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第十章 未完の新秩序編
197 混沌の季節
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徐々に夏の暑さが和らぎ始め、夜も過ごしやすくなってきている九月の中頃、景紀たちは河越城の奥御殿(城主の私的空間。公的空間は表御殿)の縁側にて月見を楽しんでいた。
太陽暦である皇暦では、旧暦との関係でおおむね毎年九月が中秋の名月となる。
「こうして皆様で月を見ていますと、また違った趣がありますね」
御殿の庭園を照らす月を見上げながら、宵がしみじみと言った。
澄んだ空気と晴れた夜空が、空に浮かぶ月を鮮やかに彩っている。
宵にとっては、景紀の元に嫁いでから始めて皆で過ごす中秋節であった。昨年は景紀たちが対斉戦役で出征していたため、皆で集まって月を観賞することなど出来なかったのだ。
景紀や冬花、貴通らと見る月は、故郷の鷹前で母と二人だけで見ていた月とはまた違った趣を湛えていた。
「ああ、この月を見るのに二年かかっちまうとはな」
ちょっとだらしなく縁側の柱に背を預けて座りながら、景紀もまた月を見上げていた。
宵が景紀の元に嫁いできてからもうすぐ二年が経とうとしているが、二人が共にいられた時間はそれよりも短い。
そして、穏やかに月見を楽しむには、依然として頭を悩ませる問題が多すぎた。
「でもまあ、趣深いのは天上だけで、地上は趣深いとはちっとも言えないのが悩みどころだが」
「やはり、頼朋翁が倒れられたことは大きいですか?」
景紀のぼやきを、宵が受け止める。
「ああ、やっぱり一番の実力者にして調停役がいなくなったってのは大きいな」六家次期当主の少年は嘆息した。「その所為で叔父上が何やら動き出すし、新八さんからは攘夷派が何だか勢いづいてるって情報もあるし」
「五摂家の方も、伊丹・一色両公に接近しつつ、何やら他の公家への働きかけを行っているようです」
景紀に合せるように、貴通も溜息交じりにそう言った。
「先月の攘夷派による事件以来、皇都のきな臭さが増してきたわね」
「この状況で満洲利権問題を解決させたところで、実はあまり混乱の収拾には役立たないだよなぁ」
冬花の言葉に、景紀は頭の後ろで手を組んだ。
「攘夷派をどうにかしないとならんのだが、その攘夷派の手綱を伊丹・一色両公もとれなくなっている印象が強い。あの二人も急進的な攘夷派には手を焼いているのかもしれんが、自業自得で片付けられないのが困ったところだな。こっちも迷惑をこうむっている」
「その意味では、三国干渉やルーシー帝国の武力南進は国内の世論動向という点では痛手でしたね」
「だな」
貴通の言葉に、景紀が頷く。
実際、三国干渉によって国内の反ルーシー感情、反ヴィンランド感情は高まっている。そうした世論の動向が、攘夷派が一定程度、民衆から支持を受ける原因となってしまった。
これまで、攘夷派は自らの背後に伊丹公・一色公がついていると考えていた。そうしたところに、攘夷派の主張を裏付けるような三国干渉やルーシー帝国の武力南進である。
自らの主張の正しさが証明されたと考え、伊丹公や一色公、そして国民からの支持を受けていると思い込んだ攘夷派が、行動をさらに過激化させるという危険性が予測された。
そのために、頼朋翁の仕掛けた攘夷派内部での分裂・抗争を生じさせるための工作も、目に見えた成果を挙げられていない。
「まあ、数日後には有馬貞朋公が内地に帰ってくるって言うから、そこで上手く伊丹公や一色公、それに長尾公を牽制して国内の混乱を収めていかないとな」
恐らく今年の冬は穏やかに過ごせないだろうな、と景紀は辟易としながら思っていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
景紀の言う通り、皇都での攘夷派による騒擾事件は続いていた。
まず九月五日、攘夷派による横浦正金銀行頭取暗殺事件が発生したのである。
