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第九章 混迷の戦後編
162 流血の休戦協定
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大本営からの停戦命令が全軍に布告された三月二十九日時点において、大沽に上陸して燕京を目指していた海軍陸戦隊は燕京東方の八里橋にまで到達していた。
八里橋は燕京の城門から十六キロほどの地点にある白河にかけられた橋であり、ここを突破すれば斉朝の都までの道を遮る地形的障害は存在しない。
まさしく、皇国軍上陸部隊は燕京を指呼の間に望む地点にまで進出していたのである。
現地部隊では、燕京突入を目前にした停戦命令に反発する者も多かったが、大本営を通じた奉勅命令が下された以上、それに従うのが軍人の本分であった。
また、三月二十日に大沽に上陸してからすでに十日目。その間、休むことなく進撃を続けていた陸戦隊将兵の疲労も、無視出来ぬものとなっていた。
大沽沖の輸送船からは白河やそこに通ずる運河を通じて補給物資が届けられていたが、すでに陸戦隊の進軍速度に追いつけなくなりつつある。
海軍陸戦隊は、攻勢終末点に達しつつあったのである。
停戦協定が結ばれたことで、むしろ陸戦隊は戦力再編と休養のための時間を与えられたといえよう。
陸戦隊司令官は、万が一、講和会議が不調に終わった際にはただちに燕京への進撃を再開出来るよう、麾下部隊に徹底させつつ進撃を停止させたのだった。
◇◇◇
一方、燕京にある中華帝国皇帝の御所たる紫禁城では、未だ陸軍独立混成第一旅団の将兵を選抜して編成された挺身降下隊が午門周辺を占拠し続けていた。
本来であれば燕京まで進軍した海軍陸戦隊と合流を果たすはずであったが、その前に休戦協定が発効したため、依然として敵中で孤立しているような状況に変化はなかった。
とはいえ、そこまで悲観的になっている者はいない。戦況は、明らかに皇国が有利であったからだ。
むしろ問題は、休戦協定発効下での挺身降下隊の扱いであった。
斉側は午門周辺を占拠する皇国軍に対し、休戦協定が発効した以上、ただちに城を退去して皇国軍占領地域へと撤退するように求めている。これ以外にも、斉側は八里橋まで進出している皇国軍の天津撤退を求めていた。
一方の皇国側は、万が一、戦闘が再開された際には今度こそ燕京の占領を実現するため、斉軍を牽制出来る挺身降下隊の紫禁城退去を認めようとしなかった。もちろん、八里橋まで進出した海軍陸戦隊についても、天津撤退を拒絶する回答を斉側に伝達している。
実際、景紀の下には、軍監本部から別命あるまでその場を維持するようにとの命令が届けられていた。
翼龍による空輸も、依然として続けられている。
「ったく、この土壇場で講和を申し込むくらいなら、いっそ陸戦隊が燕京に到達してからにしてくれた方が都合が良かったな」
午門楼閣上で周囲を眺めつつ、景紀は物騒な愚痴を零した。
「土壇場だからこそ、講和を申し込んだんでしょ?」
「まあ、そりゃそうなんだがな」
冬花の指摘に、景紀は溜息交じりの言葉を返す。
「でも、皇国軍による燕京占領を見てみたかったですね」
一方の貴通は、どこか名残惜しそうな口調である。
「そういう意味では、僕も景くんの意見に同意です」
景紀も貴通も、軍人としてこの作戦がどこか中途半端なまま終わってしまったことに悔いを残していたのである。
もっとも、だからといって戦闘再開を本気で望んでいるわけでもない。
そこが、複雑なところであった。
「とりあえず、全権使節団の皇都出発は四月一日に決定したわ。天津到着は四月六日になるそうよ」
「最低限、そこまでは紫禁城占拠を維持していれば良いわけだな」
「何事もなければ、そこで今次戦役は終わるわけですね」
「何事もなければ、な」
「景くんはあるとお思いで?」
貴通が意見の摺り合わせをしようとするかのような事務的な口調で問うた。
「講和会議の決裂だって十分にあり得る。それに、一応は休戦に持ち込んだとはいえ、その条件を巡って皇国と斉は対立している状態だ。今日から四月六日までの間、何事もないと楽観視するわけにはいかんだろうよ」
