蒼海の碧血録

三笠 陣

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第一章 鉄底海峡の砲撃戦

5 邂逅の刻

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 水平線の彼方へと、陽が沈みつつあった。
 真っ赤に染まった太陽が、最後の光でソロモンの海を照らし出している。
 紅に染まった海上に、戦艦インディアナは無残な姿を晒していた。
 右舷に大きく傾いた船体、沈み込んだ艦首、艦上構造物も瓦礫のように破壊されていた。両舷に備えられた両用砲は砲塔ごと破壊され、砲身があらぬ方向を向いている。機銃座も飴細工のように捻じ曲がり、血や肉片が銃座に張り付いていた。
 一式陸攻による最初の空襲以来、フーバー大佐に率いられた損傷艦艇群は、この時刻までに五次にわたる空襲を受けていた。
 午後からは陸上機だけでなく艦載機による空襲も加わり、そのほとんどは速力が低下し回避運動が困難となっていたインディアナに集中した。
 昨夜の海戦から数えて、彼女はすでに十一本の魚雷をその身に受けていた。
 特に、驚異的な精度で爆弾を命中させてきた敵艦爆隊による被害が、実質的にインディアナの死命を決した。
 ジャップの使用する二五〇キログラム爆弾は、強靭なサウスダコタ級の装甲を貫くことは出来なかったが、艦上構造物の次々と破壊していったのである。
 そのため、対空火器の大幅に減少したインディアナは、接近する一式陸攻《ベティ》や九七艦攻《ケイト》を撃退することが出来なくなってしまった。
 現在、インディアナはわずか四ノットの低速でエスピリットゥサントへと向かっている。
 とはいえ、エスピリットゥサントまで持ちこたえられそうにないことは、誰の目にも明らかであった。アメリカ海軍の優れたダメージコントロール技術を以てしても、もはやインディアナを救うことは出来なかった。
 サウスダコタ級は凌波性に欠陥を抱える戦艦であり、艦首の沈下はインディアナの復旧に致命的な影響を与えた。
 一時は後進をかけることで艦首の沈下を抑えようとしたが、さらなる被雷による浸水の増大はその努力すら無意味にしてしまった。
 現在、インディアナはいつ転覆沈没してもおかしくない状況であった。
 軽巡ヘレナ艦上からインディアナの様子を見ていたフーバー大佐は、敗北の屈辱と自身の無力感に唇を噛んでいた。
 南太平洋方面軍司令部からは、インディアナの復旧に全力を尽くすように命令されていたが、それも果たせそうにない。
 出来るならば、陽のある内にインディアナ乗員の救助を行ってしまいたい。もし夜間に救助を行うとすれば探照灯を点けることになり、敵潜水艦を呼び寄せてしまうだろう。
 この海域は、日本軍潜水艦の活動範囲なのである。九月には空母ワスプがそれに引っ掛かって撃沈されている。
 救えぬ船の復旧に固執して、他の艦艇の乗員を危険に晒すことは出来ない。
 すでにフーバーは轟沈したジュノーの乗員を、断腸の思いと共に見捨てているのだ。瞬時に沈没したために生存者はいないと判断されたのと、一刻も早くラバウルの空襲圏外へ退避することを優先しての決断だったが、探せば何名かの乗員は救えたかもしれないと彼は思っている。
 実際、ジュノー乗員は沈没時に百名余りが生存しており、彼らを見捨てたことで後にフーバーは査問委員会にかけられることになる。

