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幕間 北国の姫と封建制の桎梏
4 後継者の資格
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「やぁっ!」
子供らしい高い声で発せられた裂帛の叫びが、道場内に響いた。次いで、木刀同士がぶつかる鈍い音が反響する。
「はぁっ!」
子供の振り抜いた木刀を、相手をしている大人が振り払った。その勢いに、子供の手から木刀が弾かれ、軽い音とともに床に転がった。
「……参りました」
子供は素直に自身の敗北を認めた。
「うむ」
相手をしていた大人は、白髪と皺の目立つ初老の男性であった。しかし、背筋を伸した立ち姿からはしっかりとした体幹に支えられた肉体を感じさせ、老いの印象を周囲に与えなかった。
そんな彼は、佐薙家次期当主たる大寿丸の剣術指南役を任されていた。今、彼が相手にしていたのも、その大寿丸であった。
「若君、どうにも気合いが入っておらぬように見受けられますが?」
道着姿の少年に向けて、指南役の男性は言う。
「すまない」
大寿丸は将家嫡男としてこれまで教育されてきただけに、同年代の平民の子供よりも大人びた雰囲気をまとった少年であった。しかし、未だ子供らしいあどけなさは抜け切っていない。
今、指南役が見ている大寿丸は、明らかに落ち込んだ子供の表情をしていた。
「如何されましたかな? 宜しければこの爺やにお聞かせ頂けませぬか?」
指南役の男は、大寿丸が幼少の頃から武術を教えていた。この幼い次期当主に仕える家臣としては、最古参の一人にあたるだろう。
「……」
大寿丸はしばらく視線を彷徨わせた。
「……僕に、佐薙家を継ぐ資格があるのかと思っているのです」
だが、やがて逡巡しながらもそう言った。
「この前、家臣が屋敷を出ていってしまったでしょう? 僕が次期当主として情けないから、もう佐薙家には仕えていられないということなのかと……」
「……」
指南役の男は、言葉に詰まった。
戸澤義基ら若手家臣団の一部、結城景忠公への直訴のために嶺州から上京してきた者たちも含めて、二十名近い家臣団が屋敷を去ってしまったのだ。
それを大寿丸は、幼いながらに次期当主としての不甲斐なさが原因であると悩んでいるようであった。
しかし、剣術指南役の男は、出奔した者たちは別の目的があったのではないかと考えていた。
特に若手の家臣団の間で、大寿丸が数え年十になったことを理由に元服させることを目論んでいた者たちがいることを、指南役は知っていた。しかし、結城景忠公や宵姫の反対などもあって、大寿丸の元服は満十歳になった際に行うこととなったという。
そのことに、不満を募らせている者たちが屋敷を出奔したのだ。
だとすれば、彼らの目指すのは結城家への報復。佐薙成親などが結城家に直接害されたわけではないので正確には“仇討ち”とは言えないだろうが、それに近いことを考えているのではないかと思っている。
実際、屋敷の警護掛の銃と実包が持ち出されていた。それ故、屋敷の者たちの多くも、出奔した者たちが実質的な仇討ちを目論んでいるのではないかと感じ、何となく不穏な空気が屋敷の中に流れていた。
結城家による監視も、さらに厳しくなっているように感じる。
しかし、そこまでの機微はまだ幼い若君には理解出来ないのかもしれなかった。
思えば、宵姫が結城家に嫁いでからこの少年も随分と状況に振り回されている。父親である佐薙成親が宵姫を誘拐し、さらには電信維持費の長年にわたる横領が発覚。それによって成親は爵位剥奪の上、日高州に追放されたことで、大寿丸は実質的に父親を失った。
佐薙家自体も結城家の監督下に置かれ、対斉戦役の勃発と共に大寿丸は人質的な扱いとして皇都屋敷に押し込められている。まったく外出が認められていないわけではないが、やはり自由な行動は出来なかった。
そして今度は、若手家臣団を中心とする大寿丸元服運動である。
まもなく九歳になろうとする少年の心が不安定になるのも、無理からぬことであった。