「その点については、僕も同意見です。むしろ、斉の頑なな徹底抗戦論者が何か引き起こしてくれると、愉快なことになりそうで僕としては大歓迎なのですが」
「お前なぁ……」
明らかにもう一戦あることを望んでいる己の幕僚に、景紀は呆れたような視線を向ける。
貴通は景紀以上に、皇国軍による燕京占領の夢を捨て切れていないようであった。
「言っとくけどな、こちらから発砲するような真似は絶対にさせるなよ。無用な挑発行動も禁止だ。それは部隊に徹底させろ」
兵学寮で五年間を共に過ごした景紀は、時に貴通が好戦的な一面を剥き出しにすることがあるのを理解している。
かつて皇都郊外の廃寺で冬花が暴走した時ですら、暴走状態の冬花を忌避することなく、むしろ景紀と共に戦えたことが楽しかったとすら言ってのけた彼女である。
それが性別を偽らざるを得ないという抑圧状態から来るものなのか、それとも景紀の軍師でありたいという願望の歪んだ発露なのか、恐らく貴通本人も判っていないだろう。
だから景紀は、念のために釘を刺しておいたのだ。
「判ってますよ」
そんな景紀の懸念を、貴通自身も判っているのだろう。同期生たる六家次期当主の少年に、親しげな微笑を返してそう言った。
「流石に景くんの部隊に奉勅命令を破らせるわけにはいきませんから」
貴通は、景紀に輝かしい戦功を立ててもらいたいと思っている。しかし、その戦功に瑕疵があってはならない。停戦の奉勅命令が下った以上、それを自らの部隊に徹底させるのが幕僚の役目であると貴通は理解している。
もっとも、貴通は自らが仕掛けたのでない限りにおいて、応戦することに躊躇はなかったが。
恐らくそれは、景紀も同じだろうと思う。
だからこそ景紀も、何があっても発砲を禁ずるというような指示は下さなかったのだ。
そうした深いところで自分と景紀は意見を同じくしている。それが確認出来ただけで、貴通には十分であった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
兄である咸寧帝に講和のための全権限を委任された欽差大臣に任命された恭親王奕愷は、天津へと向かう準備をしていた。
随行させる者たちは、軍機大臣・蘇玄徳を始めとする随員の他、皇族である奕愷の身の回りの世話をさせる従者などを含め、一〇〇名以上の規模に上った。
倭側からは、使節団の天津到着は四月六日になると通告されている。
休戦協定は発効されたものの、その内容については未だ斉と倭との間で確執があった。
八里橋を挟んで、燕京防衛のために急募された緑営や勇軍は倭軍と対峙している。
本来であれば、都・燕京が容易に脅かされる状況で和睦の交渉などを行いたくない。だからこそ、奕愷は倭軍の天津撤退を要求したのである。
しかし、倭人どもはその要求を一蹴した。故に、八里橋では今も両軍による緊張状態が続いている。
この均衡が、講和会議前に破られないことを祈るばかりであった。
咸寧帝が都を守るべき禁旅八旗と共に燕京を脱出してしまったために、この中華帝国の中心地は極めて無防備な状態に置かれている。
すでに倭軍が燕京の近くまで進出しているという噂は都の住民の間に広まっており、家財道具を荷車に乗せて脱出しようとする者たちも多かった。
最早、籠城戦を行えるような状況ではない。兵力が圧倒的に不足していることもそうだが、民衆の間で混乱が広がっている以上、下手に籠城戦を行えば内部から崩壊しかねなかった。
それに、未だ紫禁城の南、午門の周辺を占拠している倭軍の存在も不気味であった。
午門に掲げられた倭人の旗を見た民衆が、皇帝が倭人によって討ち取られたとの流言を広め、倭軍本隊の接近と合せて、燕京城壁内部の混乱を助長していたのである。
都の民にその健在を示すべき咸寧帝は、すでに都を落ち延びてしまっていた。
これでは、奕愷としても手の施しようがなかった。
この中華皇帝の弟は、緊張とともに講和会議までの時間を過ごさなければならなかったのである。
ある意味で、講和会議が始まる前に何事か不測の事態が発生して欲しいと不穏な感情を覗かせる皇国軍前線部隊とは、対照的な心情であった。
