秋津皇国興亡記

三笠 陣

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第八章 中華衰亡編

153 宵と宮中勢力

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 宵が軍監本部長・川上荘吉少将から受け取った資料と建白書は、非常に詳細なものであった。
 資料は皇国の造船業界の動向から、植民地や海外からの資源輸入に必要な船舶量、徴傭船の船員の数、これまでに喪失した船舶量と死亡した船員の数、将来的な船舶喪失量予測、それによって必要となる新規徴傭トン数など、陸軍の海上輸送に関する数値はすべて網羅しているのではないかと思われるほどのものであった。
 そして建白書は、単に主家に対して他の六家や政府に働きかけて欲しいというような単純な内容ではなかった。
 国内の船舶不足に対して六家の採るべき方策、兵部省だけでなく内務省、大蔵省、逓信省、商工省など船舶業務に関連するすべての省に対する要望、それらがびっしりと羅列してあったのである。
 川上少将は、現在の状況に対応するためには新規船舶の建造促進では間に合わないとして、現行の各種制度や検疫などの手続きの簡略化、船舶の整備・荷積みを短時間で行うために造船関係者・港湾労働者の就業時間の延長ないしは夜間作業の実施の許可などを求めている。また、内地の人手不足を補うために植民地人の戦時徴用制度の確立なども提言されていた。
 それらの要望が、六家や各省の所掌事項別に書かれていたのである。
 特に六家へは、中央政府における徴傭船の船員に対する補償制度の確立の働きかけ、そして領内での優秀船舶(高性能商船)の建造に際しての助成金支給の二点を強調して要望していた。
 受け取り方次第では、六家に対する批判とも解釈出来てしまうであろう内容であった。
 恐らくあの日、川上少将は懐に辞表を忍ばせていただろう。それほどまでに、真剣でかつ切迫した内容であった。