いったい、若手連中は何を考えているのか。次期当主たる少年をかえって不安にさせて、何が家臣か。
そうは思うものの、主家の盛衰は自身の将来に関わることなのだ。まだ未来のある若い連中が御家再興に走るのも無理はないとも、指南役の男は理解していた。自分は年寄りだからこそ、将来のことをあまり考えずに済んでいるだけなのだ。
「若君。若君は未だ幼くあらせられます」
初老の指南役の男は、諭すように大寿丸に向かって口を開いた。
「だからこそ、立派な将家当主になるために今、精進を重ねねばならぬのです。いずれ若君が当主の座に就かれた時、仕えるに値する主君であるならば自然と家臣は集まって参りましょう。今は、ご自身の修養に励まれるがよろしいでしょう」
「……そう、ですね」
幼い次期当主の少年は、何とか自分自身を納得させようとしているようであった。そして、彼は床に落ちた木刀を拾い上げた。
「では、もう一度手合わせをお願い出来ますか?」
何かを振り切るような表情を見せた大寿丸に、指南役の男は好々爺じみた笑みで応じた。
「ええ、その意気ですぞ、若君」
男もまた木刀を構えながら、自身が剣術の指南を任された子供が着実に成長していることに、満足感を覚えていた。
◇◇◇
「うちの若様を見ていると忘れがちになるけど、将家の次期当主ってのも大変なんだな」
鉄之介は水晶球を覗き込みながら、ぽつりと呟いた。
「あんたも葛葉家の次期当主でしょ? なに他人事みたいに言ってんのよ?」
八重が鉄之介の言葉に、呆れたような反応を返す。鉄之介はどこか気まずそうに頭をかいた。
「……にしても、覗き見ってのはあんまり気分のいいもんじゃないな」
水晶球から顔を離し、鉄之介はかすかに顔をしかめた。
「確かに気分良くないけど、これだって葛葉家を継ぐ人間の務めなんでしょう?」
「まあ、そうなんだがなぁ……」
あまり気乗りしない口調で、鉄之介は言う。
彼は今、佐薙家皇都屋敷に式を忍び込ませて屋敷内の監視を行っていた。式の捉えた映像が、水晶球に映っているのである。
鉄之介は、父である英市郎から式を放って佐薙家皇都屋敷を監視するように言いつけられていたのだ。これも鉄之介が葛葉家を継ぐための良い経験になると、父は言っていた。
佐薙家家臣団には、葛葉家のように当主に直接仕える高位術者がいない。そのため、皇都屋敷は呪術的に無防備な状態にあった。だからこそ、父は訓練としてちょうど良いからと、鉄之介に佐薙家皇都屋敷の呪術的監視を任せてきたのだろう。
とはいえ、彼はまだ学士院に所属している学生である。毎日、あるいは二十四時間、屋敷内を呪術的に監視出来るわけではない。そのあたりは、屋敷を監視している結城家隠密衆と連携を取りつつ調整している。
やはり、監視そのものよりも鉄之介や八重に経験を積ませるといった目的の方が強かった。
「しかし何ていうか、嶺州弁ってのは意味不明だな」
監視していると、佐薙家家臣団たちの嶺州弁の会話を拾うこともある。しかし、関東育ちの鉄之介や八重にとっては、最早外国語じみた言語であった。
監視用の術式を仕込んだ式に、陽鮮などで使った念話の術式を応用した通訳用術式を組み込むなどの対応をして、辛うじて聞き取っているような状態である。
結城家隠密衆たちもこの嶺州弁には苦労しているようで、宵姫が標準語と嶺州弁との単語対照表を作成する羽目に陥っていた。
正直なところ、将家次期当主の正室のやるような仕事ではなかったが、主家直属の忍の家系である風間家の娘・菖蒲を通して宵姫に要請が行ったらしい。
宵姫は景紀に嫁ぐまで嶺州で暮らしていたが、そもそも他家に嫁ぐことを前提に幼少期から教育が行われてきたため、その言葉に嶺州訛りはない。
それでも、彼女は嶺州鷹前の佐薙家居城で暮らしていた関係上、嶺州弁を日常会話に至るまで理解出来ていた。これは、母である佐薙成親正室・聡が長尾家出身のために嶺州弁を解せず、そのために反六家感情を持つ佐薙家の侍女たちがあえて彼女や宵姫に対して嶺州弁を使って困らせるなどの嫌がらせが横行していたため、宵姫としても必死になって嶺州弁を覚える必要があったとのことである。
