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幕間 1943年の断片
5 ろ号作戦
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セイロン島攻略作戦“雄作戦”を終えた艦隊がマラッカ海峡経由でリンガ泊地に帰還したのは、一九四三年五月六日のことであった。
沈没艦こそ少なかったものの、航空隊は消耗しており、損傷艦艇も多かった。
そのため、艦隊は内地へと帰還することになったのであるが、ここで日本国内の燃料事情が問題となった。油槽船の絶対数の不足により、内地には十分な燃料が存在していなかったのである。
内地へと帰還したところで、瀬戸内海などで各艦が訓練を行うことなどは難しかった。
そのため、主に損傷艦艇とその護衛のみをまず内地に帰還させ、その他残存艦艇は艦隊燃料の豊富なリンガ泊地に残すことになったのである。
リンガ泊地対岸にはシンガポールのセレター軍港が存在し、艦艇の整備能力には問題がなかった。
また、インド洋の制海権維持という観点からも、一定程度の艦艇をリンガ泊地に留めておく必要があった。
このため、艦載機や搭乗員の補充、新型艦載機搭載のための改装などが必要な空母、損傷艦艇を優先して内地に回航する一方、リンガ泊地に残ることになった艦艇も存在したのである。
その最大の艦艇は第三戦隊の金剛、榛名であり、損傷した翔鶴から艦載機と搭乗員を移した瑞鶴、同じように飛鷹搭載機と元飛鷹搭乗員を集めた隼鷹、さらに三航戦所属の龍鳳の三空母もリンガ泊地に残された。また第七戦隊の熊野、鈴谷、第八戦隊の利根、筑摩、第十戦隊などもリンガ泊地に留まることになった。
リンガ泊地残留艦艇の乗員の中にはむしろ内地に帰還出来る損傷艦艇を羨む者もいたというが、幸いなことに深刻な士気の低下は起こらなかった。ある意味で、勝ち戦の影響があったのだろう。
この当時、シンガポール周辺には、四月一日付けで発足した海上護衛総隊所属の第一海上護衛隊が存在していたが、それだけで南方から日本本土、そしてインド洋に至る広大な海面を担当することは出来なかった。
その意味では、一部艦艇のリンガ残留は、戦術的にも正しい措置であったといえよう。
艦隊全般の指揮は第三戦隊司令官の栗田健男中将が執ることになり、三空母に関しては三航戦司令官の角田覚治少将の指揮下に置かれた。
部隊は第一遊撃部隊と第二遊撃部隊に分けられ、インド洋の制海権確保と共にオーストラリア西岸部での通商破壊作戦を命じられていた。
第一遊撃部隊、第二遊撃部隊の編成は以下の通りである。
第一遊撃部隊 司令官:栗田健男中将
第三戦隊【戦艦】〈金剛〉〈榛名〉
第三航空戦隊【空母】〈隼鷹〉〈瑞鶴〉
第十戦隊【軽巡】〈阿賀野〉
第四駆逐隊【駆逐艦】〈萩風〉〈舞風〉〈嵐〉〈野分〉
第十駆逐隊【駆逐艦】〈夕雲〉〈巻雲〉〈風雲〉〈秋雲〉
第十六駆逐隊【駆逐艦】〈初風〉〈雪風〉〈天津風〉〈時津風〉
第二遊撃部隊 司令官:西村祥治少将
第七戦隊【重巡】〈鈴谷〉〈熊野〉
第八戦隊【重巡】〈利根〉〈筑摩〉
第十七駆逐隊【駆逐艦】〈谷風〉〈浦風〉〈磯風〉〈浜風〉
付属【空母】〈龍鳳〉
セイロン島の攻略によってインド洋北部での連合軍船舶の往来は途絶え、連合軍はベンガル湾航路、ペルシャ湾航路の使用が不可能となっていた一方、オーストラリアとイギリス本国を結ぶ喜望峰周りの航路は未だ辛うじて輸送船が往来していたのである。
そのため日独の潜水艦は主に喜望峰付近で輸送船を待ち構える作戦を取っていたが、五月以降、連合軍が大西洋方面での船団護衛の強化と対潜用護衛空母の投入を開始すると、逆に喜望峰付近の警戒が強化され、特に大西洋周りで独Uボートがインド洋に入ることが難しくなった。
そのため、インド洋南部での通商破壊作戦を強化する必要があったのである。
一九四二年八月のインド洋機動作戦“B作戦”以来の、水上艦艇を用いたインド洋での通商破壊作戦であった。
連合艦隊司令部によって、この二度目のインド洋通商破壊作戦は“礼号作戦”と名付けられた。
まず五月十八日、シンガポールでの整備と補給を終えた第二遊撃部隊がリンガ泊地を出撃した。第二遊撃隊司令官の西村祥治少将は昨年のB作戦にも第七戦隊司令官として参加しており、インド洋での連合軍航路に精通していたという。