「あの時、景紀様とご相談出来れば良かったのですが……」

 自分が景紀と怨霊の満ちる空間を彷徨った時、その話をすればよかったかもしれないと思ってしまう。しかし、自分は景紀と久しぶりに会えたことに浮かれていたし、何よりも景紀が相談を受けられるような状態ではなかっただろう。
 ならば、景紀が帰還した時に、自分はこれだけのことが出来たのだと彼に示せるようにしたい。
 とはいえ、やる気だけが逸っても仕方がない。
 川上少将も、まさか自分の建白書のすべてが実現可能であるとは思っていないだろう。これは、六家や中央政府に対する警鐘の意味もあるのだと宵は思っている。
 現在の皇国が抱える問題の一端を、この建白書は示しているのだ。
 そして、船舶問題を深刻化させようとしている一人が宵自身であることを、彼女は自覚していた。
 宵は結城家が戦後、南泰平洋の利権を得られるように画策した。もちろん、南泰平洋の植民地化を促進する決定を下したのは自身の義父でもある結城景忠公であるが、少なくともそうなるよう仕向けたのは宵である。
 泰平洋における植民地の拡大は、それだけ新たな船舶を必要とする。
 それどころか、現地民の反乱などが起これば鎮定軍を派遣する必要も生じてくるため、こちらの方面でも徴傭船が必要となってくる可能性があるのだ。
 もちろん、対斉戦役中にそのような余裕はないため、あくまで西洋列強に対する領有宣言に留め、実際に植民地化するのはそれ以降となるだろう。しかし、やはり対斉戦役が終結しても徴傭船問題が続くことは間違いない。
 “戦争の時代が始まる”以上、この戦役を機に船舶徴傭問題に一定の程度、解決しておくことは必要だろう。
 皇国陸軍は兵站を重視している一方、景紀が語ってくれた六家会議の模様から察するに、海上輸送については理解が薄いという二面性が存在しているといえた。
 この二面性は何だろうと宵は考えるが、結局は六家という存在が原因だという結論に行き着く。
 戦国時代は基本的に陸上戦闘が中心であり、水軍同士の海戦にしても内海で行われたものがほとんどである。
 そして、戦国時代の水軍は主としてその地域の海賊衆から発展した存在であることが多い。今でも海軍に六家の影響力が及びにくい原因は、ここにある。
 戦国時代末期からの海外進出に関しても、西洋諸国のように周辺に有力な海軍力を持つ国家が存在しなかったことから、海賊による襲撃は別として、敵国の海軍によって海上交通路が脅かされるという経験がほとんどなかった。むしろ、大航海時代における西洋諸国の東南アジア進出に関しては、皇国が彼らの海上交通路を脅かす方であった。
 このあたりが、六家が兵站を重視しつつも、海上交通路の保護問題に疎い原因ではないかと思う。それが、今まで六家の間で船舶徴傭問題が真剣に検討されなかったことに繋がっているのだろう。
 もちろん、戦争の形態が前回の海外派兵である広南出兵とは大きく変ってしまっていることも船舶徴傭問題が顕在化した要因の一つではあろう。
 弾薬の大量消費、鉄道輸送網の発達による動員兵力の拡大などなど。
 ひとまず、宵一人で出来ることは限られている。
 建白書のすべてについて、実現のために宵が出来ることは極めて限定的であった。
 まず、宵、あるいは結城家にとって一番容易に達成出来るのが、領内の造船業者や商船会社に対する優秀船舶建造助成金の支給であろう。これは、家臣団も含めて結城家全体が南洋植民地の拡大を目指している以上、宵が説得することは容易なはずだ。
 もう一つは、高級船員以外の徴傭船船員に対する補償である。
 川上本部長はこの補償に関して、死亡時の遺族恩給(年金)制度の確立だけでなく、一般徴傭船船員に対する身分の保障も建議していた。
 徴傭船船員は長期間、危険な重労働に従事させられることになる。戦地などでの危険任務に従事する際の特別手当の支給、船員に対する食糧の官給、徴傭中の疾病に対する保険の適用など、軍属並みにその身分を保障するための制度を確立すべしというのである。
 現在、軍属でない一般徴傭船船員に対する公的な補償制度は存在していない。領主によっては遺族に対して見舞金を出すところもあるが、地域によってその額は上下している。
 六家は比較的財政に余裕のある諸侯なので、見舞金はそれなりの額が支給されるが、弱小諸侯の領地や中央政府直轄県などでは場合によっては支給されないことすらあった。
 地域によって、かなりの格差が生まれてしまっているのである。
 宵としては故郷・嶺州の農民たち同様、こうした者たちにも手を差し伸べるべきだと感じていた。徴傭船の船員の中には、嶺州出身の者たちもいるのだ。
 とはいえ、将家の姫としての個人的な責任感があれば補償のための金が湧いて出てくるわけでもない。
 財源の問題は、常に付きまとうのだ。
 昨年より、六家は五年間継続で年間四〇万円を国庫に納めることが合意されている。六家会議において、景紀の発案によって決まったことであった。
 六家全体で、年二四〇万円。その内、二〇〇万円を二個師団増設のために五年間継続して陸軍拡張費に回すこととなっていた。残り四〇万円については、海軍拡張費などに流用されることになる。
 加えて、六家は戦時公債各五〇〇万円を負担したばかりである。
 また、結城家に限っていえば、嶺州鉄道建設請負契約のために鉄道公債の大部分を買い取っている。これは“行政機構としての結城家”が発行し、“家(私法人)としての結城家”が買い取ったものであるが、最終的に建設費用を支払うはずの佐薙家が失脚したため、事実上、回収不能な債権となっていた(ただし、それによって嶺州鉄道やそれに付属する各種利権は結城家が回収することになる)。
 これらはすべて、六家の私的な財産から出されたものである。つまり、領内の鉱山経営や植民地利権、企業経営など“家(私法人)”としての経済活動によって得た資産である。
 これまでは領内の財政は、税収で賄えない部分が出てくると“行政機構としての結城家”が公債を発行し、“家(私法人)としての結城家”が公債を買い取ることで成り立たせていた。
 しかし、この数年の度重なる“家としての結城家”の出費、そして今後の南泰平洋進出のために必要な資金を考えると、結城家の者たちが徴傭船船員の補償に予算を割こうとするだろうか?
 宵には疑問であった。
 とはいえ、それは平時の理論。今は戦時である。
 戦時特別会計として、中央政府の発行する戦時公債で補償のための財源を確保すればよい。もちろん、遺族年金に関しては経常的な予算が必要となるため、戦時公債によって年金制度を確立させることは不可能だろう。しかし、ひとまず戦時中の補償制度だけでも整備すべきだと宵は感じていた。
 問題は、六家の誰がそれを言い出すか、ということである。
 すでに六家は戦時公債五〇〇万円を引き受けている。さらなる経済的負担は、六家内部の財政や資産状況を悪化させ、六家の政治的権力の低下に結びつきかかねない。
 たとえ六家でなくとも、余計な出費はしたくないというのが本音だろう。だからこそ、これまで徴傭船の一般船員の補償はなおざりにされてきたといえる。
 たとえば、例の二四〇万円中の四〇万円を、徴傭船員の補償金に充てるという手もあるだろう。
 ひとまずは、景忠公や筆頭家老の益永忠胤、側用人の里見善光などに相談してみることから始めよう。もしかしたら景忠公らも、川上少将からの建白書を受けて何かしらの政策立案に取りかかっている可能性もあるだろうし……。

