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幕間 姫君たちの皇都
8 冬季攻勢の余波
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征斉派遣軍が、兵部省軍監本部が策定した当初の対斉作戦計画に反する形で冬季攻勢を決定したとの報せが内地に届いたのは、十一月十三日のことであった。
それも、派遣軍総司令部からの通信ではなく、第三軍司令官・有馬貞朋大将が父・頼朋翁に宛てた私信で判明した。正式に総司令部から冬季攻勢の実施を通告してきたのは、その二日後の十五日になってからであった。
遼陽・奉天方面への冬季攻勢、さらに状況が許せば吉林まで進撃するという作戦計画は、明らかに軍監本部の直隷決戦構想と矛盾していた。だが、征斉大総督兼第一軍司令官の長尾憲隆大将と第二軍司令官の一色公直大将が冬季攻勢を強硬に主張しているという。
内地の中央政府・統帥部関係者の間では、困惑に近い混乱が広がった。
一方、半島の利権を獲得する合意を結城・有馬家から取り付けた伊丹家は、一色公直による鞍山鉄山の獲得を目指していると思われる冬季攻勢に前向きであった。陽鮮半島の利権を、さらに北方に拡大しようというのである。
だがこれは、当然ながら満洲の利権獲得を目指しているであろう長尾家と競合することになる。
これまで長尾家と政治的に連帯していた有馬家と結城家は、長尾憲隆の独走ともいうべき冬季攻勢に反対の姿勢をとった。こちらは戦後の満洲利権という捕らぬ狸の皮算用よりも、戦前から策定されていた対斉作戦計画の着実な実行を重視していたのである。
冬季攻勢は将兵と兵站に多大な負担をかけ、来春の直隷決戦構想を崩壊させかねない危険性を孕んでいた。
ここで六家は、再び対立関係に陥ってしまったのである。
◇◇◇
「うぁ~~もぉ~~~! 何やらかしてくれてんですか、あの父上はぁー!?」
長尾家皇都屋敷の自室で、多喜子は盛大に悶えていた。
「せっかく内地では戦後の利権分配の合意が進んでいたんですよ! それが現地の暴走でおじゃんになりそうじゃないですかもおぉー!」
着物が乱れるのも構わず、畳の上をごろごろと右へ左へ転がり続ける。
「えっ? ちょっと待って下さい。これ、下手すると長尾家だけ孤立しません? 伊丹・一色とは戦後に満洲利権の分配で対立。有馬・結城からは対斉作戦構想を崩壊させた張本人としてこれまでの政治的連帯体制は崩壊……。斯波家はこの際当てになりませんし……。いや、ほんと、父上何やってんですか。いや、憲実兄上も悪いですよ。例の半島利権と南泰平洋利権の相互承認の時、うちの満洲利権も承認してもらえるように口を挟んでおけば、こんなことにはならなかったんですよもおぉー……」
仕舞いには、座布団に顔をうずめて足をバタつかせる。
「いや、これマジで景紀の側室にでもならないと拙いのでは?」
「結城景紀が側室にしてくれると良いけどな」
どこか嗤うように言ったのは、そんな六家の姫君のはしたない振る舞いをじっと見ていた千坂隆房だった。床の間の柱に背を預けて腕を組みながら、多喜子のことを見下ろしている。
「……何ですか、その意地の悪そうな顔」
ふて腐れたように、長尾の姫は分家の青年を見上げた。
「てめぇが周りに振り回されて七転八倒してる様を見るのは痛快だと思ってな。いい気味だ」
顔に嘲笑を浮かべたまま、隆房は言う。
「あなたも結構、いい性格してますよね」
「お前程じゃない」
隆房は、心外だと言わんばかりの口調であった。
しばらく睨み合っていた二人であったが、先に諦めたのは多喜子の方であった。ごろん、と畳の上に大の字に寝転がった。
「……もういいです。この状況じゃ今の私に打つ手はないですから。もう六家なんてバチバチに対立してしまえばいいんです」
投げやりな多喜子の言葉の裏にあるものを、隆房は感じ取っていた。
ある意味で、状況が平穏なままであればこの女に出番はない。だが、乱世ならばこいつが入り込む隙が生まれる。
武家の女とは、戦時においてその統率力を発揮することを求められる立場にあるのだから。
