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第八章 中華衰亡編
142 陸軍徴傭船
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兵部省軍監本部は、後に参謀本部へと発展していく皇国陸軍の用兵部門を職掌とする部局である。
もともとは戦国時代に比べて複雑化した陸軍の兵站業務を担うために発足した部署であり、さらには六家を始めとする諸侯の存在によって半封建的状態にある陸軍諸部隊の統一的運用を目指すために発展してきた組織であった。
現在では陸軍の作戦計画立案の中心的存在となってはいるが、兵站業務を担うために発足した部署でもあることから、部員たちは作戦よりも兵站問題に計画立案の重点を置く傾向があった。
戦国時代の経験から兵站を重視する傾向にある皇国陸軍にあっては、兵站部門を経験していることが出世の重要な条件であったから、その意味でも軍監本部部員たちの兵站への意識は高かった。
そして皇暦八三五年十二月現在、軍監本部はまさにその兵站問題に悩まされることになっていた。
「閣下、本日もまた、全国の県令や海運業者から解傭願いが届けられております」
軍監本部長を務める結城家臣団出身の将官・川上荘吉少将の下に、書類の束が届けられた。
「今月に入って、これで何度目だ?」
数えるのも億劫になりつつある中で、川上少将は手近にあった書類をめくる。そこに書かれているのは、陸軍徴傭船の解傭を願う民間からの悲痛な要望であった。
「ったく、こんなのはうちではなくて六家にでも直接送りつけてやれば良いだろうに」
自分も六家出身の人間ではあるが、軍監本部という陸軍の統一的運用を目指す組織に属していると、どうしても六家という存在が作戦用兵上の障害に思えてしまう。現地の征斉派遣軍が軍監本部の策定した対斉作戦計画を無視した軍事行動をとっているとなれば、なおさらであった。
現在、皇国軍は民間船舶を徴用(徴傭)して陽鮮、遼東半島への兵員、軍需物資の輸送に充てている。特に独自に給炭艦や給糧艦などを保有している海軍と違い、陸軍における戦時輸送の大半は徴用した民間船舶に頼っていた。
満洲や陽鮮に三十万以上の兵力を展開させているため、必要となる船舶量もまた膨大であった。
しかし、民間船舶の徴用は必然的に民需に影響を及ぼす。
実際、現在の軍監本部員たちを悩ませている問題はそれであった。
そもそも、現地の征斉派遣軍による冬季攻勢を内地の六家が容認してしまったことが、すべての原因であった。これにより、民間船舶の徴傭期間長期化問題が発生してしまったのだ。
前線となっている遼河平原へ軍需物資や糧秣を恒常的に輸送しなければならないのであるが、征斉派遣軍による冬季攻勢は軍需物資・糧秣の消費量増大を招き、ここに斉軍による冬季大反攻も加わって、本来であれば皇暦八三五年の年末を以て解傭されるはずであった商船が少なからず徴用期間の引き延ばしに遭っていたのであった。
遼河平原への兵站を維持するために必要な措置ではあったが、開戦前における戦時輸送計画を大きく狂わせてしまっていることは確かであった。
幸いなことに斉水軍はそもそも皇国海軍に比べて弱体であり、加えて開戦劈頭に壊滅していたために敵艦艇の攻撃による船舶喪失は皆無であったが、それでも風浪の激しい冬の渤海で事故を起こす船舶はそれなりの数に上っている。
大連や大弧山の港湾設備は急速に整えられているが、近代化された国内の港に比べればその能力は低かった。このため、沖合の輸送船から港まで兵員や物資を届けるための小型船の需要が増大しており、全国から数百隻単位の漁船など小型船が徴傭されていた。
特にこの小型船が、風浪によって転覆事故などを起こしていたのである。
もちろん、船と共にその船を操る乗組員も徴用されている。そのため、事故によって少なからぬ船員たちが溺死していた。
「徴傭船の乗員たちに対する補償も、急務だな」
険しい表情のまま、川上少将は呟く。
軍夫として徴用された民間人は、万が一があった場合の補償を軍から受けることが出来るが、徴傭船の乗員は軍夫として認められない者がほとんどであったのである。
