蒼海の碧血録

三笠 陣

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第四章 マーシャル遊撃戦1944

43 スイス・ルート

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 一九四四年初頭、日本国内においてもいくつかの政治的な動きがあった。
 翌年度の戦争資源の陸海軍配分を巡って、またしても両者の対立が発生していたのである。
 この問題は一九四三年の年末以降顕在化し、特に航空機生産に欠かせないアルミニウムの配分を巡って陸海軍統帥部の対立が起こっていた。
 参謀本部は当然ながらアルミニウム配分の等分を主張していたが、軍令部は海軍の方が大型機が多いのだからという理由で優先的な配分を要求していた。
 特に海軍は、重慶攻略作戦がほぼ完遂され蒋介石政権が風前の灯火となった以上、戦略物資は海軍に優先的に配分されるべきと主張して、頑として譲歩しない姿勢を見せていた。
 実際、アメリカによる対日反攻作戦が四四年中に予測される以上、軍事的に見て海軍の主張は当然であるといえた。陸軍が資源の等分を主張しているのは、軍事的合理性からではなく組織利益の確保からであることは、明らかであった。
 首相の東條英機としても対米一撃講和を実現するためには海軍兵力の増強しかないと考えており、首相の立場としては海軍に同情的であった。しかし一方で、陸軍大将であり陸軍大臣を兼任しているという事実が、彼の立場を難しくしていた。
 この対立は、一九四四年二月になると内閣総辞職の可能性を孕むほどに激化していた。
 戦争終結という大目的のために東條と政治的共闘関係を組んでいる山本五十六海相も、この問題に関しては強硬な姿勢を崩していなかった。彼にとってみれば、海軍航空兵力の増強は対米一撃講和を実現するために必要不可欠な要素であったからだ。
 この状況を看過出来ない東條は、ここで天皇の力を借りることにした。
 自らは首相という立場を重視して「統帥問題」であるアルミニウム配分問題には関わらないようにして、内閣総辞職の可能性の芽を極力摘むように努めると共に、天皇の権威を利用して陸海軍の間に合意を形成させようとしたのである。
 結果、二月九日、杉山元参謀総長と永野修身軍令部総長が天皇に呼び出され、天皇は陸軍の重慶攻略作戦の成功に満足の意を示すことで陸軍の面子を立てるとともに、これからは太平洋の戦いこそ重要であると杉山(陸軍側)に譲歩するよう諭した。
 アルミニウム配分問題は、東條が天皇の権威を利用することで何とか解決にこぎ着けることが出来たものの、彼としてもこの手段があまり頻繁には使えないことを理解していた。天皇に政治的責任が及んでしまうからである。また、陸軍の不満がお上に向かうことだけは絶対に避けなければならない。
 そこで、東條は山本海相と謀り、これを機に国務と統帥の一本化を進めようとした。
 まず戦略物資配分問題を引き起こした両統帥部長に引責辞任を迫り、後任に軍部の統制について信頼の置ける人物を就けようとしたのである。
 ただし、ここで一つ問題が発生した。
 陸軍の方は、二・二六事件やノモンハン事変後の軍紀粛正を担当して天皇の信頼も厚い梅津美治郎を後任に推すことですぐに決まったのであるが、海軍の方は逆に信任がほとんどない末次信正を推して、また一悶着発生してしまったのである。
 東條としては、山本海相の示した末次信正軍令部総長案は、まったく意外なものであった。これならば自分とは犬猿の仲であった豊田副武を推してくれた方がまだよかったと思ったほどであったという。
 しかし、山本から末次の作戦立案能力と、海軍中堅層の末次への支持は今後の対米決戦とその後の和平工作において海軍の統制を保つために絶対に必要であると説得され、やむを得ず東條は天皇も含めた宮中勢力への根回しを始めることになったのである。
 天皇は梅津参謀総長案には即座に賛意を示したものの、末次軍令部総長案に関しては終始渋い顔を崩さなかった。山本海相を直接呼び出して、その真意を質しているほどである。
 さらに東條に対しては、もし末次を軍令部総長にするならば自分が直接呼び出して注意を与えるべきではないか、とまで言ったと伝えられる。流石にこれに対しては、天皇の海軍統帥部に対する不信の表明になりかねないと東條が天皇に懸念を伝えたため、実際になされることはなかった。
 天皇が、戦争遂行と一撃講和実現のために末次の作戦立案能力が必要であるという山本の説得を受入れたのは、二月も下旬に差し掛かる頃であった。
 結果、二月二十一日に梅津、末次両統帥部長が新たに任命され、大日本帝国の戦争指導体制は新たな局面を迎えることになったのである。
 なおこの時、末次に直接注意することを断念せざるを得なかった天皇は、同日中に首相兼陸相の東條英機、海相の山本五十六も含めた四名を呼び出し、国務と統帥は連携を密にして大東亜戦争の遂行と戦争終末促進を図るように、との言葉を与えることで、末次への牽制とした。