結城家の宵姫がどうも家内で積極的に行動しているという話を聞くが、つまりはそういうことだ。
この性悪女は、そんな状況を待っている。むしろ六家同士の対立が激化していく様を、どこかで楽しんでいるのかもしれない。
六家内での長尾家の孤立。
それは確かに、多喜子にとっても本来であれば望ましい展開ではないのだろう。しかし一方で、そんな状況に長尾家が置かれればこそ、自分が指導力を発揮する場面も訪れるはずだと踏んでいるに違いない。
正直、兵学寮で結城景紀と穂積貴通という化け物じみた後輩を持つ身である隆房にしてみれば、宗家次期当主である長尾憲実は、小物とは言わないまでも凡庸な人間のように見えるのだ。
結城家と伊丹家の間で戦後の利権を巡る裏取引がされているのを、当主である父が不在だからとはいえ、横で見ているだけで何の行動も起こさなかったことにそれは現れている。
それに比べれば、多喜子は政治的野心を持ちつつ、強かさも持ち合わせている。
あの結城景紀に対抗するならば、憲実よりも多喜子だろう。
「ねぇ、隆房」
寝転がったまま、多喜子はひょいひょいと手招きをする。
「んだよ」
億劫そうに少女の顔の近くに座ろうとした瞬間、青年の襟が白い手に掴まれた。
「っ―――!?」
次の瞬間、互いの息が吹き掛かるほどの距離に、多喜子の顔があった。
長尾の姫は、ぐっと分家の青年の襟を掴んだまま離さない。そして隆房もまた、鼻先が触れ合うほど近くにある多喜子の顔から目を離せなかった。
どこまでも不敵な、見る者を呑み込んでしまうような少女の笑みが、そこにはあった。
「ねぇ隆房、私が天下を目指したいと言ったら、あなたはどうしますか?」
その言葉は、小さな子供が友達を悪戯に誘うような、どこか蠱惑的な響きを持って放たれていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
内地に残った六家が現地軍の示した冬季攻勢計画によって混乱と対立を続けている中、兵部省では坂東友三郎兵相を中心に冬季攻勢反対派が優勢となっていた。
陸軍の役職を中心に兵部省の要職は六家の家臣団出身者で占められているが、中央での勤務が長い者ほど軍事官僚化して軍閥色を薄めており、互いの主家の対立を横目に「兵部省」という組織としての連帯感で団結している者も多かった(もちろん、だからといって兵部省内に派閥が存在しないわけではないが)。
特に対斉作戦計画策定の中心的存在であった軍監本部は、征斉派遣軍の示した冬季攻勢計画に断乎として反対の態度を取っていた。川上荘吉軍監本部長は、征斉派遣軍総司令部の示した来春の直隷決戦を有利ならしめるという冬季攻勢の意図を明確に否定し、営口―海城―賽馬集―鴨緑江右岸の防衛線を維持して、冬営を行うという当初の作戦構想を維持するよう現地軍に改めて命令を発すべきだと坂東兵相に主張した。
現地軍の暴走ともいえる冬季攻勢計画に疑念を抱いたのは、今上皇主も同様であった。
六家長老・有馬頼朋、兵部大臣・坂東友三郎、さらには長尾憲隆嫡男・長尾憲実を呼び出して冬季攻勢計画の真意と軍の統制について問い質している。
頼朋翁と坂東兵相は冬季攻勢に反対であり軍の統制を万全にする旨を奏上したが、父親から何も聞かされていなかった憲実はただ恐懼するばかりであったという。
そして、頼朋翁と坂東兵相が冬季攻勢に反対であると皇主に奏上したことを知った伊丹正信は、ただちに参内して冬季攻勢の意義を皇主に説いた。
六家からの相矛盾した奏上に皇主は困惑したというが、歴代の皇主は権威の象徴としてのみ君臨し政治関与を控えることでその地位を維持してきた。今上皇主もそうした歴代皇主に倣い、対斉作戦計画を巡る混乱に対して、六家や統帥部の間で宜しく解決せよとの言葉を与えるのみであった。
「長尾憲隆め、我らとの政治的連帯を切るつもりか」
現地軍、特に長尾憲隆と一色公直の独走に対して、有馬頼朋翁は憤りを隠していなかった。
「結局のところ、景紀様と御家は中央集権体制を目指しておりますが、長尾家はそうではなかったということなのでしょう」
宵の言葉は、奇しくも夫である景紀が海城で放った内容と同じであった。
「長尾家は未だ封建体制の中に生きております。だからこそ、家としての領地や権益の維持・拡張を目指してしまうのでしょう」
