秋津皇国興亡記

三笠 陣

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第八章 中華衰亡編

160 蒙塵の始まり

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「冬花!」

 三段になった太和殿基部の下まで放り投げられた末、落下した景紀であったが、倒れたくらいの痛みが背中に走った程度ですぐに起き上がることが出来た。
 冬花と宵が持たせてくれたお守りと、防御霊装たる火鼠の衣のお陰だろう。
 立ち上がった彼は、太和殿から巨大な炎の奔流が噴き出すのを見た。思わず、己のシキガミを呼ぶ声が出る。
 景紀は空になってしまった拳銃の弾倉に、急いで紙薬莢で包まれた銃弾を装填する。それを左手に、そして抜き身の軍刀を右手にして、石段を慎重に駆け上がった。
 僵尸も奔流のごとき火焔に巻き込まれたのか、かなりの数が減っていた。
 だが、激しく噴き上げた炎は宮殿の建物を一切焼いていない。術者が、そのように己の火焔術式を調整したからだろう。
 景紀は石段の欄干の影に身を潜めて、宮殿の中の様子を確認する。
 そして、思わずひゅっと喉が鳴ってしまった。
 術者たちに取り囲まれるようにして、人の形に燃えるものがあった。

「冬花ぁ!」

 思わず、景紀は叫んでいた。
 妖狐の血を色濃く引く自分のシキガミ。胸を霊刀で貫かれ、蠱毒の呪詛に冒されても回復したほどの再生能力の持ち主。
 それでも、あの凄まじい火焔に包まれてしまってはその再生も追いつかないのではないか。
 腹の底から冷えていくような、そんな不安と焦燥に襲われる。
 そんな景紀の声が届いたのかどうか判らない。

「■■■■■■■―――っ!」

 直後、耳をつんざくような獣の咆哮が、城内に響き渡った。次の瞬間、炎が吹き飛ばされた。
 中から現れたのは、青白い狐火を全身にまとった一人の少女。
 今まで一つに括られていた髪は解けて狐火に合せて揺らめき、服は焼け落ちてしまったのか、白い背中と尻尾の伸びる臀部が露わになっていた。

「がぁぁぁぁぁぁっ―――!」

 一糸まとわぬ己の姿に頓着することなく、冬花は人ならぬ叫びと共に床を蹴った。
 先ほど、強大な火焔術式を放った直後だったからだろう。霊力の消耗が激しかったのか、扇を持った術者の対応は一歩遅れた。そしてそれは、彼の弟子と思しき五人の方士たちも同じであった。
 鋭く伸された妖狐の爪が、暴力的なまでの勢いで振るわれる。

『師父、お下がりください!』

 そんな中で一人の方士が庇うように前に出た。咄嗟に結界を構築しようとしたのだろう。その手が、呪符を虚空に掲げようとした。
 刹那、赤い飛沫と共にその方士の腕が舞った。
 振り抜かれた爪に、切り裂かれたのだ。
 堪らずに悲鳴を上げるその方士に、冬花は容赦しなかった。振るった腕で、そのまま胸を貫いたのだ。

『妖魔め……っ!』

 怨嗟と畏怖の叫びが、五火七禽扇の術者から上がる。
 冬花は自らの爪で串刺しにした術者を、そのまま後ろに投げつけた。そこには、わずかに残された僵尸とそれを操る術者がいる。

『なっ!?』

 驚愕の叫びを上げる、僵尸の術者。
 己に向けて飛んでくる若い方士の死体を避けようとして、その体がよろめいた。重く湿ったものが、叩き付けられる音。
 わずかに生じた僵尸の術者の隙を、石段の欄干から様子を窺っていた景紀は見逃さなかった。
 その方士目がけて拳銃を撃ち込み、残りの石段を即座に駆け上がって刀で首を落とす。目の前に現れた“妖魔”と、投げつけられた死体に気を取られてしまっていたのだろう。驚くほどあっさりと、その術者は常人でしかない一人の少年によって討ち取られてしまった。
 だが、それで冬花の暴走が収まるわけでもない。

