秋津皇国興亡記

三笠 陣

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第七章 対斉戦役編

140 戦場と怨霊

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 濃密な闇の中で、景紀は目を覚ました。
 単にまだ夜が明けていないのかとも思ったが、不思議と寒さは感じなかった。
 何となく、時間の感覚が曖昧だった。
 司令部作戦室で貴通と火制地域の設定を行おうとして、それから……?
 とにかく時間を確認しようと思って体を起こそうとして、不意に圧迫感を覚えた。
 自分の四肢が誰かに押さえつけられているかのような不快感。
 首を巡らせてみて、景紀はギョッと目を見開いた。
 闇の中に、無数の骸骨が浮かび上がっていた。それらの手が自分の四肢を押さえつけて、さらにまだ骨に腐肉を付けた無数の亡者が自分の体を押し潰そうとしている。

「ああ、くそっ……!」

 景紀は骸骨の手を振り解こうと体に力を入れながら、短く罵倒を漏らした。
 呪術師でないのでどういう理屈かは知らないが、自分はまだ夢の世界にいる。いや、この骸骨と亡者だらけの世界に囚われている。

「ぐぉ……!」

 徐々に意識がはっきりしてくると、またのし掛かってくる圧力が増した。今度のは、物理的な圧迫感ではない。
 頭痛がし、吐き気がし、総毛立つような濃密な負の念。
 景紀はそれに耐えられずに、嘔吐えずいた。
 だが、ここが夢の中であるためか、口の中からは何も出てこない。ただ、空嘔吐きを繰り返すだけだ。

「くそったれが……!」

 空間に満ちる負の念を振り払うように、景紀は体に力を込めた。
 本当だったら発狂してしまうかもしれない怖気の中で自分がなおも正気を保っていられるのは、冬花と宵のお守りのお陰か。

「やってくれやがる……!」

 景紀は闇の中で吠えた。彼は、自分の罪業故に怨念にまとわりつかれていると考えるほど感傷的な若者ではなかった。
 この骸骨と亡者と怨念に満ちた夢は、明らかに呪術師による仕業だ。

「……なるほど、そうか」

 自分の足を押さえていた骸骨を蹴り飛ばしながら、景紀は理解した。
 だから斉軍は、こちらに時間を与えてでも死体を回収したかったのか。
 こいつらはすべて、自分たち皇国軍との戦いで死んだ斉兵だ。そうして生み出された怨霊たちを、斉の呪術師は自分に取り憑かせたのだろう。
 拳で頭蓋骨を叩き割って、景紀は骸骨たちによる拘束を解こうとする。
 不意に、視界の隅に白くふわりとした何かが過ぎった。
 それは、景紀にとって見慣れた色だった。いや、彼自身の片割れの色だった。

「ああ、そうだよな……」

 苦痛の中で、景紀は場違いにも微笑んだ。

「お前は、俺のシキガミだものな」

 そして、躊躇わずその色へと手を伸した。
 意識が急速に浮上する。





 景紀がまず感じたのは、眩しさだった。
 そして次に感じたのは、右手の温かさだった。
 首を巡らせて見れば、冬花が両手で握りしめた景紀の手を祈るように己の額に当てていた。
 景紀はなんだかおかしくなって、少しふざけた口調で少女へと語りかけた。

「ぃよう、冬花」

 すると、冬花は安堵と怒りがない交ぜになった目で景紀を睨んできた。

「馬鹿っ! 無茶ばっかりして……!」

 そう言って、今まで握っていた景紀の手をさらに強く握りしめてくる。
 だが、目が光に慣れてくるにつれて、景紀は事態がそこまで楽観的になれないものであることを悟らざるを得なかった。
 冬花が握りしめている自分の手、そしてそれを握っている彼女の手とその顔。
 そこに、蛇が巻き付くように文字が連なっていたのだ。
 邪を払う梵字の真言マントラなどのではない。おびただしい負の言葉で紡がれた、漢文だった。