そうして四月三日、いよいよ奕愷ら和議のための使節団が燕京を出発しようとしたその日、事件は発生した。
◇◇◇
午門を占拠する景紀の下に、これより欽差大臣・恭親王奕愷が講和会議のために都を出発するという旨を伝えるために使者がやって来た。
不用意な軍事衝突を発生させないための、恭親王側の配慮であった。
「こっちの親王も、いよいよ天津に向かって出発するらしいぞ。冬花、念のためこちらからも陸戦隊司令部に、親王の出発を知らせてやれ」
「了解。ほんと、そろそろ大連の兵舎に戻りたいわね」
景紀からの指示に、冬花がどこか気の抜けた声で愚痴を零す。
「ああ、そろそろ炊きたての米が食いたいな」
「隊の下士官や兵卒の間でも、冗談交じりにそういった不満が飛び交っていますしね」
景紀の言葉に苦笑しつつ、貴通もやはりどこか恋しそうな口調であった。
「帰還したら麦抜きの銀シャリでも主計科に用意させるか」
「それもそうだけど、私としては水浴びなり湯浴みなりしたいところよ。服だってこの通りだし」
斉の宮廷術師と戦った冬花は、本来まとっていた着物を失っていた。
残っていたのは赤い火鼠の衣だけで、先日までは素肌の上にそれを着ているだけであった。
その後の空輸で届けられた替えの被服から男性用のシャツ一枚を冬花に分け与えて、今は火鼠の衣の下に白いシャツ一枚を着ている。
しかし軍人でない以上、軍服を着せるわけにもいかない。
大腿のあたりから剥き出しになったままの素足が、火鼠の衣の裾から伸びている。冬花がぼやくのも、無理のないことであった。
「まあ、もう少しの辛抱だ。我慢してくれ」
「判ってるわよ。私だって、色々覚悟の上であなたに付き従って従軍しているんだから」
「助かるよ」
「当然じゃない。私はあなたのシキガミなんだから」
いつものやり取りにお互い笑い合ってから、冬花は通信用呪符を取り出そうとした。
その刹那のことである。
遠くから銃声のようなものがかすかに聞こえた。
「冬花!」
「了解!」
冬花は躊躇わずに耳と尻尾の封印を解いた。そのまま、跳躍して楼閣の屋根に登る。
銃声は、連続して聞こえてきた。
ひらりと舞い上がった火鼠の衣の裾を抑えながら冬花が屋根から降りてくる。
「間違いないわ。燕京の東、多分、八里橋の方からよ」
「ったく、やっぱりこうなっちまったか」
景紀は乱雑に自分の頭をかいた。彼は、楼閣の上から下の広場に向かって顔を出す。
「総員、傾注! ただ今、八里橋の方で銃声があった! 念のため、降下隊総員は戦闘態勢をとれ!」
広場で花札や西洋かるたなどに興じていた非番の兵士たちが、一斉に機敏な動作で叉銃の状態にして置かれていた銃を引っ掴んで駆けていく。
「いいか! こちらが撃たれるまで、一切の射撃は禁止する! これを破った者は停戦の奉勅命令に背いた者として俺が斬る!」
楼閣の上から兵士たちが配置に付くのを見届けてから、景紀は傍らにいる貴通に命じた。
「貴通、お前は下に降りて、兵たちを統率してくれ。俺は、何が起こったのか陸戦隊司令部に問い合わせる」
「判りました」
言うや否や、貴通は楼閣の階段を駆け下りていった。
「冬花、急いで陸戦隊司令部に通信を開いてくれ」
「了解。ただ、もしかしたら向こうも前線からの報告で通信が混乱している可能性もあるわよ」
「それでも構わん。とにかく、状況を把握することが最優先だ」
「判ったわ」
冬花は主君からの命令通り、海軍陸戦隊司令部と通信を繋げるべく、呪符に霊力を込めた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
休戦協定下にあった四月三日、再び戦端が開かれる危機的な状況が発生した。
皇国軍と斉軍が対峙している八里橋で、偶発的な軍事衝突が発生したのである。
最初の銃声は、郷土防衛のために集められた傭兵集団たる“勇軍”からのものであったと言われる。彼らは中華思想に基づく秋津人蔑視と、故郷を守ろうという愛郷精神故に、暴走してしまったと考えられている。
それに触発された緑営も、海軍陸戦隊への攻撃を開始した。