宵姫は自身の父やその家臣団から受けた仕打ちをあまり語らないが、このあたりの事情は八重が彼女から聞き出していた。
実の父や周囲の人間たちから冷遇され、虐げられ、だからこそあの姫様は感情をあまり表に出さない性格になってしまったのだな、と鉄之介は感じたものである。
自分の姉である冬花と違い、あの姫様は血の繋がった人間にすら疎まれて育ってきた。だからこそ景紀も、宵姫には甘いのだろう。あの若様が宵姫と婚儀を結んだ時には、姉が蔑ろにされたように感じて反発を覚えていたものだが、そういう過去を知ると景紀の気持ちも判るような気がする。
何だかんだで、弟の自分から姉を取っていったあの若様は身近な人間には甘いのだ。
「ってか、正直、皇都中に捜索用の式をばらまいた方が良くないか?」
今、結城家が警戒しているのは佐薙家を出奔した二十名近い家臣団だ。数え年十となった大寿丸の元服を拒否されたことで、主家のためにと過激な行動に出る可能性が警戒されていた。
呪術によって佐薙家皇都屋敷を監視することが命ぜられたのも、屋敷に残った家臣と出奔した家臣が何らかの手段で連絡を取り合っている可能性が否定出来なかったからである。ただし、現在のところ、そうした証拠は掴めていない。
ここはむしろ、捜索用の式を皇都に放った方が得策であった。
「それ、お父様が怒り出すやつよ」
だが、鉄之介の言葉を八重が否定した。
「六家の呪術師が陛下のお膝元である皇都で好き勝手するの、お父様が絶対に許さないと思うわ」
「判ってるよ。単なる愚痴だ、愚痴」
大きく、鉄之介は溜息をついた。彼も六家の家臣団として育てられてきた少年である。政治的な機微については、ある程度、理解している。
八重の父である宮内省御霊部長・浦部伊任は皇主と皇室に忠誠を誓う人間である。皇都の霊的安定を守る役目を負ったそんな人物が、六家の呪術師による皇都での傍若無人な振る舞いを許すはずがない。
妖狐の血を暴走させる可能性のある姉が皇都にいることすら、本心では快く思っていないのが浦部伊任という人間だ。
そもそも皇都は中央政府の直轄地であり、六家の直接的な統治権の及ばない場所である。六家を含めた各将家の皇都屋敷の敷地は領地の延長線上にある土地と見なされて例外ではあるが、基本的に皇都全域の警察権は皇都警視庁の管轄である。
だからこそ、屋敷の武器を持ち出して出奔した佐薙家家臣団を捜索するのは、警視庁の役割であった。
もっとも、皇都が中央政府の直轄地であり、領地を持つ諸侯たちにとっての実質的な中立地帯であるとはいえ、それはあくまでも建前上でのことだ。
実際には六家の密偵たちを始め、自分たち呪術師のような人間たちも、諜報活動に従事している。表面的な問題とならないだけで、皇都市民たちの見えないところで将家や公家による政治的駆け引きや情報収集活動は行われているのである。
いずれ義父となるであろう伊任にしても、将家同士の政治的抗争に留まっている間であれば黙認したままだろう。だが、それが皇都の霊的安定を乱し、あるいは自分たち御霊部の権限を六家が犯そうとした時、あの人は何らかの措置を講じるだろう。
「……ただまあ、姫様に何かあったら拙いだろ?」
宵姫は景紀の正室で、あの次期当主は何だかんだで宵姫を大切にしている。そして、陽鮮の倭館で姫様を拐かした者たちを平然と皆殺しにするくらいには、大切な者を傷付けられたときの報復は苛烈だ。
もちろん、景紀の反応が怖いからという理由だけでなく、鉄之介自身としても宵姫はいずれ主君となる者の正室として守らねばならない存在と認識している。
「姫様だって、俺や父上に護身用のお守りを作るよう言ってくるくらいには警戒しているんだ」
「それもそうね。私だって、お父様にちょっと神経質なところがあることくらい、判っているわ」
いつもは明朗快活な八重は、珍しく渋面を見せる。彼女にしても、宵姫と佐薙家家臣団の一部との間に不穏な気配が漂っていることを感じ取っていた。
