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Chapter 1 『苺とチョコレート』

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 その夜の新宿二丁目は局地的な豪雨に見舞われ、金曜日の終電前だと言うのに往来をまばらにしていた。毎夜の事でもあったが、仲通りで客を溢れさせていたのは、外国人が集うショットバーだけ。人通りが疎らな理由は感染症の煽りを、もろに受けての事でもあったが、やはり何度となく襲い掛かった集中豪雨が一番の要因だったのだろう。

 そんな夜に起こった殺人だ。被害者の発見が朝になった事も頷けるし、人目に付かず成し遂げる事が可能だったのかもしれない。

 新宿公園で見つかった、三十代の男の死体は二体。同じ三十代ではあるし、この新宿二丁目で起こった殺人だ。もしかすればどこかで見た事のある顔かもしれない。だがその二体の頭部に誰かの顔を当て嵌める事は出来ない。頭部にぽっかりと黒い穴が開いたような、二つの死体を頭の隅に浮かべながら、カウンターの椅子に腰掛け、目の前のグラスに口を付ける。

「……って、何で俺がカウンターに入って、秀三ひでみさんが座って飲んでいるんですか?」

 ついさっきまで殺人事件の概要を語っていた長谷沼君生はせぬまきみおが、洗い終えたグラスの滴を振り落としながら、鋭い眼球を向けて来る。鋭いと言っても、それは二十代の青臭いもの。そんな眼球にはぴくりとも怯む事は出来ない。

「あら、びっくりした。君ちゃんもそんな怖い顔できるんだ。さすが刑事さんね」

 からかう口調で君生をあおるのは、この店の常連、新井直樹あらいなおきだ。そんな直樹がカウンターの下に潜り、床に置いたデリバリーバッグをあさる。

「あっ、あった、あった。はい、君ちゃん、あめちゃんどうぞ。糖分が足らないから、そんな怒りっぽくなるんじゃないの」

 再びのからかう口調に君生の目が直樹を捕えている。ただその眼球にあった鋭さは消え、態度と同様に不貞腐ふてくされたものに変わっている。

「まあまあ。糖分が足らないなら、何か甘いカクテルでも作って飲めよ。サービスしてやるからさ」

「秀三さんに言われなくても戴きます」

 君生が冷蔵庫から牛乳を取り出し、氷を入れたグラスに苺のリキュールを注ぐ。

「苺なんだあ、やっぱり君ちゃんって、ウケなんじゃないの? 立派なドネコちゃんね」

 直樹が三度からかう。

「立派なドネコって、何度も言いますけど。俺、ゲイじゃないですからね。ウケとかネコとか、そんなんじゃないですから」

 不貞腐れた眼球で大きな光を放ちながら、君生が直樹に迫る。

「あっ、そうだった。君ちゃんは自称ノンケだったわよね」

「自称って、俺は全くのストレートです。それより何で苺のリキュールを飲もうとしただけで、ウケとかネコになるんですか?」

「ああ、それはね。映画の話なの。昔、『いちごとチョコレート』って言う映画があって、キューバの映画で、同性愛をテーマにした映画だったんだけど、そこでチョコレートは男性的な、苺は女性的な、要はオカマなんだけど、まぁ、苺はオカマのシンボルって事」

「ああ、そう言えば——」

 新宿公園での殺人事件などすっかり忘れ、数日前、目にしたチョコレートのリキュールを思い出す。

「あれって、直樹の土産だっけ? あの棚のチョコレートリキュール」
 
 指差した黒いボトルに、「そうそう」と直樹が首を振る。

「モーツァルトね。ウィーンで買ったのが家にあって、そう言えば前に持って来ていたわね。モーツァルトって名前のチョコレ……」

「おい、君生。そのリキュールを牛乳で割ってくれ」
 
 直樹の説明も聞き終わらないうちに、指差したボトルへ君生の首を動かす。

「あ、はい」

 素直にうなずく君生。これでれた話を、新宿公園での殺人事件に戻せそうだ。


 確かにここは新宿二丁目のバーではあるが、君生が事件を口にすると言う事は、何かしらの相談があるに違いない。この黒川第一ビルの一階。BAR『探偵物語』と書かれた看板もあるが、その左横には『辻山秀三つじやまひでみ探偵興信所こうしんじょ』の看板がある。どちらの看板もこの店の事だ。ビルのオーナーである黒川晶が勝手に設置した看板ではあるが、バー兼探偵興信所である事は間違いない。