景紀に共に天下を目指してみないかと言っていたのは多喜子であるが、その発言もまた、戦国時代の遺風が長尾家に未だ残り続けていることの表れなのだろう。そう、宵は感じていた。
「これは、一色家にも言えることでしょうが。だからこそ、それまで対立していた長尾家と一色家が冬季攻勢という合意を形成出来、逆に景紀様と貞朋公は憲隆公と袂を分かつことになった。そういうことかと」
「ふん、貴様のような小娘に言われるまでもない」
苛立たしげに、六家長老は鼻を鳴らした。
「あの者らは、要するに熟れる前の果実に食い付こうとしておるだけだな」
頼朋翁は、そう長尾憲隆と一色公直を酷評した。
「満洲の利権をどうするかを決めることが出来るのは、講和会議の席上だ。そのためにはまず斉を屈服させねばならん。そのための直隷決戦構想だというのに、連中は物事の順序を判っておらぬようだな」
六家長老は自身の精神を落ち着けようとしているのか、盆栽の手入れをしていた。
だが、宵から見ればどうにも集中出来ていない。その内、怒りに任せて盆栽を棚ごとひっくり返すのではないかと思えるほどに、この老人は苛立っている。
「ですが、戦時中に戦争指導を担う我々六家が分裂するわけにもいきません。現地軍を統制しようとすれば、六家内で対立が生じる。統制しなければ、現地軍の暴走を阻止出来ない。六家という統治機構の限界ですね」
そんな六家長老に対して、宵は特に臆した様子もなく自身の感慨を述べた。
「ふん、中央集権国家を構築する際の良い反省材料となりそうではないか」
「今回の事態を解決するには、何の意味もない反省材料ですが」
国民たちは対外戦争という要因で団結しているというのに、当の戦争指導を担う六家が分裂状態にあるというのは、何とも皮肉なことであった。
そして実際問題、総選挙が終わり国民が六家による戦争指導体制を支持している中で、六家が分裂している現状を国民に知られるわけにはいかなかった。
六家はあくまでも皇国の支配勢力であり、内部でどれだけ抗争が繰り返されようが、対外的には団結していなければならないのである。
つまり、現状では現地軍による冬季攻勢を追認するしかない。
「小娘、結城家の現状はどうだ?」
「少なくとも、景忠公は冬季攻勢反対派です。結城家領軍が寒い地域に慣れていないことを、公はご理解なさっているようです。家臣団についても同様です。というよりも、我が結城家は大陸権益よりも南泰平洋の権益に魅力を感じている者が多く、例の新海諸島、南瀛諸島の領有に向けた動きが政府内で始まったことで、新たな南泰平洋の地位を官僚系統か用人系統か、どちらが占めるかで家臣団内で対立が生じる可能性の方が高いでしょう」
「結城家も結城家で、捕らぬ狸の皮算用をしておる者が多いというわけか」
「まあ、景紀様の国家構想を理解している家臣の方が少ないでしょうから。景紀様ご不在の今、我が結城家も本質的には長尾家と変わりがありません」
「だが、家臣団の統制はそれほど緩んでおらんようだな」
頼朋翁は、品定めをするような視線で宵を見つめた。
「小娘、貴様はあくまであの小僧の代理人でしかない。それをゆめゆめ、忘れるなよ」
「私は政治的な野心は持っておりません」
宵が結城家内で影響力を広げ過ぎることを、頼朋翁は懸念しているようであった。それはいずれ、景紀との間に亀裂を生じさせてしまう危険性があるからだ。
だが、そんなことは自分だって判っている。景紀にも、その心配は伝えた。彼は自分が結城家の全権を掌握しても良いというようなことを言っていたが、宵自身にその気はない。
あるいは、宵を利用して結城家内部に混乱をもたらそうとする者たちも出てくるかもしれない。景紀と政治的主張を異にする伊丹家や一色家、景忠公の弟君や分家の者たち、あるいは宵の実家である佐薙家の再興を望む旧家臣団、そしてあの長尾多喜子。
だけれども、そのような者たちに翻弄されることになろうとも、宵は自分の意志を曲げるつもりは微塵もなかった。
「私はあの方を生涯をかけて支えると誓いました。そして景紀様は、私の望む未来を見せてくれると約束して下さいました。私と景紀様は、その誓いを果たそうとしているだけなのです」