宵姫は、八重にとってもいずれ仕えるべき姫君である。それ故、対等な友人とは言えないが、それでも気心の知れた関係は築けていると思っている。だからこそ、父親と宵姫との間で板挟みのような状態になってしまっていることが、歯がゆく感じられるのだ。
ただ、そこは流石は八重と言うべきか、最終的な解決方法は実に明快であった。
「でもまあ、いざって時は、私たちで姫様を害そうとする奴らを返り討ちにしてやればいいのよ」
にやりと不敵な笑みを向けられれば、鉄之介は応ずるように苦笑するしかない。確かにそれは、一番判りやすい解決策であった。
「じゃあ、今日の監視任務が終わったら道場に行くか?」
「あら、あんたの方から言ってくるなんて珍しいじゃない?」
鉄之介が誘いをかければ、親しみの混じった挑発的な口調で八重が唇を吊り上げた。
「そりゃあ、自分より年下の子が鍛錬を頑張ってんだ。こっちだって負けてらんないだろ?」
「ほんと、あんたも男の子よね」
どこか年上ぶった口調で、納得の声を上げる八重。なかなか、姉弟子と弟弟子という立場は変わらない。そんな年齢の逆転した遣り取りが、いつも陰陽師の少年の心に対抗心を灯すのだ。
そこでふと、鉄之介はもう一度水晶球を覗き込んだ。
自分のところの若様の側には、いつも姉がいた。いずれ当主を継ぐ少年と、陰陽師とはいえ用人の娘でしかない少女という関係ではあったが、それでもあの二人の間に確かな絆があることを、弟である鉄之介も認めざるを得えない。
それに対して、宵姫の弟たるあの若君には同年代の近しい者がいないようだった。景紀と冬花の距離感の近さを懸念する結城家家臣団もいるから、それが良いことなのかそうでないのか、鉄之介は簡単に断ずることは出来ない。
でも、出来ればあの少年にも景紀や冬花、あるいは自分と八重のような関係を築ける人間に出会えれば良いと思ってしまうのだ。このまま波乱に巻き込まれることなく兵学寮に入学出来れば、あの穂積貴通という景紀の同期生のような存在に出会えるかもしれない。
父親である成親が失脚するまで領地の城で次期当主として大切に育てられ、宵姫と違って周囲に疎まれたり、虐げられたりしてきたわけではないにせよ、彼もまたあの姫君と同じように周囲の者たちの都合に振り回されているのだから。
子供らしい高い声で発せられた裂帛の叫びが、道場内に響いた。次いで、木刀同士がぶつかる鈍い音が反響する。
「はぁっ!」
子供の振り抜いた木刀を、相手をしている大人が振り払った。その勢いに、子供の手から木刀が弾かれ、軽い音とともに床に転がった。
「……参りました」
子供は素直に自身の敗北を認めた。
「うむ」
相手をしていた大人は、白髪と皺の目立つ初老の男性であった。しかし、背筋を伸した立ち姿からはしっかりとした体幹に支えられた肉体を感じさせ、老いの印象を周囲に与えなかった。
そんな彼は、佐薙家次期当主たる大寿丸の剣術指南役を任されていた。今、彼が相手にしていたのも、その大寿丸であった。
「若君、どうにも気合いが入っておらぬように見受けられますが?」
道着姿の少年に向けて、指南役の男性は言う。
「すまない」
大寿丸は将家嫡男としてこれまで教育されてきただけに、同年代の平民の子供よりも大人びた雰囲気をまとった少年であった。しかし、未だ子供らしいあどけなさは抜け切っていない。
今、指南役が見ている大寿丸は、明らかに落ち込んだ子供の表情をしていた。
「如何されましたかな? 宜しければこの爺やにお聞かせ頂けませぬか?」
指南役の男は、大寿丸が幼少の頃から武術を教えていた。この幼い次期当主に仕える家臣としては、最古参の一人にあたるだろう。
「……」
大寿丸はしばらく視線を彷徨わせた。
「……僕に、佐薙家を継ぐ資格があるのかと思っているのです」
だが、やがて逡巡しながらもそう言った。
「この前、家臣が屋敷を出ていってしまったでしょう? 僕が次期当主として情けないから、もう佐薙家には仕えていられないということなのかと……」
「……」
指南役の男は、言葉に詰まった。
戸澤義基ら若手家臣団の一部、結城景忠公への直訴のために嶺州から上京してきた者たちも含めて、二十名近い家臣団が屋敷を去ってしまったのだ。