  ◇◇◇

 その日、皇居から首相官邸に帰った東條英機の顔は、明らかに精神的な疲れを滲ませたものであった。

「山本海相、あなたの無茶もこれっきりにしてもらいたいものですな」

 明治宮殿を退出後、会談のために首相官邸を訪れていた山本五十六海相に対して、東條は皮肉を零す。

「毒を食らわば皿まで、ですよ、首相。流石に私も、末次閣下を無条件で信頼しているわけではありません。しかし、対米戦遂行のためには、彼の能力が必要なのです」

「末次総長については、海相も十分に注意していただきたい。彼は統帥部長です。みだりに国務について口出しされては迷惑千万です」

「もちろんです。私だって、このような事態でなければあの方を総長にすることには反対していたでしょう」

 海軍の人材不足を嘆くような響きが、山本の口調には宿っていた。
 とはいえ、東條の属する陸軍も、そうした意味では海軍と大差はない。

「それで、山本海相。スイスの件は如何取り計らうべきだと思いますかな?」

 あまり愚痴の応酬をしていても仕方がないと思い、東條は今日の会談目的の話題に斬り込んだ。

「私としては、本格的な使節団をスイスに送り込むことが適当であると考えます」

「それは、あなたではなく重臣連中の意見では?」

 東條は眼鏡の奥から鋭く山本を睨み付けた。首相である彼にとってみれば、重臣もまた徒に国政を掻き回す迷惑な輩でしかなかったのである。
 彼は終始、大日本帝国の統治体制の分裂状態に苦しめられていたのだ。