商船学校出身の船長、航海士などの高級船員は軍夫として補償の対象であるが、それ以外の船員は軍夫としてすら扱われないのである。このため、戦地で死亡したとしても事故死扱いであり、戦死者遺族に対するような恩給(後世の表現で言えば「年金」)は支給されない(領主によっては、死亡見舞金を遺族に払う者もいるにはいる)。
これは法制度上の問題であり、兵部大臣、あるいは軍監本部の一存で徴傭船船員の待遇を変更することは出来なかった。政府、もっと言えば六家が制度改革に乗り出さない限り、解決されない問題なのである。
そして、特に小型船舶の不足は国内産業に影響を与えかねない危険性を孕んでいた。
皇国本土では金・銀・銅、石炭、石油などを産出してはいるが、それだけで国民生活が成り立つわけでも、また戦時経済体制を維持出来るわけでもない。
まず、秋津人の主食たる米は、その一部を外米に依存している。織物の原料となる綿花については植民地も含めた国内産でほぼ自給が出来ているが、羊毛については依然として輸入に頼る割合が大きい。
さらに戦争遂行に必須な火薬生産に欠かせない硝石は、ほとんど輸入に依存している(人糞などから硝石を生産する技術もあるにはあったが、硝石全体に占める量は極小でしかない)。
これら植民地や海外から輸入される物資の国内輸送のために、多くの小型船が使われていたのである。
小型船の大量徴傭、そして徴傭期間の長期化は、国内の物資不足を引き起こしかねない問題なのである。
現在、国内の物資輸送に関しては船舶輸送から鉄道輸送に置き換えられるものは、順次、置き換える措置をとっている。しかし、その鉄道自体が大量の石炭を消費するのである。
やはり、鉄道輸送は根本的な問題解決にはなり得なかった。
もちろん、国内の物資不足は民需だけでなく軍需にも影響を与える問題である。
現在、開戦前の想定を上回る量の弾薬を消費していることが判明したため、全国各地の砲兵工廠や民間の軍需工場などでの弾薬の緊急増産措置がとられていた。
時期的に農作業が終わった頃とも重なっていたため、冬の間の副業として都市部に出稼ぎに出てくる農民の数も増加していた。そのため、労働力の確保それ自体には大きな問題は生じていない。
軍直属の各工廠や民間の軍需関係企業に関しても、熟練工は徴兵の対象外であったために、生産される軍需物資の質もそれほど落とさずに済んでいる。
臨時で雇い入れた出稼ぎ農民が増えたために、慣れない作業に工場などでの事故率は多少増大したものの、それでも軍としては許容出来る範囲に収まっていた。
こうした国内の生産力の維持という点は、戦国時代の総力戦的戦争を経験して、それに対応出来る国家制度を築き上げた六家の功績の一つといえよう。
ただし、それでも問題がないわけではなかった。
弾薬の消費量は戦国時代とは比較にならないほどに増大しており、そこにさらに戦前の計算を上回る量の弾薬が冬季攻勢と斉軍の反攻によって消費され続けているのである。
国内の生産力のさらなる拡充は、皇国政府や六家にとって急務といえた。
しかし、船舶不足はその生産拡充計画に歯止めをかけかねない要因だったのである。
前回の広南出兵では短期間で戦闘行為が終結したため、また弾薬消費量がはるかに少なかったため、こうした問題は顕在化しなかった。
ある意味で、国家や軍の近代化に伴って顕在化してきた問題といえよう。
「やはり、六家が動かねば政治は動かぬか」
嘆息と共にそう呟いた川上少将は、部下に一声かけてから部長室を出た。兵部省庁舎の廊下を歩き、別の部署の扉を開ける。
「畑局長はおられるか?」
「川上本部長か、どうされた?」
すると、部屋の奥の執務机に座っていた人物が立ち上がった。
「少し、お話ししたいことがある。今、よろしいか?」
「ああ、判った」
その人物は部下に二言三言告げてから、川上のところにやって来た。そのまま二人して廊下に出て、空いている談話室に入る。
「どうした、えらく深刻そうな顔だな」
二人だけになると、途端にその軍人は口調を砕けたものに改めた。
畑秀之助。
兵部省陸軍軍務局長を務める少将で、伊丹家家臣団出身の軍人であった。軍監本部長である川上荘吉とは、兵学寮の同期の間柄でもある。
