秋津皇国興亡記

三笠 陣

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第七章 対斉戦役編

134 夜間後退

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 牛荘の混成第二十八旅団司令部にて、柴田平九郎大佐は戦況の示された地図を睨みつつ、時計の針が回っていくことに神経を尖らせていた。
 営口―牛荘街道上に築かれた第二線陣地の向こう側に存在する斉軍には、こちらに夜襲をかけようとする気配はなかった。あとは、独混第一旅団の騎兵部隊が海城北方で敢行した夜襲の報が斉軍内部を駆け巡れば、今夜、斉軍は皇国軍による夜襲を警戒して、こちらの後退を妨害するような行動に出るだけの余裕は失われるだろう。
 混成第二十八旅団に残された問題は、四〇〇〇名以上の兵士に夜間の撤退行動をさせる場合に必然的に発生するであろう混乱をどう最小限度に押さえ込むかということであった。
 これについては、柴田大佐が旅団の指揮を継承して間もないということもあり、ほとんど解決策らしい解決策はなかった。夜間の軍事行動故の致し方ない損害として、割り切るより他になかった。
 まずは、損耗の大きな歩兵第五十八連隊から、一個大隊を海城に向けて後退させることにする。
 と、旅団司令部に翼龍の羽ばたく音が聞こえてきた。
 地図と時計を交互に見ていた柴田の眉間に、苛立たしげな皺が寄る。

「失礼する」

 しばらくすると、柴田の予想通りに結城家の次期当主がやってきた。後ろには、昨日も見た白髪赤目の少女も付いてきている。

「旅団の状況はどうだ?」

 景紀の声には、上官風を吹かせようとする尊大さも、軍歴の長い連隊長に対する敬意も存在していなかった。単に、少将としての自然な態度で柴田に尋ねていた。

「歩兵第五十八連隊にまず後退準備を整えさせ、損耗の大きい大隊から後退させる予定です」

 まあ、流石に父親に代わって領国を治めていた分、肝は据わっているというわけか。柴田はそんなことを考えながら、それでもぞんざいな口調を改めずに答えた。

「後退に際しての問題は?」

 嶺州の大佐の態度を気にした様子もなく、景紀は重ねて問いかけた。

「何せ夜間の行軍ですからね。問題だらけですよ」

 一々説明するのも馬鹿らしいので、柴田はそう言ってまとめた。彼は、この若き六家次期当主に自分たち嶺州の部隊を任せる気はなかったのだ。
 兵学寮首席卒業とはいうが、座学や演習場と実際の戦闘は違うのだ。兵学寮の気分のまま、あるいは六家次期当主という気分のまま、部隊の指揮に介入されては堪らない。

「判った」

 景紀も柴田の態度から、これ以上深く尋ねることはしなかった。時間もあまりない。彼は首元に付けている水晶球を抑えた。

「こちら結城旅団長。穂積大佐、応答せよ」

『こちら穂積大佐。聞こえております』

「輜重段列の動向知らせ」

『混成第二十八旅団の負傷者は海城の野戦病院に全員、収容しました。段列は再び牛荘に向けて引き返しています』

「路面の状況は?」

『気温の低下によって路面の凍結は見られますが、雪による泥濘化は見られないとのことです』

 気温が上昇せずとも、人間や馬、馬車などが何度も通行すれば、それだけで体温によって溶かされた雪が地面に染み込んで泥濘と化す。そうなれば、行軍はより困難となる。しかし現状、氷点下という気温の低さが雪による地面の泥濘化を防いでくれているようだった。

「段列は四台子(海城―牛荘の中間に存在する村落)まで進出させろ。そこで兵員を収容する」

『了解いたしました。後続の段列については?』

「下手に連続で送り込むと、路上で渋滞を起こす危険性がある。ひとまず待機させておけ。適宜、指示を下す。以上」

『了解いたしました。では』

 景紀は喉から手を離し、水晶球通信を終えた。

「聞いての通りだ、柴田大佐。歩兵第五十八連隊は特に疲労が激しい部隊だろう。だが、とにかく四台子まではそのまま歩かせろ。昼間にそちらの負傷者を収容した輜重段列を引き返させた。馬車に背嚢などの装具を乗せれば、少しは兵どもも歩くのが楽になるだろう」