「誰の意見であろうと、講和のための理のある意見ならば問題ないのでは?」

 一方の山本も、東條の目線に怯まずに言い返した。それに、東條は不愉快そうに鼻を鳴らした。

「……まあ、理のある意見であることは認めましょう。米国との和平交渉の端緒を掴める可能性があるのならば、という条件付きですが」

 この頃、日本では重臣と山本五十六が中心となって、スイス経由での和平の道を模索していた。
 そして極めて幸いなことに、スイスには連合国との交渉の窓口となり得る人物がいた。
 かつてドイツの兵器・技術を日本に輸出していたシンツィガ・ハック商会の共同経営者であった、フリードリヒ・ハックである。
 ハックは一九三八年、ナチス政権に逮捕されそうになったところをベルリンの日本大使館付き陸海軍武官によって助け出され、現在ではスイスにて亡命生活を送っていた。
 第一次世界大戦時に日本の捕虜となった経験から親日派となった彼は、亡命後もスイスで得た情報をベルリン大使館の海軍武官室に送るなど、日本海軍との関係は続いていた。
 そして完全なる偶然の一致であるのだが、山本五十六とフリードリヒ・ハックとの間には面識があった。
 一九三四年、第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の全権となった山本五十六は、帰国の途上、ハックからの接触を受けていたのである。
 それは日独提携が可能かどうかという探りを入れるための接触であり、ハックは山本・ヒトラー会談を実現するため独外相リッベントロップの密命を帯びていた。
 結局、日本側が英米にドイツに接近しているという印象を与えたくなかったために、山本とヒトラーの会談は実現しなかったが、その代わり山本はハックの仲介によってリッベントロップ外相や当時海軍軍令部長であったレーダー大将との会見を行っている。
 そのハックが、日本側に対して連合国との早期和平を呼びかけてベルンで盛んに活動していたのである。
 一九四四年初頭の段階において、ハックはベルリンの日本大使館海軍武官室だけでなく、朝日新聞特派員の笹信太郎、スイス公使館職員の田口二郎、横浜正金銀行ベルリン支店勤務の北村孝治郎とも繋がりを持っていた。
 さらに人の縁とは面白いもので、ハックは大学時代、アメリカのOSS(戦略情報局)ベルン支局長を務めるアレン・ダレスの部下、ゲロ・フォン・シュルツ・ゲフェルニッツの父親の教え子であり、かつての教授の息子を通じてアメリカ側にも人脈を持っていたのである。
 ただし、それ故にハック自身は情報提供者としての身動きが取りにくくなっているという面もあった。
 アメリカに情報を流せばナチス政権から自身を救ってくれた日本を裏切ることになり、日本に情報を流せば恩師の息子を裏切ることになる。
 だからハックは現在、和平交渉の仲介役となることで両国の間を取り持とうとしていたのであった。
 一方、ハックとは別の経路で、アメリカとの繋がりを持つ者たちもこの当時のスイスにはいた。
 第一次世界大戦で敗れたドイツの賠償金支払いを援助するために設立された国際決済銀行のスウェーデン代表ペール・ヤコブソンもまた、ダレスとの繋がりを持つ者であり、この国際決済銀行には北村の東京帝大時代の後輩である吉村侃がいた。吉村はヤコブソンから日本の和平を説かれており、彼はスイス駐在陸軍武官である岡本清福少将に対して本国に和平を打診するよう説得を続けていた。
 またしても人の縁とは奇妙なもので、岡本は関東軍司令官時代の梅津美治郎の部下であった。
 つまり梅津の参謀総長起用によって、東條内閣はスイスでの外交交渉についてハック―ベルリン大使館海軍武官室―山本という外交チャンネルと、ヤコブソン―吉村―岡本―梅津―東條という外交チャンネルの二本を持つことに、図らずも成功したといえるのである。
 これだけでも、対米戦争解決の糸口を探っていた日本にとっては、大きな前進であった。
 とはいえ問題は、こうして得た外交チャンネルを如何にして活用するか、ということであった。
 正直、東條としては軍部内の強硬派にも、重臣連中にも、このスイス・ルートに関して茶々を入れてもらいたくない。
 だからこそ、こうして首相官邸にて山本五十六と密談めいた会合の場を設けたのである。

「とはいえ、最近になってスイス・ルートに問題が生じていないわけではありません」

「ナチス政権の高官もまた、スイスでの活動を開始しているという話でしたな?」

 山本と東條は互いの下に届く情報の摺り合わせを行った。

「現地の海軍武官からの報告では、国家保安本部第六局局長のヴァルター・シェレンベルクなる人物が密かに動いているとのことです」

 詳細について彼ら二人は知るよしもないことであったが、国家保安本部第Ⅵ局局長のヴァルター・シェレンベルクもまた、連合国との和平に向けて動き出していたのである。
 ナチスの対外情報機関を統べるこの男は、情報提供者として繋がりのあるマックス=エゴン・ホーエンローエ=ランゲルブルクを使者にして、アレン・ダレスとの接触を図っていたのであった。
 ドイツの名門貴族ホーエンローエ家の出身であるこのシェレンベルクの協力者は、ズデーテン地方に家が持つ莫大な不動産を守るため、ドイツが連合国に敗北することなく、講和の道を開くことを望んでいた。

「シェレンベルクなる人物の名は、スウェーデンの小野寺武官からの報告にもありましたな。どうやらいくつかの中立国で活動しているようで。私は、ドイツが我が方の和平工作を妨害しようとしているのではないかと疑っているが、山本海相の見解は如何か?」

「現状では何とも言えません。もしかしたら、こちらの和平交渉に一枚噛んで、枢軸国と連合国の全面講和を目論んでいる可能性も否定出来ません。今後の動向には注意を払っておく必要があるでしょうが」

「同盟国には不義理となるだろうが、連合国との早期講和は陛下の御意思である。そうであるならば、いかにドイツといえど我々の工作を妨害させるわけにはいきませんな」

 天皇に忠実であろうとする、東條らしい発言であった。
 実際問題、日独伊三ヶ国は単独不講和条約を結んでおり、日本だけが連合国と講和を結ぶことは条約違反であった。しかしこの際、やむを得ないことと割り切るしかないと彼は考えている。
 陸軍内部の親独派の反発は必須であろうが、別にドイツのために日本があるわけではないのだ。
 そのために例え自分が泥を被ることになろうとも、陛下の平和愛好の御意思を実現するためならば構わないとすら思っている。

