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Chapter 5 『ミュージック・ボックス』
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〈兄ちゃんの本当のお父さんは前城一樹って人だって〉
——前城一樹?
どうして樹のスマホにその名前が?
いや、考え付けたはずだ。俯瞰で見れば辿り着けたはず。鳴子がそっくりだと言った樹と前城一樹。あの宣材写真がそれを語っていたじゃないか。
それに樹が二歳の時、父親は姿を消したと聞かされていた。十七年前だ。どうしてもっと早く気付けなかった? どうしてもっと早く繋げる事が出来なかった?
「樹。本当に申し訳ない」
もっと早く気付いていれば、ホワイトボードに前城一樹の名前を残しておく事も、樹をここに連れて来る事もしなかった。樹へと合わせる事が出来ず、ふと直樹へとその目を向けた時、直樹の手の中には樹のスマホがあった。既にその画面の文字を見てしまっているだろうが、いつものように出しゃばってくる様子はない。
「辻山さん、事件って?」
「いや、知らない方がいい」
「知らない方がよくても教えて下さい!」
充分傷付いただろう樹に、一体何を話してやれると言うのだ。もし父親が自分と同じ売り専で働いていたと知ったら? もし父親が連続殺人事件の容疑者だと知ったら? 傷付けるだけでは済まない。
「ねぇ、いっ君。あたしも知らない方がいいと思う」
樹へスマホを返しながら、ようやく直樹が口を開く。
「そんな事言われても無理ですよ。何も知らずに今まで通りだなんて。そんなの絶対無理です。だって何かの事件に関わっているんですよね? こんな大金渡されたら、ある程度の覚悟は出来ます」
樹の頬に指を伸ばす。蒼くなっていたはずだが、今はほんのり赤さを取り戻している。
「本当に大丈夫なのか?」
「多分、大丈夫です。もし辻山さんが教えてくれなくても自分で何とかします。五千万円あったら辻山さんみたいに優秀な探偵も雇えますよね? それにここに何かあるかもしれない」
さっきは伸ばしていないように見えた封筒を、いつの間にか樹は手の中に収めている。誰か他の人間の口から事実を聞かせるくらいなら。何か他の手段で樹が事実を知ってしまうくらいなら。この口で全てを伝えたい。だが自分の口とは言え、そんな簡単に操れるとは思えない。樹を傷付けずに事実を教える術なんてあるのだろうか? 過る考えに自分の顔が歪んでいく様が想像できる。
「辻山さん。俺はもう覚悟を決めているんで。辻山さんも覚悟を決めて下さい」
悪戯に笑う樹に三丁目のシティホテルを思い出す。
覚悟が無ければ売り専なんてやっていないだろう。それに幾ら仕事とは言え、初めて会う男と対等に張り合う事も出来ないだろう。樹は二十歳という年齢以上に世間を見て来ているのかもしれない。これは自分への言い訳かもしれないが、事実を伝えるきっかけを与えられたのかもしれない。
「……事件と言うのは」
新宿公園での連続殺人事件の事。その事件の容疑者として名前が挙がっている人物が、樹の父親である前城一樹である事。そんな前城は十七年前まで樹と同じトップボーイズで働いていた事。感情を押え付け、出来るだけ淡々と零していく。
「ありがとうございます。だから恭介ママは俺にカズキって名前を付けたんですね」
「そうだな」
無理に作られたものだと解っていても、歪まない樹のその顔に救われる。たった二十年だ。そんな短い時間の中でしっかりと処世術は身に付けている。
「すまないな」
「どうして辻山さんが謝るんですか。辻山さんには感謝しかないです。俺なんかにも優しくしてくれるし、俺、辻山さんの事好きですよ。あ、俺なんかが迷惑ですね」
「迷惑だなんて、これっぽっちも。俺も可愛いと思っているよ」
「ん、ん、ん」
わざとらしい咳払いをする直樹が手を腰に仁王立ちしている。
「ねぇ、お二人さん。あたしの存在を忘れているんじゃない? あたしずっとここにいるんですけど」
「何だ。まだ帰っていなかったのか」
「失礼ね」
膨らませた直樹の頬に、樹が小さく噴き出す。樹が笑っているから許してやるが、本来なら摘まみ出しているところだ。
「それで後はこれよね」
樹の手にあった封筒を直樹が奪い取る。
「辻山さんが見て下さい。何が出てくるか分からないし。ほら、爆弾かも」
樹が放った爆弾と言う言葉に、「ひっ」と、可笑しな声を直樹が上げる。
「そんな薄い封筒に爆弾なんて入る訳ないだろ?」
東南口でのやり取りを思い出し少し安心させられる。樹にはくだらない事を思い出し口にする余裕があるようだ。
「それじゃ、あたしが開けるわよ。ここのナンバーワン調査員だし、秀三の助手みたいなものだからね。それで、鋏はどこかしら?」
「包丁ならカウンターの中にあるぞ」
「切れれば何だっていいわよ」
カウンターの内側に回った直樹が何を使って封筒を開けたかは見えない。ただ封筒から取り出された四角の物がその手の中に見える。便箋には見えないから手紙ではなさそうだが、何だ?