重巡利根や筑摩、そして空母龍鳳による索敵を行いつつ艦隊は南下、二十一日に独航している輸送船を捕捉・撃沈したのを皮切りにマダガスカル東方付近にまで進出。約二週間の作戦行動で輸送船九隻、護衛のスループ艦二隻を撃沈、輸送船二隻を拿捕する戦果を挙げている。
その他、潜水艦によってマダガスカル付近で多数の輸送船が撃沈されたこともあり、連合軍側ではオーストラリアからの輸送航路を大幅に見直す必要に迫られていた。だが、南太平洋でも日本軍による通商破壊作戦が続いている現状では、船団護衛のための艦艇が圧倒的に不足しており、船団の航路を更に南に下げる以外、根本的な対策は出来なかった。
そして、その対策すら限界があった。南緯五十度以南の海域は特に風浪が激しく、小型のスループ艦などでは航行に支障が出るからである。結局、船団航路の大幅な変更は不可能であった。
一方、内地から空母雲鷹がリンガ泊地に到着、隼鷹と瑞鶴は彼女から航空機と搭乗員の補充を受け、角田少将の下で六月初旬まで訓練に励むことになった。
そして六月十二日、礼号作戦の第二弾作戦ともいえる、オーストラリア西岸の港湾に対する大規模な襲撃作戦が発動された。
リンガ泊地を出撃した栗田中将率いる第一遊撃部隊は、ケンダリーの第二十三航空戦隊の一式陸攻隊と共同してオーストラリア北西部の港湾都市ブルームを空襲、連合軍の航空基地を破壊し、そのまま沿岸伝いに南下。その後も第一遊撃部隊はオーストラリア西岸の港湾をゲリラ的に空襲、アメリカ海軍が真珠湾攻撃後に行った日本の南洋群島に対する空襲を彷彿とさせるような、一撃離脱戦法をとってオーストラリア軍の追跡を許さなかった。
そして六月十七日、第一遊撃部隊はオーストラリア西岸最大の都市であるパースおよびその南西に位置する港湾都市フリーマントルへの攻撃を行う。
角田少将指揮下の空母はパース市街へと続く無数の鉄道路線や車両基地を爆撃。そして、夜の訪れを待って栗田中将は金剛、榛名によるフリーマントルへの艦砲射撃を敢行した。
フリーマントルはアメリカ海軍の大規模な潜水艦基地となっていたのだが、この艦砲射撃によって完全にその機能を失ってしまった。以後、東南アジア方面の日本軍海上交通路を狙っての通商破壊作戦は、長期にわたって停滞することになる。
第一遊撃部隊による一連の攻撃によって、連合軍は一〇〇機以上の航空機と船舶十四隻、潜水艦五隻などを失うこととなった。
これら日本海軍による通商破壊作戦と沿岸部への空襲と艦砲射撃は、オーストラリア首相ジョン・カーティンも含めたオーストラリア国民を激しく動揺させ、特に北部の都市などでは日本軍が上陸するという噂が広まって市民たちが恐慌状態に陥った例もあった。
カーティン首相は最大の支援国であるアメリカに対して、日本との単独講和をちらつかせてさらなる軍事的支援を求めた。だが、インド洋で再建された機動部隊が壊滅したアメリカにその余力はなく、南太平洋での船団護衛を強化するといった程度の回答を行うことしか出来なかった。
八月には南太平洋にも対潜用護衛空母が投入されて潜水艦の撃沈確率が上がり、ひとまず南太平洋戦線が小康状態に陥ったことで、カーティン首相の危機感も多少は和らいだという。
しかし、対する日本では南太平洋でのさらなる通商破壊作戦が立案されつつあったのである。
第一、第二遊撃部隊は七月中旬までインド洋での通商破壊作戦を継続して二〇万トン近い戦果を挙げた後、整備と次期作戦準備のために内地へと回航された。この頃、インド洋では輸送船の被害増大から、連合軍の海上交通路はほぼ寸断状態にあった。
南太平洋方面で継続されていた通商破壊作戦“い号作戦”が停滞し始めたことで、連合艦隊司令部ではアメリカの反攻作戦が開始される前に、もう一度、南太平洋戦線で連合軍に大打撃を与えることを目論んでいた。
最初に作戦構想を示した宇垣はこの時、軍令部第一部長に転任、新たな連合艦隊司令長官である古賀峯一大将の先任参謀となった樋端久利雄大佐と共に作戦計画を策定した。
い号に続く第二弾作戦として、南太平洋での通商破壊作戦には“ろ号作戦”の作戦名称が用いられた。
内地で修理と整備、航空機と搭乗員の補充・再訓練を受けた各艦艇は、十一月五日までにトラックに進出した。
作戦参加艦艇は、次の通りである。
第一機動艦隊 司令長官:小沢治三郎中将