そう言うと、六家長老たる老人は一瞬だけ毒気を抜かれた表情となった。
「……ふん、この儂の前で惚気とはな」
そして、どこか負け惜しみのように揶揄の言葉を放ったのだった。
それも、派遣軍総司令部からの通信ではなく、第三軍司令官・有馬貞朋大将が父・頼朋翁に宛てた私信で判明した。正式に総司令部から冬季攻勢の実施を通告してきたのは、その二日後の十五日になってからであった。
遼陽・奉天方面への冬季攻勢、さらに状況が許せば吉林まで進撃するという作戦計画は、明らかに軍監本部の直隷決戦構想と矛盾していた。だが、征斉大総督兼第一軍司令官の長尾憲隆大将と第二軍司令官の一色公直大将が冬季攻勢を強硬に主張しているという。
内地の中央政府・統帥部関係者の間では、困惑に近い混乱が広がった。
一方、半島の利権を獲得する合意を結城・有馬家から取り付けた伊丹家は、一色公直による鞍山鉄山の獲得を目指していると思われる冬季攻勢に前向きであった。陽鮮半島の利権を、さらに北方に拡大しようというのである。
だがこれは、当然ながら満洲の利権獲得を目指しているであろう長尾家と競合することになる。
これまで長尾家と政治的に連帯していた有馬家と結城家は、長尾憲隆の独走ともいうべき冬季攻勢に反対の姿勢をとった。こちらは戦後の満洲利権という捕らぬ狸の皮算用よりも、戦前から策定されていた対斉作戦計画の着実な実行を重視していたのである。
冬季攻勢は将兵と兵站に多大な負担をかけ、来春の直隷決戦構想を崩壊させかねない危険性を孕んでいた。
ここで六家は、再び対立関係に陥ってしまったのである。
◇◇◇
「うぁ~~もぉ~~~! 何やらかしてくれてんですか、あの父上はぁー!?」
長尾家皇都屋敷の自室で、多喜子は盛大に悶えていた。
「せっかく内地では戦後の利権分配の合意が進んでいたんですよ! それが現地の暴走でおじゃんになりそうじゃないですかもおぉー!」
着物が乱れるのも構わず、畳の上をごろごろと右へ左へ転がり続ける。
「えっ? ちょっと待って下さい。これ、下手すると長尾家だけ孤立しません? 伊丹・一色とは戦後に満洲利権の分配で対立。有馬・結城からは対斉作戦構想を崩壊させた張本人としてこれまでの政治的連帯体制は崩壊……。斯波家はこの際当てになりませんし……。いや、ほんと、父上何やってんですか。いや、憲実兄上も悪いですよ。例の半島利権と南泰平洋利権の相互承認の時、うちの満洲利権も承認してもらえるように口を挟んでおけば、こんなことにはならなかったんですよもおぉー……」
仕舞いには、座布団に顔をうずめて足をバタつかせる。
「いや、これマジで景紀の側室にでもならないと拙いのでは?」
「結城景紀が側室にしてくれると良いけどな」
どこか嗤うように言ったのは、そんな六家の姫君のはしたない振る舞いをじっと見ていた千坂隆房だった。床の間の柱に背を預けて腕を組みながら、多喜子のことを見下ろしている。
「……何ですか、その意地の悪そうな顔」
ふて腐れたように、長尾の姫は分家の青年を見上げた。
「てめぇが周りに振り回されて七転八倒してる様を見るのは痛快だと思ってな。いい気味だ」
顔に嘲笑を浮かべたまま、隆房は言う。
「あなたも結構、いい性格してますよね」
「お前程じゃない」
隆房は、心外だと言わんばかりの口調であった。
しばらく睨み合っていた二人であったが、先に諦めたのは多喜子の方であった。ごろん、と畳の上に大の字に寝転がった。
「……もういいです。この状況じゃ今の私に打つ手はないですから。もう六家なんてバチバチに対立してしまえばいいんです」
投げやりな多喜子の言葉の裏にあるものを、隆房は感じ取っていた。
ある意味で、状況が平穏なままであればこの女に出番はない。だが、乱世ならばこいつが入り込む隙が生まれる。
武家の女とは、戦時においてその統率力を発揮することを求められる立場にあるのだから。
結城家の宵姫がどうも家内で積極的に行動しているという話を聞くが、つまりはそういうことだ。
この性悪女は、そんな状況を待っている。むしろ六家同士の対立が激化していく様を、どこかで楽しんでいるのかもしれない。
六家内での長尾家の孤立。