「これって」
その固まった表情に咄嗟に立ち上がる。
封筒の中に何を見つけたのかは分からないが、樹へ晒される前に確認しなければ。
「寄越せ!」
樹には見せないよう背中を向け、直樹の手の内から奪い取る。
——写真。
四角に見えた物は数枚重ねられた写真だった。
「何だったんですか?」
背中に樹の声が刺さる。
だがそこに写されたものを確認しないまま、樹に答える訳にはいかない。
——白装束?
——髭面の男?
その髭面の男の足元には、見覚えのある顔だ。
——河野太一?
次の写真は? 同じ髭面の男だ。その足元にはぬかるんだ地面。それに写りは悪いが見覚えのある顔だ。
——高橋潤?
この髭面の男が河野や高橋を殺したと言うのか。
——髭面の男?
ゆっくりと振り返るとそこには不安そうな樹の顔があった。目を細めると髭面の男にだぶる樹の顔。どう言う事だ。どうして前城一樹はこんな写真を樹の元へ。
「辻山さん」
どれほど歪んだ顔を向けられようが、樹に掛けてやれる言葉が見つからない。
「樹、すまない」
ソファから腰を浮かせた樹の力を奪うように、全身で覆い被さり抱き締める。どこで選択を間違ったのだろう。樹に知られる事なく処分する術はなかったのだろうか。
「辻山さん、痛いよ」
振り絞ろうとする意志はあるが、やはり掛ける言葉が見つからない。
「辻山さん。俺、さっき覚悟は出来ているって言ったよね? だから謝らないでよ。何だって受け入れるつもりでいたのに、こうやって辻山さんを困らせて、俺の方こそ本当にごめん。さっきの映画の話。オルゴールじゃなかったけど、真実が出てきてしまったんだよね。辻山さんも直樹さんも分かり易すぎるよ。ねえ、俺は大丈夫だから」
腕に込めた力がふっと抜ける。樹の言葉に慰められているようだ。
「すまない」力を入れ返しただろう樹に腕を解かれる。
「もう、辻山さんが謝る必要ないでしょ。俺の方こそ本当にごめんね。俺の中にも殺人犯の血が流れているんだって考えると、複雑ではあるけど。昨日まで父親の顔も名前も知らずにやって来られたんだから、俺は大丈夫」
掛ける言葉はまだ見つけられないが、樹を抱く腕にもう一度力を込める。それに応えるように樹の手が背中へと回ってくる。
その時。
「違うよ。違う、違う。絶対違う!」
鼻を啜り上げる直樹がすぐ側に立っていた。
「いっ君に殺人犯の血なんか流れていないから。いっ君はこれからも自信持って生きていけばいいの! こんな事になるなんて思っていなかったあたしが浅はかだったの。罪なのはあたし。本当にごめんなさい」
「直樹さんまで謝らないで下さいよ」
背中に回されていた手が下ろされる。
「でも、直樹の言う通りだ。樹の中に殺人犯の血なんか流れていない。それに樹には鳴子さんもいるだろう。鳴子さんは本当の家族のように樹の事を考えてくれているよ」
「そうですね。恭介ママも本当に優しくしてくれます」
その声の色に鳴子がどれほど親身になっているかは読み取れる。前城一樹が樹の父親だった事。それにその前城が連続殺人を冒していた事。全てを話したとしても鳴子は樹を受け入れるだろう。いや、鳴子の事だから更に樹の面倒を見てくれるに違いない。
「樹。後で一緒に鳴子さんの所へ行こう。話は俺からするから」
「ありがとうございます。それでこのお金はどうしたらいいんですか?」
樹がテーブルの上の黒い鞄をぽんと叩く。五千万円は確かに前城から樹へと送られたものだろうが、その出所が分からない限り、易々と使ってしまえなんて言えるはずもない。最悪、警察に押収なんて事も考えられる。
「そうだな。とりあえず鳴子さんに管理をしてもらおう。警察が介入するような事があれば、俺から話をしてやる。ただ……」
「何ですか」
樹には見せないよう手にした写真に目を泳がせる。