それを大寿丸は、幼いながらに次期当主としての不甲斐なさが原因であると悩んでいるようであった。
しかし、剣術指南役の男は、出奔した者たちは別の目的があったのではないかと考えていた。
特に若手の家臣団の間で、大寿丸が数え年十になったことを理由に元服させることを目論んでいた者たちがいることを、指南役は知っていた。しかし、結城景忠公や宵姫の反対などもあって、大寿丸の元服は満十歳になった際に行うこととなったという。
そのことに、不満を募らせている者たちが屋敷を出奔したのだ。
だとすれば、彼らの目指すのは結城家への報復。佐薙成親などが結城家に直接害されたわけではないので正確には“仇討ち”とは言えないだろうが、それに近いことを考えているのではないかと思っている。
実際、屋敷の警護掛の銃と実包が持ち出されていた。それ故、屋敷の者たちの多くも、出奔した者たちが実質的な仇討ちを目論んでいるのではないかと感じ、何となく不穏な空気が屋敷の中に流れていた。
結城家による監視も、さらに厳しくなっているように感じる。
しかし、そこまでの機微はまだ幼い若君には理解出来ないのかもしれなかった。
思えば、宵姫が結城家に嫁いでからこの少年も随分と状況に振り回されている。父親である佐薙成親が宵姫を誘拐し、さらには電信維持費の長年にわたる横領が発覚。それによって成親は爵位剥奪の上、日高州に追放されたことで、大寿丸は実質的に父親を失った。
佐薙家自体も結城家の監督下に置かれ、対斉戦役の勃発と共に大寿丸は人質的な扱いとして皇都屋敷に押し込められている。まったく外出が認められていないわけではないが、やはり自由な行動は出来なかった。
そして今度は、若手家臣団を中心とする大寿丸元服運動である。
まもなく九歳になろうとする少年の心が不安定になるのも、無理からぬことであった。
いったい、若手連中は何を考えているのか。次期当主たる少年をかえって不安にさせて、何が家臣か。
そうは思うものの、主家の盛衰は自身の将来に関わることなのだ。まだ未来のある若い連中が御家再興に走るのも無理はないとも、指南役の男は理解していた。自分は年寄りだからこそ、将来のことをあまり考えずに済んでいるだけなのだ。
「若君。若君は未だ幼くあらせられます」
初老の指南役の男は、諭すように大寿丸に向かって口を開いた。
「だからこそ、立派な将家当主になるために今、精進を重ねねばならぬのです。いずれ若君が当主の座に就かれた時、仕えるに値する主君であるならば自然と家臣は集まって参りましょう。今は、ご自身の修養に励まれるがよろしいでしょう」
「……そう、ですね」
幼い次期当主の少年は、何とか自分自身を納得させようとしているようであった。そして、彼は床に落ちた木刀を拾い上げた。
「では、もう一度手合わせをお願い出来ますか?」
何かを振り切るような表情を見せた大寿丸に、指南役の男は好々爺じみた笑みで応じた。
「ええ、その意気ですぞ、若君」
男もまた木刀を構えながら、自身が剣術の指南を任された子供が着実に成長していることに、満足感を覚えていた。
◇◇◇
「うちの若様を見ていると忘れがちになるけど、将家の次期当主ってのも大変なんだな」
鉄之介は水晶球を覗き込みながら、ぽつりと呟いた。
「あんたも葛葉家の次期当主でしょ? なに他人事みたいに言ってんのよ?」
八重が鉄之介の言葉に、呆れたような反応を返す。鉄之介はどこか気まずそうに頭をかいた。
「……にしても、覗き見ってのはあんまり気分のいいもんじゃないな」
水晶球から顔を離し、鉄之介はかすかに顔をしかめた。
「確かに気分良くないけど、これだって葛葉家を継ぐ人間の務めなんでしょう?」
「まあ、そうなんだがなぁ……」
あまり気乗りしない口調で、鉄之介は言う。
彼は今、佐薙家皇都屋敷に式を忍び込ませて屋敷内の監視を行っていた。式の捉えた映像が、水晶球に映っているのである。
鉄之介は、父である英市郎から式を放って佐薙家皇都屋敷を監視するように言いつけられていたのだ。これも鉄之介が葛葉家を継ぐための良い経験になると、父は言っていた。