「冬花」

 上体を起こそうとして、上手く力が入らない。体全体を鈍い痛みと倦怠感が包んでいた。
 冬花に背中を支えられて、何とか景紀は起き上がる。

「今はいつだ? 状況はどうなっている?」

「……二十五日の朝よ。休戦は保たれたまま」

 沈んだ声で、白髪の少女は答えた。

「で、俺の体はどうなっている?」

 その赤い瞳をじっと見つめながら、景紀はまた問うた。冬花の視線が、申し訳なさそうに伏せられる。

「ごめんなさい、私の失態だわ。確証はないけど、死んだ斉兵たちの魂を使った呪詛みたい」

 そこまで思いが至っていれば、最初から休戦には反対していた。そう考えているからこそ、冬花の声は自責の念に満ちていた。

「死者の魂を怨霊にして対象者に取り付かせて祟り殺す呪詛。しかも、今回の場合、その数があまりに多すぎるわ。ここまでの規模の呪詛は、普通なら発動なんて不可能なはずだから」

「まあ、数千の死者が手に入るなんてことが、普通の状況ならまずないだろうからな。それに今回の場合、斉兵は俺の指揮で殺されたんだ。無理に祟らせようとしなくても、祟るべき対象者が術者を示せば後は勝手に祟ってくれるっていうわけか」

「それに、名前も拙かったわ」

「名前?」

「昨日の休戦の誓約書に名前を書いたでしょ? あれの所為で、術者と呪詛の対象者に明確な繋がりを作ることが出来るから」

 そこまで言って、冬花はきゅっと唇を引き結んだ。
 ああ、だから意識を失う直前、自分の名を呼ぶ声が聞こえたのかと、景紀は妙に納得した。

「それで、俺の体のことは判った。お前の体はどうなっているんだ?」

 詰問するような口調になりながら、景紀は尋ねた。彼女の体にも、自分と同じように呪いの文章となった漢文が蛇のように取り巻いている。

「……景紀の呪詛の一部を、私に移したの」

 一瞬、口ごもった後に冬花は告白した。

「私は、あなたと霊的な繋がりがあるから……」

 我知らず、景紀は己の脇腹をさすっていた。冬花に与えた自身の肋骨の跡。
 冬花の判断を、景紀は責めることが出来なかった。
 彼女には、斉軍の呪術師に備えて万全の体調でいて欲しい。だが、冬花は景紀の補佐官であると同時に呪術的警護官である。彼女の本来の職分からすれば、景紀を優先するのは当然なのだ。
 罠があるだろうと判っていて休戦に踏み切った景紀自身にも責任はある。
 彼は小さく息をついた。

「……取りあえず、この状況を他の指揮官たちと共有しておきたい」

 だが、景紀は寝台から降りようとして、呪詛の苦痛に体を折り曲げた。寝台から落ちそうになったところを、冬花が支える。

「すまん」

 景紀の額からは、脂汗が浮かんでいた。顔色も良くない。

「景紀……」

「作戦室まで、支えてくれ」

 寝台に戻そうとする冬花を押し止めて、景紀は無理矢理に立ち上がる。

「……」

 少女の赤い瞳が案ずるように揺れていたが、これ以上、主君に逆らうことは無理だと悟ったのだろう。冬花は景紀の腕を己の肩に回して支えると、ゆっくりと作戦室へと歩き始めた。

  ◇◇◇

 騎兵第一旅団の島田少将、混成第二十八旅団の柴田大佐、加えて前衛陣地にいる独混第一旅団次席指揮官の細見大佐の三名と、景紀は冬花の呪符を使って通信を繋げた。
 最初に、呪詛の内容について冬花が呪符の先にいる三名の指揮官に説明した。
 恐らくは戦死者の怨念を利用した呪詛であること、このまま斉軍に戦死者の遺体の回収を許し続ければ呪詛はさらに強化されかねないこと、そして新たな斉軍の戦死者が生まれればそれもまた呪詛を強める要素となることなど、簡潔に告げた。