「艦長」

 通信兵が、紙を持って艦橋へとやってきた。

「南太平洋方面軍司令部より入電です。インディアナノ放棄ヲ許可ス。乗員ノ救助ニ全力ヲ尽クサレ度シ。以上です」

「……判った。ご苦労」

 フーバーは痛みを堪えるかのような低い声で応じた。
 日が沈む前に、ハルゼー中将がインディアナ放棄の決断をしてくれたことはありがたい。だが、これで彼女の喪失は確定してしまったのだ。
 いくら沈没が確実な状況とはいえ、すべての可能性が閉ざされたことへの衝撃は大きい。今までは南太平洋方面軍司令部からのインディアナ復旧命令に一縷の希望をかけていたが、その縋るべき命令すら今はなくなってしまったのだ。
 奇襲であった真珠湾攻撃を別にすれば、インディアナは戦闘行動中に失われた初めての合衆国戦艦ということになる。それも、ジャップの戦艦を打ちのめすことを目的に建造されながら、一度も敵艦にその主砲の威力を発揮することもなく、である。
 だが、ここで悲嘆に暮れているわけにもいかない。
 フーバーは意を決して、麾下の艦艇にインディアナ乗員の救助を命じた。
 総員退艦命令が発せられてから沈没までに時間があったことで、インディアナ乗員のほとんどが救助されたことは、不幸中の幸いともいえた。
 インディアナの沈没は、アメリカ軍側の記録によれば現地時間一九三七時といわれている。





 このインディアナの撃沈について、後世の歴史家たちは日本海軍の判断に賛否両論を下す。
 第二次攻撃を行わなかった真珠湾攻撃に比べ、損傷艦艇に対する徹底的な追撃を行い米新鋭戦艦撃沈の殊勲を成し遂げた第十一航空艦隊司令部と山口多聞第二航空戦隊司令の判断を支持する者がいる一方、目標の選定を誤ったとする歴史家もいる。
 日本海軍航空部隊は、真珠湾からガダルカナルへと接近していた米輸送船団を撃滅すべきであったというのが、彼らの主張である。
 輸送船団はハルゼーからの命令によって一時退避行動をとっていたとはいえ、この船団に上空直掩はなく、撃滅は容易であったと推測されたためである。
 とはいえ、この船団は最終的に日本海軍の索敵網にかからなかったので、日本海軍が見逃してしまったことは不可抗力の面が強い。
 日本海軍の索敵能力に疑問を残す結果ではあったものの、当時の日本海軍は戦艦撃沈という結果に満足し、輸送船団を取り逃がしてしまったことをあまり重大視していなかった。
 特に連合艦隊司令部はこの時、刻々と迫る米戦艦との艦隊決戦に意識を集中しており、二航戦に敵輸送船団の捜索と撃滅を命ずるだけの余裕を持っていなかったのである。
 とはいえ、ガダルカナル周辺の制海権・制空権を確保すれば勝敗が着くことは事実であり、その意味では連合艦隊司令部の判断に重大な過誤があったとは言い切れない面があった。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 ガダルカナル島ルンガ沖へと先に艦隊を展開させたのは、当然ながら迎撃側である日本海軍であった。
 連合艦隊司令長官・山本五十六直率の大和以下挺身攻撃隊は、十一月十三日一八○○時頃にはルンガ沖への進出を果たしていた。
 途中、一四二九時に敵潜水艦からの雷撃を受けたものの、損害はなかった。しかし、敵潜から発せられたと思しき電波を受信しており、この時点で連合艦隊司令部は米軍側に捕捉されたと判断していた。
 とはいえ、大和は第二航空戦隊宛に多数の電波を発信しており、敵に捕捉されたことをさほど重要視している者はいなかった。すでに艦隊の誰もが、米戦艦部隊のガダルカナル来寇を覚悟していたのである。

「各部隊の展開、完了いたしました」

 灯火管制の敷かれた戦艦大和夜戦艦橋で、宇垣纏参謀長が報告した。

「うむ」

 それに、長官席に座っている山本が頷く。
 現在、戦艦部隊である大和、長門、陸奥の第一戦隊はガダルカナル島-フロリダ島間のシーラーク水道(鉄底海峡)を封鎖するように単縦陣で航行している。上手くいけば、敵戦艦部隊に対して丁字を描くことが出来るだろう。
 一九四二年十一月十三日一八〇〇時を以って、日本海軍がガダルカナル島沖へ展開させた戦力は、次の通りである。