「端的に言うと、船が足らんのだ」同期生故の気安さか、川上は愚痴るように続けた。「冬季攻勢の所為で、当初の計画より民間船舶の徴用期間が長期化している。これを何とかしなけりゃならん」
「それで、俺のところというわけか」
陸軍軍務局は、陸軍の編制、動員計画、予算関連事項など陸軍の軍政を担当する部局であった。
軍政を担当しているために、ある意味で兵部省内部で最も六家からの圧力がかかりやすい部署でもあった。
昨年の予算問題でも、六家と兵部省、そして大蔵省の三者の間で板挟みになっていたほどである。
「とはいえ、今更編制計画だの動員計画だのを見直したところでどうにもならんぞ。冬季攻勢の所為で、こちらも国内の戦略予備をどうするかで一杯一杯だ」
「俺が用があるのは、軍務局長である貴様ではなく、伊丹家臣団である貴様だ」
川上は端的に言った。
「海運業者からは悲鳴のような解傭願いが届けられている。このままでは軍需物資の緊急増産措置も頭打ちになりかねん。これを六家の連中に正確に認識してもらわなければ、来春以降、拙いことになる」
「直隷決戦を来夏まで先延ばしにするという話もあるようだが、それも難しいということか?」
「だいぶ無茶をすれば不可能ではないが、その場合、第三国による介入に対抗出来るだけの余力は失われるだろうな」
「ルーシー帝国とヴィンランド合衆国、か……」
畑は悩ましげに息をついた。彼の主家である伊丹家は攘夷派将家の筆頭であり、その当主である伊丹正信は国内の攘夷派から盟主のように見られている。
主君やその周囲の重臣連中をどう説得したものか、悩んでいるのだ。
川上も畑も六家の家臣団でありながら中央での勤務が長いため、自然と将家という単位ではなく国家という単位で物事を考える習性がついてしまっている。
「俺も、斉や陽鮮を旧態依然とした国家だと侮っていたことは否定せん」
険しい声で、川上は言う。
「だが、この戦争の実態を見れば、戦国大名たちが国を挙げて他大名との合戦に挑んでいた以上に、ありとあらゆるものを消費していく。人も、金も、物も、だ。戦国時代以上に、国の総力を挙げねばこれからの戦争を戦い抜くことは出来んだろう」
「斉相手ですらそうなのだから、ルーシーやヴィンランドとなればなおさら、か」畑は腕を組んで唸った。「その方向で、家の方を説得するしかないか。で、貴様は説得の先に、六家にどうしてもらいたいのだ?」
「出来れば徴傭船の早期解傭、領内での船舶の新規建造に助成金を出すこと、そして徴傭船船員の身分を保障するための制度改革」
「一番の目的は、徴傭船船員の身分保障か?」
端的に告げてきた川上に、畑はそう聞き返す。
「ああ、端的に言えばそうだな。今は戦勝の余韻と東亜新秩序というお題目に踊らされて、国民は戦争に協力的だが、戦争が長期化して生活が圧迫されるようになればどうなるか判らん。最悪、広南出兵の時の米騒動のような一揆騒ぎが起こるかもしれんぞ」
「そのためにも、徴傭船の早期解傭と徴傭船船員の軍への反発を抑えるための制度改革が必要か」
畑の眉間に皺が寄る。
「ああ、そういうことだ」
「長尾公と有馬公、それに一色公が前線に出張っている今、国内の六家勢力で有力なのはうちと貴様のところの結城家だからな」
「まあ、有馬のご老公もいるにはいるが、あれは別格だ」
「その二家が連携して制度改革に取り組めば、実現出来ないこともない、か」畑は思案顔になる。「ただ、身分を保障するとして金はどこから出してくるかが問題だな」
「そこは軍務局の腕の見せ所だろう?」
「貴様、気楽に言ってくれるな」
にやりとした笑みを見せる川上に、畑はげんなりとした表情を返す。
「まあ、そんな金があったら陸軍の増強を、とかうちのお館様は言い出しかねないが、進言するだけ進言してみるよ。ただ、重臣連中のところで進言が止められても俺を恨んでくれるなよ?」
「判っている。俺も貴様も、主家の中で難しい立場に立たされるだろうな」
皮肉げに、川上は言った。
二人とも政府における主家の影響力を拡大するために中央に赴任しているが、実際のところ、中央は中央の論理で動いている部分がある。川上も畑も、必ずしも主家の意向を汲んだ行動をとれているわけではなかった。
「まあ、すまじきものは宮仕えということだろうな」
畑もまた皮肉そうに言葉を返し、二人はそれぞれの部屋へと戻っていった。