  ◇◇◇

「それで、巡り巡って私のところにやって来たというわけか」

 宵の目の前に、宮内省御霊部長の険しい顔があった。
 年末年始の宮中祭祀が一段落し、宮内省の業務も落ち着いてきた皇暦八三六年一月中旬のことである。
 八重の父親である浦部伊任は、相変わらず書類を捌きつつ、時折ちらりと目線を上げて宵を見遣っている。

「八重さんを通して、川上少将の建白書はお渡ししたと思いますが?」

「ああ、読ませてもらった。今、六家や政府で何が問題となっているのか、我ら宮中の人間としても知っておきたいところなのでな」

 結城家内で宵の立場を確立しているものは、次期当主・景紀の正室であるということだ。そして、景紀不在の中、彼女が重臣や景忠公側近勢力の傀儡とならずに済んでいるのは、宵自身が確固たる意志の下で行動していることと、有馬頼朋翁との繋がり、そして宮中情報網と繋がりを持っていることが大きい。
 六家長老の持つ情報網、そして宮中勢力が持つ情報網と結城家を繋ぐ存在が、宵なのだ。
 これが、宵が結城家で独自の立場を維持出来ている要因であるといえた。
 だからこそ宵は、徴傭船舶問題に関して浦部伊任と会談することを選んだのである。
 当初は、景忠公を筆頭とする結城家を動かすつもりであった。
 しかし、やはり家臣団は建白書が六家を暗に批判したものであると捉えたのか、重臣や景忠公側近の中に感情的な反発を生んでいた。歯に衣着せぬ正論は、時として他者の無用の反発を買うことになる良い例といえた。
 家臣団の間は、中央政府に派遣された家臣でありながら主家のために行動しない川上少将の態度を不忠であると批判する声も出ている。中には川上少将に諭旨免職(本人同意の上で退職を申し出よ、ということ)を申し渡すよう兵部省人事局に圧力をかけるべきだという意見すらあった。
 時期的に、斉軍の大反攻を軍監本部として予測出来なかった責任を取らせる、という理由付けが出来たことも、こうした批判が出てきた要因だろう。
 しかし、このような措置をとれば結城家内部の混乱を他の六家に知らせるようなことになるため、景忠公と宵で建白書に反発する家臣団を抑える必要があった。
 やむを得ず、次に宵は頼朋翁に建白書を見せ、自身の意見を述べた。しかし六家長老は、景紀不在中の結城家で宵が独自の政治的行動をとっていることに対して、自重するよう言ってくるだけであった。
 頼朋翁が宵に期待しているのは、あくまで結城家家臣団の統制であった。逆に、将来的に結城家内における宵の影響力が景紀よりも大きくなってしまうことについては警戒していたのである。
 頼朋翁はこれまで徴傭船舶の船員に対する補償問題を放置してきた一人であり、問題の改善についても自ら動こうとする気配は見られなかった。補償問題を、それほど深刻には受け止めていないようであった。
 ただ、各省に対する徴傭船に関する制度や手続きの簡略化については、自身の中央政府に対する影響力を行使してくれると約束してくれた。
 宵が結城家や有馬家に働きかけて事態を動かせたのは、この程度であった。
 長尾多喜子にも茶会の席で話題にしてみたが、長尾家次期当主・憲実が積極的に問題解決に動くことはないだろうということであった。
 なお、宵は六家次期当主の正室として、伊丹、一色、斯波家の女性たちの茶会に呼ばれることもあるが、彼女たちを通して当主を動かすことは出来そうもなかった。あくまで、他の諸侯や公家、皇都市民たちに六家が一つの勢力として各家が繋がっていることを印象づけるための交流でしかなかった。
 だから最終的に宵は、宮中勢力を動かすことを目指したのである。
 事前に、景忠公からは了承を得ている。
 公としても、六家の政治的・経済的影響力の低下に繋がりかねない徴傭船船員補償問題を、六家会議や列侯会議で自ら切り出す気はないようであった。しかし、他所が言い出してくれるのならば補償制度を政策として検討しても構わないという、消極的ながらも賛成の態度を取ってくれたことは有り難かった。