横浦正金銀行は、貿易決済・貿易金融・外国為替などを担当する政府系金融機関(特殊銀行)であった。
斬奸状には、正金銀行頭取を外国との貿易によって国内の金を夷狄に流出させている国賊と批難する言葉が書き連ねられていた。
しかし、正金銀行は政府系金融機関であり、いうなれば六家の影響下にある銀行でもあった。
さらにこの時期、六家は対ルーシー戦役を想定して冬季軍装用の羊毛の大量買い付けを始めていた。そのためにも、正金銀行の存在は重要であった。
そうした最中に頭取が暗殺されたことの衝撃は大きく、攘夷派から盟主のように見られている六家当主・伊丹正信ですら彼ら攘夷派を統制することが困難となっていることは明らかであった。
下手人である攘夷派浪士は警察に堂々と出頭し、取り調べに対しても自らの行動を義挙であると主張し続けたという。
さらに九月十九日には、皇主に対して西洋史を進講した経歴を持つ皇都大学の教授が殺害される事件が発生した。
これもやはり、皇主に対して西洋史を進講したことが攘夷派の反感を買ったためであった。
伊丹正信と一色公直は八月十二日の軍監本部長暗殺未遂事件直後、攘夷派の手綱を握りしめる必要性について互いに意見を一致させていたものの、事ここに至りそれが困難であることを自覚させられたのである。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「まったく、一部の狂犬じみた者どもはどうにかならんのか?」
馴染みの料亭で酒を煽りながら、伊丹正信は吐き捨てるように言った。向かいで料理を食べている一色公直の顔も、渋いものであった。
「攘夷派浪士ですが、いささか見境がなくなりつつあります。あるいは、攘夷にかこつけて仕官先を見つけられない鬱憤晴らしをしている可能性も」
「そんな連中はマフムート朝にでも送ってしまえばいいのだ。武勲を立てる機会ならば、あの地でいくらでも巡ってこよう」
「そう考えている牢人どもは傭兵となり、他国に行くことに及び腰となっている冒険心のない連中が、未だ皇都近辺をうろついているということなのでしょう」
二人の六家当主は攘夷派であるが故に、皇都で人斬りを繰り返す急進攘夷派の取り締りを躊躇していた。
六家会議でそのようなことを言い出せば、他の六家から変節漢と誹られかねない。六家当主としての面子の上からも、攘夷派浪士の取り締りを言い出すことは出来なかった。
かといって、他家が攘夷派浪士の取り締りを提言した場合、やはり攘夷派の立場から反対せざるを得ない。その取り締りの対象が、攘夷派浪士に留まらず攘夷派政党の院外団を構成する壮士にまで拡大してしまった場合、伊丹正信も一色公直も議会において自らが使嗾する勢力を失ってしまうからだ。
まさしく、攘夷を唱えているが故の自縄自縛に陥っていた。
「秋津・アルビオン協約に伴って発した勅語も、かえって一部の急進攘夷派にとっては逆効果となったようですから、尊皇思想が強い連中もまた考えものでしょう」
東南アジア地域における秋津皇国、アルビオン連合王国の勢力圏を定めた協約が調印されたのは七月三十日。その後、八月二十六日に協約に関する勅語が発せられた。
「朕惟フニ皇国ト連合王国トハ百五十年来親善ノ輿国ナリ」と皇国と連合王国とが初めて通商条約を結んでから約一五〇年以上が経っていることを示した上で、「両国ノ親交ヲ厚クシ東西ノ平和ト康寧トヲ確保スルハ最モ緊要ナルヲ顧ヒ朕カ政府ヲシテ連合王国ト交渉セシメ今ヤ協約成ル」と結ばれる勅語は、六家会議で原案が策定されたものであった。
あくまでもアルビオン連合王国との親善友好を謳う勅語の内容に、急進攘夷派の一部が反発していたのである。伊丹正信や一色公直は、この協約によって最も有力な西洋列強であるアルビオン連合王国に東亜新秩序を認めさせたと攘夷派を説得したものの、一部の人間たちは六家会議において両公が有馬頼朋翁に押し切られたと考えているようだった。
そのため、尊皇思想の強い一部の急進攘夷派は頼朋翁への憎悪を増幅させると同時に、奸臣によって起案された(と、彼らは信じている)この勅語を無視した。