射撃隊 司令官:山本五十六大将(連合艦隊司令長官)
第一戦隊【戦艦】〈大和〉〈長門〉〈陸奥〉
第九戦隊【重雷装艦】〈大井〉〈北上〉

直衛隊 司令官:橋本信太郎少将(第三水雷戦隊司令)
第三水雷戦隊【軽巡】〈川内〉
 第六駆逐隊【駆逐艦】〈暁〉〈雷〉〈電〉
 第十九駆逐隊【駆逐艦】〈磯波〉〈浦波〉〈敷波〉〈綾波〉
 第二十駆逐隊【駆逐艦】〈天霧〉〈朝霧〉〈夕霧〉〈白雲〉

掃討隊 司令官:阿部弘毅中将(第十一戦隊司令)
第八戦隊【重巡】〈利根〉〈筑摩〉
第十戦隊【軽巡】〈長良〉
 第十六駆逐隊【駆逐艦】〈初風〉〈雪風〉〈天津風〉〈時津風〉
 第六十一駆逐隊【駆逐艦】〈照月〉
第十一戦隊【戦艦】〈比叡〉〈霧島〉

 第十一戦隊は、昨夜の海戦と同じく、急遽艦隊に組み込まれた部隊である。敵戦艦を迎撃する以上、戦力の集中は戦術の鉄則である。例え昨夜以上に残弾に不安があろうとも、射撃隊にとって脅威となる敵水雷戦隊の攻撃を吸引させる程度には役に立つだろう。
 第十一戦隊はもともと第三艦隊所属の部隊であり、同じく第三艦隊所属である掃討隊の各艦との連携に不安はない。
 第十一戦隊を除く掃討隊の各艦は母艦支援隊として出撃したが、現在、空母飛龍、瑞鶴の護衛は第十駆逐隊に任せていた。
 ルンガ沖に布陣した艦隊は、現状で日本海軍が投入出来る最強の水上砲戦部隊である。
 ガダルカナルへと戦力を集中させようとする山本五十六の努力が垣間見える編成であった。
 これら三部隊はルンガ沖から東へと、射撃隊、直衛隊、掃討隊の順で展開していた。
 射撃隊は前述の通り、ガダルカナル島-フロリダ島間を単縦陣で遊弋し、南北方向への往復を繰り返してルンガ沖へと続く海峡を封鎖している。
 直衛隊はその東側を守るように、やはり南北方向への往復を繰り返していた。射撃隊の西側面ががら空きとなってしまうが、敵艦隊はガダルカナル島東方からの突入を図ると考えられていたので、特に問題はないと判断されている。
 掃討隊は直衛隊のさらに東方、ガダルカナル島-マライタ島間のインディスペンサブル海峡方面での警戒に当たっていた。
 戦力の配置としては、昨夜の海戦で第二艦隊司令部が採ったものと大差はない。これは、日本海軍が戦前から温めてきた漸減邀撃作戦を応用したものだからである。
 ただ、昨夜との違いは前衛を務める掃討隊に高速戦艦が配備されていることであった。元来、日本海軍の漸減邀撃作戦では、高速戦艦は水雷戦隊と共に行動することが想定されていた。その役割は、戦艦の主砲火力と高い機動力によって、敵巡洋艦を撃破することである。
 そうした意味では、この夜の日本海軍の布陣の方が、昨夜の海戦時に比べて本来の漸減邀撃作戦で想定された戦力配置に近いことになる。
 山本としても、自身が否定したはずの戦術を、自分自身が用いることに、一種皮肉めいた感情を抱いていた。とはいえ、日本海軍が長年研究を重ねてきた漸減邀撃作戦を応用する以外に、現状で選べる戦術はなかった。漸減邀撃作戦に変わる戦術として山本が考えたのが空母機動部隊を利用した航空戦術であり、彼は水上戦闘において漸減邀撃作戦に代わる新たな戦術構想を抱いていたわけではないのだ。