「やはり、ドイツに妨害の隙を与えないためにも、アメリカに対してこちらが本気であることを示すためにも、使節団を送るべきでしょう」

 東條の言葉に付け入る隙を見つけたのか、山本は断乎たる口調で主張する。

「やむを得ませんな」東條は渋々といった調子で同意した。「それで、山本海相。使節団の構成については、何か腹案でもおありですかな?」

「使節団の表向きの代表は、近衛公閣下を考えています」

 近衛の名が出た途端、東條は渋い顔になった。首相時代の近衛文麿の指導力のなさ、優柔不断ぶりを陸相の立場から見てきた彼にすれば、そうした表情になるのも当然であった。

「まあ、話は最後まで聞いて下さい」

 山本自身も近衛文麿という人選に疑問を覚えていないわけではないが、言葉を続ける。

「実際に現地に行って連合国の要人たちと接触するのは、随員の名目で派遣する外交官たちです。元駐英大使で、今は待命大使となっている吉田茂を筆頭に、欧州で大使・公使経験のある三、四の外交官を公に付けて、スイスにいる連合国の要人、ないしは彼らと繋がりのある人間たちに接触させるのです」

「吉田は重臣連中との繋がりが深すぎて、連中の傀儡となっているとは思わないのですかな?」

 吉田茂は親英米、反独派として、陸軍の親独派からは受けが悪く、広田弘毅内閣の組閣の際、外務大臣就任を予定していながら、当時の寺内寿一陸相の反対によって駐英大使にならざるを得なかったという過去がある。
 しかし、東條が問題視しているのはそうしたことではなく、彼が内大臣・牧野伸顕の女婿であるという点であった。憲兵隊からの報告でも、吉田茂が密かに重臣を中心とする和平派と接触していることは判明している。また、目の前の山本五十六とも繋がりがあることも判っている。
 吉田は、東條の嫌う重臣たちとの繋がりが深すぎるのだ。

「しかし、吉田の和平への意志は強固です。近衛公よりも、余程頼りになる存在だとは思いませんか?」

「……」

 そう言われては、東條としては黙るしかない。正直、戦争終結を望む天皇の意思を実現するための使節団の代表として、近衛文麿は経歴と家柄以外はまるで頼りになりそうもない。使節団長としての彼に求められているのは、その能力ではなく元首相経験者でかつ公爵という社会的地位によって英米の注意を引くことなのだ。
 そうなれば必然、その随員には強固な和平への意志を持つ人間を付ける必要がある。
 ある意味で、憲兵隊に目を付けられながらも和平工作を続けようとする吉田の強い意志は、東條としても認めざるを得ない。

「……毒を食らわば皿まで、ですか」

 先ほど、山本が言っていた言葉を東條は繰り返した。

「それで、他の候補は?」

「あなたの内閣の下で『早期講和』を唱え続けていた東郷茂徳」

 東郷は東條内閣で外相を務めていたが、外務省の権限を奪うことになる大東亜省の設置に反対して、一九四二年九月で辞任していた。現在では貴族院議員を務めている。
 ただ、日米開戦を止められなかった外務大臣として、吉田茂はこの外務省六期後輩に批判的であった。

「あとは、かつて林銑十郎内閣の下で対英米関係の改善を目指した佐藤尚武。現在は駐ソ大使を務めていますが、陸軍の一部には独ソ和平の見込みがないと主張する彼の更迭論が出ているそうですね? いっそ、この機会に駐ソ大使は別の人間に交代させては?」

「辞められたとはいえ、東郷さんの粘り強い交渉手腕は私も認めるところです。佐藤大使の人柄については、私個人は詳しく存じ上げていませんが、外相時代に日英関係に好転の兆しがあったことは記憶しています」

「まあ、あと一人か二人は加えたいところですが」

「陸海軍からの随員はどうしますか? もっとも、下手な人物を入れてスイス工作をひっくり返されても困りますが」

「かといって、入れないとなれば反発を生むでしょう。特に、主戦派の人間からは外交官だけで戦争終結を決めることを『統帥権の干犯』として攻撃する可能性があります。かつてのロンドン会議のように」