いったい彼らの唱える尊皇思想とは何なのか、皇主に西洋史を進講した皇都大学の教授が殺害されたこともあって、伊丹正信も一色公直も頭を抱えざるを得なかった。
「連中は、儂のことを何だと思っておるのだ」
武家の頂点に立つ六家の当主として、これまで攘夷派から盟主のように見られていた伊丹正信は、苛立ちを隠し切れなかった。最近では、その“盟主”の意向を無視して独自の行動に走る攘夷派が目立っていた。
このまま攘夷派浪士によって皇都の治安が悪化すれば、六家としても鼎の軽重を問われかねない。
急進攘夷派による凶行は、かえって正信の立場を危うくしかねないものであった。
「最近では、家臣団の様子にも気を配らねばならなくなった。例の軍監本部長暗殺未遂事件の所為だ」
伊丹家家臣団出身の陸軍中佐が引き起こした川上荘吉軍監本部長暗殺未遂事件は、家臣が主君の意志を独自に解釈したために引き起こされたものと言える。
こうした者たちの存在も、正信にとっては不確定要素であった。例の中佐の身柄は伊丹家が引き取り領地に送還した上で蟄居を命じたが、切腹を申し付けるまでには至っていない。皇都の攘夷派浪士を取り締ることが出来ないのと同じように、自らの変節を疑われることを恐れているからだ。
「卿としては、この状況をどうすべきと考える?」
「我らに従わない急進攘夷派、特に浪士連中は消えてもらうべきかと」
一切の躊躇なく、一色公直は答えた。
挙国一致の幕府的存在の下に権力を一本化すべきと考えている彼にとって、志を同じくする攘夷派とはいえ、自らに従わない者たちは排除の対象でしかなかった。
だが、伊丹正信は渋面を作った。
「確かに、我らの持つ隠密衆を使えば特に過激な連中は始末するこが出来るだろうが、かえって攘夷派の分裂を印象づける結果となりかねん。今は我ら攘夷派が政治的主導権を握るべき時、他の六家に下手な攻撃材料を与えるわけにはいかんのだ」
「判っております」
一色公直も、攘夷派の分裂を印象づけるのはこの状況下では他の六家に付け入る隙を与えるだけであることは理解していた。
その上で、彼は続ける。
「ですから、殺害の責任を他の者に押し付けるのです。私はそれに、結城の小倅が一番適切であると考えております」
「ふむ」
正信は興味を持ったようで、少し身を乗り出した。
「殺害方法は隠密衆による暗殺ではなく、呪術師による呪殺とします。あの男が側に呪術師の娘を侍らせていることは、多くの者が知っております。それを利用し、結城景紀があの娘を使って攘夷派を呪い殺させていることにしてしまうのです」
呪詛は律令の昔より禁術とされている。皇族ですら罪に問われるほど、その罪は重い。
「我が家と御家に仕えるそれぞれの呪術師に、密かに呪詛を行わせて過激派連中を一掃し、その上でそれをあの混じりもの小娘の仕業に仕立て上げるのです」
「ふむ、呪詛を命じたということであの小倅を廃嫡、上手く行けば自裁に追い込めるか」
「それだけではありません」公直は言葉に力を込めた。「呪術というものの価値を、今一度、世の者たちに問い直すことが出来ます。今次戦役で呪術師による大規模破壊術式や瘴気という戦術に有効性があることが証明されてしまいましたが、私に言わせればそれは武人の戦い方ではありません。民衆に呪詛を使うことの出来る呪術師というものの危険性について再認識させ、呪術師たち自身にも己の持つ力の使い方について今一度自らを律する契機とすることが出来ます」
「そういえば卿は、呪術を“旧い力”と考えっておったな」
「はい、確かに今の科学・医学では呪術の方に優位性のある分野も存在します。しかし、科学が呪術の様々な分野を超越してきたように、いずれあらゆる分野で科学の優位性が確実となるでしょう。今さら、古代のような呪術重視主義に戻ってしまうような考えが出てくるのは阻止せねばなりません」
「卿の考えは理解した。確かに急進攘夷派、結城の小倅、そして呪術師の問題、それを一挙に解決出来る妙案であるように思えるが、一方で呪詛の首謀者が我らであることが露見すれば破滅するのは我ら方だ。皇都は、宮内省御霊部の領域でもある」