もともと募兵されたばかりであり、軍としての統率も十分に確率されていない斉側は、単なる夷狄に対する排外感情で火縄銃や弓を皇国軍に射掛けたのである。
当初は土嚢や塹壕などに隠れてやり過ごそうとしていた海軍陸戦隊であったが、次第に斉からの射撃は激しくなっていった。
指揮官が後方の司令部に対応を問い合わせると、応戦の許可が出た。
これを受けて、八里橋にあった海軍陸戦隊は一斉に射撃を開始したのである。
猛烈な射撃は、即座に緑営や勇軍の軍としての統制を崩壊させた。最初の銃声からわずか一時間ほどで、八里橋を突破した海軍陸戦隊によって潰走させられてしまったのである。
燕京を目前にした停戦命令に不満を抱いていた海軍陸戦隊は、これを好機と燕京への進撃を再開した。
紫禁城を出発しようとしていた恭親王奕愷は、この事件の報を受けて絶句したという。
一時、彼は秋津側の謀略を疑ったと伝わっているが、休戦協定下ですでに両軍の緊張感は高まっていたのである。奕愷は、この現実を即座に受け止めた。
ここで講和を諦め、兄・咸寧帝の命に従って都に火を放って自らは脱出するか。それとも何とかこの事態を収拾するか。
その二つの選択肢の狭間で、奕愷は揺れた。
ここで倭人どもと和睦を結ばなければ、アルビオン連合王国やルーシー帝国にさらなる付け入る隙を与えるだけである。
やがて斉の領土は、倭人と洋夷どもに食い荒らされるだろう。
だからこそ、まずは倭人と和議を結び、倭人を仲介にして次は連合王国と和議を結ぶ。そしてルーシー帝国と対立しているという倭人と連合王国を利用し、夷狄同士で相争わせて大斉帝国を守り抜く。
徹底抗戦に意味はないと、奕愷は自覚していた。
しかし、宮廷内には休戦協定を破って進撃を再開した倭人に不信感を抱いている者もいた。
彼らの存在は、奕愷にとっても不安要素であった。
自分が天津に講和会議に出ている間に、兄帝に讒言を吹き込むのではないか。あるいは、都を焼き払えという兄の狂気的な命令を実行に移してしまうのではないか。
そう、警戒していたのである。
奕愷は倭軍という外敵の他に、徹底抗戦派という内部の敵と戦わなければならなかったのだ。
そして、彼が懊悩の内に浪費した時間は、斉朝にとって決定的な打撃を与えることになってしまった。
八里橋での衝突の翌日である四月四日、ついに皇国海軍陸戦隊の先鋒部隊が、燕京の城門にまで迫ったのである。
燕京は、征服民族である斉人の居住区である「内城」区画と、被征服民族である漢人などそれ以外の民族の住まう「外城」区画に分かれている。
その外城の城門が砲撃に晒される中、奕愷は一つの決断を下した。
宮廷内で奕愷の講和に反対する主要な官吏たちを、一斉に粛清したのである。皇帝から全権を委任された欽差大臣の方針に従わないというのが、殺害の理由であった。
四月五日、呆気なく砲撃で破壊された城門から皇国軍が燕京への侵入を始めていた。
外城から内城の正門(つまりは南門)とも言うべき正陽門に皇国軍が迫った頃になって、ようやく宮廷内を掌握した奕愷は皇国に対して再度、和議を申し込むと共に、燕京の開城を申し出た。
もはや斉に都を守り切る力はないことは明白であり、自ら開城を申し出ることによってこれ以上の倭軍による略奪などの惨劇から都を守ろうとしたのである。
奕愷にとって、苦渋の決断であった。
この決断によって、燕京の中心部までが戦場になるという事態は辛うじて避けられた。しかし一方で、外城区画には「天壇」という祭祀のための宮殿が存在しており、ここは皇国軍海軍陸戦隊による略奪の対象となってしまった。
この時代、未だ略奪や文化財破壊を禁止する国際条約(国際法)は存在せず、従って各国の指揮官たちも略奪は兵士たちの権利として黙認する傾向にあった。
しかし一方で、奕愷が都に火を放っての徹底抗戦を選ばなかったことで、四月六日からは再度の休戦協定を発効させることに成功した。
皇国側としても燕京を占領した以上、これ以上の戦争継続を望んでいなかったのである。何より、戦争が長引くことによる第三国からの干渉を皇国は警戒していた。
ある意味で、奕愷の目指す「以夷制夷政策」はすでに成功を収めつつあったといえるのである。
そして皇国軍による燕京占領を受けて、講和会議が四月十日から、燕京にて改めて行われることが決定した。
