秋津皇国興亡記

三笠 陣

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第九章 混迷の戦後編

164 講和問題

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 皇暦八三六年四月八日、燕京・紫禁城の承天門(紫禁城正門)にて、皇国軍による燕京入城式が行われた。
 燕京内城の南門である正陽門から、紫禁城を取り巻く皇城区画の南側に設置された承天門まで、景紀ら挺身降下隊の者を先頭に皇国軍による行進が行われたのだ。
 その様子を、冬花が水晶球にて映像記録に撮っている。
 海軍陸戦隊の将兵も含めて一万に満たない数ではあったが、皇国が燕京を占領下に置いていることを誇示することには成功していた。
 恭親王奕愷が開城を申し出たことで、陸戦隊は最小限の犠牲で中華帝国の都を占領することに成功していた。
 ただし問題は、燕京に軍政を敷くには陸戦隊の兵力が不足していたことである。
 八日時点で燕京に到着していたのは、陸戦隊一個旅団約六〇〇〇名に過ぎなかった。これでは、占領統治は行えない。
 燕京の城内およびその周辺には、一〇〇万人以上の人口が密集する地域なのである。
 皇国軍から逃れようと都を脱しようとする人々、さらには皇帝が皇国軍によって討ち取られたなどという流言飛語が飛び交ったことで、この一〇〇万の人々は大いに混乱していた。
 その混乱は、六〇〇〇の兵力では収拾出来るものではなかったし、そもそも海軍陸戦隊は占領統治を行えるだけの能力がなかった。
 海軍陸戦隊は、帆船時代の接舷移乗戦から発展した組織であったため、あくまでも戦闘そのものに特化した部隊だったからである。
 占領地の維持、管理は陸軍の役割であった。そのため、陸戦隊の占領した地域を維持するための陸軍部隊(後備役)が、すでに大沽に到着していた。
 しかし、港湾設備の整っていない大沽で兵員や物資の揚陸などに手間取っており、燕京到着は時間がかかりそうであった。
 そのため、陸軍側の人間である景紀と陸戦隊司令官が燕京の占領方針について協議した末、斉朝宮廷への牽制のために挺身降下隊および陸戦隊一個大隊を承天門(紫禁城第一門)と午門(紫禁城第二門)との間の区画に配置し、残りは燕京城外へと通ずる門に配置することで人の出入りだけを大まかに管理する方針とした。
 城内の治安維持は、あくまでも斉朝側の責任において行わせようとしたのである。
 それでも、この都市が皇国の占領下にあることを示すことは必要であった。
 そのために、入城式が行われたのである。
 皇国軍の実際の兵力を斉側に察知されないように、入城式には冬花による幻術も活用した。式に参加する兵士に幻術の術式を込めた呪符を持たせ、見る者に一人が四人にも五人にも認識されるようにしたのである。
 これに加えて、斉人居住区である内城の正門・正陽門と紫禁城正門・承天門、そして午門に翻る皇国旗によって燕京住民に皇国軍の武威を示し、占領下にある彼らへの牽制としたのである。

「何だか、酷い詐欺に加担している気分だわ」

 何百枚と幻術用の呪符を用意させられたからか、冬花が若干、恨めしげな目で景紀を見つめていた。

「まあ、住民に反抗されたら俺たちの兵力だと、あっという間に追い出されるからな。やむを得ないと諦めてくれ」

「せめて寒天版ヘクトグラフが使えることにもっと早く気付いていれば……」

「いや、俺も流石に呪符を複写したやつにも効果があるとは知らなかったからさ……」

 冬花がなおも恨めしげな視線を遣れば、景紀はばつが悪そうに視線を逸らした。
 冬花は呪符を書いている途中で、部隊が命令書の複写のためなどに保有していた寒天版の存在に気付いたのである。

「原本を私が書いて、私が霊力を込めながら寒天版を操作すれば、まあ何とかなるのよ。こんなやり方だと術式の効力は落ちるけど、どうせ入城式の間だけ持てばいいような呪符だったんだから。まったく、気付かなかったら何千枚単位で呪符を書かされることになっていたかと思うと、ぞっとするわ」

 本気で呪符数百枚分の労力を無駄にしたと考えているらしく、シキガミの少女の口調は辟易としていた。
 もっとも、それでも千枚以上の呪符の複写を冬花一人でやらざるを得なかったのだから、彼女が主君に不満を零すのも当然といえた(流石に複写物の裁断は景紀も手伝ったが)。

「しかしまあ、また遼東半島に戻るのが遅くなりそうですね」

 当面は燕京に駐留することになったため、陸戦隊との間で接収した皇城内の建物の割当について協議を終えてきた貴通が、そう言った。彼女の口調にも若干、愚痴めいた響きがあった。