それは確かに、多喜子にとっても本来であれば望ましい展開ではないのだろう。しかし一方で、そんな状況に長尾家が置かれればこそ、自分が指導力を発揮する場面も訪れるはずだと踏んでいるに違いない。
正直、兵学寮で結城景紀と穂積貴通という化け物じみた後輩を持つ身である隆房にしてみれば、宗家次期当主である長尾憲実は、小物とは言わないまでも凡庸な人間のように見えるのだ。
結城家と伊丹家の間で戦後の利権を巡る裏取引がされているのを、当主である父が不在だからとはいえ、横で見ているだけで何の行動も起こさなかったことにそれは現れている。
それに比べれば、多喜子は政治的野心を持ちつつ、強かさも持ち合わせている。
あの結城景紀に対抗するならば、憲実よりも多喜子だろう。
「ねぇ、隆房」
寝転がったまま、多喜子はひょいひょいと手招きをする。
「んだよ」
億劫そうに少女の顔の近くに座ろうとした瞬間、青年の襟が白い手に掴まれた。
「っ―――!?」
次の瞬間、互いの息が吹き掛かるほどの距離に、多喜子の顔があった。
長尾の姫は、ぐっと分家の青年の襟を掴んだまま離さない。そして隆房もまた、鼻先が触れ合うほど近くにある多喜子の顔から目を離せなかった。
どこまでも不敵な、見る者を呑み込んでしまうような少女の笑みが、そこにはあった。
「ねぇ隆房、私が天下を目指したいと言ったら、あなたはどうしますか?」
その言葉は、小さな子供が友達を悪戯に誘うような、どこか蠱惑的な響きを持って放たれていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
内地に残った六家が現地軍の示した冬季攻勢計画によって混乱と対立を続けている中、兵部省では坂東友三郎兵相を中心に冬季攻勢反対派が優勢となっていた。
陸軍の役職を中心に兵部省の要職は六家の家臣団出身者で占められているが、中央での勤務が長い者ほど軍事官僚化して軍閥色を薄めており、互いの主家の対立を横目に「兵部省」という組織としての連帯感で団結している者も多かった(もちろん、だからといって兵部省内に派閥が存在しないわけではないが)。
特に対斉作戦計画策定の中心的存在であった軍監本部は、征斉派遣軍の示した冬季攻勢計画に断乎として反対の態度を取っていた。川上荘吉軍監本部長は、征斉派遣軍総司令部の示した来春の直隷決戦を有利ならしめるという冬季攻勢の意図を明確に否定し、営口―海城―賽馬集―鴨緑江右岸の防衛線を維持して、冬営を行うという当初の作戦構想を維持するよう現地軍に改めて命令を発すべきだと坂東兵相に主張した。
現地軍の暴走ともいえる冬季攻勢計画に疑念を抱いたのは、今上皇主も同様であった。
六家長老・有馬頼朋、兵部大臣・坂東友三郎、さらには長尾憲隆嫡男・長尾憲実を呼び出して冬季攻勢計画の真意と軍の統制について問い質している。
頼朋翁と坂東兵相は冬季攻勢に反対であり軍の統制を万全にする旨を奏上したが、父親から何も聞かされていなかった憲実はただ恐懼するばかりであったという。
そして、頼朋翁と坂東兵相が冬季攻勢に反対であると皇主に奏上したことを知った伊丹正信は、ただちに参内して冬季攻勢の意義を皇主に説いた。
六家からの相矛盾した奏上に皇主は困惑したというが、歴代の皇主は権威の象徴としてのみ君臨し政治関与を控えることでその地位を維持してきた。今上皇主もそうした歴代皇主に倣い、対斉作戦計画を巡る混乱に対して、六家や統帥部の間で宜しく解決せよとの言葉を与えるのみであった。
「長尾憲隆め、我らとの政治的連帯を切るつもりか」
現地軍、特に長尾憲隆と一色公直の独走に対して、有馬頼朋翁は憤りを隠していなかった。
「結局のところ、景紀様と御家は中央集権体制を目指しておりますが、長尾家はそうではなかったということなのでしょう」
宵の言葉は、奇しくも夫である景紀が海城で放った内容と同じであった。
「長尾家は未だ封建体制の中に生きております。だからこそ、家としての領地や権益の維持・拡張を目指してしまうのでしょう」
景紀に共に天下を目指してみないかと言っていたのは多喜子であるが、その発言もまた、戦国時代の遺風が長尾家に未だ残り続けていることの表れなのだろう。そう、宵は感じていた。