皇国もまた斉に城下の盟を結ばせるという成果を手にしつつ、戦争はようやく終結の兆しを見せつつあった。
八里橋は燕京の城門から十六キロほどの地点にある白河にかけられた橋であり、ここを突破すれば斉朝の都までの道を遮る地形的障害は存在しない。
まさしく、皇国軍上陸部隊は燕京を指呼の間に望む地点にまで進出していたのである。
現地部隊では、燕京突入を目前にした停戦命令に反発する者も多かったが、大本営を通じた奉勅命令が下された以上、それに従うのが軍人の本分であった。
また、三月二十日に大沽に上陸してからすでに十日目。その間、休むことなく進撃を続けていた陸戦隊将兵の疲労も、無視出来ぬものとなっていた。
大沽沖の輸送船からは白河やそこに通ずる運河を通じて補給物資が届けられていたが、すでに陸戦隊の進軍速度に追いつけなくなりつつある。
海軍陸戦隊は、攻勢終末点に達しつつあったのである。
停戦協定が結ばれたことで、むしろ陸戦隊は戦力再編と休養のための時間を与えられたといえよう。
陸戦隊司令官は、万が一、講和会議が不調に終わった際にはただちに燕京への進撃を再開出来るよう、麾下部隊に徹底させつつ進撃を停止させたのだった。
◇◇◇
一方、燕京にある中華帝国皇帝の御所たる紫禁城では、未だ陸軍独立混成第一旅団の将兵を選抜して編成された挺身降下隊が午門周辺を占拠し続けていた。
本来であれば燕京まで進軍した海軍陸戦隊と合流を果たすはずであったが、その前に休戦協定が発効したため、依然として敵中で孤立しているような状況に変化はなかった。
とはいえ、そこまで悲観的になっている者はいない。戦況は、明らかに皇国が有利であったからだ。
むしろ問題は、休戦協定発効下での挺身降下隊の扱いであった。
斉側は午門周辺を占拠する皇国軍に対し、休戦協定が発効した以上、ただちに城を退去して皇国軍占領地域へと撤退するように求めている。これ以外にも、斉側は八里橋まで進出している皇国軍の天津撤退を求めていた。
一方の皇国側は、万が一、戦闘が再開された際には今度こそ燕京の占領を実現するため、斉軍を牽制出来る挺身降下隊の紫禁城退去を認めようとしなかった。もちろん、八里橋まで進出した海軍陸戦隊についても、天津撤退を拒絶する回答を斉側に伝達している。
実際、景紀の下には、軍監本部から別命あるまでその場を維持するようにとの命令が届けられていた。
翼龍による空輸も、依然として続けられている。
「ったく、この土壇場で講和を申し込むくらいなら、いっそ陸戦隊が燕京に到達してからにしてくれた方が都合が良かったな」
午門楼閣上で周囲を眺めつつ、景紀は物騒な愚痴を零した。
「土壇場だからこそ、講和を申し込んだんでしょ?」
「まあ、そりゃそうなんだがな」
冬花の指摘に、景紀は溜息交じりの言葉を返す。
「でも、皇国軍による燕京占領を見てみたかったですね」
一方の貴通は、どこか名残惜しそうな口調である。
「そういう意味では、僕も景くんの意見に同意です」
景紀も貴通も、軍人としてこの作戦がどこか中途半端なまま終わってしまったことに悔いを残していたのである。
もっとも、だからといって戦闘再開を本気で望んでいるわけでもない。
そこが、複雑なところであった。
「とりあえず、全権使節団の皇都出発は四月一日に決定したわ。天津到着は四月六日になるそうよ」
「最低限、そこまでは紫禁城占拠を維持していれば良いわけだな」
「何事もなければ、そこで今次戦役は終わるわけですね」
「何事もなければ、な」
「景くんはあるとお思いで?」
貴通が意見の摺り合わせをしようとするかのような事務的な口調で問うた。
「講和会議の決裂だって十分にあり得る。それに、一応は休戦に持ち込んだとはいえ、その条件を巡って皇国と斉は対立している状態だ。今日から四月六日までの間、何事もないと楽観視するわけにはいかんだろうよ」
「その点については、僕も同意見です。むしろ、斉の頑なな徹底抗戦論者が何か引き起こしてくれると、愉快なことになりそうで僕としては大歓迎なのですが」
「お前なぁ……」
明らかにもう一戦あることを望んでいる己の幕僚に、景紀は呆れたような視線を向ける。