佐薙家家臣団には、葛葉家のように当主に直接仕える高位術者がいない。そのため、皇都屋敷は呪術的に無防備な状態にあった。だからこそ、父は訓練としてちょうど良いからと、鉄之介に佐薙家皇都屋敷の呪術的監視を任せてきたのだろう。
とはいえ、彼はまだ学士院に所属している学生である。毎日、あるいは二十四時間、屋敷内を呪術的に監視出来るわけではない。そのあたりは、屋敷を監視している結城家隠密衆と連携を取りつつ調整している。
やはり、監視そのものよりも鉄之介や八重に経験を積ませるといった目的の方が強かった。
「しかし何ていうか、嶺州弁ってのは意味不明だな」
監視していると、佐薙家家臣団たちの嶺州弁の会話を拾うこともある。しかし、関東育ちの鉄之介や八重にとっては、最早外国語じみた言語であった。
監視用の術式を仕込んだ式に、陽鮮などで使った念話の術式を応用した通訳用術式を組み込むなどの対応をして、辛うじて聞き取っているような状態である。
結城家隠密衆たちもこの嶺州弁には苦労しているようで、宵姫が標準語と嶺州弁との単語対照表を作成する羽目に陥っていた。
正直なところ、将家次期当主の正室のやるような仕事ではなかったが、主家直属の忍の家系である風間家の娘・菖蒲を通して宵姫に要請が行ったらしい。
宵姫は景紀に嫁ぐまで嶺州で暮らしていたが、そもそも他家に嫁ぐことを前提に幼少期から教育が行われてきたため、その言葉に嶺州訛りはない。
それでも、彼女は嶺州鷹前の佐薙家居城で暮らしていた関係上、嶺州弁を日常会話に至るまで理解出来ていた。これは、母である佐薙成親正室・聡が長尾家出身のために嶺州弁を解せず、そのために反六家感情を持つ佐薙家の侍女たちがあえて彼女や宵姫に対して嶺州弁を使って困らせるなどの嫌がらせが横行していたため、宵姫としても必死になって嶺州弁を覚える必要があったとのことである。
宵姫は自身の父やその家臣団から受けた仕打ちをあまり語らないが、このあたりの事情は八重が彼女から聞き出していた。
実の父や周囲の人間たちから冷遇され、虐げられ、だからこそあの姫様は感情をあまり表に出さない性格になってしまったのだな、と鉄之介は感じたものである。
自分の姉である冬花と違い、あの姫様は血の繋がった人間にすら疎まれて育ってきた。だからこそ景紀も、宵姫には甘いのだろう。あの若様が宵姫と婚儀を結んだ時には、姉が蔑ろにされたように感じて反発を覚えていたものだが、そういう過去を知ると景紀の気持ちも判るような気がする。
何だかんだで、弟の自分から姉を取っていったあの若様は身近な人間には甘いのだ。
「ってか、正直、皇都中に捜索用の式をばらまいた方が良くないか?」
今、結城家が警戒しているのは佐薙家を出奔した二十名近い家臣団だ。数え年十となった大寿丸の元服を拒否されたことで、主家のためにと過激な行動に出る可能性が警戒されていた。
呪術によって佐薙家皇都屋敷を監視することが命ぜられたのも、屋敷に残った家臣と出奔した家臣が何らかの手段で連絡を取り合っている可能性が否定出来なかったからである。ただし、現在のところ、そうした証拠は掴めていない。
ここはむしろ、捜索用の式を皇都に放った方が得策であった。
「それ、お父様が怒り出すやつよ」
だが、鉄之介の言葉を八重が否定した。
「六家の呪術師が陛下のお膝元である皇都で好き勝手するの、お父様が絶対に許さないと思うわ」
「判ってるよ。単なる愚痴だ、愚痴」
大きく、鉄之介は溜息をついた。彼も六家の家臣団として育てられてきた少年である。政治的な機微については、ある程度、理解している。
八重の父である宮内省御霊部長・浦部伊任は皇主と皇室に忠誠を誓う人間である。皇都の霊的安定を守る役目を負ったそんな人物が、六家の呪術師による皇都での傍若無人な振る舞いを許すはずがない。
妖狐の血を暴走させる可能性のある姉が皇都にいることすら、本心では快く思っていないのが浦部伊任という人間だ。
そもそも皇都は中央政府の直轄地であり、六家の直接的な統治権の及ばない場所である。六家を含めた各将家の皇都屋敷の敷地は領地の延長線上にある土地と見なされて例外ではあるが、基本的に皇都全域の警察権は皇都警視庁の管轄である。