正信は一色公直の策の有用性は認めつつも、即座に容認する気にはなれなかった。この男が一度、結城景紀の暗殺に失敗していることも、この伊丹家当主の精神に影響を与えているのかもしれない。
「以前の情報にもありました通り、混じりものの小娘の父は娘の戦場での行動に否定的です」
一方の一色公直は、なおも言葉を続けた。
「結城景秀などを使い、上手く小娘の父親をこちら側に取り込むことで、結城家の内部勢力と呼応して葛葉冬花に呪詛の罪を被せることが出来ると考えますが?」
「仮にも一家の当主が主君を裏切り、娘を売るようなことをするだろうか?」
「葛葉家を継ぐのが息子の鉄之介なる少年である以上、娘を切り捨てて一家の安泰を図るという判断を下す可能性もありましょう。そこは、我らの説得と工作次第かと」
「ふぅむ……」
しかし、なおも正信は一色公直の策に難色を示していた。
確かに成功すれば有馬頼朋翁が消えた今、政治的に最も目障りな結城景紀を排除することが出来る。それは伊丹正信の望みでもあった。
有馬頼朋翁が倒れたと聞いた時、正信は内心でほくそ笑むと同時に同じようなことが我が身にも降りかかる可能性を考えずにはいられなかった。彼自身もまた、それなりの年齢であったからだ。
攘夷思想を六家の次代に継がせるためにも、将来的に一色公直の政敵となり得る結城景紀を今のうちに排除しておくことは必要であった。
そうでなければ、正信も安心して次代に託すことが出来ない。
しかし、一色公直の策は失敗した際の危険が大き過ぎた。
「儂のところの術師にも少し意見を求めてみる」
結局、彼としてはそう言うしかない。
「ただし、万が一にも我らに累が及ばぬ形で狂犬どもを排除する策も考えるべきであろう。それに、近日中には有馬貞朋も皇都に帰ってくる。六家会議や十二月から始まる列侯会議常会の対策も立てねばならん」
有馬頼朋翁の不在による政治権力の空白。
それが生み出そうとしていたのは、伊丹正信による政治的主導権の奪取ではなく、出口の見えない混沌であった。
太陽暦である皇暦では、旧暦との関係でおおむね毎年九月が中秋の名月となる。
「こうして皆様で月を見ていますと、また違った趣がありますね」
御殿の庭園を照らす月を見上げながら、宵がしみじみと言った。
澄んだ空気と晴れた夜空が、空に浮かぶ月を鮮やかに彩っている。
宵にとっては、景紀の元に嫁いでから始めて皆で過ごす中秋節であった。昨年は景紀たちが対斉戦役で出征していたため、皆で集まって月を観賞することなど出来なかったのだ。
景紀や冬花、貴通らと見る月は、故郷の鷹前で母と二人だけで見ていた月とはまた違った趣を湛えていた。
「ああ、この月を見るのに二年かかっちまうとはな」
ちょっとだらしなく縁側の柱に背を預けて座りながら、景紀もまた月を見上げていた。
宵が景紀の元に嫁いできてからもうすぐ二年が経とうとしているが、二人が共にいられた時間はそれよりも短い。
そして、穏やかに月見を楽しむには、依然として頭を悩ませる問題が多すぎた。
「でもまあ、趣深いのは天上だけで、地上は趣深いとはちっとも言えないのが悩みどころだが」
「やはり、頼朋翁が倒れられたことは大きいですか?」
景紀のぼやきを、宵が受け止める。
「ああ、やっぱり一番の実力者にして調停役がいなくなったってのは大きいな」六家次期当主の少年は嘆息した。「その所為で叔父上が何やら動き出すし、新八さんからは攘夷派が何だか勢いづいてるって情報もあるし」
「五摂家の方も、伊丹・一色両公に接近しつつ、何やら他の公家への働きかけを行っているようです」
景紀に合せるように、貴通も溜息交じりにそう言った。
「先月の攘夷派による事件以来、皇都のきな臭さが増してきたわね」
「この状況で満洲利権問題を解決させたところで、実はあまり混乱の収拾には役立たないだよなぁ」
冬花の言葉に、景紀は頭の後ろで手を組んだ。
「攘夷派をどうにかしないとならんのだが、その攘夷派の手綱を伊丹・一色両公もとれなくなっている印象が強い。あの二人も急進的な攘夷派には手を焼いているのかもしれんが、自業自得で片付けられないのが困ったところだな。こっちも迷惑をこうむっている」