 刑事なら自分で何とかすればいいものを、君生は頻繁にここを訪れて来る。そんな君生が口火を切った事件が新宿公園での殺人事件だ。苺も、チョコレートも今はどうでもいい話であって、重要視すべきは新宿公園での殺人事件だけだ。いや、その前にもう一つ。誤解が生まれる前にクリアにしなければならない話がある。もし誤解を生んでしまえば、探偵と言う立場でありながら、誤解した奴の首を絞めかねない話だ。

 辻山秀三。この名前はヒデゾウではない。秀三と書いて、ヒデミと読む。もしもヒデゾウなんてジジ臭い名前で呼ぶ奴がいれば、速攻首を絞めてやるところだ。重要視すべきは新宿公園での殺人事件だが、最重要視すべき事がこの名前である事も間違いない。だが一先ひとまずこれでクリア出来たのであれば、いよいよ本題。新宿公園での殺人事件に進める。

 言われた通りのチョコミルクを作った君生へと鋭い視線を投げる。普通の刑事ならその合図で悟る事も出来るだろうが、君生は普通の刑事ではないようで、すかさず苺ミルクのグラスに口を付けている。

「おい、君生!」

 大きな声を出してみるが、君生はグラスから口を離さない。既に酒が回ったのか? と、その顔を見上げてみたが、赤くなっている様子はない。

 長谷沼君生は去年の春までペアを組んでいた新宿東署の刑事だ。刑事という立場でありながら、今も後輩面こうはいづらして、事在ことある毎にここを訪れてくる。刑事を辞め、探偵家業に足を突っ込み、この新宿二丁目でバー兼探偵興信所を構え、刑事でも先輩でもペアでもなくなった今も頼られる事は、面倒でもあったが、喜ばしい事でもあった。

 刑事を辞めた後も、後輩として慕ってくれる事が嬉しいのではなく、事件に首を突っ込む事で、拾える依頼もあるからだ。

「——で、さっきの話だ。さっきの新宿公園の事件。もっと詳しく聞かせろ」

「えっ? もしかして秀三。事件に首突っ込もうとしているの?」

 直樹が空になったグラスを指で弾く。

「君ちゃん、あたしもモーツァルト。秀三と同じチョコミルク」

 モーツァルトと言う音楽家は誰でも知っているが、そんなモーツァルトの名前を冠したリキュールなんて、誰もが知っているものではない。直樹の口を介さなければ、知る事などなかったモーツァルトリキュール。直樹の常識はとても広く、そんなくだらない知識であふれている。

 直樹とは高校の同級生であり、三十代前半の頃、ばったりこの新宿二丁目で再会した。当時は旅行会社に勤め、いわゆるツアコンとして世界中を飛び回っていた。その頃は誰も失業するなんて思いもしなかったが、感染症の煽りを受け、あっという間に直樹は無職になった。長引く感染症蔓延まんえんの中、右往左往した挙句、今はフードデリバリーで生計を立てている。そんな状況の人間から金を取れるはずもなく、タダ酒を飲ませてやっていたが、いつの間にかそれを当たり前とし、毎晩直樹は足を運んで来るようになった。

「——それで新宿公園の事件の話だ」

「えっ? さっき話した通りですよ。新宿公園の公衆トイレで、先週の土曜の朝、三十代の男の死体が二体発見されたんです。発見されたのは土曜の朝でしたけど、死後、七、八時間は経っていて……」

「通報は何時頃だったんだ?」

「えっ? 朝の六時ですよ。感染症予防の対策で新宿公園は夜の九時から朝の六時まで鍵が掛けられているんです。区の管理人が鍵を開けるため、公園へ来た六時前に発見されたんです。朝から管理人もびっくりですよね」

「鍵は掛かっていたのか?」

「いや、壊されていたそうです。と、言っても南京錠なんでそれ程、損害費用は出ていないみたいですけど」

「それで、死因は?」

「ナイフで胸は刺されていたんですけど、首にも絞められた跡があって。でも二人とも抵抗した跡は見られなくて、大人しく殺された感じです」

「大人しく? 薬でも飲まされて眠らされていたのか?」

「いえ、薬物の痕跡は見られなかったですね」

「で、身元は割れているのか?」

「所持品から割れていますよ。一人は今野陽介こんのようすけ、三十六歳。もう一人も同じ三十六歳で高橋潤たかはしじゅんです」

 土曜の朝に発見されたのなら、まだ殺害されて四日目だ。大して捜査に進展などもなく、誰が殺ったのかなんて、到底行き着いていないのだろう。君生自身それ以上の情報を持っていないようで、再び苺ミルクを口にしながら、すっかり話し終えた顔をしている。