第二艦隊 司令長官:栗田健男中将
第一戦隊【戦艦】〈武蔵〉〈長門〉〈陸奥〉
第四戦隊【重巡】〈高雄〉〈愛宕〉〈摩耶〉
第五戦隊【重巡】〈妙高〉〈羽黒〉
第三航空戦隊【空母】〈隼鷹〉〈飛鷹〉〈龍鳳〉
第二水雷戦隊【軽巡】〈神通〉【駆逐艦】〈島風〉
第十五駆逐隊【駆逐艦】〈黒潮〉〈親潮〉〈陽炎〉〈不知火〉
第二十四駆逐隊【駆逐艦】〈海風〉〈江風〉〈涼風〉
第三十一駆逐隊【駆逐艦】〈大波〉〈巻波〉〈長波〉〈清波〉
第三艦隊 司令長官:小沢治三郎中将
甲部隊 司令官:小沢治三郎中将
第三戦隊【戦艦】〈金剛〉〈榛名〉
第一航空戦隊【空母】〈翔鶴〉〈瑞鶴〉〈瑞鳳〉
第八戦隊【重巡】〈利根〉〈筑摩〉
第十戦隊【軽巡】〈阿賀野〉
第四駆逐隊【駆逐艦】〈萩風〉〈舞風〉〈嵐〉〈野分〉
第十駆逐隊【駆逐艦】〈夕雲〉〈巻雲〉〈風雲〉〈秋雲〉
第十六駆逐隊【駆逐艦】〈初風〉〈雪風〉〈天津風〉〈時津風〉
乙部隊 司令官:城島高次少将
第十一戦隊【戦艦】〈比叡〉〈霧島〉
第二航空戦隊【空母】〈飛龍〉〈龍驤〉
第四航空戦隊【空母】〈千歳〉〈千代田〉
第七戦隊【重巡】〈最上〉〈三隈〉〈鈴谷〉〈熊野〉
第十二戦隊【軽巡】〈能代〉
第八駆逐隊【駆逐艦】〈朝潮〉〈大潮〉〈満潮〉〈荒潮〉
第十七駆逐隊【駆逐艦】〈谷風〉〈浦風〉〈磯風〉〈浜風〉
第六十一駆逐隊【駆逐艦】〈秋月〉〈涼月〉〈初月〉〈新月〉
日本海軍は八月に水上機母艦からの改装が完了した千歳、千代田を加えた空母十隻の態勢で作戦に臨んでいた。
そしてこれだけの艦隊を動員していながら、敵艦隊との決戦ではなく、敵海上交通路の遮断を目的としているは、戦史上、前代未聞の事態であったといえよう。
近世ヨーロッパではイングランドやオランダに代表される、私掠船と呼ばれる国家規模での海賊行為が行われていたが、近代海軍という視点で見れば空前絶後の大規模通商破壊作戦であった。
なお、本来であればソロモン・ニューギニア方面を担当する第八艦隊が作戦に参加していないのは、この艦隊が輸送任務に忙殺されていたからである。絶対国防圏の設定によってニューギニアの大部分からの撤退が決定し、そのための船団護衛に第八艦隊は駆り出されていたのである。
一方、アメリカ軍側は暗号解読などによって日本艦隊の動向を察知していたが、これほどの規模の艦隊をただ通商破壊のためだけの投入する可能性については、半信半疑であった。
当時、真珠湾には戦艦アイオワ、ニュージャージー、空母ヨークタウンⅡ、レキシントンⅡなどが在泊していた。このため太平洋艦隊戦闘情報班は、日本海軍が二度目の真珠湾攻撃を目論んでいるのではないかと推測していたのである。
実際、日本海軍は作戦発動にあたり、飛行艇や潜水艦搭載の小型水上機によって、真珠湾在泊艦艇の動向を探っている。
このことから太平洋艦隊司令部では、日本軍は輸送船団を攻撃することで再建されつつある太平洋艦隊を誘い出そうとしているのではないかと疑ってしまった。
最終的にキング作戦部長も太平洋艦隊の出撃は許可せず、ハワイ周辺での索敵の強化と、船団護衛強化のための護衛空母の増援を命じたのみであった。
第一機動部隊がトラックを出撃したのは、十一月八日。
日本海軍による最初の攻撃は、米軍にとって予想外のものとなった。
十一月十二日、第二艦隊が、エスピリットゥサントの飛行場に艦砲射撃を加えたのである。栗田中将は昼間はガダルカナルの零戦隊の航続圏内に留まり、日暮れと共に一気に南下、エスピリットゥサントの飛行場を壊滅させたのであった。さらに翌日払暁、第二艦隊所属の第三航空戦隊の空襲によってエスピリットゥサント南方のエファテ島の飛行場も破壊された。
これにより、連合軍は南太平洋での航空作戦能力に大きな支障が生じることになったのである。
一方、第三艦隊はフィジー南方周りの連合軍海上交通路での索敵を開始、ハワイからオーストラリアへと向かう輸送船団を発見した。
こうした南回りでの輸送船団は、ソロモンに展開する第十一航空艦隊の航続圏外のため、これまで潜水艦でしか襲撃出来なかった存在であった。
一方、ヌーメアの基地航空隊は日本艦隊の捕捉に努め、十三日の午後に第二艦隊を発見。B17による空襲を実施したものの、命中弾はなかった。