「航空部隊が敵戦艦を撃沈したと聞き、艦隊将兵の士気は上がっております」

 砲術屋である宇垣参謀長が、傲然と胸を反らして言った。

「今度は我々が敵戦艦撃沈の殊勲を打ち立てるのだと、皆が腕を撫して敵艦隊の出現に備えております」

 彼の目は、興奮に輝いているようだった。宇垣のような砲術屋が、そして日本海軍が、長年待ち望んだ米戦艦との決戦の時が迫っているのである。彼のような人物にとって、興奮するなという方が無理であろう。
 山本は、普段は冷徹で傲岸不遜なこの参謀長が示したこうした態度に、意外ともいうべき思いを抱いていた。お気に入りの玩具で遊ぶことを親からようやく許されたような、どこか稚気めいたものを感じさせる宇垣の態度が上司である山本には意外に見えたのだ。
 あるいは、それだけ山本という人物がこれまで宇垣の人間像を把握することを疎かにしていた証左でもあるのかもしれない。

「今夜は天候も回復し、R方面航空部隊からも支援は可能との報告を受けております」

 三輪義勇作戦参謀が、宇垣の説明を引き継いだ。

「すでにレカタ基地より水偵が発進し、ガダルカナル東方海面にて索敵を開始しております。また、本艦を初め、各艦では弾着観測用の水偵の発進準備も完了し、敵艦隊の出現と共に発進する手筈となっております」

「昨夜のような混戦にはならんだろうね?」

 山本は、一つの懸念材料を示した。
 昨夜は敵艦隊を撃退出来たとはいえ、一歩間違えれば敵のルンガ沖突入を許していた。再びそのような事態に陥れば、ガダルカナル島の保持はおろか、山本の企図している米戦艦の撃滅という作戦目的も達成出来なくなってしまう。

「水偵による索敵が可能なため、その可能性は低いかと思います」

 三輪が答える。

「ならば、よかろう」山本は頷いた。「では、敵艦隊の出現前に、各艦に戦闘配食をなすように伝えてくれたまえ」

 しばらくして大和以下各艦の乗員に、戦闘配食として握り飯と沢庵が配られた。
 それは、決戦を前にしてのほんの一時の静寂であったのかもしれない。彼ら艦隊将兵の内、何人かは再び戦闘配食にありつくことが出来なかったのである。
 R方面航空隊の水偵がルンガ沖への突入を図るアメリカ艦隊を発見したのは、一九三〇時。
 日本艦隊がルンガ沖に展開してから、一時間半後のことであった。

  ◇◇◇

 ウィリス・A・リー少将率いる第六四任務部隊は、十三日二二〇〇時の飛行場砲撃を期して、ガダルカナルへの突入を図ろうとしていた。日本側の予想通り、インディスペンサブル海峡を経由してのルンガ沖突入を目指している。
 彼の艦隊は、ハルゼー中将の命令によって周辺の艦隊の戦力をかき集めた結果、昨夜よりも強化されていた。その編成は次の通りである。

第六四任務部隊  司令官:ウィリス・A・リー少将
【戦艦】〈サウスダコタ〉〈ノースカロライナ〉〈ワシントン〉
【重巡】〈ウィチタ〉〈タスカルーザ〉〈ソルトレイクシティ〉
【軽巡】〈サン・ファン〉〈サンディエゴ〉〈セントルイス〉〈リッチモンド〉
【駆逐艦】〈ウォーク〉〈グウィン〉〈ベンハム〉〈プレストン〉〈マハン〉〈モーレー〉〈ショー〉〈カンニンガム〉