「ねえ、君ちゃん。まだ犯人も分かっていないし、捜査の途中なのに、こんな所で飲んでいる暇あるの? その事件、君ちゃんの署の管轄なんでしょ?」

 心配事を口にする直樹の表情は母親そのものだ。男ではあるが、直樹もこの町の住人。今に始まった事ではないが、君生に母性を示しているのだろう。

「ちゃんと捜査しましたよ。新宿二丁目の、新宿公園で発見されたんです。この辺りの店の客かもって、開いている店はかたぱしから当って来ました」

「おい。片っ端って、お前。この二丁目にどれだけの店があるか分かっているのか。こんな所で油売っていないで、早く捜査に戻れよ」

 つい口を突いた言葉は直樹のような母性からではない。刑事を辞めて一年近く経つと言っても、後輩はやはり後輩だ。君生の立場を考えれば、いつまでもこんな所で飲ませておく訳にもいかない。

「もう大丈夫ですよ。去年、いや、もう一昨年からですよね。町の様子はすっかり変わっちゃって。二丁目も一緒です。閉まっている店もまだ沢山あるんで、片っ端からって言っても、開いている店を回るくらい、そんなに時間掛かんないです。土曜日だけは何とか客足も戻って来たけど、それ以外はさっぱりだって聞きました。……それに永井さんにはとっくに帰られちゃったんで、今日はもう飲んでいていいんですよ」

「永井さん? 永井さんって、あの万年巡査部長の永井さんか?」

「そうですよ。秀三さんが辞めちゃって、俺が永井さんとペア組む事になったんです。永井さん、全く出世に興味のない人だし、何があっても時間になったら帰るんです。ここ数カ月は特にひどいです。時計見て、じゃあって、帰って行くんですよ。俺一人残されたってどうしようもないし。あと十年位ですかね、指折り、定年の日を待っているだけの人です。そんな人と組まされたもんだから、俺の評価まで下がっちゃいますよ」

「お前なあ、その言い方はないだろ。お前の評価なんか元々大した事ないんだ。それなのに……。、永井さんは大先輩だろ? その大先輩に向かって何だ」

「そうですけど。でも、秀三さんの一応って言い方も失礼ですよ」

「まあまあ、どの世界にも、そんな人はいるわよ。それより今日も二丁目の店回って聞き込みしていたんでしょ? それならここでも聞き込みしなさいよ。もしかしたら秀三やあたしが知っている人物って事もあるし」

 ほんの数分前だ。首を突っ込もうとしているのかと呆れていた直樹が、正にいま首を突っ込もうとしている。呆れた目を返し、首を傾げてみる。だがこちらの素振りなど気にも留めず、君生が取り出したばかりの二枚の写真をすでに手中に収めている。

「こっちの写真が今野陽介です。右の男が今野で、左の女性は離婚した元奥さんで、あっ、元奥さんにはアリバイがありました」

「結婚していたなら、今野はノンケなのか? それなのにどうして、こんな新宿二丁目なんかで殺されていたんだ」

「隠れゲイなんて沢山いるじゃない。それに離婚したなら、ただ単に遅咲きのゲイだったのかも。で、あたしは見覚えないかなあ。秀三はどう?」

「ああ、俺も見覚えはない」

「それでこっちの写真が高橋潤です。右の男が高橋で、左の女性は離婚した元奥さんで、高橋の元奥さんもアリバイありです」

 今野陽介と元妻、そして高橋潤と元妻が映ったそれぞれの写真を君生へと戻す。どちらの写真も絵に描いたような幸せな姿だ。まだ夫婦だった頃に撮られたものに違いないだろう。そんな幸せだったはずの二人も、今は離婚し、その片方は殺されてしまった。

「それで今野と高橋の関係は?」

「友人です。高校の頃からの付き合いだったようで、お互いの結婚式にも出席する仲です。それぞれの奥さんにも確認取れています。あっ、元奥さんですね」

「そう言えばさっき、胸を刺されていたが、首を絞められた跡がって言っていたよな」

「はい、言いました」

「で、胸は何カ所刺されていたんだ?」

「一カ所ですよ。ちょうど心臓に狙いを定めて、左胸に一カ所です」

 手にしたグラスを両手で持ち直し、高々とかかげ、君生がカウンターへと叩き下ろす。ナイフでも見立てているのだろうか。勢いよく叩き下ろされたように見えたが、すんでの所で止められたグラスが、カウンターの上でコトンと小さな音を立てた。

「そうか。それなら犯人は通りすがりじゃなく、顔見知りの誰かだろうな。それにこれが初めての殺人なんだろう」

「——やっぱりそうですよね」
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