「宵姫殿、貴殿は私にどう動いてもらいたいのだ?」

 伊任の鋭い視線が宵を捉える。彼が皇室に忠誠を誓っている呪術師であることを、宵は理解していた。

「徴傭船舶船員の補償問題が、陛下のお耳に入るように取り計らって欲しいのです」

「……」

 龍王の血を引く陰陽師の視線が、鋭さを増す。六家による皇主の政治的利用、それを警戒しているのだろう。
 宵は怯まなかった。

「その上で、戦死者遺族への御下賜金などと同じように、死亡船員に対する御下賜金の支給を宮内省の方で検討して頂きたいのです」

 皇室、あるいは宮内省は、中央政府とはまったく別の財源を持っている。御料地(皇室直轄地)や株式の運用で得ている収入である。そこから徴傭船の死亡船員に対する御下賜金を払って欲しいと、宵は言っているのだ。

「六家領地などでは、死亡船員の遺族に見舞金を払っているのだろう?」

 それでは二重に支払うことになると、伊任は指摘する。

「はい、ですのでまずは政府直轄県出身者に対する御下賜金の支給から検討をして頂きたく存じます」

 県は中央政府から県令が派遣されて、統治が行われている。そして、中央政府(内閣)は名目上、皇主に直属する形になっている。
 県に対する皇主からの御下賜金支給は、理論的には可能であった。
 一方で、諸侯の領地はそれぞれの諸侯が統治を行っている。六家を始めとする諸侯は、皇主からその地域の統治を委任されているという形式であり、まずは諸侯が責任をもって死亡船員に対する補償をすべきであった。
 徴傭船船員に対する特別手当や疾病に対する補償などは、戦時公債を発行すれば対応可能である。しかし一方で、経常的な予算を必要とする遺族恩給(年金)の支給となれば、六家会議や議会で議論が繰り返されることになるだろう。
 正直なところ、戦時中である以上、死亡した徴傭船船員に対する恩給の支給問題よりも重要な問題は多々存在している。どうしても、恩給問題は後回しにされざるを得ないだろう。
 だからこそ宵は、宮廷費から遺族への見舞金を捻出させようとしたのである。六家の領地では領主からの見舞金が支払われるが、それ以外の諸侯の領地や県では支給されないという不公平を、少しでも是正しようというのが目的であった。
 皇主が船員遺族に御下賜金を支給すれば、流石に諸侯たちもそれに倣わざるを得ない。全国的にそうした流れが出来れば、最終的には制度として確立させるという流れを作ることも不可能ではないだろう。
 宵は、そう考えていた。