「ああ。ただこの写真は警察に提出しない訳にはいかないだろうな」
「全部辻山さんにお任せします」
「ああ」
小さく返事をしたところに大きな邪魔が入る。
直樹だ。
「また二人してあたしの事忘れているんじゃない? もう、本当失礼しちゃうわ。まあ、いっ君も正義を貫いたって事で許してあげるけど」
「何だ? いきなり正義って何だ? それに、もって何だよ?」
「嫌ね。忘れたの? 前に『ミュージック・ボックス』の結末を知りたがったのは秀三の方よ」
大きな声で詰め寄られても記憶には残っていない。
「オルゴールの中から真実が見つかるの。父親が虐殺をしていた証拠の写真がね。それは凄い衝撃よ。見つけてしまった娘以上に、あたしも衝撃を受けたもの。勿論娘は苦悩するわ。でもね、娘はその写真を公表するの。父親を守る事より、正義を貫く事を選ぶのよね。そんな結末なんだけど、いっ君と同じでしょ?」
「そうだな」
面倒臭い時は聞き流すのが一番だと心得ている。
「ねっ、いっ君も正義を貫けるんだから、父親なんかいなくても大丈夫よ。このあたしが保証するわ」
お前の保証なんて何の役にも立たないだろ? そう突っ込もうとしたが、
「そうですね」
樹が軽く聞き流す。再び垣間見えたその処世術に一先ずの区切りを迎えた事を知る。
「くだらない話は終わりだ。それよりお前、こんな所で油を売っていていいのか?」
「えっ? やだ。もうこんな時間。夜のピークタイムが終わっちゃうじゃない」
慌てる直樹を放り出し、もう一度樹を強く抱き締める。
「俺達もそろそろ行こう」
目と鼻の先の鳴子の店へ樹を送り届ける。
手を拱いて待っていた鳴子は樹の顔を見るなり、
「三丁目のいつものホテルあるでしょ? あそこの最上階のフレンチ・レストラン。これから行って欲しいの。予約はしてあるけど、連れが遅れて来る事を伝えて、待っていてほしいのよ」と、樹の肩を叩く。
「あ、はい。分かりました」
素直な樹の返事を聞き、その意味を教えられる。
きっと客が付いたのだろう。チクリと胸を刺す棘があるが、それが樹の仕事だ。店内を見回しても、昨日の三人のボーイの姿もない。忙しいにも拘わらず樹に時間を割いた鳴子に何かを言えるはずなどない。
「すみませんでした。お忙しいところ長々と」
鳴子へ投げた謝罪の弁に、樹も申し訳なさそうな顔をしている。
「後はお願いします」
一瞬の目配せだけで、黒い鞄をカウンターに置き鳴子へ会釈する樹。ほんの数分前まで腕の内にいたのに、何故か今は遠くに感じる。
「本当に今日は申し訳なかったわね。突然伺ってごめんなさい。……それで?」
樹がドアを閉めた途端に身を乗り出す鳴子。確かに樹を目の前に置けば話し辛い事もあるが、鳴子はそれを分かった上で、樹を送り出したのだろうか。
「ええ、それが色々ありまして」
身を乗り出す鳴子に隠す事など何一つない。それは樹の望むところでもある。
メッセージは失踪していた父親からのものだった事。メッセージ通り東南口のコインロッカーへ行き、五千万円と言う大金を手にしてしまった事。
樹の父親がこの店で働いていた前城一樹だった事。前城として亡くなったのは成田和弥と言う別の人物で、前城はまだ生きている事。
その前城が新宿公園で起こった連続殺人の犯人であった事。夕方、鳴子を帰らせたあと樹の身に降りかかった事実をただ淡々と伝えた。
驚きが溢れ出ないよう、鳴子は終始口を押えたままだったが、全てを理解した様子にも見えた。長年この二丁目でこんな生業で稼いできた鳴子の事だ。ある程度の修羅場は見てきた事だろう。それに既に覚悟を決めていたのかもしれない。
「……やっぱりあの子、一樹の息子だったんだ」