 東條と山本は悩ましげな息をついた。

「山本海相、どうせあなたの中で使節団に吉田茂を入れることは確定なのでしょう?」

「ええ、この点は譲れないと思っています」

「ならば、陸軍随員は酒井鎬次予備役中将を推します。酒井予備役中将は、当然、山本海相ならばご存じでしょう?」

 腹を括った声音で、東條は言った。その発言内容に、山本は一瞬だけ目を見開く。

「……ええ、知っていますとも」

 現在、参謀本部付きとなっている酒井鎬次予備役中将は、陸軍内部でも和平派の筆頭格として知られ、裏では近衛文麿、富田健治(貴族院議員で近衛の側近)、細川護貞らとも繋がっていた。吉田茂と繋がりのある山本は、当然ながら酒井鎬次が和平運動に関わっていることを知っている。
 一方で、東條と酒井は関東軍時代から対立しており、特に毒舌家の酒井は東條の戦争指導を手厳しく批判していた。
 それ故に、自身の批判者を徹底的に嫌い抜く性格の東條が、酒井を推したことが山本には意外だったのである。あるいはこの機会に邪魔者を国外追放してしまおうという思惑でもあるのではないか、と勘ぐってしまうほどであった。
 とはいえ、悪い人選であるとは思わない。近衛使節団を和平派で固められるのは、山本にしても願ったり叶ったりである。

「では、海軍としては長谷川清大将を推します」

「なるほど。人選としては妥当ですな」

 長谷川清は現在、台湾総督を務めている海軍軍人である。その人柄の良さは万人が認めるところであり、一九三七年の第二次上海事変の際、米砲艦パネー号を誤爆してしまった「パネー号事件」の対応を素早く行い、日米関係を破綻させることを防いだ優れた交渉手腕の持ち主でもあった。
 海軍内部でも親英米派に属しており、主義主張の点でも問題ない。

「ただ問題は、長谷川大将が現役の台湾総督であるということですな」東條は言った。「これまで二代、台湾総督は海軍から出ています。そろそろ陸軍からも出せ、となれば後任人事でまた一悶着起こりませんかな?」

「まあ、最初の頃の台湾総督は皆、陸軍から出されていましたからな。さもありなん、です。とはいえ、アルミニウム問題で陸軍の面子を潰してしまった直後です。ここは陸軍に譲歩しますよ」

「それならば陸軍も収まるでしょう。陸軍内部でも、台湾防衛のための指揮系統の一本化のため、総督と台湾軍司令官の兼任をと叫ぶ者がおりますからな」

 とりあえず、スイスへの使節団派遣問題は上手くまとまりそうな流れに、山本は内心で安堵していた。
 ただし、使節を派遣しても、肝心の和平案がなければ使節も上手く機能しないだろう。

「それで、次は、使節団に持たせる訓令……まあ、この場合は極秘の政府指令ということになるでしょうが……を策定しなくてはなりません。首相の方で何か腹案はおありで?」

「そもそもの問題として、和平交渉に入るにはレイキャビク会談で出された無条件降伏の撤回が大前提です。まずはその交渉からでは?」

「……そうですな」

 ようやく使節団を派遣出来そうな運びとなり、気が逸っていたことを山本は認めざるをえなかった。
 アメリカとイギリスが共同で発表した、日独伊に対する無条件降伏要求。
 これを撤回させない限り、そもそも和平交渉への道が開けないのだ。当然、スイスに使節団を派遣し、首尾良く連合国の要人と接触出来たとしても、彼らから要求されるのはそれであろう。
 そうなってしまっては使節団を派遣した意味もなくなり、かえって交渉の不可能を悟った主戦派が勢いづく結果を生むだけである。

「彼らに無条件降伏要求を撤回させるためには、やはりどこかで決定的な一撃を与える必要がありましょう」

「一撃講和、やはり本格的な交渉に入る前に軍事的勝利は欠かせませんか」

 山本の言葉に、東條は嘆息するように応じた。とはいえ、気持ちは山本も判らなくはない。
 空母を取り逃がした真珠湾を別にすれば、アメリカ艦隊はソロモンとインド洋で、二度、壊滅している。それでもなお、彼らは戦争を継続することを選んだのだ。
 アメリカの工業力を知悉している山本からすれば、彼らの選択肢は納得出来るものだった。時が経てば相手国を圧倒出来る戦力を手に入れられる国家が、そう簡単に講和を結ぼうと思うだろうか?
 現状、日本はそうした状況に置かれているのである。
 逆にいえば、日本を圧倒出来るはずの戦力が壊滅的打撃を受けた時、アメリカは初めて日本との講和を考え始めるだろう。
 それが現在、山本が推進する中部太平洋での日米決戦構想であった。

