橋の下に到着した瞬間。歩道橋の上から男が一人落下した。その落下した男が小峰だと言う事は、三人も後から聞かされた話のようだ。
落下した小峰は、靖国通りを四谷方面へ向かう車のフロントガラスでバウンドし、地面に叩きつけられ、後続車の下敷きとなった。即死した小峰を通報したのは、三人ではなく事故を起こした運転手達だったが、全速力で走る小峰と成田を追いかける三人の姿は、靖国通り沿いにあるコインパーキングの防犯カメラが捕えていた。
だが重要参考人として呼び出された三人が罪に問われる事はなかった。あくまで小峰は歩道橋からの転落死であって、三人に殺された訳ではない。パイプで殴ったと三人は素直に供述をしたが、その現場に血痕はなく、立証されるものは何もない。それに証人と成り得る成田和弥は歩道橋から忽然と姿を消していた。
軽い気持ちのホモ狩りが、小峰遼の死に繋がったのは間違いないが、警察は掘り下げる事もなく、小峰の死を事故死と判断したのだ。
——十七年前だ。
まだ自分達ゲイは、ホモと指を差される事もあった時代。ホモだから標的にされても仕方がない。この事件に関わった警察の人間の中にも、少なからずそんな考えがあったはずだ。
「お兄さんの、小峰遼さんの死については分かりました。その後、成田和弥さんをお探しになったんですか?」
「はい。和弥の両親が杉並の警察署に失踪届を出したようですが、特に捜査をしてもらえたと言う話は聞いていません。私も連絡できる知人、心当たりは回ってみましたが、十七年経っても、何も手掛かりはないままです」
ホモ狩りと言うワードの威力に気を取られはしたが、小峰駿の話には何か引っ掛かるものがある。何だろうか? 小峰に対峙した時間を頭の中でもう一度なぞる。
「——ああ」
少し大きくなったその声に小峰がぴくりと反応を示す。もし逆の立場なら、何か閃いたのかもと期待してしまうだろう。相手は探偵なんだから。
「何か分かったんですか?」
「いえ、すみません。一つお聞きしたいのですが、小峰さんはお兄さんの恋人である成田和弥さんとも親しかったんですか? さっきから和弥と下の名前で呼んでいらっしゃるものですから」
「あ、はい。和弥とは高校の同級生でした。あの」
「何でしょうか?」
「辻山さんもこの新宿二丁目で探偵事務所とバーを構えていらっしゃると言う事は勿論こちらの方なんですよね?」
「ええ、勿論」
ふと黒川オーナーの顔が浮かんだ。最も大事だとは言わないが、依頼主に事前に伝えておくべき情報だ。何故かそれを怠ったオーナーに、今度会った時には絶対ダメ出しをしてやるんだと、拳に力が入る。
「実は和弥とは高校の時に付き合っていました。付き合っていたと言っても、親友の延長みたいなもので、まだ自分がゲイであるかも受け入れられない頃でした。もちろん和弥の事は好きだったんですけど……」
濁された言葉にまだ何かを吐き出したい事は分かったが、ふと浮かんだ直樹の顔が、小峰から新たな言葉を引き出すきっかけを奪う。
直樹との高校時代。互いが同じ性趣向を持っているなんて知らずに過ごした高校時代。同じような青春の一ページのはずが、小峰と成田の高校時代には重ならない。
「聞かないんですか?」
「えっ? 何をですか?」
高校時代付き合っていた小峰と成田。その口ぶりからそれは淡いものである事が分かる。いや、成田と付き合っていたのは小峰だが、その小峰は今、目の前にいるこの駿だ。テーブルに置かれたままの写真の二人に目を落とす。
成田と並んだ小峰……、小峰遼。転落死と失踪を招いたバレンタインのデートは、駿ではなく遼と成田だ。
「この成田和弥さんはあなたと付き合ったあと、お兄さんの遼さんと付き合っていた?」
声にした事で小峰の傷を抉ったのは間違いなかった。体と声を震わせながら小峰がその経緯を絞り出す。
「和弥の事は好きだったんですけど、まだ高校生で、その頃はまだ体の……」
言葉を詰まらせる小峰に全てを悟る事が出来た。これ以上その口から何かを絞り出させる事は、傷を抉るだけではない。それは触れてはいけないものに触れる事。幾ら探偵と言う稼業であれ、更に傷を負わせる訳にはいかない。
「あなたは成田さんと体の関係を持つ事を拒んだ。それはまだ高校生で、そこまで踏み込めなかったからで、だが成田さんはあなたと同じ顔を持つ遼さんと関係を持った。結果、成田さんは体の関係を持てないあなたではなく、兄の遼さんを選んだ」
感情を持たない声。抉る傷を極力浅くするために、淡々と続けてみたが、その効果はあまりなかったようで、小峰が大きく肩を揺らす。その肩に目を落とし、申し訳なさそうな顔を作ってみたが、小峰の目には映っていなかった。
「はい、その通りです」
十七年以上経った今でも何か引っ掛かるものがあるのだろう。いや、十七年と言う時間ずっと引き摺って生きてきたのかもしれない。もしかすればこの目の前の小峰の時間は、兄の遼が転落死し、成田が失踪した十七年前で止まっているのかもしれない。だが今更失踪した成田を探してどうなると言うのだろう。
淡い時間を過ごした高校生の頃のように、もう一度やり直したい? いや、そんな事を考えているようには見えない。
「それで依頼は受けて頂けますか? 和弥を探して頂けますか?」
振り絞るような声だった。
「そうですね。小峰さんのご依頼はお受け致します。ただ一つ気になる事が。どうして今なんですか? どうして十七年経った今、成田さんをお探しに? 今野陽介と高橋潤の死で成田さんを思い出したからでしょうか?」
「憶測でしかありませんが、今回の今野陽介と高橋潤の事件に和弥が関わっているような気がしてならないんです。もう十七年です。もしかしたら和弥はもう死んでいるのかも? そんな事も考えてきました。でも、今野と高橋の事件に和弥が関わっているなら、死んではいなかった。もし生きているなら——」
「分かりました。先ほどお兄さんが転落死した際、お兄さんと成田さんを襲った犯人は三人だと仰りましたよね? 今野と高橋と、もう一人はお分かりですか?」
「ええ、勿論。河野太一です。警察から三人の名前を聞かされました。当時、三人とも十九歳で。私も三人と同じ歳なので、今は三十六位になっていると思います」
「分かりました。それでは成田和弥さんの捜索と合わせ、十七年前の事件も当ってみます。十七年前の靖国通りの歩道橋まで遡らないと、成田さんの行方は掴めないでしょうから」
「どうか、よろしくお願いします」
深々と頭を下げる小峰に同情のようなものが芽生える。残された者の痛みの波長に肌を刺されているような気分だ。
ドアを抜けた踊り場でもう一度振り返り、深々と頭を下げる小峰に、「早急に取り掛かります」と、労いの言葉を投げる。まずは十七年前の事件だ。転落死。事故として扱われたのなら、手掛かりは少ないかもしれない。それでも十七年前の事件の詳細を知り得なければ、何も見つけられるもの等ないだろう。
放り投げていたスマホを手にし、下らないDMだけを増やし続けるメッセージをタップする。十七年前の事件。現場が靖国通りの歩道橋なら、管轄は新宿東署だ。君生が何かを探ってくれる事に期待する。それと杉並署だ。直樹ならフードデリバリーで杉並まで足を延ばす事があるかもしれない。
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