 重巡ウィチタとタスカルーザ、軽巡セントルイス、駆逐艦マハン、モーレー、ショー、カンニンガムは撃沈された空母レンジャーを護衛していた第十六任務部隊に所属していたもの、重巡ソルトレイクシティとリッチモンドは真珠湾を発してガダルカナルへと向かう輸送船団の護衛を担当していたものである。
 戦力的には日本艦隊と互角か、レーダーを装備していることを加味すれば勝っているともいえる兵力であった。
 山本と同じく、ハルゼーも出来る限りの戦力を第六四任務部隊に集中させたのである。
 第六四任務部隊は、昼間は敵空襲圏外に退避しつつ艦隊の再編を行い、日没近くになってガダルカナルへと針路を取った。
 リーもハルゼーも、そして太平洋艦隊司令長官のニミッツも、今回の作戦の成否が太平洋のみならず大西洋の戦局にまで影響を及ぼすものであると理解していた。
 すでにトーチ作戦は延期され、そこに投入するはずだった空母レンジャーは失われている。重巡ウィチタとタスカルーザもまた、トーチ作戦に投入されるはずであった戦力であり、彼女たちまで喪失した場合、今後の北アフリカ戦線に影響が出ることだろう。
 だが、それだけの覚悟を以ってアメリカはガダルカナル島を奪回しなければならなかった。オーストラリアが連合国から脱落するということは、連合国陣営そのものにとって打撃となってしまうからだ。

「潜水艦トラウト及びコーストウォッチャーからの報告では、南下中の日本艦隊は戦艦一、巡洋艦二を基幹とする艦隊であることが判明しております」

 旗艦ワシントンにて、リーの幕僚が報告した。
 コーストウォッチャーとは、ソロモン諸島に配置された連合国の沿岸監視員のことである。彼らによって、ガダルカナルへと向かう日本艦隊や航空部隊の動向はある程度掴むことが出来る。

「また、未確認の情報ではありますが、傍受した敵通信から、敵艦隊はグランド・フリート司令長官のヤマモトが率いている可能性が高いという南太平洋方面軍からの報告もあります」

「ヤマモトが?」リーは意外そうに聞き返した。「ツシマでのトーゴーの真似事でもしようというのかね?」

 だとしたら、自分は断じてロジェトヴェンスキー提督のようにはなるまいと思った。

「ここから、推定される敵戦力は、昨夜のコンゴウ・クラスも含めて戦艦三と巡洋艦、駆逐艦多数ということになります」

「コーストウォッチャーから、南下していたという敵戦艦の詳細情報は届いているかね?」

「いえ、敵戦艦の艦型までは判明していないようです」

「やむを得んか」

 リーはその学者的容貌をしかめた。
 とはいえ、彼は状況をそこまで悲観してはいなかった。この時点で、第六四任務部隊はインディアナに総員退艦命令が出されたことを知らない。だから、戦艦一隻を戦列から失ったことは確かに痛手ではあるが、致命的なものではないと感じている。
 相手は、巡洋戦艦改造のコンゴウ・クラスを中心とした艦隊である。正体不明の戦艦一隻が混じっていることがわずかな不安要素ではあるが、例え相手がジャップの新鋭戦艦であろうとも、こちらは新鋭戦艦を三隻も揃えているのである。レーダーという要素もあり、夜間砲戦において利は合衆国側にあると、リーは考えていた。
 彼は砲術の専門家であると共に、レーダーについても造詣の深い提督であり、レーダーさえあれば夜戦において日本艦隊に後れを取ることはないという信念の持ち主であった。
 唯一の懸念は昨夜のような混戦に陥って、麾下の戦艦部隊がその砲力を発揮出来ないことである。
 この問題に関しては、正直、リーとしても明確に防ぐ方法を思いついていない。ただ、TBS(艦隊内電話)の使用については、通信回線が飽和状態にならないよう、各艦長に使用制限を課している。基本的には、リーから各艦へ命令を下す際にのみ使用されることになっているのだ。もし旗艦ワシントンへの通信が必要となった場合は戦隊司令官のみがTBSの使用を許されている。各艦長が個別にワシントンに通信することは禁じられていた。
 これで、昨夜のような指揮統制を失って混戦に陥る事態は防げるはずであった。
 また、艦隊陣形も、昨夜の教訓から前衛を強化するものとなっている。
 具体的には、まず、第六四任務部隊を巡洋艦部隊と戦艦部隊の二つに分離した。
 一つは、ロバート・ギッフェン少将率いる、重巡ウィチタ、タスカルーザ、ソルトレイクシティ、軽巡セントルイス、リッチモンド、駆逐艦マハン、モーレー、ショー、カンニンガムからなる部隊。
 もう一つが、リーの直率する戦艦ワシントン、ノースカロライナ、サウスダコタ、軽巡サン・ファン、サンディエゴ、駆逐艦ウォーク、グウィン、ベンハム、プレストンかなる部隊である。
 ギッフェンの部隊は実質的にキンケードが率いていた第十六任務部隊のものであり、第六四任務部隊との指揮系統の混乱を防ぐために敢えて分離したという面もある。
 さらに、戦艦部隊、巡洋艦部隊にそれぞれ駆逐艦の前衛を付けるという徹底ぶりである。ギッフェンの巡洋艦部隊はマハンとモーレーを前衛として配置し、リーの戦艦部隊は四隻の駆逐艦すべてを前衛に配置した。サン・ファン、サンディエゴは戦艦部隊の後方に配置し、万が一、敵水雷戦隊が戦艦部隊の背後を扼そうとした際には対応することになっている。
 サン・ファン、サンディエゴはアトランタ級軽巡洋艦であり、五インチ砲十六門を装備した強力な火力を誇る。二隻合計三十二門の砲力で敵水雷戦隊を撃退することを期待したのである。
 これら二つの部隊について、リーは戦艦部隊を左翼、巡洋艦部隊を右翼に配置していた。戦艦部隊はガダルカナル飛行場を砲撃するため、左側面への航行の自由度を高めておきたかったのである。