驚きを含みながらもその穏やかな声に安心させられる。前城が連続殺人犯だった事より、樹の父親であった事の方が、鳴子にとって重要視すべき事なんだろう。
「これがその五千万円です。出所がまだ分からないので、もしかしたら警察から提出を求められるかもしれないんですが、とりあえず鳴子さんに預かって頂きたいんです。これは樹の意志でもあります。今の樹にとって家族と言えるのは鳴子さんだけなんで」
「……家族? あの子に、それに辻山さんにまで、そんなふうに言って貰えるなんて、あたしは幸せ者ね。このお金は責任を持ってお預かりさせて頂きます。……それであたしからも辻山さんにお願いがあるの。今日これからって何か予定ありますか?」
「えっ? 特にはありませんが」
「ああ、良かった。ほら、この間の三丁目のホテルあるでしょ? あそこに今すぐ行って欲しいのよ。今日は部屋だけじゃなく、レストランも予約してあるのよ。カズキに、いえ、樹に先に行かせたから大丈夫だとは思うんだけど、もう予約の時間は過ぎているの。だから早く行ってあげて頂戴」
「えっ?」
全く思考が追い付かない。
「もう早く行ってあげてよ。辻山さんも樹の事は気に入っているって、言ってくれていたじゃない。今日一晩あの子の側に居てあげて欲しいの。あの子も満更じゃないみたいだし。あたしみたいなおばさんが一晩寄り添ったって有難くないでしょ? だから早く行ってあげて。あ、フレンチよ」
鳴子に背中を押され店を追い出される。さっき胸を刺した棘を見透かされているような気分だ。それでも鳴子の計らいを断る理由なんてどこにもない。
もし二丁目でまた何か事件が起きたとしても、それは明日考えればいい事だ。今は鳴子に甘え、御苑大通りを越え、樹が待つ三丁目に向かうだけだ。だが人はこれを予知だと取るのだろう。
——もし二丁目でまた何か事件が起きたとしても。
ふと浮かんだ考えが現実となる。
三丁目のシティホテル。樹と過ごしていた夜に前城一樹は死んだ。御苑大通りの向こう、二丁目のあの新宿公園で前城一樹は死んだ。
Chapter 5 『ミュージック・ボックス』 終
——前城一樹?
どうして樹のスマホにその名前が?
いや、考え付けたはずだ。俯瞰で見れば辿り着けたはず。鳴子がそっくりだと言った樹と前城一樹。あの宣材写真がそれを語っていたじゃないか。
それに樹が二歳の時、父親は姿を消したと聞かされていた。十七年前だ。どうしてもっと早く気付けなかった? どうしてもっと早く繋げる事が出来なかった?
「樹。本当に申し訳ない」
もっと早く気付いていれば、ホワイトボードに前城一樹の名前を残しておく事も、樹をここに連れて来る事もしなかった。樹へと合わせる事が出来ず、ふと直樹へとその目を向けた時、直樹の手の中には樹のスマホがあった。既にその画面の文字を見てしまっているだろうが、いつものように出しゃばってくる様子はない。
「辻山さん、事件って?」
「いや、知らない方がいい」
「知らない方がよくても教えて下さい!」
充分傷付いただろう樹に、一体何を話してやれると言うのだ。もし父親が自分と同じ売り専で働いていたと知ったら? もし父親が連続殺人事件の容疑者だと知ったら? 傷付けるだけでは済まない。
「ねぇ、いっ君。あたしも知らない方がいいと思う」
樹へスマホを返しながら、ようやく直樹が口を開く。
「そんな事言われても無理ですよ。何も知らずに今まで通りだなんて。そんなの絶対無理です。だって何かの事件に関わっているんですよね? こんな大金渡されたら、ある程度の覚悟は出来ます」
樹の頬に指を伸ばす。蒼くなっていたはずだが、今はほんのり赤さを取り戻している。
「本当に大丈夫なのか?」
「多分、大丈夫です。もし辻山さんが教えてくれなくても自分で何とかします。五千万円あったら辻山さんみたいに優秀な探偵も雇えますよね? それにここに何かあるかもしれない」