「交代は、大沽の陸軍部隊が燕京に到着してからだ。まあ、あと十日か二週間ほどの辛抱だ。我慢するしかない」

「流石にもう面倒事は起こらないわよね?」

「そう祈りたいところだが、こればっかりは交渉の結果次第だろうな」

 冬花の問いに景紀が素直に答えると、彼女はわざとらしい溜息をついた。

「……まあ実際、現在進行形で起こりつつあるしね」

「ああ、征斉派遣軍の件か?」

「そうよ。長尾公に一色公の両名が内地に召還されて、代わりに皇族軍人の北白瀬宮きたしらせのみや殿下が征斉大総督にご就任。どう考えても、内地で戦後の利権獲得争いをするために帰ったようなものじゃない」

 冬花の口調には、呆れと憤りの色が濃い。
 明らかに長尾憲隆と一色公直の内地帰還は、講和条約締結後の利権獲得を自家有利に進めるためのものだろう。
 有馬貞朋公が除外されたのは、すでに内地には有馬頼朋翁がいるからだ。
 これで、内地に六家当主ないしそれに相当する者が集うことになった。
 しかし、そこに景紀が加わっていないことが、冬花には主君を蔑ろにされているようで不満らしい。

「父上は、どうされるつもりなんだろうな?」

 景紀はそんな従者の様子に苦笑を浮かべながら言った。
 景紀が知り得た内地の情勢といえば、浦部伊季これすえから教えられた宵の活躍程度であった。つまり、南泰平洋進出問題と、徴傭船船員の身分保障問題のみである。
 ただし、結城家内部の事情は流石に伊季も知悉していないようであった。
 宵や父・景忠がどういった理由で南泰平洋進出を言い出したのかという点が、まるで不明であった。
 恐らく、結城家が南泰平洋に進出する代わりに他家の大陸利権を認めたのだろうという辺りまでは予想が付くが、こればかりは内地に帰還してみないことには詳しいことは判らなかった。
 しかし、どういう事情が内地に存在していようとも、今次戦役が皇国の海外進出を活発化させることは確実だろう。
 今は南洋特殊権益などと言って東南アジアの直接的な植民地化は行っていないが、いずれ西洋列強に先駆けて東南アジア一帯を皇国の完全な支配下に置くべきという主張は出てくるに違いない。

「講和条約が無事に結ばれても、それでめでたしめでたしにはなりそうにないな」

 皮肉そうな景紀の言葉に、冬花と貴通は揃って頷くのであった。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 当初、講和会議は皇国軍占領下の天津にて開かれる予定であった。
 電信や呪術通信などの通信手段が発達している皇国に比べて斉の通信手段は未発達であるために、出来るだけ斉側使節団が宮廷と連絡を取りやすい場所で会議を開催することを求めたからであった。
 しかし、皇国軍の燕京入城によって、会議の開催場所は燕京に変更された。
 本来であれば、燕京は朝貢の使節団が訪れる中華世界の中心地である。そこでは常に中華皇帝が絶対的な頂点であった。
 だが今回は、完全に立場が逆転していた。
 東夷であるはずの皇国の方が有利な立場で、中華たる斉朝に交渉を行おうとしているのである。華夷秩序の動揺を、これ以上ないほどに明確に表わすものであった。
 燕京講和会議は、戦勝国と敗戦国の講和会議という枠を超えた、まさしく歴史的な会議であるといえた。





 四月十日、皇国側全権使節団が燕京に到着した。
 これに対し、皇帝・咸寧帝から全権を委任された欽差大臣・恭親王奕愷は会議に臨む前、皇国に対してアルビオン連合王国との和平斡旋を依頼することとなった。
 斉が講和を申し込んだのは皇国のみであったが、戦火を交えているのは皇国だけではない。広州方面では、アルビオン連合王国とも戦っていたのである。
 斉と連合王国間が開戦した直接的な原因は、昨夏、斉側が連合王国の派遣した使節団を拘束・幽閉してしまったことにあった。
 その後、秋津皇国との間に戦端が開かれたことで、アルビオン連合王国との二正面作戦となることを恐れた斉は拘束していた使節団を香江まで送り届けたが、逆にこれが連合王国のさらなる憤激を買うことになった。
 幽閉されている間、使節団は劣悪な環境に置かれ、さらに刑吏たちによる虐待を受けていたからであった。
 これはアヘン戦争による斉国内の反アルビオン感情によるものであったが、当然ながら国益を優先する連合王国は自国のかつての行いを省みず、斉の野蛮さを喧伝する材料とした。
 こうしたことも、連合王国の議会において開戦決議を後押しする要因となったのである。
 奕愷からの和平斡旋の要請を、皇国側首席全権代表たる外務大臣はただちに了承した。もとより、対斉戦役はアルビオン連合王国からの共同出兵要請があったことも開戦原因の一つであったから当然である。
 講和条約の締結に際して、アルビオン連合王国の存在を無視するわけにはいかなかったのだ。
 そして、秋斉間の講和会議は燕京城内の寺で行われることとなった。
 この日、秋津皇国が大斉帝国に突き付けた講和条件は、次の通りであった。

一、遼東半島の割譲
一、賠償金三億テールの支払
一、満洲における鉄道敷設権、鉱山開発権、河川通航権の独占的付与
一、高山島対岸の福建省の不割譲
一、外国公使の燕京常駐承認
一、通商の完全自由化
一、関税率の設定は皇国側が行うこと
一、外国人の内地旅行、通商権の承認
一、領事裁判権の承認
一、陽鮮の独立の承認