「しかしながら、それまでせっかく開きかけているスイスの窓口を放置するわけにもいきますまい。米軍に決定的一撃を与えたらすぐに交渉に入れるよう、今から使節団を派遣する意義はあります」

 東條首相の気分が消極的な方向に傾かないよう、山本は強い口調で断言した。

「まあ、山本海相のおっしゃる通りですな。それで、訓令の件ですが、恐らく陸軍では現状、満洲国の承認と南京政府の承認、最低限これが認められない限り、納得しないでしょう」

「やはり開戦の時と同じく、支那問題に回帰せざるを得ませんか」

「支那事変の拗れが、極論すれば対米開戦の要因ですからな」

 昭和十六年の日米交渉において、中国からの撤兵問題の陸軍側当事者であった東條は、そのことをよく理解していた。

「日華同盟条約に基づいて考えれば、我が軍は支那事変が解決次第、中華民国の領土から撤兵することになっています。さらに、南京政府との間では不平等条約を解消している。昭和十六年のハル・ノートの内容から考えても、『支那からの全面撤兵』と『支那の治外法権と租界の撤廃』という条項は満たしており、後は米国が汪兆銘政権を承認すれば万事解決します。撤兵・不平等条約問題と汪兆銘政権の承認問題を交換条件とすれば、この点に関しては交渉をまとめる見込みは立ちましょう」

 希望的観測かもしれないが、東條はそれを自覚しつつ言った。

「確かに。米国にしても、対米開戦時と比べて大幅に弱体化した蒋政権は持て余していることでしょう」

 山本は東條の発言に若干の疑問を覚えないでもなかったが、それでも彼の発言が大幅に間違っているとも思えなかった。

「すると問題は満洲国ですか。ハル・ノートにある『支那からの全面撤兵』には、満洲国も含まれるのでは?」

「……だからこそ、対米開戦を決意したのですよ」

「ならば、米国がそれを認めるわけがありませんな」山本はきっぱりと断言した。「蘭州政府か南京政府かの問題はあるにせよ、対米和平交渉を開始するための最低条件はハル・ノートと考えるべきでしょう」

 これは山本自身の意見というよりも、吉田ら重臣に連なる和平派の意見であった。それを、彼は代弁しているに過ぎない。

「少なくとも、ことここに至っては、無条件降伏からハル・ノートに条件を変更させられるだけでも、帝国にとって大きな外交的成果と捉えるべきです。帝国にとって重要なのは、帝国そのものであり、満洲国ではありません」

「……講和の条件については、後ほど重光外相も呼んで検討しましょう」

 苦い顔のまま、東條は逃げに走った。
 彼は首相として戦争終末促進を図らねばならない立場と、陸軍の代表者としてその組織利益・面子を守らねばならない立場との間で、板挟みになっているのだ。

「佐藤大使をモスクワから呼び戻し、後任の大使も決定しなければなりませんからな」

「判りました」

 今日のところはスイスへの使節団派遣について合意が出来たことだけでも十分な成果だろうと思い、山本も引き下がることにした。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 その日の夜、山本は早速、永田町にある吉田茂の自宅を訪れていた。

「とりあえず、東條にスイスへの使節団派遣について合意させることには成功しました。後は和平の条件について、詰めることになります」

「ふむ、何も進んでいなかった一年前に比べれば、大きな前進ですな」着物姿の吉田は、山本の言葉に重々しく頷いた。「しかし、これで和平交渉に道が開けたわけではありません。まだ我々は半歩、前に踏み出したに過ぎない。和平交渉を取り巻く国際環境は、私とあなたが初めて会談したときよりも悪化しているのです」

「無条件降伏要求のことですな?」

「私としても、現状でこのような条件を受入れるのは反対です。満洲国やその他がどうなろうと知ったことではありませんが、陛下を頂点とする国体だけは護持しなければなりません」