「休戦の決断をしたのは、俺だ。俺はこの件について、誰の責任も問うつもりはない」

 下手をすれば冬花の責任を問う声を上げるものがいないとも限らないので、景紀は牽制するようにそう言う。

『しかしまあ、何らかの罠は警戒していましたが、死体を使った呪詛ですか』

 呪符の向こうで腕を組んでいそうな調子で、島田少将は唸った。

『そんな罰当たりな呪術を使う連中には、仏罰なり神罰なりが下ってしかるべきでしょうな』

 彼は、斉の術者が使った呪詛に対して嫌悪感を隠そうともしていなかった。吐き捨てるようにそう言った。
 実際、死者を利用した呪術というものは、西洋の死霊術ネクロマンシーを始めとして各地に存在する。だが、基本的には禁忌の呪術―――禁術扱いされている呪術の一種である。
 嫌悪感を示すのも当然といえた。

『休戦を破棄しますか?』

 そう訊いてきたのは、北側の前衛陣地にいる細見大佐。

『こちらの陣地からは、多銃身砲で掃射すれば一気に死体回収中の斉兵を薙ぎ倒せますが?』

『いえ、自分はこのまま休戦を継続すべきと考えます』

 細見大佐の意見に異を唱えたのは、柴田大佐であった。

『休戦を継続すれば、昨日分と今日一日分の弾薬を節約出来ますし、第十四師団の反撃を待つ時間も稼げます。六家の次期当主一人のために、方針を歪めるべきではありません』

「あなたはっ……!」

 あまりの言い様に柴田大佐に喰って掛かろうとした冬花を、景紀は手で押さえた。

「いや、この場合、柴田大佐の意見が正しい。この呪詛も、時間を稼ぐ代償みたいに考えりゃいい。兵卒の命を代償に時間を稼ぐより、ずっと安上がりだ」

「その言い方はあまりにも……」

 隣で聞いていた貴通も、あまり良い顔をしていなかった。

『まあ、そいつはそうでしょうが……』

 島田少将も景紀の発言を、主君の豪胆さとみるべきか、無頓着とみるべきか、あるいは御付き術者への信頼を見るべきか、迷っているようであった。

「で、明日以降の件だ」

 景紀は強引に話を次の段階に進めた。

「冬花の見立てだと、斉軍に死体の回収を許し続けている以上、俺に掛けられた呪詛は時間と共に強化され続ける。俺もいつ意識を失うか判らん。だから今後の作戦行動について、方針を示しておく」

 呪符の先で、三人の雰囲気が変わるのが判った。

「島田少将、騎兵第一旅団の調子はどうだ?」

『人間も馬も問題ありませんな。ここまでの損害も少なく、旅団はほぼ全力を発揮可能です』

「では、第十四師団の反撃が開始されたならば、それに呼応して出撃、南側の斉軍を叩け。騎兵部隊の本領発揮だ。その馬蹄で敵兵を踏み潰せ。それで少なくとも南側の包囲は解けるはずだ」

『了解です。今まで陣地に籠ってばかりでしかたら、兵の気も晴れることでしょう。馬の準備もしておきます』

「鞍山方面の北側と牛荘方面の西側は依然として防戦に努めろ。ただし、各砲の火制地域と弾薬の使用制限を設定する。それについては、後ほど穂積大佐から伝達させる。それと、部隊内から猟師出身の兵を集めて狙撃隊を編成しろ。そして、斉軍の指揮官を集中的に狙わせろ。指揮系統や軍の統制を乱すんだ」

『はっ、直ちに手配いたします』

『了解です』

 細見、柴田両大佐がそれぞれに応じた。

『ところで若、一つ、よろしいですかな?』

 島田少将が、景紀に尋ねた。

『若が指揮を執れなくなれば当然に私が守備隊の指揮を継承するわけですが、今まで司令部で若がやっておられた通信処理と部隊運用についての管制は、穂積大佐に任せたくあります』