(註:一両は銀三十七グラム。三億両で銀約一一一〇キログラム)



 この十項目が、皇国の示した講和条件であった。
 領土割譲、賠償金の支払は、戦勝国としての当然の要求であった。満洲における利権の独占的付与も、大陸での利権拡大を目指したものである。
 高山島対岸の福建省の不割譲要求は、この地域を他国に割譲してはならないというものである。
 例えばこの地域をルーシー帝国やヴィンランド合衆国など、皇国と対立する列強が租借すれば、皇国は安全保障上の脅威を抱えることになる。
 残りの外国公使の燕京常駐承認などは、華夷秩序の解体を狙った要求である。
 つまり、これまでの中華帝国中心の外交・貿易体制を崩壊させることで、皇国主導の東アジア国際秩序を樹立しようとするものであった。
 なお、アルビオン連合王国やヴィンランド合衆国、帝政フランクなどは前回のアヘン戦争後、斉との条約によって片務的最恵国待遇が与えられていたから、皇国に対する通商上の優遇措置はそのまますでに条約を結んでいた他の国にも適用されることとなる。
 これらは、アルビオン連合王国への配慮であった。
 そして当然ながら斉側はこの条件について検討する時間が必要であると回答して、十日に行われた第一回会談は終了した。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 講和会議第一回会談を終えた斉側の雰囲気は、重苦しいものであった。
 領土の割譲や賠償金の支払については予め想定されていたことではあるが、十項目にわたる要求は斉側にとって過酷なものであった。

「倭人ともは、我が中華帝国に成り代わるつもりなのか……」

 紫禁城に帰還した恭親王奕愷は、苦悩を隠しきれなかった。
 倭人どもの突き付けてきた条件は、アヘン戦争以上のものがあった。外交使節の燕京常駐や通商自由化は、これまで歴代の中華帝国が維持してきた華夷秩序を根底から覆そうとするものであった。

「しかし、今や我らに都や満洲を奪還する力はありません」

 悄然とそう指摘するのは、軍機大臣・蘇玄徳であった。

「和平が成らぬ場合は都を焼き払い徹底抗戦せよと陛下はおっしゃっておりますが、前綏朝も都を失って南へ遷都しましたが結局は我が斉朝により滅亡の憂き目に遭っております。皇族自ら都に火を放つなど、かえって民心は我らより離れ、再起の機会は永遠に失われるでしょう」

 兄・咸寧帝が都を脱出し、宮廷に残った重臣の中でも徹底抗戦派は奕愷によって粛清されている。
 今、この場に都を焼き払ってまで徹底抗戦を主張する臣下はいなかった。

「満洲の地を倭人どもにくれてやらねばならんのか」

 奕愷は力なく首を振った。満洲は、斉人にとって父祖の地である。
 そこを夷狄に譲り渡すのと、都に火を放つのと、どちらがより民心を失うだろうか。
 とはいえ、答えは判りきっている。斉朝において、支配民族たる斉人は被支配民族たる漢人に比べて少数派だ。
 漢人どもに反乱を起こされる方が、より危険であった。
 精強を誇っていたホロンブセンゲの蒙古八旗軍を失った今、斉にとって頼れる軍事力は郷土防衛のために立ち上がった漢人中心の義勇軍である“勇軍”しか存在しない。斉朝に対する漢人の支持が失われることは、何としても回避しなければならなかった。
 そのためには、父祖の地すら犠牲にしなければならないのかもしれない。

「殿下」

 一人の重臣が、発言する。

「確かに満洲は、我らの父祖の地です。しかし、今やその地は漢人の入植者どもが跋扈する地でもあります。漢人が倭人に置き換わるだけ、そうお考えになっては如何でしょうか?」

 その発言に、奕愷ははっとなる。
 自分は皇族であるがために、あまりに満洲の地に拘りすぎていたのかもしれない。
 倭人が求めているのは、遼東半島の割譲と満洲の利権である。
 遼東半島の割譲は確かに斉朝にとって打撃となるが、満洲の利権を倭人どもにくれてやるのは、この地を漢人に解放した時と同じであるともいえる。
 それに、満洲と華北の経済的結びつきは強い。
 その間にある遼東半島を倭人に抑えられることは通商路を倭人に扼されることと同義であるが、どうも倭人は通商の拡大を狙っているようである。
 あえて満洲と華北を分断するようなことはしないだろう。
 むしろ、交易商人として倭人を利用するという手も存在する。
 要は、夷狄たる倭人を中華帝国たる自分たちが徹底的に使用するというように、発想を変えれば良いわけである。
 前回のアヘン戦争でも、条約は夷狄を操縦するための手段と考えられていた。今回も、上手く条約を使って東夷たる倭人ども操れば良いだけの話だ。
 あとはいかにして、倭人以外の夷狄を利用し、互いに牽制させ、それを斉朝の利益とするかということであった。
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