 吉田もまた、東條と同じように皇室尊崇の念を持つ人間であった。

「……まあ、それにしても私に東郷さんに佐藤さんですか。スイスで掴み合いの喧嘩でも起こらなければいいのですが。そうなれば、日本は世界の恥さらしです」

 どこか皮肉げに、吉田は言った。

「私はあなた方の人選を東條首相に伝えただけですよ」

 山本は、皮肉られたことが不満そうであった。

「いや、これは失礼」吉田は皮肉な笑みを隠さずに言った。「駐在経験や能力だけで選んだものですから、人間関係は二の次にしてしまったのです。私は未だ、東郷くんの開戦決断には納得していませんし、佐藤くんもあの時、東郷くんに再三苦言を呈しています。まあ、皆さん外交官としての能力は高いですよ。ええ、開戦前後の東郷くんを除けば」

 それを繰り返すあたり、余程この老人は腹に据えかねているのだろうと山本は察する。

「まあ、とりあえずスイス行きの準備はしておきますよ。ところで、スイスは中立国ですからハバナ産の葉巻は手に入りますかな? どうにも開戦からこの方、あれが手に入らなくなって困っているのですよ」

「マニラ産のものならば、私の方で融通を利かせますが?」

「あんな安物、口に合いませんよ」

 吉田は軽く手を振った。

「まあ、私たちがスイスに行っている間、国内のことは頼みますよ。どうも最近、重臣方の間では、山本海相が東條に取り込まれて、ミイラ取りがミイラになったと言う者もいるくらいですから」

「私の志は変わっていません」そう言われたことに、山本は不快げな表情を見せた。「ただ、現状では主戦派を抑えるのに、東條内閣だと好都合だと思っているだけです」

「まあ、統制力という点ではあの首相はピカ一でしょうな。戦争指導者としての資質はともかくとして」

 吉田の皮肉には、遠慮というものがなかった。だが、直後にその皮肉な笑みを引っ込めると、表情を引き締めた。

「ここから先は、外交と軍事の両面で当たらねばなりません。英米から無条件降伏要求を取り下げられるか否かは、山本海相、あなた方に掛かっているのですから」

 もっとも、負けたら負けたで、その時は別の考えで英米との交渉に当たらねばならないと吉田は覚悟していた。ミッドウェーでの敗戦を知る彼は、帝国海軍が必ず勝てるとは考えていないのだ。
 とはいえ、それを口に出して山本との関係にひびを入れるわけにもいかなかった。

「ええ、我々も米軍の反攻を阻止すべく、戦力を増強中です。ですからあなた方使節団には、機を逃さずに交渉に入れるよう、準備を怠らないでいただきたい」

「いいでしょう。帝国の未来のために、互いの健闘を祈りましょう」

 軍人と外交官、立場のまったく違う二人の人物は、互いに力強く頷きあった。
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架空戦記ファンが一生に一度は思うこと。 『もし日本に最初から2000馬力エンジンがあったなら……』 よろしい。ならば作りましょう! 史実では中途半端な馬力だった『火星エンジン』を太平洋戦争前に2000馬力エンジンとして登場させます。そのために達成すべき課題を一つ一つ潰していく開発ストーリーをお送りします。 そして火星エンジンと言えば、皆さんもうお分かりですね。はい『一式陸攻』の運命も大きく変わります。 しかも史実より遙かに強力になって、さらに1年早く登場します。それは戦争そのものにも大きな影響を与えていきます。 え?火星エンジンなら『雷電』だろうって?そんなヒコーキ知りませんw お楽しみください。

皇国の栄光

ypaaaaaaa
歴史・時代
1929年に起こった世界恐慌。 日本はこの影響で不況に陥るが、大々的な植民地の開発や産業の重工業化によっていち早く不況から抜け出した。この功績を受け犬養毅首相は国民から熱烈に支持されていた。そして彼は社会改革と並行して秘密裏に軍備の拡張を開始していた。 激動の昭和時代。 皇国の行く末は旭日が輝く朝だろうか? それとも47の星が照らす夜だろうか? 趣味の範囲で書いているので違うところもあると思います。 こんなことがあったらいいな程度で見ていただくと幸いです

戦争はただ冷酷に

航空戦艦信濃
歴史・時代
 1900年代、日露戦争の英雄達によって帝国陸海軍の教育は大きな変革を遂げた。戦術だけでなく戦略的な視点で、すべては偉大なる皇国の為に、徹底的に敵を叩き潰すための教育が行われた。その為なら、武士道を捨てることだって厭わない…  1931年、満州の荒野からこの教育の成果が世界に示される。

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