貴通は景紀以上に、皇国軍による燕京占領の夢を捨て切れていないようであった。
「言っとくけどな、こちらから発砲するような真似は絶対にさせるなよ。無用な挑発行動も禁止だ。それは部隊に徹底させろ」
兵学寮で五年間を共に過ごした景紀は、時に貴通が好戦的な一面を剥き出しにすることがあるのを理解している。
かつて皇都郊外の廃寺で冬花が暴走した時ですら、暴走状態の冬花を忌避することなく、むしろ景紀と共に戦えたことが楽しかったとすら言ってのけた彼女である。
それが性別を偽らざるを得ないという抑圧状態から来るものなのか、それとも景紀の軍師でありたいという願望の歪んだ発露なのか、恐らく貴通本人も判っていないだろう。
だから景紀は、念のために釘を刺しておいたのだ。
「判ってますよ」
そんな景紀の懸念を、貴通自身も判っているのだろう。同期生たる六家次期当主の少年に、親しげな微笑を返してそう言った。
「流石に景くんの部隊に奉勅命令を破らせるわけにはいきませんから」
貴通は、景紀に輝かしい戦功を立ててもらいたいと思っている。しかし、その戦功に瑕疵があってはならない。停戦の奉勅命令が下った以上、それを自らの部隊に徹底させるのが幕僚の役目であると貴通は理解している。
もっとも、貴通は自らが仕掛けたのでない限りにおいて、応戦することに躊躇はなかったが。
恐らくそれは、景紀も同じだろうと思う。
だからこそ景紀も、何があっても発砲を禁ずるというような指示は下さなかったのだ。
そうした深いところで自分と景紀は意見を同じくしている。それが確認出来ただけで、貴通には十分であった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
兄である咸寧帝に講和のための全権限を委任された欽差大臣に任命された恭親王奕愷は、天津へと向かう準備をしていた。
随行させる者たちは、軍機大臣・蘇玄徳を始めとする随員の他、皇族である奕愷の身の回りの世話をさせる従者などを含め、一〇〇名以上の規模に上った。
倭側からは、使節団の天津到着は四月六日になると通告されている。
休戦協定は発効されたものの、その内容については未だ斉と倭との間で確執があった。
八里橋を挟んで、燕京防衛のために急募された緑営や勇軍は倭軍と対峙している。
本来であれば、都・燕京が容易に脅かされる状況で和睦の交渉などを行いたくない。だからこそ、奕愷は倭軍の天津撤退を要求したのである。
しかし、倭人どもはその要求を一蹴した。故に、八里橋では今も両軍による緊張状態が続いている。
この均衡が、講和会議前に破られないことを祈るばかりであった。
咸寧帝が都を守るべき禁旅八旗と共に燕京を脱出してしまったために、この中華帝国の中心地は極めて無防備な状態に置かれている。
すでに倭軍が燕京の近くまで進出しているという噂は都の住民の間に広まっており、家財道具を荷車に乗せて脱出しようとする者たちも多かった。
最早、籠城戦を行えるような状況ではない。兵力が圧倒的に不足していることもそうだが、民衆の間で混乱が広がっている以上、下手に籠城戦を行えば内部から崩壊しかねなかった。
それに、未だ紫禁城の南、午門の周辺を占拠している倭軍の存在も不気味であった。
午門に掲げられた倭人の旗を見た民衆が、皇帝が倭人によって討ち取られたとの流言を広め、倭軍本隊の接近と合せて、燕京城壁内部の混乱を助長していたのである。
都の民にその健在を示すべき咸寧帝は、すでに都を落ち延びてしまっていた。
これでは、奕愷としても手の施しようがなかった。
この中華皇帝の弟は、緊張とともに講和会議までの時間を過ごさなければならなかったのである。
ある意味で、講和会議が始まる前に何事か不測の事態が発生して欲しいと不穏な感情を覗かせる皇国軍前線部隊とは、対照的な心情であった。
そうして四月三日、いよいよ奕愷ら和議のための使節団が燕京を出発しようとしたその日、事件は発生した。
◇◇◇
午門を占拠する景紀の下に、これより欽差大臣・恭親王奕愷が講和会議のために都を出発するという旨を伝えるために使者がやって来た。