さっきは伸ばしていないように見えた封筒を、いつの間にか樹は手の中に収めている。誰か他の人間の口から事実を聞かせるくらいなら。何か他の手段で樹が事実を知ってしまうくらいなら。この口で全てを伝えたい。だが自分の口とは言え、そんな簡単に操れるとは思えない。樹を傷付けずに事実を教える術なんてあるのだろうか? 過る考えに自分の顔が歪んでいく様が想像できる。
「辻山さん。俺はもう覚悟を決めているんで。辻山さんも覚悟を決めて下さい」
悪戯に笑う樹に三丁目のシティホテルを思い出す。
覚悟が無ければ売り専なんてやっていないだろう。それに幾ら仕事とは言え、初めて会う男と対等に張り合う事も出来ないだろう。樹は二十歳という年齢以上に世間を見て来ているのかもしれない。これは自分への言い訳かもしれないが、事実を伝えるきっかけを与えられたのかもしれない。
「……事件と言うのは」
新宿公園での連続殺人事件の事。その事件の容疑者として名前が挙がっている人物が、樹の父親である前城一樹である事。そんな前城は十七年前まで樹と同じトップボーイズで働いていた事。感情を押え付け、出来るだけ淡々と零していく。
「ありがとうございます。だから恭介ママは俺にカズキって名前を付けたんですね」
「そうだな」
無理に作られたものだと解っていても、歪まない樹のその顔に救われる。たった二十年だ。そんな短い時間の中でしっかりと処世術は身に付けている。
「すまないな」
「どうして辻山さんが謝るんですか。辻山さんには感謝しかないです。俺なんかにも優しくしてくれるし、俺、辻山さんの事好きですよ。あ、俺なんかが迷惑ですね」
「迷惑だなんて、これっぽっちも。俺も可愛いと思っているよ」
「ん、ん、ん」
わざとらしい咳払いをする直樹が手を腰に仁王立ちしている。
「ねぇ、お二人さん。あたしの存在を忘れているんじゃない? あたしずっとここにいるんですけど」
「何だ。まだ帰っていなかったのか」
「失礼ね」
膨らませた直樹の頬に、樹が小さく噴き出す。樹が笑っているから許してやるが、本来なら摘まみ出しているところだ。
「それで後はこれよね」
樹の手にあった封筒を直樹が奪い取る。
「辻山さんが見て下さい。何が出てくるか分からないし。ほら、爆弾かも」
樹が放った爆弾と言う言葉に、「ひっ」と、可笑しな声を直樹が上げる。
「そんな薄い封筒に爆弾なんて入る訳ないだろ?」
東南口でのやり取りを思い出し少し安心させられる。樹にはくだらない事を思い出し口にする余裕があるようだ。
「それじゃ、あたしが開けるわよ。ここのナンバーワン調査員だし、秀三の助手みたいなものだからね。それで、鋏はどこかしら?」
「包丁ならカウンターの中にあるぞ」
「切れれば何だっていいわよ」
カウンターの内側に回った直樹が何を使って封筒を開けたかは見えない。ただ封筒から取り出された四角の物がその手の中に見える。便箋には見えないから手紙ではなさそうだが、何だ?
「これって」
その固まった表情に咄嗟に立ち上がる。
封筒の中に何を見つけたのかは分からないが、樹へ晒される前に確認しなければ。
「寄越せ!」
樹には見せないよう背中を向け、直樹の手の内から奪い取る。
——写真。
四角に見えた物は数枚重ねられた写真だった。
「何だったんですか?」
背中に樹の声が刺さる。
だがそこに写されたものを確認しないまま、樹に答える訳にはいかない。
——白装束?
——髭面の男?
その髭面の男の足元には、見覚えのある顔だ。
——河野太一?
次の写真は? 同じ髭面の男だ。その足元にはぬかるんだ地面。それに写りは悪いが見覚えのある顔だ。
——高橋潤?
この髭面の男が河野や高橋を殺したと言うのか。
——髭面の男?