「これは、一色家にも言えることでしょうが。だからこそ、それまで対立していた長尾家と一色家が冬季攻勢という合意を形成出来、逆に景紀様と貞朋公は憲隆公と袂を分かつことになった。そういうことかと」
「ふん、貴様のような小娘に言われるまでもない」
苛立たしげに、六家長老は鼻を鳴らした。
「あの者らは、要するに熟れる前の果実に食い付こうとしておるだけだな」
頼朋翁は、そう長尾憲隆と一色公直を酷評した。
「満洲の利権をどうするかを決めることが出来るのは、講和会議の席上だ。そのためにはまず斉を屈服させねばならん。そのための直隷決戦構想だというのに、連中は物事の順序を判っておらぬようだな」
六家長老は自身の精神を落ち着けようとしているのか、盆栽の手入れをしていた。
だが、宵から見ればどうにも集中出来ていない。その内、怒りに任せて盆栽を棚ごとひっくり返すのではないかと思えるほどに、この老人は苛立っている。
「ですが、戦時中に戦争指導を担う我々六家が分裂するわけにもいきません。現地軍を統制しようとすれば、六家内で対立が生じる。統制しなければ、現地軍の暴走を阻止出来ない。六家という統治機構の限界ですね」
そんな六家長老に対して、宵は特に臆した様子もなく自身の感慨を述べた。
「ふん、中央集権国家を構築する際の良い反省材料となりそうではないか」
「今回の事態を解決するには、何の意味もない反省材料ですが」
国民たちは対外戦争という要因で団結しているというのに、当の戦争指導を担う六家が分裂状態にあるというのは、何とも皮肉なことであった。
そして実際問題、総選挙が終わり国民が六家による戦争指導体制を支持している中で、六家が分裂している現状を国民に知られるわけにはいかなかった。
六家はあくまでも皇国の支配勢力であり、内部でどれだけ抗争が繰り返されようが、対外的には団結していなければならないのである。
つまり、現状では現地軍による冬季攻勢を追認するしかない。
「小娘、結城家の現状はどうだ?」
「少なくとも、景忠公は冬季攻勢反対派です。結城家領軍が寒い地域に慣れていないことを、公はご理解なさっているようです。家臣団についても同様です。というよりも、我が結城家は大陸権益よりも南泰平洋の権益に魅力を感じている者が多く、例の新海諸島、南瀛諸島の領有に向けた動きが政府内で始まったことで、新たな南泰平洋の地位を官僚系統か用人系統か、どちらが占めるかで家臣団内で対立が生じる可能性の方が高いでしょう」
「結城家も結城家で、捕らぬ狸の皮算用をしておる者が多いというわけか」
「まあ、景紀様の国家構想を理解している家臣の方が少ないでしょうから。景紀様ご不在の今、我が結城家も本質的には長尾家と変わりがありません」
「だが、家臣団の統制はそれほど緩んでおらんようだな」
頼朋翁は、品定めをするような視線で宵を見つめた。
「小娘、貴様はあくまであの小僧の代理人でしかない。それをゆめゆめ、忘れるなよ」
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だが、そんなことは自分だって判っている。景紀にも、その心配は伝えた。彼は自分が結城家の全権を掌握しても良いというようなことを言っていたが、宵自身にその気はない。
あるいは、宵を利用して結城家内部に混乱をもたらそうとする者たちも出てくるかもしれない。景紀と政治的主張を異にする伊丹家や一色家、景忠公の弟君や分家の者たち、あるいは宵の実家である佐薙家の再興を望む旧家臣団、そしてあの長尾多喜子。
だけれども、そのような者たちに翻弄されることになろうとも、宵は自分の意志を曲げるつもりは微塵もなかった。
「私はあの方を生涯をかけて支えると誓いました。そして景紀様は、私の望む未来を見せてくれると約束して下さいました。私と景紀様は、その誓いを果たそうとしているだけなのです」
そう言うと、六家長老たる老人は一瞬だけ毒気を抜かれた表情となった。
「……ふん、この儂の前で惚気とはな」
そして、どこか負け惜しみのように揶揄の言葉を放ったのだった。
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