「ぐるるるるるるっ―――!」

 獣じみた両手をついた姿勢から、冬花は一気に跳躍した。彼女の獲物とされたのは、己を炎で焼いた五火七禽扇を持つ術者。
 彼女の咆哮からは、怒りの気配も感じられた。

「……」

 景紀は、胸元に下げている勾玉を掴んだ。龍王の血を引くという宮内省御霊部長から渡された、冬花の暴走を鎮めるための霊装。
 だが、ここで彼女の暴走を止めるつもりはなかった。
 どのみち、敵の術者はここで討ち取っておきたい。
 冬花の腕が振るわれ、敵の術者は扇でそれを防ごうとする。だが、暴力的なまでの霊力をまとう冬花に対して、霊力を消耗した相手術者の不利は明らかだった。
 常人の景紀から見ても、その術には精彩を欠いているように見えるのだ。
 そして、その術者を取り巻く残り四人の方士たち。彼らも妖の血に呑まれた冬花を調伏しようとしているのだろうが、一人を討ち取られて連携を欠き、霊力も消耗した状態では、妖狐の血を暴走させた冬花を止めることは出来ない。
 だが、冬花にとってその方士たちの放つ術は、羽虫が顔の周りを飛び回る程度には鬱陶しかったのだろう。
 跳躍することで妖魔を調伏するための術式から逃れた冬花は、曲芸じみた身のこなしで柱を足場にし、再度跳躍する。
 床に激突するような勢いで一人の方士の目の前に着地し、その喉を掻き切る。
 散らされる血飛沫は、冬花の全身を覆う狐火に阻まれてその白い裸身を穢すには至らない。
 そして、神仙の扇を持つ術者は、彼女の意識が一瞬だけ己の弟子に向かっている隙を突こうとした。扇を振るい、冬花に火焔術式を放つ。
 だが、冬花の反応速度は驚異的なものであった。
 己を包み込もうとする炎を正面から握り込むように手を伸し、そして消滅させてしまった。
 次いで、腰を落として床を蹴る。振るわれる、鋭い爪。
 五火七禽扇の術者は、結界を張ってその爪撃を防ごうとしたのだろう。一瞬、冬花の爪が不可視の壁に阻まれる。

「がぁぁぁぁぁぁっ―――!」

 だが、本当に一瞬のことであった。
 硝子が粉砕されるような破砕音と共に結界が砕け散り、その爪が肩口から一気に術者の体を引き裂いたのだ。
 血溜まりの中に、神仙の創った扇が沈む。

『師父っ!』

 残った三名の方士の悲鳴が、宮殿内に響いた。
 景紀もまた、容赦をしなかった。一瞬の自失に陥ったその方士たちに駆け寄り、刀を振るう。一人は肩口から袈裟に斬り捨て、もう一人は我に返ってその場から逃げ出そうとしたので、その背中を切り付けた。
 残りの一人もその場から逃げだそうとしたが、背中を見せての逃走は冬花にとって格好の獲物に映ったのだろう。跳躍した彼女に背中を爪で切り裂かれ、その方士は自らの血の中に沈むことになった。
 そうして、この場で最後に残った“獲物”に、妖狐の目が向けられる。
 赤く染まり、瞳孔が縦に裂けた、獣の目。

「ぐるるるるるるっ―――!」

 その捕食者の目と呻きを、彼女は景紀に向けていた。両手を床につき、今にも“獲物”に襲いかかろうとする。
 その刹那だった。

「―――鎮まれ」

 冷厳に、冷徹に、景紀は己のシキガミたる少女に命ずる。
 妖狐の血に呑まれた赤い瞳から、途端に狂気の色が消える。そして、急に力が抜けたように、その体がふらりと揺れ、床に倒れた。
 景紀が慎重に床に倒れた妖狐の少女に近付けば、彼女は完全に気を失っていた。