ゆっくりと振り返るとそこには不安そうな樹の顔があった。目を細めると髭面の男にだぶる樹の顔。どう言う事だ。どうして前城一樹はこんな写真を樹の元へ。
「辻山さん」
どれほど歪んだ顔を向けられようが、樹に掛けてやれる言葉が見つからない。
「樹、すまない」
ソファから腰を浮かせた樹の力を奪うように、全身で覆い被さり抱き締める。どこで選択を間違ったのだろう。樹に知られる事なく処分する術はなかったのだろうか。
「辻山さん、痛いよ」
振り絞ろうとする意志はあるが、やはり掛ける言葉が見つからない。
「辻山さん。俺、さっき覚悟は出来ているって言ったよね? だから謝らないでよ。何だって受け入れるつもりでいたのに、こうやって辻山さんを困らせて、俺の方こそ本当にごめん。さっきの映画の話。オルゴールじゃなかったけど、真実が出てきてしまったんだよね。辻山さんも直樹さんも分かり易すぎるよ。ねえ、俺は大丈夫だから」
腕に込めた力がふっと抜ける。樹の言葉に慰められているようだ。
「すまない」力を入れ返しただろう樹に腕を解かれる。
「もう、辻山さんが謝る必要ないでしょ。俺の方こそ本当にごめんね。俺の中にも殺人犯の血が流れているんだって考えると、複雑ではあるけど。昨日まで父親の顔も名前も知らずにやって来られたんだから、俺は大丈夫」
掛ける言葉はまだ見つけられないが、樹を抱く腕にもう一度力を込める。それに応えるように樹の手が背中へと回ってくる。
その時。
「違うよ。違う、違う。絶対違う!」
鼻を啜り上げる直樹がすぐ側に立っていた。
「いっ君に殺人犯の血なんか流れていないから。いっ君はこれからも自信持って生きていけばいいの! こんな事になるなんて思っていなかったあたしが浅はかだったの。罪なのはあたし。本当にごめんなさい」
「直樹さんまで謝らないで下さいよ」
背中に回されていた手が下ろされる。
「でも、直樹の言う通りだ。樹の中に殺人犯の血なんか流れていない。それに樹には鳴子さんもいるだろう。鳴子さんは本当の家族のように樹の事を考えてくれているよ」
「そうですね。恭介ママも本当に優しくしてくれます」
その声の色に鳴子がどれほど親身になっているかは読み取れる。前城一樹が樹の父親だった事。それにその前城が連続殺人を冒していた事。全てを話したとしても鳴子は樹を受け入れるだろう。いや、鳴子の事だから更に樹の面倒を見てくれるに違いない。
「樹。後で一緒に鳴子さんの所へ行こう。話は俺からするから」
「ありがとうございます。それでこのお金はどうしたらいいんですか?」
樹がテーブルの上の黒い鞄をぽんと叩く。五千万円は確かに前城から樹へと送られたものだろうが、その出所が分からない限り、易々と使ってしまえなんて言えるはずもない。最悪、警察に押収なんて事も考えられる。
「そうだな。とりあえず鳴子さんに管理をしてもらおう。警察が介入するような事があれば、俺から話をしてやる。ただ……」
「何ですか」
樹には見せないよう手にした写真に目を泳がせる。
「ああ。ただこの写真は警察に提出しない訳にはいかないだろうな」
「全部辻山さんにお任せします」
「ああ」
小さく返事をしたところに大きな邪魔が入る。
直樹だ。
「また二人してあたしの事忘れているんじゃない? もう、本当失礼しちゃうわ。まあ、いっ君も正義を貫いたって事で許してあげるけど」
「何だ? いきなり正義って何だ? それに、もって何だよ?」
「嫌ね。忘れたの? 前に『ミュージック・ボックス』の結末を知りたがったのは秀三の方よ」
大きな声で詰め寄られても記憶には残っていない。
「オルゴールの中から真実が見つかるの。父親が虐殺をしていた証拠の写真がね。それは凄い衝撃よ。見つけてしまった娘以上に、あたしも衝撃を受けたもの。勿論娘は苦悩するわ。でもね、娘はその写真を公表するの。父親を守る事より、正義を貫く事を選ぶのよね。そんな結末なんだけど、いっ君と同じでしょ?」
「そうだな」
面倒臭い時は聞き流すのが一番だと心得ている。
「ねっ、いっ君も正義を貫けるんだから、父親なんかいなくても大丈夫よ。このあたしが保証するわ」
お前の保証なんて何の役にも立たないだろ? そう突っ込もうとしたが、
「そうですね」
樹が軽く聞き流す。再び垣間見えたその処世術に一先ずの区切りを迎えた事を知る。
「くだらない話は終わりだ。それよりお前、こんな所で油を売っていていいのか?」
「えっ? やだ。もうこんな時間。夜のピークタイムが終わっちゃうじゃない」