もともとは戦国時代に比べて複雑化した陸軍の兵站業務を担うために発足した部署であり、さらには六家を始めとする諸侯の存在によって半封建的状態にある陸軍諸部隊の統一的運用を目指すために発展してきた組織であった。
現在では陸軍の作戦計画立案の中心的存在となってはいるが、兵站業務を担うために発足した部署でもあることから、部員たちは作戦よりも兵站問題に計画立案の重点を置く傾向があった。
戦国時代の経験から兵站を重視する傾向にある皇国陸軍にあっては、兵站部門を経験していることが出世の重要な条件であったから、その意味でも軍監本部部員たちの兵站への意識は高かった。
そして皇暦八三五年十二月現在、軍監本部はまさにその兵站問題に悩まされることになっていた。
「閣下、本日もまた、全国の県令や海運業者から解傭願いが届けられております」
軍監本部長を務める結城家臣団出身の将官・川上荘吉少将の下に、書類の束が届けられた。
「今月に入って、これで何度目だ?」
数えるのも億劫になりつつある中で、川上少将は手近にあった書類をめくる。そこに書かれているのは、陸軍徴傭船の解傭を願う民間からの悲痛な要望であった。
「ったく、こんなのはうちではなくて六家にでも直接送りつけてやれば良いだろうに」
自分も六家出身の人間ではあるが、軍監本部という陸軍の統一的運用を目指す組織に属していると、どうしても六家という存在が作戦用兵上の障害に思えてしまう。現地の征斉派遣軍が軍監本部の策定した対斉作戦計画を無視した軍事行動をとっているとなれば、なおさらであった。
現在、皇国軍は民間船舶を徴用(徴傭)して陽鮮、遼東半島への兵員、軍需物資の輸送に充てている。特に独自に給炭艦や給糧艦などを保有している海軍と違い、陸軍における戦時輸送の大半は徴用した民間船舶に頼っていた。
満洲や陽鮮に三十万以上の兵力を展開させているため、必要となる船舶量もまた膨大であった。
しかし、民間船舶の徴用は必然的に民需に影響を及ぼす。
実際、現在の軍監本部員たちを悩ませている問題はそれであった。
そもそも、現地の征斉派遣軍による冬季攻勢を内地の六家が容認してしまったことが、すべての原因であった。これにより、民間船舶の徴傭期間長期化問題が発生してしまったのだ。
前線となっている遼河平原へ軍需物資や糧秣を恒常的に輸送しなければならないのであるが、征斉派遣軍による冬季攻勢は軍需物資・糧秣の消費量増大を招き、ここに斉軍による冬季大反攻も加わって、本来であれば皇暦八三五年の年末を以て解傭されるはずであった商船が少なからず徴用期間の引き延ばしに遭っていたのであった。
遼河平原への兵站を維持するために必要な措置ではあったが、開戦前における戦時輸送計画を大きく狂わせてしまっていることは確かであった。
幸いなことに斉水軍はそもそも皇国海軍に比べて弱体であり、加えて開戦劈頭に壊滅していたために敵艦艇の攻撃による船舶喪失は皆無であったが、それでも風浪の激しい冬の渤海で事故を起こす船舶はそれなりの数に上っている。
大連や大弧山の港湾設備は急速に整えられているが、近代化された国内の港に比べればその能力は低かった。このため、沖合の輸送船から港まで兵員や物資を届けるための小型船の需要が増大しており、全国から数百隻単位の漁船など小型船が徴傭されていた。
特にこの小型船が、風浪によって転覆事故などを起こしていたのである。
もちろん、船と共にその船を操る乗組員も徴用されている。そのため、事故によって少なからぬ船員たちが溺死していた。
「徴傭船の乗員たちに対する補償も、急務だな」
険しい表情のまま、川上少将は呟く。
軍夫として徴用された民間人は、万が一があった場合の補償を軍から受けることが出来るが、徴傭船の乗員は軍夫として認められない者がほとんどであったのである。
商船学校出身の船長、航海士などの高級船員は軍夫として補償の対象であるが、それ以外の船員は軍夫としてすら扱われないのである。このため、戦地で死亡したとしても事故死扱いであり、戦死者遺族に対するような恩給(後世の表現で言えば「年金」)は支給されない(領主によっては、死亡見舞金を遺族に払う者もいるにはいる)。