「その意味では、三国干渉やルーシー帝国の武力南進は国内の世論動向という点では痛手でしたね」
「だな」
貴通の言葉に、景紀が頷く。
実際、三国干渉によって国内の反ルーシー感情、反ヴィンランド感情は高まっている。そうした世論の動向が、攘夷派が一定程度、民衆から支持を受ける原因となってしまった。
これまで、攘夷派は自らの背後に伊丹公・一色公がついていると考えていた。そうしたところに、攘夷派の主張を裏付けるような三国干渉やルーシー帝国の武力南進である。
自らの主張の正しさが証明されたと考え、伊丹公や一色公、そして国民からの支持を受けていると思い込んだ攘夷派が、行動をさらに過激化させるという危険性が予測された。
そのために、頼朋翁の仕掛けた攘夷派内部での分裂・抗争を生じさせるための工作も、目に見えた成果を挙げられていない。
「まあ、数日後には有馬貞朋公が内地に帰ってくるって言うから、そこで上手く伊丹公や一色公、それに長尾公を牽制して国内の混乱を収めていかないとな」
恐らく今年の冬は穏やかに過ごせないだろうな、と景紀は辟易としながら思っていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
景紀の言う通り、皇都での攘夷派による騒擾事件は続いていた。
まず九月五日、攘夷派による横浦正金銀行頭取暗殺事件が発生したのである。
横浦正金銀行は、貿易決済・貿易金融・外国為替などを担当する政府系金融機関(特殊銀行)であった。
斬奸状には、正金銀行頭取を外国との貿易によって国内の金を夷狄に流出させている国賊と批難する言葉が書き連ねられていた。
しかし、正金銀行は政府系金融機関であり、いうなれば六家の影響下にある銀行でもあった。
さらにこの時期、六家は対ルーシー戦役を想定して冬季軍装用の羊毛の大量買い付けを始めていた。そのためにも、正金銀行の存在は重要であった。
そうした最中に頭取が暗殺されたことの衝撃は大きく、攘夷派から盟主のように見られている六家当主・伊丹正信ですら彼ら攘夷派を統制することが困難となっていることは明らかであった。
下手人である攘夷派浪士は警察に堂々と出頭し、取り調べに対しても自らの行動を義挙であると主張し続けたという。
さらに九月十九日には、皇主に対して西洋史を進講した経歴を持つ皇都大学の教授が殺害される事件が発生した。
これもやはり、皇主に対して西洋史を進講したことが攘夷派の反感を買ったためであった。
伊丹正信と一色公直は八月十二日の軍監本部長暗殺未遂事件直後、攘夷派の手綱を握りしめる必要性について互いに意見を一致させていたものの、事ここに至りそれが困難であることを自覚させられたのである。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「まったく、一部の狂犬じみた者どもはどうにかならんのか?」
馴染みの料亭で酒を煽りながら、伊丹正信は吐き捨てるように言った。向かいで料理を食べている一色公直の顔も、渋いものであった。
「攘夷派浪士ですが、いささか見境がなくなりつつあります。あるいは、攘夷にかこつけて仕官先を見つけられない鬱憤晴らしをしている可能性も」
「そんな連中はマフムート朝にでも送ってしまえばいいのだ。武勲を立てる機会ならば、あの地でいくらでも巡ってこよう」
「そう考えている牢人どもは傭兵となり、他国に行くことに及び腰となっている冒険心のない連中が、未だ皇都近辺をうろついているということなのでしょう」
二人の六家当主は攘夷派であるが故に、皇都で人斬りを繰り返す急進攘夷派の取り締りを躊躇していた。
六家会議でそのようなことを言い出せば、他の六家から変節漢と誹られかねない。六家当主としての面子の上からも、攘夷派浪士の取り締りを言い出すことは出来なかった。