一方、エスピリットゥサントやエファテからさらに南下した第二艦隊は、その日の夕刻、ニューカレドニア島の連合軍基地施設に対して薄暮攻撃を敢行した。これにより飛行場が破壊され、港湾施設にも少なからぬ被害を受けた。
日本艦隊は連合軍輸送船団を次々と撃沈しつつ、ニューカレドニア島の南を回ってオーストラリア本土へと接近、十一月十六日、ブリスベンが空襲と艦砲射撃を受けた。
武蔵、長門、陸奥による艦砲射撃は熾烈を極め、アメリカ海軍の潜水艦基地に備蓄されていた大量の魚雷が誘爆、これにより発生した爆風と大規模な火災によって、ブリスベン市街地の八割が壊滅的打撃を受けるという甚大な被害を蒙った。
これは、大戦中にオーストラリア本土が受けた被害としては、規模・死傷者数ともに最大のものであった。
ブリスベン市街にはマッカーサーが司令部としているホテルもあり、誘爆による爆風によってホテルの窓ガラスはすべて粉微塵に砕け散ったという。
その後、日本艦隊は北上してタウンズビル、ケアンズも空襲、それを最後にラバウル方面へと引き揚げていった。
第一機動艦隊がトラック島に帰還したのは、十一月二十六日のことであった。
この間、日本海軍は輸送船四〇万トン以上を撃沈し、護衛空母二隻、駆逐艦二隻、護衛駆逐艦三隻なども沈めていた。
ろ号作戦の実施によって、一九四三年に連合軍が南太平洋で失った船舶は、ついに一〇〇万トンを超えることになった。インド洋での戦果も含めれば、日本海軍はこの年だけで連合軍船舶を一五〇万トン近く撃沈している。
また、ブリスベンへの艦砲射撃では整備中であった米潜水艦七隻が爆風などに巻き込まれて沈没していた。
“ろ号作戦”は、撃破した航空機や破壊した港湾設備なども考えれば、日本側の一方的勝利と呼べる戦いであった。これには、アメリカ海軍の戦力が整っておらず、そのために彼らが艦隊の温存を優先してしまったという点にも助けられている。
礼号作戦よりも遙かに大規模な通商破壊作戦によってオーストラリア国民の間では対米不信が強まり、それはまたカーティン首相の心労を強いものとした。彼が第二次世界大戦の終結を見ず、一九四四年の末に死去したことの原因には、オーストラリアが常に安全保障上の脅威に晒され続けていたことによる心労があると指摘する後世の人間もいるほどであった。
もちろん、純軍事的に考えれば日本軍がオーストラリア本土に上陸し、全土を占領するなど不可能な話ではあったのだが、豪州国民はそうは思わなかった。
この頃のカーティン首相は、アメリカの援助を受けるための口実ではなく、真剣に日本との単独講和を考え始めていたともいわれる。
しかし、アメリカもイギリスもそれを許さなかった。
アメリカは十二月初め、旧式戦艦と護衛空母からなる艦隊をシドニーに入港させた。これはオーストラリア国民に対して、アメリカが決してオーストラリアを見捨てていないということを示すと共に、オーストラリア政府に対していざという時は保障占領をする用意があることを暗示する、砲艦外交でもあった。
こうしたオーストラリアを巡る政治情勢はアメリカ側の憂慮を招き、一九四四年以降に予定されていた対日侵攻作戦計画の変更を余儀なくされる事態となった。
当初、アメリカ側は海軍作戦部長であるキングの望む中部太平洋経由での対日侵攻作戦を計画していた。戦前から連綿と受け継がれてきた対日戦争計画“オレンジ・プラン”に則った作戦計画である。
しかし、オーストラリアの政治情勢から、ソロモン・ニューギニア方面からも対日反攻作戦を行う政治的必要が出てきたのである。
ソロモンはラバウル、ブーゲンビル、ニュージョージア、ガダルカナルと日本軍の飛行場が連なっており、航空要塞と化しているとアメリカ軍は判断していた。そのため、この地域は迂回してマーシャル、カロリン、マリアナへと進み、日本本土とソロモンとの間の補給線を遮断することを計画していたのである。
しかし、オーストラリア国民の国防への不安を取り除き、連合軍陣営から脱落させないために、ソロモン・ニューギニアといった、オーストラリア本土に近い地域も攻略する必要性が生じたのであった。
こうしてアメリカ軍は、中部太平洋方面とソロモン方面という、対日二正面作戦を余儀なくされることになったのである。
ミッドウェーで空母三隻を撃沈したとはいうものの、未だ日本の機動部隊が健在であること。そしてソロモンとインド洋で艦隊が何度となく壊滅したことを考えれば、いかにアメリカ海軍といえど二正面作戦は戦力的に厳しいものがあった。