「それでは、第五十七連隊の兵士が逆に不満に思うのでは?」

 中途半端な気の利かせ方は逆に迷惑だと言わんばかりの口調で、柴田は反論した。確かに、疲労した兵士を途中で馬車で拾い上げるというのは良策であるように思えるが、逆にいえば後続の部隊との差別化に繋がり、後から後退する部隊の士気を下げるだけだろう。海城到達後も、部隊間で妙なしこりが残るかもしれない。

「判っている。だから、海城に来ていた軍直轄の輜重部隊から駄馬と馬車を徴発した。第二陣として、第五十七連隊の兵士も拾い上げられるように手配してある。第一陣の馬車列とかち合って渋滞を起こす危険はあるが、まあ、そこは俺とこいつで上手く調整する」

 そう言って、昨日と同じく景紀は冬花を指した。
 柴田の納得と懐疑がない交ぜになった視線がこの六家次期当主に向けられるが、景紀はただ平然とこの大佐を見返していた。

「まあ、その程度のことにも頭が回らんようでは、結城公不在の領地を一年近くにわたって治めることは出来ませんか」

 賞賛というよりも、どこか皮肉げに発せられた言葉に、景紀の背後に控える冬花の視線が険しくなる。
 だが、当の景紀は相変わらず平然としていた。
 結城家の家臣団のほとんどは、景紀よりも年上である。若年の景紀が政務を執ることを危ぶむ者も、また少将として旅団を率いることを危ぶむ者も、当然ながら存在している。
 そうした者たちを納得させるには、単純に地位や仕事内容に相応しい能力を発揮すれば良いということを、景紀は兵学寮卒業後、匪賊討伐で初めて部隊を任された時に学習していた。
 ひとまず、この柴田平九郎という連隊長も、景紀の能力についてある程度、納得はしてくれたようだ。景紀のことを、上官として心から服従してくれるかはまた別問題だろうが。

「ああ、そうだ。海城到着後は暖かくした天幕と、炊事班に命じて汁粉を用意させておいた。これで多少、兵の足も速くなるだろう」

「六家直属の部隊は何とも贅沢をされているようですな」

 流石にこの発言は皮肉が過ぎたのか、景紀の背後に控える冬花から殺気交じりの霊力が噴き出す。景紀はちらりと背後を振り返って、冬花に抑えるように目で命じる。
 渋々といった感じで、冬花から噴き出す殺気が収まった。
 実際のところ、部隊編制において景紀の要望が全面的に反映されているという以外、独立混成第一旅団が兵站面において特段、征斉派遣軍内部で優遇されているというわけでもない。天幕を温めるための燃料や汁粉を作るための小豆や砂糖などは、すべて独混第一旅団の兵士に割り当てられた備蓄を切り崩して景紀と貴通、そして工兵や烹炊班が手配したものだ。
 そうした配慮を侮辱されては、冬花が怒り出すのも当然といえた。
 とはいえ、景紀の方は六家次期当主という立場上、そうした邪推をされやすい立場であることを理解している。兵学寮でも、首席であることと六家嫡男であることを結びつけて考える輩は必ずいた。
 出逢った当初の貴通なども、その一人だろう。
 だから景紀は、柴田の発言をつまらない冗談を聞いたといった表情で受け流している。

「路面の状況や部隊の移動状況などは逐一、そちらの司令部にも通報する。貴官の方でも、後退に際して万全を期して欲しい」

「言われずともやりますよ。こっちは、あなたの前で嶺州のお姫様の名を汚すわけにはいかない立場なんでね」

 そこで初めて、景紀は意外そうな顔を見せた。
 てっきり、柴田大佐は苦労して今の地位にまで辿り着いたが故に、苦労せずに育った人間たちに対して厳しい感情を抱いているのかとも思ったが、自分の出身地のお姫様については別らしい。
 この男も、何だかんだ言って下士卒らと同じように故郷のために尽くそうとしてくれている健気な姫君のために戦おうとしてくれているのだ。
 それが少し、景紀には嬉しく、また誇らしかった。
 今度、宵に出す手紙にこのことを書いてみるか、と思う。

「そうか、ありがとう」

 だから自然と、景紀の口からはそんな言葉が出た。
 今度は、柴田大佐の方が意外そうな表情をする番であった。それは彼が初めて見た、この少年の年相応の表情だったからだ。