「すまん、な」

 傷一つない、ましてや火傷の跡すらないその白い裸身を見下ろしながら、景紀は少し苦しげに呟いた。
 本当は、もっと早く妖狐の血の暴走を鎮めるべきであったかもしれない。
 しかし、冬花自身も妖狐の血を暴走させなければ倒せないほどの術者であるかもしれないということを自覚していた。ならば、下手に暴走を鎮めるわけにはいかない。逆にそれは、冬花自身と景紀の身を危険に晒す行為かもしれない。
 そう判断したからこそ、景紀は最後の敵術者が討ち取られるまで冬花の暴走を止めることをしなかった。
 冬花が暴走することすら、景紀にとっては敵術者に対抗するための手段にしてしまったのだ。

「あまり感傷に浸って、ここに長居するわけにもいかないな」

 もしかしたら増援の術者がこの場に現れるかもしれない。景紀は頭を振って、自らの中に生じた苦い思いを振り切る。
 そして、冬花から借りていた火鼠の衣を、裸身を晒したままの彼女の体に掛けてやった。そのまま、背中と膝の裏に手を入れてシキガミの少女の体を抱き上げると、景紀は足早に太和殿を後にしたのだった。

  ◇◇◇

「まったく、肝を冷やしましたよ」

 午門内広場に戻った景紀は、貴通から苦言じみた口調でそう無事を喜ばれた。

「冬花さんともども、色々と無茶をされ過ぎです」

 彼女は、景紀の腕の中で気を失っている冬花をちらりと見遣る。その体に火傷の跡がないことには、特に驚いていないようであった。
 貴通もまた、以前、暴走した冬花と対峙したことがある。妖狐の血を色濃く引く冬花の再生能力については、ある程度、理解しているのだろう。

「心配かけたことについては謝る。だが、こいつが暴走した時に止められるのは俺しかいないんだ」

 景紀は、あえて周囲に聞こえるようにそう言った。
 兵士たちの視線が、自分ではなく腕の中の冬花に集中していることに気付いていた。その視線は、好意的なものでも、好奇なものでもない。ただ、自分たちの理解の及ばぬもの、あまりに強大な力を持つものへの畏怖と怯えだけがあった。
 彼らは、冬花を抱きかかえる景紀を遠巻きに見つめている。
 遼河戦線では冬花の爆裂術式に助けられ、この場では治癒の術式で傷を治してもらった兵がいるにもかかわらず、己のシキガミに向けられる視線はこんなものか。
 怒りとも失望ともとれぬ、どこかやるせない気分が景紀の中に湧き上がる。
 冬花の正体を知ってもなお、嫌悪感を見せなかった宵や貴通の方が例外的存在なのだろう。
 幼い頃からシキガミの少女に向けられる視線の意味に気付いていながら、自分も最近では油断していたということか。景紀は内心で自嘲する。
 六家次期当主として、あるいは将として、こんな奴らを率いていかなければならないのか。
 それが自分の立場にあるまじき思考であることを理解しつつ、景紀はそう思わずにはいられなかった。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 一方、実質的に紫禁城の守備を指揮することとなった恭親王奕愷は、この皇宮を守り切るのが絶望的な状況であることを理解していた。
 攻防三日目の三月二十三日時点において、宮廷術師二名が殺され、禁衛兵の多くも戦死していた。
 さらに太古砲台を占領した倭軍上陸部隊は白河を遡上する艦艇の支援を受けつつ、天津城攻撃を開始したという。
 ここでどれだけ時間が稼げるか……。
 奕愷は、天津守備隊が城内で徹底抗戦するほどに戦意が高いとは思っていなかった。むしろ、逃亡兵の続出によって内部から崩壊する可能性すら考えている。
 そしてそれは、都・燕京を守る禁旅八旗も同じだろう。
 すでに燕京の民の中には、倭軍来襲の噂を聞きつけて家財を荷車に乗せて地方へ逃げ出そうとする者たちも出てきている。
 都が陥落した時、何が起こるのか。それは歴史から見ても明らかであった。
 略奪、暴行、強姦、放火。
 当然、紫禁城や離宮である円明園もその対象となるだろう。壮麗な宮殿も、無数の漢籍も、そして都そのものも、何もかも焼き払われるかもしれない。
 兄帝であるあの人は今、円明園で何を考えているのだろうか。
 半ば以上、絶望的な気持ちになりながら奕愷はそう思った。