「これは、陛下の御稜威ごみいつを民草に知らしめることにも繋がります。皇室の権威の向上という点からも、伊任殿の望みに叶うことでは?」

 伊任が皇室への忠誠篤い人間であると知っていたからこそ、宵は彼を利用しようとしたのだ。

「……なるほど。娘より、貴殿が民草を気にかける姫君であると聞いている。つまりは、そういうことか?」

 結局のところ、宵の提案には結城家にとって有利になる点は一つもない。ただ、これまで軍や行政に見捨てられてきた者たちに少しばかりの救いがもたらされるだけだ。

「そう受け取っていただいて、構いません」

 宵は特に表情や声に感情を乗せることなく、そう答えた。

「よかろう」

 どうにも凄んでいるようにしか見えないが、伊任はにやりと笑って見せた。

「貴殿の望むように宮内省が動くとは限らんが、侍従を通して建白書の件が陛下のお耳に入るようには取り計らおう」

「ありがとうございます」

 少しでも、この問題の改善に自分は貢献することが出来ただろうか。宵はそう思いながら御霊部を後にしたのだった。





 いわゆる書陵部庁舎を出た宵は、護衛の風間菖蒲、朝比奈新八を従えつつ、宮城二の丸の済寧館に向かった。
 普段は皇宮警察や御霊部の者たちの訓練場として使用されている済寧館は、冬のこの日も訓練に励む者たちの熱気で満ちていた。
 その中心にいるのは、鉄之介と八重だった。
 二人とも、放課後にここで鍛錬に励むのが日課になっていた。
 鉄之介は今年の三月で学士院中等部を卒業し、四月から宮内省御霊部に就職することが内定している。連日の鍛錬は、御霊部による研修的な意味合いもあるのだろう。
 将来的には葛葉家を継ぐことになる鉄之介だが、それまでの間は、伊任らの下で陰陽師としての経験を積むことになるのだ。
 八重が結城家皇都屋敷を襲撃してから、もう一年以上が経っている。
 その間に、鉄之介も八重も互いに切磋琢磨して随分と呪術師としての腕を上げたと思う。宵が出会った当初の鉄之介は、姉である冬花のことを思うあまり冬花自身を無視しているような印象を受けたが、最近では姉一辺倒でもなくなってきている。
 八重という同年代で張り合える相手が現れたことや、陽鮮での体験などが大きく影響しているのだろう。

「何だ、姫様。来てたのか?」

 汗を拭くために壁際まで手ぬぐいを取りに来た鉄之介が、宵に気付いた。

「ええ、少し伊任殿にお話したいことがありましたので」

「姫様も大変だな」手ぬぐいで顔を拭いつつ、鉄之介は労うように言った。「俺も姉上みたいに姫様を補佐出来たら良かったんだろうが」

 冬花は景紀の御付き術師であるだけでなく、補佐官でもある。一方で、宵に補佐官に相当する存在はいない。
 それを、鉄之介は不甲斐なく思っているらしい。
 葛葉家を継ぐ者としての自覚を感じさせる発言であった。

「―――ああ、宵姫殿。こちらおられましたか」

 すると、済寧館に一人の青年が入ってきた。八重の兄・浦部伊季である。

「伊季殿、如何なさいましたか?」

「いえ、実はですね。この度、俺は例の瘴気被害の実態調査のために渡満することになりまして」

 遼河平原を巡る戦闘で斉軍の呪術師が瘴気を皇国軍陣地に流し込んだという報告は、一般には公にされていないものの、関係者の間では周知されていた。当然、宵も知っている。

「その際、宵姫殿から景紀殿に何かお伝えしたいことがあればと思いまして」

「お気遣いは有り難いですが、将家の姫だからと私だけが特別扱いされるわけにもいかないでしょう」

 戦地にいる夫や父、兄弟に手紙や慰問袋を届けたい女性は国中にいるだろう。宵だけが六家次期当主の正室だからと特別扱いされるのは、何だか不公平な気がするのだ。

「ただ、そうですね。嶺州出身の将兵たちに、何か用意したいとは思います」

 しかし一方で、将家の姫だからこそ特別なことを行わなければならないという場合もある。篤志看護婦人会に宵が参加しているのはその一つである。
 そして、嶺州出身の姫である宵には、故郷の将兵に対する責任があった。

「判りました。二十五日には皇都を発つ予定ですので、それまでに準備して頂けると助かります」

「はい、よろしくお願いいたします」

 正直、渡満する伊季を羨む気持ちも、宵の中にはある。しかし、彼は何も物見遊山で戦地に行くのではない。
 そして、伊季の申し出に誘惑を感じている自分自身がいることも確かだった。
 感情と理性の切り離し、殿方を待つ一人の女性と将家の姫、それら相矛盾するものに折合いをつけて行動することはなかなか難しいことであった。
 とはいえ、宵はそれらの責任や立場を投げ出したいとは思っていなかったが。
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