「部隊の指揮ではなく、管制か」

『はい、小官はこのまま前衛陣地にて指揮を継続し、そちらの司令部にて穂積大佐には情報の処理やそれに基づく部隊の配置転換、砲撃の指示、予備隊の投入時機などの見極めなどを行って頂きたくあります』

「確かにそいつは幕僚向きの仕事だが、穂積大佐、任せられるか?」

 ここまでの海城防衛戦で、そうした通信情報を処理してそれに基づく部隊運用を積極的に行っていたのは景紀と貴通の二人である。景紀がいなくなれば当然、貴通一人に負担がかかることになる。
 旅団の幕僚が一人というのは、戦闘や兵站の複雑さが増しつつある昨今の戦争では、そろそろ限界に近付きつつあるのかもしれない。

「かしこまりました。お任せ下さい」

 だが、貴通は一片の迷いもなく頷いて見せた。
 彼女にとってみれば、そうした采配こそが最も得意とする分野なのだ。

「では、その方針でいく。各人、その旨、承知しておけ」

『はっ!』

 呪符の向こうから、短いいらえの声があった。
 その後は第十四師団の反撃に呼応した、騎兵部隊を用いた海城解囲作戦の詳細の打合せに入ったが、景紀は最後まで参加することが出来なかった。
 その日の昼過ぎ、呪詛に蝕まれた景紀はついに昏睡状態に陥ってしまったからである。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 皇暦八三五年十二月二十六日。
 男装の少女、穂積貴通は〇五三〇時に自然と目を覚ました。兵学寮時代の起床時間が、未だ体に染み付いているのである。
 兵学寮の冬場の起床時間は〇六〇〇時であったが、今は戦地にある緊張感故か、そこまで眠っていたことは今のところない。
 寝ている間は窮屈なために解いていたさらしを胸にきつく巻き付けて女の象徴ともいえる膨らみを潰し、その上から厚手の肌着とシャツ、軍服の上着を羽織る。
 兵学寮在学中に成長期を迎えて以来続く、朝の一手間だった。そんな手間の掛からない景紀を羨ましく、また妬ましく思ったことも一度や二度ではない。
 やはり、男性の軍人である景紀と共に十歳から十五歳までの日々を過ごしていると、女でありながら軍人であることの難しさ、そして性別を隠し続けなければならない精神的重圧を感じずにはいられない。
 それでも貴通は、景紀の幕下になったことを後悔したことはない。それは、本当の名を奪われ、男として振る舞うことを強要されている貴通にとって、唯一、自分自身が生きている意味、存在意義を実感出来る瞬間であるからだ。
 朝の体操をし、適度に体を温めてから自室として割り当てられている部屋を出る。最初に向かったのは、景紀の部屋であった。

「……景くんの様子はどうですか?」

 景紀の部屋に入り、彼の側にずっと付き添っている冬花に尋ねる。

「ご回復はされておりません。呪詛が徐々に強化されていくのを防ぐが、現状では精一杯です」

 そう答えた冬花に顔と口調には、疲労の色が見えた。目の下に薄らと隈が出来ている。
 この陰陽師の少女はほとんど寝ずに、自らの霊力と術式を景紀に注ぎ込んでいたのだろう。

「そう、ですか」

 貴通の胸に浮かんだのは、不安と落胆だった。
 景紀が目を覚まさないことへの不安、そして景紀の指揮下で幕下を務められないことへの落胆だ。

「こう言うと酷い話かもしれませんが、冬花さんには景くん以外にも、陣地の結界の維持などもやっていただかなくてはなりません。そちらの方も、疎かにしないようお願いします」

 貴通は景紀によって旅団幕僚に抜擢された身である。ここで無様を晒して、彼の期待に背くわけにはいかない。所詮は公家出身の軟弱者だと、武家出身の者たちの笑い者になるわけにはいかないのだ。
 そのために必要なことであれば、冬花に景紀ではなく結界の保持を優先するようにだって言わなくてはならない。
 自分は、海城の守備を景紀に託された身なのだから。