「それでは、失礼したな」

 景紀はさっと踵を返して、野戦司令部を出ていく。冬花もまた、主君の後に続いた。

「冬花、次は海城―牛荘間の路面状況を調査するぞ」

「了解」

 海城―牛荘間の街道は、一本だけではない。いくつかの経路が存在する。それらの路面状況を冬花の発する霊力波で調査して、混成第二十八旅団の後退を部隊同士の渋滞を発生させることなく、円滑に行えるようにしようとしているのである。
 翼龍に乗ったシキガミの主従は、再び暗く凍える空へと飛び立っていった。

「お飾りの将官かと思いましたが、いやはや何とも……」

 二人が乗った一騎の翼龍の影を見送って、連隊幕僚が呟いた。

「海城占領までの功績は騎兵第一旅団の島田少将のものかと思っていましたが、案外、あの若君も一枚噛んでいたのかもしれませんな」

「少なくとも、家柄だけの将校よりはだいぶマシだろうな」

 やはりどこか気に喰わないものを感じているのか、柴田の声は依然として刺々しかった。

「まあ、この寒空の中を飛び回る苦労を惜しまない責任感だけは認めてやっても構わんが」

 昨日今日と、あの結城家次期当主の顔は、南嶺鎮台などで顔を合わせた時よりも数段酷いものだった。それだけで、寒空の中を飛び回る龍兵の苦労が偲ばれるほどである。

「やはり、気に入りませんか?」

「気に入らんな。どんなに使える手駒だろうと、女を側に侍らせているってのが、まず駄目だ。あれじゃあ、姫様が不憫で仕方がない」

 なるほど、とこの幕僚は思った。自分の上官が苦労知らずな人間に対する反発を抱いていることは知っていたが、あの六家の若君に対してはその他に宵姫様を蔑ろにしているように見える姿勢にも反感を抱いていたというわけか。
 実際のところどうなのだろうな、と幕僚は思う。
 軍記物などでは主君の殿しんがりを務めて討ち死にした女武者や、戦国時代には夫の留守中に籠城戦の指揮を執った姫の事例などもある。だから彼自身としては、あの六家の若者が戦場に女を連れてきていることについて、それほど大きな反発はない。
 部隊に蔓延していた原因不明の体調不良者を治癒し、爆裂術式で旅団の危機を救ってくれてもいるのだ。あの白髪赤目の容姿は少し不気味に感じはするものの、反発よりも感謝の念の方が大きい。
 しかし、この連隊長殿は違うようだ。
 確かに、あの女術者が結城の若君の愛妾だという噂はある。だが実際のところ、それで宵姫様が不憫な思いをしているのかどうかは判らない。
 この上官は姉二人が自分を含めた弟たちのために芸妓となったために、不幸な立場にある女性全般に同情的になる傾向があるが、それが宵姫様の立場を脅かしかねない女性を側に侍らせている結城の若君への反発に繋がったということなのだろう。

「まあいい」

 自身の感情に区切りを付けるように、柴田は言った。

「おい、今のあのガキの言葉に従って後退の詳細を詰めるぞ! 指揮官集合をかけろ!」

  ◇◇◇

 再び翼龍を駆って空に飛び立とうと手綱を取って鞍に跨がった景紀に、地上の冬花はもの言いたげな視線を向けていた。

「そうむくれるなって」

 景紀は軽く笑って、冬花の頭を宥めるように優しく叩く。

「だって、景紀や貴通様、それに旅団の各級指揮官たちが頑張ってくれているのに、あの態度はあんまりじゃない」

「まあ、六家であるが故の邪推ややっかみなんて、日常茶飯事だろ? 冬花だって、そういう経験あるだろ?」

「……」

 冬花は無言のまま、不機嫌さを表わすように唇を尖らせた。
 彼女自身もまた、六家次期当主である景紀の側に控えているが故に、他者からそうした感情を向けられた経験がある。女子学士院在学時代だってそうだし、景紀の補佐官となってからもそうだ。
 特に女である自分は、より邪推され易い立場にある。景紀の愛妾などという陰口を叩かれているのも、そうしたことの現れだろう。