不用意な軍事衝突を発生させないための、恭親王側の配慮であった。
「こっちの親王も、いよいよ天津に向かって出発するらしいぞ。冬花、念のためこちらからも陸戦隊司令部に、親王の出発を知らせてやれ」
「了解。ほんと、そろそろ大連の兵舎に戻りたいわね」
景紀からの指示に、冬花がどこか気の抜けた声で愚痴を零す。
「ああ、そろそろ炊きたての米が食いたいな」
「隊の下士官や兵卒の間でも、冗談交じりにそういった不満が飛び交っていますしね」
景紀の言葉に苦笑しつつ、貴通もやはりどこか恋しそうな口調であった。
「帰還したら麦抜きの銀シャリでも主計科に用意させるか」
「それもそうだけど、私としては水浴びなり湯浴みなりしたいところよ。服だってこの通りだし」
斉の宮廷術師と戦った冬花は、本来まとっていた着物を失っていた。
残っていたのは赤い火鼠の衣だけで、先日までは素肌の上にそれを着ているだけであった。
その後の空輸で届けられた替えの被服から男性用のシャツ一枚を冬花に分け与えて、今は火鼠の衣の下に白いシャツ一枚を着ている。
しかし軍人でない以上、軍服を着せるわけにもいかない。
大腿のあたりから剥き出しになったままの素足が、火鼠の衣の裾から伸びている。冬花がぼやくのも、無理のないことであった。
「まあ、もう少しの辛抱だ。我慢してくれ」
「判ってるわよ。私だって、色々覚悟の上であなたに付き従って従軍しているんだから」
「助かるよ」
「当然じゃない。私はあなたのシキガミなんだから」
いつものやり取りにお互い笑い合ってから、冬花は通信用呪符を取り出そうとした。
その刹那のことである。
遠くから銃声のようなものがかすかに聞こえた。
「冬花!」
「了解!」
冬花は躊躇わずに耳と尻尾の封印を解いた。そのまま、跳躍して楼閣の屋根に登る。
銃声は、連続して聞こえてきた。
ひらりと舞い上がった火鼠の衣の裾を抑えながら冬花が屋根から降りてくる。
「間違いないわ。燕京の東、多分、八里橋の方からよ」
「ったく、やっぱりこうなっちまったか」
景紀は乱雑に自分の頭をかいた。彼は、楼閣の上から下の広場に向かって顔を出す。
「総員、傾注! ただ今、八里橋の方で銃声があった! 念のため、降下隊総員は戦闘態勢をとれ!」
広場で花札や西洋かるたなどに興じていた非番の兵士たちが、一斉に機敏な動作で叉銃の状態にして置かれていた銃を引っ掴んで駆けていく。
「いいか! こちらが撃たれるまで、一切の射撃は禁止する! これを破った者は停戦の奉勅命令に背いた者として俺が斬る!」
楼閣の上から兵士たちが配置に付くのを見届けてから、景紀は傍らにいる貴通に命じた。
「貴通、お前は下に降りて、兵たちを統率してくれ。俺は、何が起こったのか陸戦隊司令部に問い合わせる」
「判りました」
言うや否や、貴通は楼閣の階段を駆け下りていった。
「冬花、急いで陸戦隊司令部に通信を開いてくれ」
「了解。ただ、もしかしたら向こうも前線からの報告で通信が混乱している可能性もあるわよ」
「それでも構わん。とにかく、状況を把握することが最優先だ」
「判ったわ」
冬花は主君からの命令通り、海軍陸戦隊司令部と通信を繋げるべく、呪符に霊力を込めた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
休戦協定下にあった四月三日、再び戦端が開かれる危機的な状況が発生した。
皇国軍と斉軍が対峙している八里橋で、偶発的な軍事衝突が発生したのである。
最初の銃声は、郷土防衛のために集められた傭兵集団たる“勇軍”からのものであったと言われる。彼らは中華思想に基づく秋津人蔑視と、故郷を守ろうという愛郷精神故に、暴走してしまったと考えられている。
それに触発された緑営も、海軍陸戦隊への攻撃を開始した。
もともと募兵されたばかりであり、軍としての統率も十分に確率されていない斉側は、単なる夷狄に対する排外感情で火縄銃や弓を皇国軍に射掛けたのである。
当初は土嚢や塹壕などに隠れてやり過ごそうとしていた海軍陸戦隊であったが、次第に斉からの射撃は激しくなっていった。
指揮官が後方の司令部に対応を問い合わせると、応戦の許可が出た。