 円明園に籠る咸寧帝が、軍機大臣や各詔書を呼び寄せて御前会議の開催を命じたのは、この日の夕刻になってからのことであった。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 翌三月二十四日。
 上空警戒の翼龍が飛ぶ中、補給物資を運んできた翼龍が午門内の広場に着陸した。広さの限られた龍母の飛行甲板に発着することに慣れている海軍龍兵らしく、その着陸は危なげないものであった。
 兵士たちが直ちに駆け寄り、翼龍の背に積まれた物資を下ろしていく。
 それが終わると翼龍は飛び立ち、さらに別の翼龍が広場に着陸する。

「順調そうね」

「ん? まあな」

 景紀が楼閣の上から下を見下ろしていると、後ろから冬花が声をかけてきた。
 今の冬花は、素肌の上に火鼠の衣をまとっただけの姿である。
 消耗した霊力の回復を優先するため、耳と尻尾の封印もしていない。赤い衣の裾からは、白い毛並みの尻尾が覗いている。
 未だ冬花は己の本来の姿を人前で晒すことに忌避感を抱いていたが、それでも下士卒たちから将として仰がれている景紀の隣で無様な態度は見せたくないという意地だけで、顔を上げて背筋を伸していた。

「とりあえず、城内は静かな感じよ。相変わらず内廷に結界は張っているけど」

「了解」

 冬花は衣服ごとそこに仕込んでいた呪符も焼き尽くされてしまったが、宮廷絵師たちの画房アトリエであった武英殿から紙と墨を接収(有り体に言えば略奪)して、新たな呪符を作成していた。その一部を、探索用の式として再び城内に放っていたのである。

「どうにも斉側の対応が不可解だな。宮廷術師たちまで動員して防戦したかと思えば、今日はまるで動きを見せていない。まあ、そのお陰で空輸物資の受け取りが円滑に進められているんだが」

 景紀たちは、斉朝宮廷の混乱や指揮系統の分裂状態を知る立場にはない。それ故に、今の状況を怪訝に思っているのである。

「ひとまず、警戒態勢はこのまま継続だな。斉側の動きが読めない以上、昨日みたいに他の区画を襲撃するのも危険だ」

 貴通と共に空輸物資の分配作業を指揮し終わり、楼閣上で冬花も交えながら昼食を取りつつ、景紀はそう言った。
 新たな糧食も到着したので、嗜好品兼熱量食として保存しておいた羊羹も兵士たちに分配した。冬花の暴走を見た兵士たちの間に何となく漂っていた緊張感が、それで幾分かほぐれたようであった。
 もっとも、依然として兵士たちの冬花を見る目に幾分かの怯えが混じってはいたが。
 ただし、深刻な士気の低下を懸念するほどのものでもないだろうというのが、景紀と貴通の結論であった。兵士たちに聞こえるように、冬花の暴走を景紀が制御出来ると言ったことが、多少なりとも効果を発揮しているのだろう。

「まあ、守るべき民間人がいない分、倭館の時よりも幾分、精神的な部分で楽ではありますね」

 そう言って、貴通は重焼麺麭を囓った。景紀も冬花も、ぼりぼりと同じものを囓っている。氷砂糖を口に含んで唾液の分泌を促しつつ、ぼそぼそとした食感を我慢して三人で食事を続ける。