かといって、他家が攘夷派浪士の取り締りを提言した場合、やはり攘夷派の立場から反対せざるを得ない。その取り締りの対象が、攘夷派浪士に留まらず攘夷派政党の院外団を構成する壮士にまで拡大してしまった場合、伊丹正信も一色公直も議会において自らが使嗾する勢力を失ってしまうからだ。
まさしく、攘夷を唱えているが故の自縄自縛に陥っていた。
「秋津・アルビオン協約に伴って発した勅語も、かえって一部の急進攘夷派にとっては逆効果となったようですから、尊皇思想が強い連中もまた考えものでしょう」
東南アジア地域における秋津皇国、アルビオン連合王国の勢力圏を定めた協約が調印されたのは七月三十日。その後、八月二十六日に協約に関する勅語が発せられた。
「朕惟フニ皇国ト連合王国トハ百五十年来親善ノ輿国ナリ」と皇国と連合王国とが初めて通商条約を結んでから約一五〇年以上が経っていることを示した上で、「両国ノ親交ヲ厚クシ東西ノ平和ト康寧トヲ確保スルハ最モ緊要ナルヲ顧ヒ朕カ政府ヲシテ連合王国ト交渉セシメ今ヤ協約成ル」と結ばれる勅語は、六家会議で原案が策定されたものであった。
あくまでもアルビオン連合王国との親善友好を謳う勅語の内容に、急進攘夷派の一部が反発していたのである。伊丹正信や一色公直は、この協約によって最も有力な西洋列強であるアルビオン連合王国に東亜新秩序を認めさせたと攘夷派を説得したものの、一部の人間たちは六家会議において両公が有馬頼朋翁に押し切られたと考えているようだった。
そのため、尊皇思想の強い一部の急進攘夷派は頼朋翁への憎悪を増幅させると同時に、奸臣によって起案された(と、彼らは信じている)この勅語を無視した。
いったい彼らの唱える尊皇思想とは何なのか、皇主に西洋史を進講した皇都大学の教授が殺害されたこともあって、伊丹正信も一色公直も頭を抱えざるを得なかった。
「連中は、儂のことを何だと思っておるのだ」
武家の頂点に立つ六家の当主として、これまで攘夷派から盟主のように見られていた伊丹正信は、苛立ちを隠し切れなかった。最近では、その“盟主”の意向を無視して独自の行動に走る攘夷派が目立っていた。
このまま攘夷派浪士によって皇都の治安が悪化すれば、六家としても鼎の軽重を問われかねない。
急進攘夷派による凶行は、かえって正信の立場を危うくしかねないものであった。
「最近では、家臣団の様子にも気を配らねばならなくなった。例の軍監本部長暗殺未遂事件の所為だ」
伊丹家家臣団出身の陸軍中佐が引き起こした川上荘吉軍監本部長暗殺未遂事件は、家臣が主君の意志を独自に解釈したために引き起こされたものと言える。
こうした者たちの存在も、正信にとっては不確定要素であった。例の中佐の身柄は伊丹家が引き取り領地に送還した上で蟄居を命じたが、切腹を申し付けるまでには至っていない。皇都の攘夷派浪士を取り締ることが出来ないのと同じように、自らの変節を疑われることを恐れているからだ。
「卿としては、この状況をどうすべきと考える?」
「我らに従わない急進攘夷派、特に浪士連中は消えてもらうべきかと」
一切の躊躇なく、一色公直は答えた。
挙国一致の幕府的存在の下に権力を一本化すべきと考えている彼にとって、志を同じくする攘夷派とはいえ、自らに従わない者たちは排除の対象でしかなかった。
だが、伊丹正信は渋面を作った。
「確かに、我らの持つ隠密衆を使えば特に過激な連中は始末するこが出来るだろうが、かえって攘夷派の分裂を印象づける結果となりかねん。今は我ら攘夷派が政治的主導権を握るべき時、他の六家に下手な攻撃材料を与えるわけにはいかんのだ」
「判っております」
一色公直も、攘夷派の分裂を印象づけるのはこの状況下では他の六家に付け入る隙を与えるだけであることは理解していた。
その上で、彼は続ける。
「ですから、殺害の責任を他の者に押し付けるのです。私はそれに、結城の小倅が一番適切であると考えております」
「ふむ」
正信は興味を持ったようで、少し身を乗り出した。
「殺害方法は隠密衆による暗殺ではなく、呪術師による呪殺とします。あの男が側に呪術師の娘を侍らせていることは、多くの者が知っております。それを利用し、結城景紀があの娘を使って攘夷派を呪い殺させていることにしてしまうのです」