これを受けて、八里橋にあった海軍陸戦隊は一斉に射撃を開始したのである。
猛烈な射撃は、即座に緑営や勇軍の軍としての統制を崩壊させた。最初の銃声からわずか一時間ほどで、八里橋を突破した海軍陸戦隊によって潰走させられてしまったのである。
燕京を目前にした停戦命令に不満を抱いていた海軍陸戦隊は、これを好機と燕京への進撃を再開した。
紫禁城を出発しようとしていた恭親王奕愷は、この事件の報を受けて絶句したという。
一時、彼は秋津側の謀略を疑ったと伝わっているが、休戦協定下ですでに両軍の緊張感は高まっていたのである。奕愷は、この現実を即座に受け止めた。
ここで講和を諦め、兄・咸寧帝の命に従って都に火を放って自らは脱出するか。それとも何とかこの事態を収拾するか。
その二つの選択肢の狭間で、奕愷は揺れた。
ここで倭人どもと和睦を結ばなければ、アルビオン連合王国やルーシー帝国にさらなる付け入る隙を与えるだけである。
やがて斉の領土は、倭人と洋夷どもに食い荒らされるだろう。
だからこそ、まずは倭人と和議を結び、倭人を仲介にして次は連合王国と和議を結ぶ。そしてルーシー帝国と対立しているという倭人と連合王国を利用し、夷狄同士で相争わせて大斉帝国を守り抜く。
徹底抗戦に意味はないと、奕愷は自覚していた。
しかし、宮廷内には休戦協定を破って進撃を再開した倭人に不信感を抱いている者もいた。
彼らの存在は、奕愷にとっても不安要素であった。
自分が天津に講和会議に出ている間に、兄帝に讒言を吹き込むのではないか。あるいは、都を焼き払えという兄の狂気的な命令を実行に移してしまうのではないか。
そう、警戒していたのである。
奕愷は倭軍という外敵の他に、徹底抗戦派という内部の敵と戦わなければならなかったのだ。
そして、彼が懊悩の内に浪費した時間は、斉朝にとって決定的な打撃を与えることになってしまった。
八里橋での衝突の翌日である四月四日、ついに皇国海軍陸戦隊の先鋒部隊が、燕京の城門にまで迫ったのである。
燕京は、征服民族である斉人の居住区である「内城」区画と、被征服民族である漢人などそれ以外の民族の住まう「外城」区画に分かれている。
その外城の城門が砲撃に晒される中、奕愷は一つの決断を下した。
宮廷内で奕愷の講和に反対する主要な官吏たちを、一斉に粛清したのである。皇帝から全権を委任された欽差大臣の方針に従わないというのが、殺害の理由であった。
四月五日、呆気なく砲撃で破壊された城門から皇国軍が燕京への侵入を始めていた。
外城から内城の正門(つまりは南門)とも言うべき正陽門に皇国軍が迫った頃になって、ようやく宮廷内を掌握した奕愷は皇国に対して再度、和議を申し込むと共に、燕京の開城を申し出た。
もはや斉に都を守り切る力はないことは明白であり、自ら開城を申し出ることによってこれ以上の倭軍による略奪などの惨劇から都を守ろうとしたのである。
奕愷にとって、苦渋の決断であった。
この決断によって、燕京の中心部までが戦場になるという事態は辛うじて避けられた。しかし一方で、外城区画には「天壇」という祭祀のための宮殿が存在しており、ここは皇国軍海軍陸戦隊による略奪の対象となってしまった。
この時代、未だ略奪や文化財破壊を禁止する国際条約(国際法)は存在せず、従って各国の指揮官たちも略奪は兵士たちの権利として黙認する傾向にあった。
しかし一方で、奕愷が都に火を放っての徹底抗戦を選ばなかったことで、四月六日からは再度の休戦協定を発効させることに成功した。
皇国側としても燕京を占領した以上、これ以上の戦争継続を望んでいなかったのである。何より、戦争が長引くことによる第三国からの干渉を皇国は警戒していた。
ある意味で、奕愷の目指す「以夷制夷政策」はすでに成功を収めつつあったといえるのである。
そして皇国軍による燕京占領を受けて、講和会議が四月十日から、燕京にて改めて行われることが決定した。
皇国もまた斉に城下の盟を結ばせるという成果を手にしつつ、戦争はようやく終結の兆しを見せつつあった。
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