「レーダー室より報告、北西方向より接近中の機影を探知。機数は一の模様」

 その報告がなされたのは、一九三〇時を回りかけた頃のことである。

「味方機の可能性は低いですな」

 ワシントン艦長グレン・デイビス艦長が言った。

「うむ、恐らくジャップの偵察機だろう。一機ということならば、夜間爆撃の可能性もなかろう」

 リーが応じた。

「対空戦闘用意を命じますか?」

「……」

 デイビス大佐の問いに、リーは悩む素振りを見せた。対空砲火を上げるということは、敵に自らの存在を暴露するようなものだ。何もしなければ敵機はこちらに気付かず、素通りする可能性もある。

「……各艦に、対空戦闘用意を下命しろ」逡巡の末、リーは命じた。「ただし、旗艦からの許可があるまで発砲は禁じる」

 素通りするならばそれでよし、もし発見されたことが確実ならば撃墜する。そう考えた末の命令であった。

「アイ・サー」

 リーの命令はTBSによって第六四任務部隊の全艦に伝達された。
 しばらくは、静寂の時間が続く。この日の晩は、月の光が美しい熱帯の夜であった。その中を、黒々とした海を引き裂いてワシントン以下の艨艟が進んでいく。
 やがて、艦橋にいる者たちの耳にも航空機の発動機が出す低い音が届き始めた。

「……」

「……」

「……」

 リーやデイビスだけでなく、見張り員に至るまですべての艦橋要員が固唾を呑んで敵機の動向を見守っている。低い轟音が徐々に大きくなり、それが艦隊上空に達した時、彼らの緊張感は最高潮に達した。
 誰もが敵偵察機がそのまま通過することを祈っていた。
 しかし、その祈りは神へと届けられる前に、偵察機搭乗員によって遮られてしまった。

「敵機、艦隊上空で旋回を開始した模様!」

 見張り員からの報告がなくとも、轟音を聞いている人間は誰もが自分たちがジャップに捕捉されたことを知っただろう。

「対空戦闘開始!」

 デイビス艦長の号令一下、ワシントンの両舷に装備された五インチ連装両用砲が一斉に火を噴いた。それは、他の艦でも同じだった。一気に米艦隊はソロモン海の活火山へと変貌した。