そうした状況下で、アメリカもまた、一九四四年を迎えることとなったのである。
沈没艦こそ少なかったものの、航空隊は消耗しており、損傷艦艇も多かった。
そのため、艦隊は内地へと帰還することになったのであるが、ここで日本国内の燃料事情が問題となった。油槽船の絶対数の不足により、内地には十分な燃料が存在していなかったのである。
内地へと帰還したところで、瀬戸内海などで各艦が訓練を行うことなどは難しかった。
そのため、主に損傷艦艇とその護衛のみをまず内地に帰還させ、その他残存艦艇は艦隊燃料の豊富なリンガ泊地に残すことになったのである。
リンガ泊地対岸にはシンガポールのセレター軍港が存在し、艦艇の整備能力には問題がなかった。
また、インド洋の制海権維持という観点からも、一定程度の艦艇をリンガ泊地に留めておく必要があった。
このため、艦載機や搭乗員の補充、新型艦載機搭載のための改装などが必要な空母、損傷艦艇を優先して内地に回航する一方、リンガ泊地に残ることになった艦艇も存在したのである。
その最大の艦艇は第三戦隊の金剛、榛名であり、損傷した翔鶴から艦載機と搭乗員を移した瑞鶴、同じように飛鷹搭載機と元飛鷹搭乗員を集めた隼鷹、さらに三航戦所属の龍鳳の三空母もリンガ泊地に残された。また第七戦隊の熊野、鈴谷、第八戦隊の利根、筑摩、第十戦隊などもリンガ泊地に留まることになった。
リンガ泊地残留艦艇の乗員の中にはむしろ内地に帰還出来る損傷艦艇を羨む者もいたというが、幸いなことに深刻な士気の低下は起こらなかった。ある意味で、勝ち戦の影響があったのだろう。
この当時、シンガポール周辺には、四月一日付けで発足した海上護衛総隊所属の第一海上護衛隊が存在していたが、それだけで南方から日本本土、そしてインド洋に至る広大な海面を担当することは出来なかった。
その意味では、一部艦艇のリンガ残留は、戦術的にも正しい措置であったといえよう。
艦隊全般の指揮は第三戦隊司令官の栗田健男中将が執ることになり、三空母に関しては三航戦司令官の角田覚治少将の指揮下に置かれた。
部隊は第一遊撃部隊と第二遊撃部隊に分けられ、インド洋の制海権確保と共にオーストラリア西岸部での通商破壊作戦を命じられていた。
第一遊撃部隊、第二遊撃部隊の編成は以下の通りである。
第一遊撃部隊 司令官:栗田健男中将
第三戦隊【戦艦】〈金剛〉〈榛名〉
第三航空戦隊【空母】〈隼鷹〉〈瑞鶴〉
第十戦隊【軽巡】〈阿賀野〉
第四駆逐隊【駆逐艦】〈萩風〉〈舞風〉〈嵐〉〈野分〉
第十駆逐隊【駆逐艦】〈夕雲〉〈巻雲〉〈風雲〉〈秋雲〉
第十六駆逐隊【駆逐艦】〈初風〉〈雪風〉〈天津風〉〈時津風〉
第二遊撃部隊 司令官:西村祥治少将
第七戦隊【重巡】〈鈴谷〉〈熊野〉
第八戦隊【重巡】〈利根〉〈筑摩〉
第十七駆逐隊【駆逐艦】〈谷風〉〈浦風〉〈磯風〉〈浜風〉
付属【空母】〈龍鳳〉
セイロン島の攻略によってインド洋北部での連合軍船舶の往来は途絶え、連合軍はベンガル湾航路、ペルシャ湾航路の使用が不可能となっていた一方、オーストラリアとイギリス本国を結ぶ喜望峰周りの航路は未だ辛うじて輸送船が往来していたのである。
そのため日独の潜水艦は主に喜望峰付近で輸送船を待ち構える作戦を取っていたが、五月以降、連合軍が大西洋方面での船団護衛の強化と対潜用護衛空母の投入を開始すると、逆に喜望峰付近の警戒が強化され、特に大西洋周りで独Uボートがインド洋に入ることが難しくなった。
そのため、インド洋南部での通商破壊作戦を強化する必要があったのである。
一九四二年八月のインド洋機動作戦“B作戦”以来の、水上艦艇を用いたインド洋での通商破壊作戦であった。
連合艦隊司令部によって、この二度目のインド洋通商破壊作戦は“礼号作戦”と名付けられた。
まず五月十八日、シンガポールでの整備と補給を終えた第二遊撃部隊がリンガ泊地を出撃した。第二遊撃隊司令官の西村祥治少将は昨年のB作戦にも第七戦隊司令官として参加しており、インド洋での連合軍航路に精通していたという。
重巡利根や筑摩、そして空母龍鳳による索敵を行いつつ艦隊は南下、二十一日に独航している輸送船を捕捉・撃沈したのを皮切りにマダガスカル東方付近にまで進出。約二週間の作戦行動で輸送船九隻、護衛のスループ艦二隻を撃沈、輸送船二隻を拿捕する戦果を挙げている。