「それにな、貴通の奴だって、兵学寮で同室になったばかりの頃はあんな感じだったんだぞ?」

「それはそうかもしれないけど……」

 それでも、冬花は納得出来ないのだ。

「何度も言うが、俺は俺にとってどうでもいい奴からの評価なんて気にもしていない。お前や貴通、宵が俺のことを判ってくれているなら、それで満足だ。さっ、早く乗れ。まだまだやることは残ってる」

「……景紀の馬鹿」

 そう小さく罵って、冬花は鞍に跨がった。
 翼龍の甲高い鳴き声と共に、再び二人は極寒の夜空へと舞い上がっていった。





「ねぇ、景紀」

 滑走を終えて飛び立った翼龍の上で、冬花は後部座席に座っているために背後から抱きすくめるような形になっている主君に言った。

「ちょっと、西に飛んでくれない?」

「……いいけど、あんまり無茶はするなよ? 冬花に疲れられると、後退行動の統制に影響が出かねない」

 自らのシキガミが何をしたがっているのかを理解した上で、景紀は手綱を操って翼龍の鼻先を遼河のある西へと向けた。

「河岸に、かなり強固な結界が張ってあるわ」

「つまり、この間のお前の爆裂術式で物資を焼かれたことに懲りて、結界の強度をさらに上げたってことか。ご苦労なことだな」

 大して労いの感情が込められていない、むしろ皮肉るように景紀は応じた。

「ただし冬花、撃ち込む前に全軍に通達しろよ? 夜に突然爆発が起こると、それだけで敵襲と勘違いして恐慌状態に陥る兵が出てくるだろうからな」

「了解」

 景紀は一旦、その場で翼龍を旋回させた。
 牛荘は遼河の東岸に隣接する都市であり、そのまま西に進み続ければあっという間に遼河を飛び越えてしまうからだ。
 冬花が第三軍司令部にまず爆裂術式を撃ち込むことを報告し、次いで地上の混成第二十八旅団などに警告を発する。

「通信、終わったわ」

「ああ。末端の兵士にまで情報が伝達されるまで、少し待つぞ」

 そう言って、景紀はなおもその場で翼龍をゆっくりと旋回させ続けた。その間、周囲の空への警戒を続けているが、地上からの射撃はなく、また敵翼龍もやって来ない。
 やがて、五分ほどの時間が経過した。

「よし、やっていいぞ、冬花」

 どこかけしかけるように、景紀は己のシキガミへと命ずる。

「了解!」

 先程までの鬱憤を晴らすような溌剌とした声と共に、冬花が鞍の上で腰を浮かす。
足と腰で翼龍の羽ばたきによる動揺を吸収し、上半身を固定する。腰の矢筒から矢を取り出し、弓に番える。武家の伝統芸能たる流鏑馬と同じ要領だった。
 動揺のある翼龍の鞍上という不安定な場所ではあるが、しっかりと固定した鞍と安全索で繋がっているため転落の危険は少ない。
 闇の中で少女の赤い瞳が鮮やかに輝き、結界に囲まれた地上を見据える。
 ぐっと弦を引き、矢を一杯に引き絞る。
 そして、放った。
 冬花の赤い瞳は、自らの放った矢に込められた霊力の行方を追った。上空から放たれた矢は、凍てつく大気を突破して相手の結界に守られた遼河東岸に到達。冬花が矢に込めた霊力と結界に込められた霊力が相克し、しかし瞬時に矢が結界を破砕した。
 直後に、爆炎。一瞬遅れて、爆音。
 上空へと噴き上がる爆風に巻き込まれぬよう、景紀は冬花が矢を放った直後に東へと翼龍を待避させていた。だがそれでも轟音とわずかに届いた爆風に煽られた翼龍が微かに暴れたが、この六家次期当主の少年は巧みな手綱捌きですぐに翼龍を落ち着かせた。

「よし、じゃあ路面状況の調査に行くぞ。取りあえず寒いから、早く尻尾を貸してくれ」





 この夜、月明かりも少ない漆黒の雪原を皇国軍約四〇〇〇が牛荘から海城への後退に成功した。
 撤退に際しての混乱は、ほとんど皆無であった。
 冬花の霊力波による道路状況の調査、呪術通信による各部隊の情報共有と連携、景紀と貴通による綿密な計算、そしてその計算を実行に移せる柴田平九郎大佐の野戦指揮官としての統率力、それらが海城への後退作戦を成功に導いた原因と言えるであろう。
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