「今のところ、脱出に頭を悩ませる必要もないしな」

 景紀は重焼麺麭を飲み込み、水筒から一口水を飲んだ。口の中に残る重焼麺麭の感触を、それで押し流す。そろそろ炊きたての米が恋しくなってくる頃だった。

「私としては、内廷の結界が気になるところではあるのだけれど?」

 戦術的な部分を気にしている景紀や貴通と違い、冬花は呪術的な部分に警戒を払っていた。

「現状、こっちを呪術的にどうにかしようって気配はあるのか?」

「今のところ、その兆候はないけど……」

 冬花もまた、斉側の対応の不可解さには首を傾げざるを得なかった。

「冬花の方も、呪術的な仕掛けには警戒しつつ待機で頼む」

「まあ、そうするしか手はないわよね」

 三人ともがこの奇妙な小康状態に何となく不穏な思いを抱きつつ、大して美味くもない食事を終わらせたのだった。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 もし景紀たちが斉側の事情を詳しく知ることが出来ていれば、恐らくは警戒よりも呆れの感情に支配されたことだろう。
 二十三日夕刻、円明園に籠る咸寧帝によって斉朝の重臣たちが召集され、和戦のいずれをとるべきか議論すべく、御前会議が開かれた。だが、この離宮で行われた御前会議は一日以上の時間が過ぎてもなお結論がまとまらなかったのである。
 咸寧帝は強硬というわけではないにせよ主戦派であり、倭軍に対して決定的な打撃を与えられていない状況下での和睦に消極的であった。
 一方、集められた軍機大臣、各尚書ら重臣の中には、事ここに至っては領土割譲も含めた和睦もやむを得ないのではないかという意見を述べる者もいた。事実、前回のアヘン戦争では斉はアルビオン連合王国に対して香江を割譲している。
 しかし、倭人どもが割譲を要求してくるであろう地が、斉朝父祖の地である満洲と考えられたことから、議論は容易に決着が付かなかった。
 一部の重臣には、都・燕京を焦土とした後に遷都し、夷狄との徹底抗戦を行うべきという強硬論を唱える者もいた。こうした者たちは、領土割譲もやむなしと奏上する重臣たちを不忠の輩と面罵し、皇帝の前で不毛な言い争いが発生することになってしまった。
 これもまた、議論が長引く原因の一つとなっていた。
 三月二十四日の日付が変わるまで、ほとんど大臣、尚書らの意見は互いに平行線を辿り、咸寧帝もまた決断を下すことが出来ずにいた。
 この間、紫禁城の守りを任されていた恭親王奕愷の下には何の指示ももたらされず、ために禁衛兵、宮廷術師を失った彼は皇宮の一角を占拠する倭軍に対して有効な反撃を行うことが出来なかったのである。





 事態が動いたのは、三月二十五日のことであった。
 この日、円明園にいる咸寧帝の下に、天津城陥落の報せが届いたのである。
 三月二十日に大沽砲台が奪取されてから、わずか五日後のことであった。なお、燕京に届く戦況の情報は基本的に一日遅れであり、実際の天津城陥落は三月二十四日のことであった。
 大沽砲台が占領され、天津城が陥落した時点で、海からの攻撃から都・燕京を守るための防衛拠点はすべて喪失してしまったことになる。天津―燕京間には、倭軍の進撃を阻止し得る軍事拠点が存在していないのだ。
 当然、倭軍の天津上陸に対して十分な備えをしていなかったため、天津―燕京間に野戦陣地が築かれているわけでもない。
 天津城陥落の報せが届けられた時点で、都が倭軍に包囲・攻撃されるという未来がいよいよ現実のものとなってしまったのである。
 倭軍の進撃速度については未だ不明確な部分があったが、恐らくは十日前後で燕京に辿り着くものと考えられた。
 咸寧帝は、極めて難しい決断を迫られることになった。
 アヘン戦争のように領土の割譲と賠償金の支払を以て和議を結ぶか、あるいは都・燕京を焼き払って遷都し倭軍への徹底抗戦を行うか。
 いずれにせよ、中華帝国たる斉朝の権威が大きく揺らぐことは避けられない。
 未だ、倭軍に一撃を加えて少しでも有利な条件で和睦を結ぶことに一縷の望みを繋ぎ続けている咸寧帝が下した決断は、それ故にひどく曖昧なものであった。