その他、潜水艦によってマダガスカル付近で多数の輸送船が撃沈されたこともあり、連合軍側ではオーストラリアからの輸送航路を大幅に見直す必要に迫られていた。だが、南太平洋でも日本軍による通商破壊作戦が続いている現状では、船団護衛のための艦艇が圧倒的に不足しており、船団の航路を更に南に下げる以外、根本的な対策は出来なかった。
そして、その対策すら限界があった。南緯五十度以南の海域は特に風浪が激しく、小型のスループ艦などでは航行に支障が出るからである。結局、船団航路の大幅な変更は不可能であった。
一方、内地から空母雲鷹がリンガ泊地に到着、隼鷹と瑞鶴は彼女から航空機と搭乗員の補充を受け、角田少将の下で六月初旬まで訓練に励むことになった。
そして六月十二日、礼号作戦の第二弾作戦ともいえる、オーストラリア西岸の港湾に対する大規模な襲撃作戦が発動された。
リンガ泊地を出撃した栗田中将率いる第一遊撃部隊は、ケンダリーの第二十三航空戦隊の一式陸攻隊と共同してオーストラリア北西部の港湾都市ブルームを空襲、連合軍の航空基地を破壊し、そのまま沿岸伝いに南下。その後も第一遊撃部隊はオーストラリア西岸の港湾をゲリラ的に空襲、アメリカ海軍が真珠湾攻撃後に行った日本の南洋群島に対する空襲を彷彿とさせるような、一撃離脱戦法をとってオーストラリア軍の追跡を許さなかった。
そして六月十七日、第一遊撃部隊はオーストラリア西岸最大の都市であるパースおよびその南西に位置する港湾都市フリーマントルへの攻撃を行う。
角田少将指揮下の空母はパース市街へと続く無数の鉄道路線や車両基地を爆撃。そして、夜の訪れを待って栗田中将は金剛、榛名によるフリーマントルへの艦砲射撃を敢行した。
フリーマントルはアメリカ海軍の大規模な潜水艦基地となっていたのだが、この艦砲射撃によって完全にその機能を失ってしまった。以後、東南アジア方面の日本軍海上交通路を狙っての通商破壊作戦は、長期にわたって停滞することになる。
第一遊撃部隊による一連の攻撃によって、連合軍は一〇〇機以上の航空機と船舶十四隻、潜水艦五隻などを失うこととなった。
これら日本海軍による通商破壊作戦と沿岸部への空襲と艦砲射撃は、オーストラリア首相ジョン・カーティンも含めたオーストラリア国民を激しく動揺させ、特に北部の都市などでは日本軍が上陸するという噂が広まって市民たちが恐慌状態に陥った例もあった。
カーティン首相は最大の支援国であるアメリカに対して、日本との単独講和をちらつかせてさらなる軍事的支援を求めた。だが、インド洋で再建された機動部隊が壊滅したアメリカにその余力はなく、南太平洋での船団護衛を強化するといった程度の回答を行うことしか出来なかった。
八月には南太平洋にも対潜用護衛空母が投入されて潜水艦の撃沈確率が上がり、ひとまず南太平洋戦線が小康状態に陥ったことで、カーティン首相の危機感も多少は和らいだという。
しかし、対する日本では南太平洋でのさらなる通商破壊作戦が立案されつつあったのである。
第一、第二遊撃部隊は七月中旬までインド洋での通商破壊作戦を継続して二〇万トン近い戦果を挙げた後、整備と次期作戦準備のために内地へと回航された。この頃、インド洋では輸送船の被害増大から、連合軍の海上交通路はほぼ寸断状態にあった。
南太平洋方面で継続されていた通商破壊作戦“い号作戦”が停滞し始めたことで、連合艦隊司令部ではアメリカの反攻作戦が開始される前に、もう一度、南太平洋戦線で連合軍に大打撃を与えることを目論んでいた。
最初に作戦構想を示した宇垣はこの時、軍令部第一部長に転任、新たな連合艦隊司令長官である古賀峯一大将の先任参謀となった樋端久利雄大佐と共に作戦計画を策定した。
い号に続く第二弾作戦として、南太平洋での通商破壊作戦には“ろ号作戦”の作戦名称が用いられた。
内地で修理と整備、航空機と搭乗員の補充・再訓練を受けた各艦艇は、十一月五日までにトラックに進出した。
作戦参加艦艇は、次の通りである。
第一機動艦隊 司令長官:小沢治三郎中将
第二艦隊 司令長官:栗田健男中将
第一戦隊【戦艦】〈武蔵〉〈長門〉〈陸奥〉
第四戦隊【重巡】〈高雄〉〈愛宕〉〈摩耶〉
第五戦隊【重巡】〈妙高〉〈羽黒〉
第三航空戦隊【空母】〈隼鷹〉〈飛鷹〉〈龍鳳〉
第二水雷戦隊【軽巡】〈神通〉【駆逐艦】〈島風〉