これは法制度上の問題であり、兵部大臣、あるいは軍監本部の一存で徴傭船船員の待遇を変更することは出来なかった。政府、もっと言えば六家が制度改革に乗り出さない限り、解決されない問題なのである。
そして、特に小型船舶の不足は国内産業に影響を与えかねない危険性を孕んでいた。
皇国本土では金・銀・銅、石炭、石油などを産出してはいるが、それだけで国民生活が成り立つわけでも、また戦時経済体制を維持出来るわけでもない。
まず、秋津人の主食たる米は、その一部を外米に依存している。織物の原料となる綿花については植民地も含めた国内産でほぼ自給が出来ているが、羊毛については依然として輸入に頼る割合が大きい。
さらに戦争遂行に必須な火薬生産に欠かせない硝石は、ほとんど輸入に依存している(人糞などから硝石を生産する技術もあるにはあったが、硝石全体に占める量は極小でしかない)。
これら植民地や海外から輸入される物資の国内輸送のために、多くの小型船が使われていたのである。
小型船の大量徴傭、そして徴傭期間の長期化は、国内の物資不足を引き起こしかねない問題なのである。
現在、国内の物資輸送に関しては船舶輸送から鉄道輸送に置き換えられるものは、順次、置き換える措置をとっている。しかし、その鉄道自体が大量の石炭を消費するのである。
やはり、鉄道輸送は根本的な問題解決にはなり得なかった。
もちろん、国内の物資不足は民需だけでなく軍需にも影響を与える問題である。
現在、開戦前の想定を上回る量の弾薬を消費していることが判明したため、全国各地の砲兵工廠や民間の軍需工場などでの弾薬の緊急増産措置がとられていた。
時期的に農作業が終わった頃とも重なっていたため、冬の間の副業として都市部に出稼ぎに出てくる農民の数も増加していた。そのため、労働力の確保それ自体には大きな問題は生じていない。
軍直属の各工廠や民間の軍需関係企業に関しても、熟練工は徴兵の対象外であったために、生産される軍需物資の質もそれほど落とさずに済んでいる。
臨時で雇い入れた出稼ぎ農民が増えたために、慣れない作業に工場などでの事故率は多少増大したものの、それでも軍としては許容出来る範囲に収まっていた。
こうした国内の生産力の維持という点は、戦国時代の総力戦的戦争を経験して、それに対応出来る国家制度を築き上げた六家の功績の一つといえよう。
ただし、それでも問題がないわけではなかった。
弾薬の消費量は戦国時代とは比較にならないほどに増大しており、そこにさらに戦前の計算を上回る量の弾薬が冬季攻勢と斉軍の反攻によって消費され続けているのである。
国内の生産力のさらなる拡充は、皇国政府や六家にとって急務といえた。
しかし、船舶不足はその生産拡充計画に歯止めをかけかねない要因だったのである。
前回の広南出兵では短期間で戦闘行為が終結したため、また弾薬消費量がはるかに少なかったため、こうした問題は顕在化しなかった。
ある意味で、国家や軍の近代化に伴って顕在化してきた問題といえよう。
「やはり、六家が動かねば政治は動かぬか」
嘆息と共にそう呟いた川上少将は、部下に一声かけてから部長室を出た。兵部省庁舎の廊下を歩き、別の部署の扉を開ける。
「畑局長はおられるか?」
「川上本部長か、どうされた?」
すると、部屋の奥の執務机に座っていた人物が立ち上がった。
「少し、お話ししたいことがある。今、よろしいか?」
「ああ、判った」
その人物は部下に二言三言告げてから、川上のところにやって来た。そのまま二人して廊下に出て、空いている談話室に入る。
「どうした、えらく深刻そうな顔だな」
二人だけになると、途端にその軍人は口調を砕けたものに改めた。
畑秀之助。
兵部省陸軍軍務局長を務める少将で、伊丹家家臣団出身の軍人であった。軍監本部長である川上荘吉とは、兵学寮の同期の間柄でもある。
「端的に言うと、船が足らんのだ」同期生故の気安さか、川上は愚痴るように続けた。「冬季攻勢の所為で、当初の計画より民間船舶の徴用期間が長期化している。これを何とかしなけりゃならん」
「それで、俺のところというわけか」
陸軍軍務局は、陸軍の編制、動員計画、予算関連事項など陸軍の軍政を担当する部局であった。
軍政を担当しているために、ある意味で兵部省内部で最も六家からの圧力がかかりやすい部署でもあった。