  ◇◇◇

「兄上が、私を倭人との交渉を担う欽差大臣に任命しただと?」

 紫禁城の一角を占拠する倭軍と対峙しつつ、ほとんど無為に時間を過ごしていた今上帝の弟・恭親王奕愷の下に兄からの勅命が下ったのは、三月二十五日も深夜になってからのことであった。もうそろそろ、日付が変わろうとしている。
 いつどこにまた倭軍が降下してくるか判らないため、ずっと精神を張り詰めていた奕愷の顔には、疲労の色が濃い。
 そのため、勅使からの言葉を理解するのにいくばくかの時間を要してしまった。

「御意。このままでは燕京陥落は避けられず、であるならば倭人との和睦もやむなしと陛下はご決断なさいました」

「……」

 疲労で思考が鈍くなっている頭でも、奕愷は自分に厄介な役目が回ってきたと感じていた。
 領土の割譲、賠償金の支払。
 今まさに都に攻め入られようとしている状況下で、対等な条件での講和など望むべくもない。必然的に、その内容は斉にとって厳しいものとなるだろう。
 そして、そのような内容で和睦を結んだ自分は、斉の民から酷く恨まれることになるだろう。
 ある意味であの兄帝は、自分に戦争の全責任を押し付けようとしているのだ。これまで指揮してきた戦いといえば、紫禁城に降下した倭軍との戦闘だけでしかない、この自分に。
 冬季反攻で直隷平野の戦力を無為に消耗したあの兄こそ、この戦争の幕引きに責任を負うべきであろう。
 しかし、奕愷は万の罵倒に等しい言葉をぐっと呑み込んだ。
 最早勅命は下され、自分はそれに従わざるを得ない立場にある。ならば、やるしかないのだ。

「それで、陛下ご自身はどうしておられる?」

 欽差大臣として講和の全権を委ねられた奕愷であるが、念のため、兄から最低限の講和条件を確認しておこうと思っていた。

「はっ、陛下は交渉決裂に備え禁旅八旗を率いて西安に御動座あそばされ、その地にて戦力の再編に当たられるとのことです。恭親王殿下におかれましても、交渉決裂の際は都に火を放ち、西安へと向かわれますよう」

「……」

 勅使の伝えた内容に、恭親王奕愷は二の句が継げなかった。
 つまり、肝心の皇帝は都を逃げ出すということではないか。それも、都を防衛すべき禁旅八旗まで引き連れて。
 恐らくあの兄帝は、この戦争は自分たちの負けであると認識しつつも、どこかでそれを認められずにいるのだろう。
 だからこそ、自らは都を放棄しつつ禁旅八旗の温存を図り、捲土重来の機会を狙うと言い出したのだ。さらには燕京に火を放っても良いと自分に言ってきたところに、兄帝の諦めの悪さが見て取れる。
 これでは自分は、無事に和睦を結べても民たちから怨嗟の的となり、交渉が決裂しても都を焦土と化させた者として歴史に名を刻まれることになるだろう。
 都に火を放つなどという狂気的な命令を実行に移すだけの決意はまだなかったが、倭軍が燕京に入城すればどのみち、この都は略奪や放火の嵐が吹き荒れて焦土と化すだろう。
 いずれにせよ、自分の未来はさして明るくないことを恭親王奕愷は自覚せざるをえなかった。

「……急ぎ、天津の倭軍に使者を仕立てよ。和睦の交渉に入る前に、まずは停戦させねばなるまい」

 ひとまず、使者を送ったらしばらく寝ようとこの皇帝の弟は思った。
 別に現実逃避をしたいわけではないが、いささか肉体的にも精神的にも疲労が溜まり過ぎている。せめて、講和の席では中華皇帝の弟として毅然とした態度を見せつけたかった。
 そのためにも、まずは睡眠が必要だ。
 そうして恭親王奕愷は、どこか覚束ない足取りで紫禁城内廷の奥へと消えていった。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