呪詛は律令の昔より禁術とされている。皇族ですら罪に問われるほど、その罪は重い。
「我が家と御家に仕えるそれぞれの呪術師に、密かに呪詛を行わせて過激派連中を一掃し、その上でそれをあの混じりもの小娘の仕業に仕立て上げるのです」
「ふむ、呪詛を命じたということであの小倅を廃嫡、上手く行けば自裁に追い込めるか」
「それだけではありません」公直は言葉に力を込めた。「呪術というものの価値を、今一度、世の者たちに問い直すことが出来ます。今次戦役で呪術師による大規模破壊術式や瘴気という戦術に有効性があることが証明されてしまいましたが、私に言わせればそれは武人の戦い方ではありません。民衆に呪詛を使うことの出来る呪術師というものの危険性について再認識させ、呪術師たち自身にも己の持つ力の使い方について今一度自らを律する契機とすることが出来ます」
「そういえば卿は、呪術を“旧い力”と考えっておったな」
「はい、確かに今の科学・医学では呪術の方に優位性のある分野も存在します。しかし、科学が呪術の様々な分野を超越してきたように、いずれあらゆる分野で科学の優位性が確実となるでしょう。今さら、古代のような呪術重視主義に戻ってしまうような考えが出てくるのは阻止せねばなりません」
「卿の考えは理解した。確かに急進攘夷派、結城の小倅、そして呪術師の問題、それを一挙に解決出来る妙案であるように思えるが、一方で呪詛の首謀者が我らであることが露見すれば破滅するのは我ら方だ。皇都は、宮内省御霊部の領域でもある」
正信は一色公直の策の有用性は認めつつも、即座に容認する気にはなれなかった。この男が一度、結城景紀の暗殺に失敗していることも、この伊丹家当主の精神に影響を与えているのかもしれない。
「以前の情報にもありました通り、混じりものの小娘の父は娘の戦場での行動に否定的です」
一方の一色公直は、なおも言葉を続けた。
「結城景秀などを使い、上手く小娘の父親をこちら側に取り込むことで、結城家の内部勢力と呼応して葛葉冬花に呪詛の罪を被せることが出来ると考えますが?」
「仮にも一家の当主が主君を裏切り、娘を売るようなことをするだろうか?」
「葛葉家を継ぐのが息子の鉄之介なる少年である以上、娘を切り捨てて一家の安泰を図るという判断を下す可能性もありましょう。そこは、我らの説得と工作次第かと」
「ふぅむ……」
しかし、なおも正信は一色公直の策に難色を示していた。
確かに成功すれば有馬頼朋翁が消えた今、政治的に最も目障りな結城景紀を排除することが出来る。それは伊丹正信の望みでもあった。
有馬頼朋翁が倒れたと聞いた時、正信は内心でほくそ笑むと同時に同じようなことが我が身にも降りかかる可能性を考えずにはいられなかった。彼自身もまた、それなりの年齢であったからだ。
攘夷思想を六家の次代に継がせるためにも、将来的に一色公直の政敵となり得る結城景紀を今のうちに排除しておくことは必要であった。
そうでなければ、正信も安心して次代に託すことが出来ない。
しかし、一色公直の策は失敗した際の危険が大き過ぎた。
「儂のところの術師にも少し意見を求めてみる」
結局、彼としてはそう言うしかない。
「ただし、万が一にも我らに累が及ばぬ形で狂犬どもを排除する策も考えるべきであろう。それに、近日中には有馬貞朋も皇都に帰ってくる。六家会議や十二月から始まる列侯会議常会の対策も立てねばならん」
有馬頼朋翁の不在による政治権力の空白。
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
冤罪だと誰も信じてくれず追い詰められた僕、濡れ衣が明るみになったけど今更仲直りなんてできない
一本橋
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女子の体操着を盗んだという身に覚えのない罪を着せられ、僕は皆の信頼を失った。
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