昨年の予算問題でも、六家と兵部省、そして大蔵省の三者の間で板挟みになっていたほどである。
「とはいえ、今更編制計画だの動員計画だのを見直したところでどうにもならんぞ。冬季攻勢の所為で、こちらも国内の戦略予備をどうするかで一杯一杯だ」
「俺が用があるのは、軍務局長である貴様ではなく、伊丹家臣団である貴様だ」
川上は端的に言った。
「海運業者からは悲鳴のような解傭願いが届けられている。このままでは軍需物資の緊急増産措置も頭打ちになりかねん。これを六家の連中に正確に認識してもらわなければ、来春以降、拙いことになる」
「直隷決戦を来夏まで先延ばしにするという話もあるようだが、それも難しいということか?」
「だいぶ無茶をすれば不可能ではないが、その場合、第三国による介入に対抗出来るだけの余力は失われるだろうな」
「ルーシー帝国とヴィンランド合衆国、か……」
畑は悩ましげに息をついた。彼の主家である伊丹家は攘夷派将家の筆頭であり、その当主である伊丹正信は国内の攘夷派から盟主のように見られている。
主君やその周囲の重臣連中をどう説得したものか、悩んでいるのだ。
川上も畑も六家の家臣団でありながら中央での勤務が長いため、自然と将家という単位ではなく国家という単位で物事を考える習性がついてしまっている。
「俺も、斉や陽鮮を旧態依然とした国家だと侮っていたことは否定せん」
険しい声で、川上は言う。
「だが、この戦争の実態を見れば、戦国大名たちが国を挙げて他大名との合戦に挑んでいた以上に、ありとあらゆるものを消費していく。人も、金も、物も、だ。戦国時代以上に、国の総力を挙げねばこれからの戦争を戦い抜くことは出来んだろう」
「斉相手ですらそうなのだから、ルーシーやヴィンランドとなればなおさら、か」畑は腕を組んで唸った。「その方向で、家の方を説得するしかないか。で、貴様は説得の先に、六家にどうしてもらいたいのだ?」
「出来れば徴傭船の早期解傭、領内での船舶の新規建造に助成金を出すこと、そして徴傭船船員の身分を保障するための制度改革」
「一番の目的は、徴傭船船員の身分保障か?」
端的に告げてきた川上に、畑はそう聞き返す。
「ああ、端的に言えばそうだな。今は戦勝の余韻と東亜新秩序というお題目に踊らされて、国民は戦争に協力的だが、戦争が長期化して生活が圧迫されるようになればどうなるか判らん。最悪、広南出兵の時の米騒動のような一揆騒ぎが起こるかもしれんぞ」
「そのためにも、徴傭船の早期解傭と徴傭船船員の軍への反発を抑えるための制度改革が必要か」
畑の眉間に皺が寄る。
「ああ、そういうことだ」
「長尾公と有馬公、それに一色公が前線に出張っている今、国内の六家勢力で有力なのはうちと貴様のところの結城家だからな」
「まあ、有馬のご老公もいるにはいるが、あれは別格だ」
「その二家が連携して制度改革に取り組めば、実現出来ないこともない、か」畑は思案顔になる。「ただ、身分を保障するとして金はどこから出してくるかが問題だな」
「そこは軍務局の腕の見せ所だろう?」
「貴様、気楽に言ってくれるな」
にやりとした笑みを見せる川上に、畑はげんなりとした表情を返す。
「まあ、そんな金があったら陸軍の増強を、とかうちのお館様は言い出しかねないが、進言するだけ進言してみるよ。ただ、重臣連中のところで進言が止められても俺を恨んでくれるなよ?」
「判っている。俺も貴様も、主家の中で難しい立場に立たされるだろうな」
皮肉げに、川上は言った。
二人とも政府における主家の影響力を拡大するために中央に赴任しているが、実際のところ、中央は中央の論理で動いている部分がある。川上も畑も、必ずしも主家の意向を汲んだ行動をとれているわけではなかった。
「まあ、すまじきものは宮仕えということだろうな」
畑もまた皮肉そうに言葉を返し、二人はそれぞれの部屋へと戻っていった。
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誤字指摘などありがとうございます!スキルの「作者の権限」で直していこうと思いますが、発動条件がたくさんあるので直すのに時間がかかりますので気長にお待ちください。
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