「景紀!」

 一発の銃声も響かなくなってから四日目の三月二十七日。降下からちょうど七日目のこの日、景紀の下に冬花がいささか慌てた様子で飛び込んできた。

「どうした?」

 楼閣から、もういささか飽き始めてきた紫禁城の情景を見つめていた景紀が問う。

「海軍陸戦隊司令部より緊急通信よ。少し前に、斉の使者が司令部に現れて、講和を申し込んできたって言うわ」

「何?」

 通信内容を書き記した紙を受け取りつつ、シキガミの主たる少年はもう一度、冬花の言った内容を確認するようにそれをゆっくりと読み込む。
 それによれば、二十六日の夕刻、燕京に向けて進軍中の海軍陸戦隊先鋒部隊に斉朝宮廷からの使者が到来し、和睦を結ぶ用意があると告げたという。
 その交渉のための欽差大臣に任命されたのが咸寧帝の弟である恭親王奕愷だということで、この情報はただちに後方の陸戦隊司令部や天津沖の艦隊司令部にも報告された。
 とはいえ、先鋒部隊指揮官に斉朝皇族の派遣した使者に回答を与える権限はなく、使者にはさらに後方の司令部に向かうように言って陸戦隊先鋒はそのまま進撃を続けた。
 二十七日時点において、陸戦隊の先鋒は燕京からわずか四〇キロの河西務にまで迫っていた。
 その頃になって、ようやく陸戦隊司令部に斉の使者が到着したのである。
 使者の持参した恭親王奕愷からの書簡は、龍兵を使ってただちに皇国本土に届けられると共に、その内容は一足早く、呪術通信で兵部省や外務省に報告されたという。
 だが、まだ全軍に停戦命令が下ったわけではない。あくまでも、斉側が和議を求める姿勢を初めて明らかにしたというだけだ。
 それでも、戦争終結に一歩、近付いたことは確かだろう。

「一度、謀略に遭った自分としちゃあ、簡単に鵜呑みにするわけにはいかんが」

 景紀は苦笑しつつ、紙片を冬花に返す。彼女もまた、何とも言い難い複雑な感情を顔に浮かべていた。

「これで戦争が終わることに、越したことはないな」

「ええ、そうね」

 二人は何となく、晴れ渡った異国の空を見上げてみる。人間たちが地上で繰り広げる騒乱など知らぬとばかりに、今日もまた太陽は天高く昇りつつあった。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
  あとがき