第十五駆逐隊【駆逐艦】〈黒潮〉〈親潮〉〈陽炎〉〈不知火〉
第二十四駆逐隊【駆逐艦】〈海風〉〈江風〉〈涼風〉
第三十一駆逐隊【駆逐艦】〈大波〉〈巻波〉〈長波〉〈清波〉
第三艦隊 司令長官:小沢治三郎中将
甲部隊 司令官:小沢治三郎中将
第三戦隊【戦艦】〈金剛〉〈榛名〉
第一航空戦隊【空母】〈翔鶴〉〈瑞鶴〉〈瑞鳳〉
第八戦隊【重巡】〈利根〉〈筑摩〉
第十戦隊【軽巡】〈阿賀野〉
第四駆逐隊【駆逐艦】〈萩風〉〈舞風〉〈嵐〉〈野分〉
第十駆逐隊【駆逐艦】〈夕雲〉〈巻雲〉〈風雲〉〈秋雲〉
第十六駆逐隊【駆逐艦】〈初風〉〈雪風〉〈天津風〉〈時津風〉
乙部隊 司令官:城島高次少将
第十一戦隊【戦艦】〈比叡〉〈霧島〉
第二航空戦隊【空母】〈飛龍〉〈龍驤〉
第四航空戦隊【空母】〈千歳〉〈千代田〉
第七戦隊【重巡】〈最上〉〈三隈〉〈鈴谷〉〈熊野〉
第十二戦隊【軽巡】〈能代〉
第八駆逐隊【駆逐艦】〈朝潮〉〈大潮〉〈満潮〉〈荒潮〉
第十七駆逐隊【駆逐艦】〈谷風〉〈浦風〉〈磯風〉〈浜風〉
第六十一駆逐隊【駆逐艦】〈秋月〉〈涼月〉〈初月〉〈新月〉
日本海軍は八月に水上機母艦からの改装が完了した千歳、千代田を加えた空母十隻の態勢で作戦に臨んでいた。
そしてこれだけの艦隊を動員していながら、敵艦隊との決戦ではなく、敵海上交通路の遮断を目的としているは、戦史上、前代未聞の事態であったといえよう。
近世ヨーロッパではイングランドやオランダに代表される、私掠船と呼ばれる国家規模での海賊行為が行われていたが、近代海軍という視点で見れば空前絶後の大規模通商破壊作戦であった。
なお、本来であればソロモン・ニューギニア方面を担当する第八艦隊が作戦に参加していないのは、この艦隊が輸送任務に忙殺されていたからである。絶対国防圏の設定によってニューギニアの大部分からの撤退が決定し、そのための船団護衛に第八艦隊は駆り出されていたのである。
一方、アメリカ軍側は暗号解読などによって日本艦隊の動向を察知していたが、これほどの規模の艦隊をただ通商破壊のためだけの投入する可能性については、半信半疑であった。
当時、真珠湾には戦艦アイオワ、ニュージャージー、空母ヨークタウンⅡ、レキシントンⅡなどが在泊していた。このため太平洋艦隊戦闘情報班は、日本海軍が二度目の真珠湾攻撃を目論んでいるのではないかと推測していたのである。
実際、日本海軍は作戦発動にあたり、飛行艇や潜水艦搭載の小型水上機によって、真珠湾在泊艦艇の動向を探っている。
このことから太平洋艦隊司令部では、日本軍は輸送船団を攻撃することで再建されつつある太平洋艦隊を誘い出そうとしているのではないかと疑ってしまった。
最終的にキング作戦部長も太平洋艦隊の出撃は許可せず、ハワイ周辺での索敵の強化と、船団護衛強化のための護衛空母の増援を命じたのみであった。
第一機動部隊がトラックを出撃したのは、十一月八日。
日本海軍による最初の攻撃は、米軍にとって予想外のものとなった。
十一月十二日、第二艦隊が、エスピリットゥサントの飛行場に艦砲射撃を加えたのである。栗田中将は昼間はガダルカナルの零戦隊の航続圏内に留まり、日暮れと共に一気に南下、エスピリットゥサントの飛行場を壊滅させたのであった。さらに翌日払暁、第二艦隊所属の第三航空戦隊の空襲によってエスピリットゥサント南方のエファテ島の飛行場も破壊された。
これにより、連合軍は南太平洋での航空作戦能力に大きな支障が生じることになったのである。
一方、第三艦隊はフィジー南方周りの連合軍海上交通路での索敵を開始、ハワイからオーストラリアへと向かう輸送船団を発見した。
こうした南回りでの輸送船団は、ソロモンに展開する第十一航空艦隊の航続圏外のため、これまで潜水艦でしか襲撃出来なかった存在であった。
一方、ヌーメアの基地航空隊は日本艦隊の捕捉に努め、十三日の午後に第二艦隊を発見。B17による空襲を実施したものの、命中弾はなかった。
一方、エスピリットゥサントやエファテからさらに南下した第二艦隊は、その日の夕刻、ニューカレドニア島の連合軍基地施設に対して薄暮攻撃を敢行した。これにより飛行場が破壊され、港湾施設にも少なからぬ被害を受けた。
日本艦隊は連合軍輸送船団を次々と撃沈しつつ、ニューカレドニア島の南を回ってオーストラリア本土へと接近、十一月十六日、ブリスベンが空襲と艦砲射撃を受けた。