慌てる直樹を放り出し、もう一度樹を強く抱き締める。
「俺達もそろそろ行こう」
目と鼻の先の鳴子の店へ樹を送り届ける。
手を拱いて待っていた鳴子は樹の顔を見るなり、
「三丁目のいつものホテルあるでしょ? あそこの最上階のフレンチ・レストラン。これから行って欲しいの。予約はしてあるけど、連れが遅れて来る事を伝えて、待っていてほしいのよ」と、樹の肩を叩く。
「あ、はい。分かりました」
素直な樹の返事を聞き、その意味を教えられる。
きっと客が付いたのだろう。チクリと胸を刺す棘があるが、それが樹の仕事だ。店内を見回しても、昨日の三人のボーイの姿もない。忙しいにも拘わらず樹に時間を割いた鳴子に何かを言えるはずなどない。
「すみませんでした。お忙しいところ長々と」
鳴子へ投げた謝罪の弁に、樹も申し訳なさそうな顔をしている。
「後はお願いします」
一瞬の目配せだけで、黒い鞄をカウンターに置き鳴子へ会釈する樹。ほんの数分前まで腕の内にいたのに、何故か今は遠くに感じる。
「本当に今日は申し訳なかったわね。突然伺ってごめんなさい。……それで?」
樹がドアを閉めた途端に身を乗り出す鳴子。確かに樹を目の前に置けば話し辛い事もあるが、鳴子はそれを分かった上で、樹を送り出したのだろうか。
「ええ、それが色々ありまして」
身を乗り出す鳴子に隠す事など何一つない。それは樹の望むところでもある。
メッセージは失踪していた父親からのものだった事。メッセージ通り東南口のコインロッカーへ行き、五千万円と言う大金を手にしてしまった事。
樹の父親がこの店で働いていた前城一樹だった事。前城として亡くなったのは成田和弥と言う別の人物で、前城はまだ生きている事。
その前城が新宿公園で起こった連続殺人の犯人であった事。夕方、鳴子を帰らせたあと樹の身に降りかかった事実をただ淡々と伝えた。
驚きが溢れ出ないよう、鳴子は終始口を押えたままだったが、全てを理解した様子にも見えた。長年この二丁目でこんな生業で稼いできた鳴子の事だ。ある程度の修羅場は見てきた事だろう。それに既に覚悟を決めていたのかもしれない。
「……やっぱりあの子、一樹の息子だったんだ」
驚きを含みながらもその穏やかな声に安心させられる。前城が連続殺人犯だった事より、樹の父親であった事の方が、鳴子にとって重要視すべき事なんだろう。
「これがその五千万円です。出所がまだ分からないので、もしかしたら警察から提出を求められるかもしれないんですが、とりあえず鳴子さんに預かって頂きたいんです。これは樹の意志でもあります。今の樹にとって家族と言えるのは鳴子さんだけなんで」
「……家族? あの子に、それに辻山さんにまで、そんなふうに言って貰えるなんて、あたしは幸せ者ね。このお金は責任を持ってお預かりさせて頂きます。……それであたしからも辻山さんにお願いがあるの。今日これからって何か予定ありますか?」
「えっ? 特にはありませんが」
「ああ、良かった。ほら、この間の三丁目のホテルあるでしょ? あそこに今すぐ行って欲しいのよ。今日は部屋だけじゃなく、レストランも予約してあるのよ。カズキに、いえ、樹に先に行かせたから大丈夫だとは思うんだけど、もう予約の時間は過ぎているの。だから早く行ってあげて頂戴」
「えっ?」
全く思考が追い付かない。
「もう早く行ってあげてよ。辻山さんも樹の事は気に入っているって、言ってくれていたじゃない。今日一晩あの子の側に居てあげて欲しいの。あの子も満更じゃないみたいだし。あたしみたいなおばさんが一晩寄り添ったって有難くないでしょ? だから早く行ってあげて。あ、フレンチよ」
鳴子に背中を押され店を追い出される。さっき胸を刺した棘を見透かされているような気分だ。それでも鳴子の計らいを断る理由なんてどこにもない。
もし二丁目でまた何か事件が起きたとしても、それは明日考えればいい事だ。今は鳴子に甘え、御苑大通りを越え、樹が待つ三丁目に向かうだけだ。だが人はこれを予知だと取るのだろう。
——もし二丁目でまた何か事件が起きたとしても。
ふと浮かんだ考えが現実となる。
三丁目のシティホテル。樹と過ごしていた夜に前城一樹は死んだ。御苑大通りの向こう、二丁目のあの新宿公園で前城一樹は死んだ。
Chapter 5 『ミュージック・ボックス』 終
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