 これにて、第八章「中華衰亡」編を完結となります。
 ここまでのお付き合い、誠にありがとうございました。

 さて、作中の「対斉戦役」も終わりに近付きつつあるということで、ここでモデルとした史実アロー戦争と史実日清戦争について簡単に解説をさせて頂きます。

 アロー戦争とは、第二次アヘン戦争とも呼ばれる一八五六年から一八六〇年まで続いた清朝対英仏の戦争です。
 「第二次アヘン戦争」の名の通り、この戦争はイギリスによる対清貿易の拡大や外交使節の北京常駐を目的とした、アヘン戦争(一八四〇年~一八四二年)の延長線のようなものでした。
 アヘン戦争がアヘン問題を口実にした戦争であるように、こちらはアロー号に掲げられていたイギリス国旗が清側官憲に侮辱されたことを口実として、イギリスは開戦に踏み切っています。
 この戦争で活躍した清朝側の将軍が、モンゴル出身のセンゲリンチンでした。
 戦争は、一度は清国側が屈服する形で天津条約(一八五八年)が結ばれますが、条約に不満を持つ清はこれを廃棄、英仏は報復として二万の兵力を天津の大沽に上陸させ、天津、北京を短期間で攻略します。
 この時、英仏連合軍によって略奪・放火の憂き目に遭ったのが、円明園という壮麗な離宮でした。現存している紫禁城とは違い、円明園は今では完全な廃墟となっています。
 そして、英仏との講和交渉を担ったのが、当時の皇帝であった咸豊帝の弟・恭親王奕訢でした。一方の咸豊帝自身は熱河へと蒙塵し、一八六一年に三十歳で崩御しています。
 アロー戦争の結果、結ばれたのが北京条約で、これによって清朝は初めて西洋式の外交様式を取り入れ、外国公使の北京駐在を認めると共に、清朝側でも西洋式外交に対応するための専門の役所・総理各国事務衙門(通称「総理衙門」)を設置します。
 この総理衙門の設立に携わり、自らもまた総理衙門大臣となったのが、先ほど登場した奕訢です。彼はその晩年、日清戦争における外交交渉にも携わっています。
 また、天津条約・北京条約によってアヘン貿易は完全に合法化され、各地に開港場が設けられたために清国市場が欧米列強に開かれることになりました。
 そして、清国の窮地に乗じて勢力を拡大したのがロシア帝国で、一八五八年には愛琿条約で黒竜江を新たな両国の境界線と定め、さらに六〇年にはウスリー川以東の沿海州も獲得します。
 ロシアの東アジア・極東進出はその後も続き、新疆(東トルキスタン)地方でイスラーム教徒による清朝に対する反乱が起こると居留民保護を目的に介入します。
 最終的にロシアは占領したイリ地方から撤退しますが、同時に中央アジアのいわゆる「ウズベク三ハン国(コーカンド=ハン国、ブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国)」はロシアによって滅ぼされるか、保護国にされてしまいます。
 この中央アジアでのロシアの南下はアフガニスタンに勢力を伸していたイギリスとの対立を生み、いわゆる「グレート・ゲーム」が激化していくわけです。

 ただし、拙作ではこうした史実をモデルとしつつも、秋津皇国が東シベリアに相当する地域にまで進出しているため、史実とは違った国際関係が生まれるはずです。

 そして、もう一方の日清戦争。
 こちらは一八九四年から九五年にかけて行われた、近代日本初の国家間戦争です。日清間の対立原因が朝鮮に対する影響力を巡ってのものであったことは、中学校の教科書にも出てくるほどですので多くの説明は要らないと思います。
 拙作では斉国側の大反攻によって海城攻防戦が発生していますが、史実日清戦争でも海城攻防戦は四度にわたって行われるなど、遼河平原を巡る戦闘の焦点の一つとなりました。
 なお、作中のホロンブセンゲによる冬季大反攻のモデルは、第二次世界大戦でドイツ第三帝国が行った「ラインの守り作戦(アルデンヌの戦い)」です。
 拙作の秋津皇国では、冬季攻勢の攻略目標が奉天・遼陽となっていますが、史実日清戦争では海城を前進拠点として鞍山站、牛荘、営口、田庄台の攻略作戦が行われています。
 直隷平野での決戦も史実日清戦争では計画されていましたが、作戦準備段階で和平交渉が開始されたこと、実際に北京を攻略すると清朝が崩壊してかえって交渉相手がいなくなってしまうこと、北京には列強各国の公使館などがあったことから列強による共同干渉を受ける可能性が予測されたこと、などの理由から実際には実施されませんでした。

 拙作は大沽上陸というアロー戦争をモデルにした上陸作戦とともに燕京への空挺降下作戦を描いておりますが、これは作中の斉国の都・燕京に外国公使が一切駐在せず、また華北に西洋列強の利権がまったく存在していないことから可能となった作戦であるといえましょう。

 なお、アロー戦争を詳細に書いた日本語文献は非常に少なく、まとまったものとしては一九三九(昭和十四)年に弘文堂書房から発刊された矢野仁一『アロー戦争と圓明園』(中央公論社から一九九〇年に再刊)がある程度で、執筆のための調査には苦労しました。
 そのため、作中の戦況の進み方はどちらかといえば日清戦争寄りとなっております。

 それでは、今後とも拙作をよろしくお願いいたします。
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