武蔵、長門、陸奥による艦砲射撃は熾烈を極め、アメリカ海軍の潜水艦基地に備蓄されていた大量の魚雷が誘爆、これにより発生した爆風と大規模な火災によって、ブリスベン市街地の八割が壊滅的打撃を受けるという甚大な被害を蒙った。
これは、大戦中にオーストラリア本土が受けた被害としては、規模・死傷者数ともに最大のものであった。
ブリスベン市街にはマッカーサーが司令部としているホテルもあり、誘爆による爆風によってホテルの窓ガラスはすべて粉微塵に砕け散ったという。
その後、日本艦隊は北上してタウンズビル、ケアンズも空襲、それを最後にラバウル方面へと引き揚げていった。
第一機動艦隊がトラック島に帰還したのは、十一月二十六日のことであった。
この間、日本海軍は輸送船四〇万トン以上を撃沈し、護衛空母二隻、駆逐艦二隻、護衛駆逐艦三隻なども沈めていた。
ろ号作戦の実施によって、一九四三年に連合軍が南太平洋で失った船舶は、ついに一〇〇万トンを超えることになった。インド洋での戦果も含めれば、日本海軍はこの年だけで連合軍船舶を一五〇万トン近く撃沈している。
また、ブリスベンへの艦砲射撃では整備中であった米潜水艦七隻が爆風などに巻き込まれて沈没していた。
“ろ号作戦”は、撃破した航空機や破壊した港湾設備なども考えれば、日本側の一方的勝利と呼べる戦いであった。これには、アメリカ海軍の戦力が整っておらず、そのために彼らが艦隊の温存を優先してしまったという点にも助けられている。
礼号作戦よりも遙かに大規模な通商破壊作戦によってオーストラリア国民の間では対米不信が強まり、それはまたカーティン首相の心労を強いものとした。彼が第二次世界大戦の終結を見ず、一九四四年の末に死去したことの原因には、オーストラリアが常に安全保障上の脅威に晒され続けていたことによる心労があると指摘する後世の人間もいるほどであった。
もちろん、純軍事的に考えれば日本軍がオーストラリア本土に上陸し、全土を占領するなど不可能な話ではあったのだが、豪州国民はそうは思わなかった。
この頃のカーティン首相は、アメリカの援助を受けるための口実ではなく、真剣に日本との単独講和を考え始めていたともいわれる。
しかし、アメリカもイギリスもそれを許さなかった。
アメリカは十二月初め、旧式戦艦と護衛空母からなる艦隊をシドニーに入港させた。これはオーストラリア国民に対して、アメリカが決してオーストラリアを見捨てていないということを示すと共に、オーストラリア政府に対していざという時は保障占領をする用意があることを暗示する、砲艦外交でもあった。
こうしたオーストラリアを巡る政治情勢はアメリカ側の憂慮を招き、一九四四年以降に予定されていた対日侵攻作戦計画の変更を余儀なくされる事態となった。
当初、アメリカ側は海軍作戦部長であるキングの望む中部太平洋経由での対日侵攻作戦を計画していた。戦前から連綿と受け継がれてきた対日戦争計画“オレンジ・プラン”に則った作戦計画である。
しかし、オーストラリアの政治情勢から、ソロモン・ニューギニア方面からも対日反攻作戦を行う政治的必要が出てきたのである。
ソロモンはラバウル、ブーゲンビル、ニュージョージア、ガダルカナルと日本軍の飛行場が連なっており、航空要塞と化しているとアメリカ軍は判断していた。そのため、この地域は迂回してマーシャル、カロリン、マリアナへと進み、日本本土とソロモンとの間の補給線を遮断することを計画していたのである。
しかし、オーストラリア国民の国防への不安を取り除き、連合軍陣営から脱落させないために、ソロモン・ニューギニアといった、オーストラリア本土に近い地域も攻略する必要性が生じたのであった。
こうしてアメリカ軍は、中部太平洋方面とソロモン方面という、対日二正面作戦を余儀なくされることになったのである。
ミッドウェーで空母三隻を撃沈したとはいうものの、未だ日本の機動部隊が健在であること。そしてソロモンとインド洋で艦隊が何度となく壊滅したことを考えれば、いかにアメリカ海軍といえど二正面作戦は戦力的に厳しいものがあった。
そうした状況下で、アメリカもまた、一九四四年を迎えることとなったのである。
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