「はい、判っております」

 昨日、柴田大佐に噛みつきかけた少女にしては、いやに素直に貴通の言葉を受入れていた。

「私は、若様のシキガミです。女でありながら戦場への同行が許されたということは、私の呪術師としての能力を期待されてのこと。そのご期待に、背くわけにはいきません」

 どうやら、冬花の心も貴通と同じであるらしい。
 景紀を想う者同士として、共感する部分があった。

「ええ、そうですね。僕らは、それぞれの働きを期待されて、ここにいるのですから」

 そのことにどこかおかしさを感じて、貴通は小さく白髪赤眼の少女に微笑みかけた。





 昨日の日没を以て、すでに休戦は終わっている。
 斉軍はこちらの指揮系統が混乱していると期待しているのか、あるいは皇国海軍の到着によって焦りが生じているのか、最初から怒濤のような突撃を仕掛けてきた。
 さらにはついに翼龍まで投入して陣地に対する空襲も敢行された。加東隊長率いる龍兵部隊による防空戦闘で多数の敵翼龍を撃墜したものの、何発かの「てつはう」が陣地内に落下している。
 爆発の威力から直接的な損害は軽微なものの、中に仕込まれた鉄菱の除去に手空きの工兵隊を投入しなければならないなど、守備隊側の負担は増えていた。
 各陣地からもたらされる通信を処理して、守備隊を管制しなければならない貴通は多忙を極めた。
 防御とは、単に陣地を構築し、そこに籠って銃や砲を放てばいいというわけではない。特に防御戦では、組織的な火力の運用が欠かせない要素となる。
 貴通は景紀と共に海城の陣地を構築し、砲陣地も含めたその運用に通暁した人間である。
 島田少将があえて自身より階級の低い貴通に管制を一任したのも、ある意味で当然であった。景紀に守備隊の指揮を委ねようとしたのは主家に対する遠慮もあったのだろうが、貴通に対して結城家家臣団である島田少将がそこまでの配慮をする必要もない。
 つまり、あの騎兵部隊指揮官は戦闘に関してかなり柔軟かつ合理的な思考の持ち主といえるだろう。
 もっとも、見方を変えれば戦闘の最も煩雑な部分を貴通に押し付けただけともいえるが。
 だが、その煩雑な戦闘管制を、貴通は一人でこなしてみせた。
 牛荘方面から来襲する斉軍は、大富屯・東柳公屯の南北両翼から皇国軍陣地に圧迫を加えて火力を吸引しつつ、その間隙を突いて陣地の縦深が浅い徐家園子の突破を目指してきたのである。
 やはりこの場所が、皇国軍陣地の弱点であると斉軍は判断しているのだろう。
 貴通は各砲兵陣地を通信によって管制し、適切な時機に砲撃を加え、状況では予備隊による逆襲も敢行した。
 景紀の命によって編成した狙撃隊も猛威を振るい、斉軍は突撃を重ねるごとにその統制を乱していった。ここに予備隊による逆襲も加わり、夕刻までには斉軍は皇国軍陣地周辺からまたしても完全に撃退されてしまったのである。

  ◇◇◇

 夜、作戦室に当直の呪術通信兵を残して貴通も休むことにした。
 景紀の不在がどれくらいの間、続くのか判らない。自分一人で守備隊の管制を行わなければならないとなれば、しっかりと睡眠をとっていつでも正常な判断が出来るようにしておくべきだろう。
 だけれども、布団に入る前に貴通は寄っておきたいところがあった。
 景紀の部屋である。