だからこそ、屋敷の武器を持ち出して出奔した佐薙家家臣団を捜索するのは、警視庁の役割であった。
もっとも、皇都が中央政府の直轄地であり、領地を持つ諸侯たちにとっての実質的な中立地帯であるとはいえ、それはあくまでも建前上でのことだ。
実際には六家の密偵たちを始め、自分たち呪術師のような人間たちも、諜報活動に従事している。表面的な問題とならないだけで、皇都市民たちの見えないところで将家や公家による政治的駆け引きや情報収集活動は行われているのである。
いずれ義父となるであろう伊任にしても、将家同士の政治的抗争に留まっている間であれば黙認したままだろう。だが、それが皇都の霊的安定を乱し、あるいは自分たち御霊部の権限を六家が犯そうとした時、あの人は何らかの措置を講じるだろう。
「……ただまあ、姫様に何かあったら拙いだろ?」
宵姫は景紀の正室で、あの次期当主は何だかんだで宵姫を大切にしている。そして、陽鮮の倭館で姫様を拐かした者たちを平然と皆殺しにするくらいには、大切な者を傷付けられたときの報復は苛烈だ。
もちろん、景紀の反応が怖いからという理由だけでなく、鉄之介自身としても宵姫はいずれ主君となる者の正室として守らねばならない存在と認識している。
「姫様だって、俺や父上に護身用のお守りを作るよう言ってくるくらいには警戒しているんだ」
「それもそうね。私だって、お父様にちょっと神経質なところがあることくらい、判っているわ」
いつもは明朗快活な八重は、珍しく渋面を見せる。彼女にしても、宵姫と佐薙家家臣団の一部との間に不穏な気配が漂っていることを感じ取っていた。
宵姫は、八重にとってもいずれ仕えるべき姫君である。それ故、対等な友人とは言えないが、それでも気心の知れた関係は築けていると思っている。だからこそ、父親と宵姫との間で板挟みのような状態になってしまっていることが、歯がゆく感じられるのだ。
ただ、そこは流石は八重と言うべきか、最終的な解決方法は実に明快であった。
「でもまあ、いざって時は、私たちで姫様を害そうとする奴らを返り討ちにしてやればいいのよ」
にやりと不敵な笑みを向けられれば、鉄之介は応ずるように苦笑するしかない。確かにそれは、一番判りやすい解決策であった。
「じゃあ、今日の監視任務が終わったら道場に行くか?」
「あら、あんたの方から言ってくるなんて珍しいじゃない?」
鉄之介が誘いをかければ、親しみの混じった挑発的な口調で八重が唇を吊り上げた。
「そりゃあ、自分より年下の子が鍛錬を頑張ってんだ。こっちだって負けてらんないだろ?」
「ほんと、あんたも男の子よね」
どこか年上ぶった口調で、納得の声を上げる八重。なかなか、姉弟子と弟弟子という立場は変わらない。そんな年齢の逆転した遣り取りが、いつも陰陽師の少年の心に対抗心を灯すのだ。
そこでふと、鉄之介はもう一度水晶球を覗き込んだ。
自分のところの若様の側には、いつも姉がいた。いずれ当主を継ぐ少年と、陰陽師とはいえ用人の娘でしかない少女という関係ではあったが、それでもあの二人の間に確かな絆があることを、弟である鉄之介も認めざるを得えない。
それに対して、宵姫の弟たるあの若君には同年代の近しい者がいないようだった。景紀と冬花の距離感の近さを懸念する結城家家臣団もいるから、それが良いことなのかそうでないのか、鉄之介は簡単に断ずることは出来ない。
でも、出来ればあの少年にも景紀や冬花、あるいは自分と八重のような関係を築ける人間に出会えれば良いと思ってしまうのだ。このまま波乱に巻き込まれることなく兵学寮に入学出来れば、あの穂積貴通という景紀の同期生のような存在に出会えるかもしれない。
父親である成親が失脚するまで領地の城で次期当主として大切に育てられ、宵姫と違って周囲に疎まれたり、虐げられたりしてきたわけではないにせよ、彼もまたあの姫君と同じように周囲の者たちの都合に振り回されているのだから。
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