「敵機、逃走を開始しました」

 だが、レーダー室からの報告は無情だった。

「……我々は、ジャップに捕捉されたようですな」

 無念さを滲ませた声で、デイビスが呟く。

「もとより、楽な戦いは期待しておらんさ」だが、リーは部下たちを鼓舞するために強気な態度を取った。「いずれ敵には発見される。それが遅いか早いかの違いでしかない。ジャップに我らの威容を示せたとでも思っておこうではないか」

 そう言って、彼はその知的な風貌に似合わぬ獰猛な笑みを見せた。

「我々は、ジャップの艦隊を撃破して、ガダルカナル飛行場を砲撃する。その作戦目標に変更はない。諸君の力を以ってすれば、敵艦隊を撃滅は可能であると信じている」

 リーは眼鏡の奥の瞳に闘魂を宿して、艦橋の将兵を見回した。
 誰もが緊張と不安と興奮の混ざった表情をしている。

「諸君の上に、主のご加護があらんことを!」

 リーは力強く言葉を発した。
 これより先、第六四任務部隊は戦闘態勢を整えたまま、ルンガ沖への突入を開始することとなる。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 米艦隊が航行している海域と異なり、ガダルカナル島沖の天候は、日本側の予測に反して悪化を始めていた。時間が経過するにつれ、それまで晴れていた上空に雲がかかりはじめたのである。
 だが、水偵による敵艦隊への接触は継続しており、大和以下の艦艇は米艦隊の動向をある程度掴むことに成功していた。
 しかし、二〇五七時、スコールの来襲によって水偵は米艦隊を一時的に見失ってしまう。再び接触を回復したのは、二一一九時であった。

「戦艦三、巡洋艦二、駆逐艦四ヲ見ユ。位置、ガ島ヨリノ方位一一〇度。距離二〇浬。速力二十ノット」

 水偵からの緊急通信は、全艦で受信された。そして、さらに続報がもたらされる。

「其ノ北西ニ巡洋艦四、駆逐艦五ヲ見ユ。速力二十ノット」

 ガダルカナルの東方二〇浬というのは、アメリカ艦隊がガダルカナルへかなり接近していることを示していた。

「敵艦隊が二隊に分かれているというのは、一九三〇時の報告と変わりありませんな」

 大和艦橋で、黒島亀人先任参謀が呟いた。

「敵も、我々と同じく戦艦部隊と水雷戦隊を分けているということだろう」その言葉に、宇垣が応じる。「敵速力が二十ノットで、二〇浬の地点にいるということは、我が射撃隊との接敵は一時間後ということだ。我々より五浬ほど東方で警戒を続けている掃討隊との接触は、それよりも早まるだろう」

「うむ。掃討隊も水偵の電文を受信していると思うが、改めて警告を発したまえ」

 長官席に腰掛ける山本が命じた。混戦となる可能性を出来るだけ低減するための措置は、取れるだけとっておきたいという彼の意思が見える命令だった。

「参謀長、現状、視界はどの程度かね?」

「雲の具合にもよりますが、おおむね一〇キロメートルから十五粁です」

「かなりの近接戦闘になりそうだね」

「はい」

 日本海軍が戦艦の砲戦距離として想定していたのは、自艦の測距儀で十分な観測・射撃精度が出せる二十五キロ前後である。現状の視界は、それよりも十キロほど短いことになる。戦艦にとってはかなりの至近距離であった。大和であっても、垂直防御装甲を貫通される危険性がある。

「なるべく速やかに決着を付けなければならないということだね?」

「はい、その通りです」

「では、この艦の性能に期待させて貰うとしよう」

 そう言った山本の顔を、宇垣は不思議なものを見るような目で見つめた。今まで頑なに航空主兵主義を唱えていたというのに、ミッドウェー海戦やガダルカナルを巡る攻防戦によって、多少の思想的変化があったのかもしれないと思っている。
 実際、このソロモンにおける攻防戦は、日米両海軍のその後の戦術に大きな影響を与えることになったのである。
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