「……」

 その部屋には、まだ冬花がいた。
 景紀の眠る寝台の床には、五芒星の呪術陣が描かれている。恐らく、彼の体を蝕む呪詛を阻止し、浄化するためのものだろう。

「冬花さん。あなたも少し休んだ方がいいですよ。夕食も食べていないようですし」

「しかし……」

 冬花の顔には、迷いがあった。きっと、景紀の側を離れがたく思っているのだろう。

「あなた自身も景くんの呪詛を受けているのです。守護のための術式を組み上げたのなら、体力や霊力の不必要な消耗を避けるために休むべきです」

 貴通は呪術で性別を偽っているとはいえ、呪術師ではないので呪術のことに詳しいわけではない。それでも、軍人として体を万全の状態にしておくことの重要性は理解している。

「冬花さん、あなたにまで倒れられるわけにはいかないんですよ」

 少しだけ強い口調で、貴通は言った。実際、高位術者である彼女に倒れられれば、景紀はまず助からないであろうし、海城守備隊も瘴気に冒されて一網打尽にされるだろう。
 恐らく斉軍の将軍や呪術師も、こちらの呪術師が指揮官の解呪に忙殺されて陣地周辺に展開されている結界が緩む瞬間を狙っているはずだ。

「食堂の方に冬花さん分の夕食を烹炊班に用意してもらっていますから、食べてきて下さい。そして、その後はちゃんと休息をとって下さい。景くんが起きた時に、あなたが憔悴しきっていたらきっと悲しみますよ」

「……判りました。ご心配おかけして、申し訳ございません」

 一瞬の逡巡の後、冬花はそう言った。疲労のためなのか、あるいは呪詛の影響なのか、扉の向こうへと消えていこうとする冬花の足取りはどこか覚束なかった。
 そうして扉が閉ざされて、部屋には貴通と景紀だけが残された。

「……はぁ……、何だか、疲れました」

 重い息をついた軍装の少女はそっと景紀の寝台に歩み寄って、その側に膝をついた。両腕を寝台の上で組んで、そこに顎を乗せる。ぼんやりと、景紀の顔を見つめた。
 漢文で書かれた呪いの言葉が連なる少年の顔。その顔は苦痛に耐えるように少し歪んでいた。
 そのことに胸が締め付けられそうになるが、同時に兵学寮を卒業して三年経った彼の顔をこうした形で見つめるのは、実は初めてかもしれないとも思う。

「ねぇ、景くん。僕、頑張ったんですよ。ねぇ、景くん、褒めて下さいよぉ……」

 縋り付くような心細い声で、貴通は語りかけた。
 いつか父親に処分されるのではないかと怯えながら過ごしていた自分にとって、彼は救い主だった。景紀に認めてもらいたくて、景紀と共にある自分に存在意義を見出せて、そうしてここまでやってきた。
 でも、景紀がいなくなった程度で心が折れる自分ではいたくない。
 だってそれでは、自分という人間を見出してくれた景紀の判断が誤りだったということになってしまう。後世の人間たちに景紀がその程度の人間だったと言われるのは、貴通は我慢がならない。それは、自分の存在意義にも繋がるのだから。
 だから、今日一日、景紀がいない中で自分は頑張ったのだ。

「ねぇ、景くん。早く目を覚まして下さいよ……。じゃないと僕、寂しいです」

 それでも、景紀がいないと一抹の虚しさが拭い去れない。
 陽鮮から帰った時の宵姫のように、思い切り自分を褒めて甘やかして欲しい。そんな寂しさが湧き上がってくるのだ。

「ねぇ、景くん」

 だからその寂しさを紛らわすように、貴通は―――満子は、寝台の上に体を乗り出した。

「僕に、勇気を下さい」

 そうしてそっと、己の唇を景紀のそれに重ね合わせた。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
  あとがき

 今話をもちまして、拙作「秋津皇国興亡記」第七章を完結させて頂きます。
 ここまでのお付き合い、誠にありがとうございました。
 本章の内容や登場人物等につきまして、ご意見・ご感想などありましたらばお気軽にお寄せ下さい。

 さて、次回は一旦、幕間として宵を中心とした戦時下皇都の出来事を描いてまいります。
 引き続きお付き合い頂ければ幸いに存じます。
 今後とも、拙作を宜しくお願いいたします。
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