秋津皇国興亡記

三笠 陣

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第六章 極東動乱編

112 動員令

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 八月十四日、兵部大臣が大本営の設置について諮詢奏請を行い、それを受けて今上皇主が六家に対して大本営設置の可否について下問、六家が大本営の設置を奏上したことで、この日、大本営が正式に設置されることとなった。
 そして午後六時過ぎ、早速、大本営政府連絡会議が開かれ、政軍の一致した半島情勢への対処方針を決定する流れとなる。
 意外なことに、この会議において最も強硬な意見を出したのは、六家の中でも攘夷派・対外硬派として知られる伊丹正信公ではなく、海軍軍令本部長であった(同じく攘夷派である一色公直公は軍事参議官ではないので、大本営政府連絡会議に出席せず)。
 兵部省や外務省に残された議事録によれば、海軍本部長は会議の席上、「陽鮮側当事者ニ於テ之ガ解決実行ニ対シ誠意ヲ示サヽルニ於テハ実力ヲ以テ之ヲ強制スルモ敢テ辞セサルノ決意アルヲ要ス」、「公平至純ナル外交々渉ヲ促進スルト共ニ陽鮮側ニ於テ遂ニ反省スル処無クンバソノ飽ナキ非違不法ヲ糺弾是正スル為真ニ断乎タル一撃ヲ加ヘ得ルノ準備完成シ両々相俟テ速ニ時局ノ解決ヲ図ルノ他ナシ」と主張したのである。
 陸軍軍閥勢力である六家も大本営の設置を決めた以上、対斉開戦は覚悟していたものの、この海軍の強硬姿勢には驚きを隠せなかった。
 陸軍は帯城倭館から一人の死傷者もなく邦人を救出した一方、東萊倭館では居留民死傷によって海軍の陸軍に対する面子が大きく傷付けられたと考えたのだろう。
 こうした海軍の姿勢に対して、六家の中でも警戒心を抱いたのは対外強硬派の伊丹正信公であった。海軍の強硬論に引き摺られれば、軍の政治的主導権を海軍に奪われる可能性があると危惧したのである。
 もちろん、残りの六家も大なり小なり同じ考えであった。
 軍事参議官として大本営政府連絡会議に出席している彼らは、伊丹公を中心に、対斉作戦は地上作戦が中心となる以上、陸軍の意見が重要であるとして海軍側強硬論の封じ込めにかかった。
 出席していた軍監本部長・川上荘吉中将(結城閥)も六家側に立って反論、さらには蔵相も財政の観点から海軍に冷静な意見を求めた。
 これに対して海軍本部長は「今トナリテハ斯カル態度ヲ取ルベキ時機ニ非ズ。海軍トシテハ必要ナル丈ヤル考ヘナリ」と反駁し、さらには西洋型と東洋型の二元外交に苦慮していた外相も華夷秩序を崩壊させる好機として海軍の強硬論に便乗、会議は一時、激論となった。
 結局、軍監本部長、そして海軍本部長の上司である兵部大臣・坂東友三郎大将が仲裁に入って、海軍側の意見を取り入れた皇国政府声明を発表するという方針に落ち着くことになった。
 八月十五日午前一時、大本営政府連絡会議において皇国政府声明が決定され、深夜にも関わらず皇都にある各国大使館、皇都を拠点とする各新聞社に対して発表されるに至った。
 その内容は、次のようなものであった。

皇国夙ニ東洋永遠ノ平和ヲ冀念シ、秋斉鮮三国ノ親善提携ニ力ヲ效セルコト久シキニ及ベリ。然ルニ帯城政府ハ排秋侮秋ヲ以テ国論昂揚ト政権強化ノ具ニ供シ、自国国力ノ過信ト皇国ノ実力軽視ノ風潮ト相俟チ、更ニ斉国勢力ト苟合シ反秋侮秋愈々甚シク以テ皇国政府ニ敵対セントスルノ気運ヲ醸成セリ。(中略)皇国トシテハ最早隠忍其ノ限度ニ達シ、陽鮮軍ノ暴戻ヲ膺懲シ以テ帯城政府ノ反省ヲ促ス為今ヤ断乎タルノ措置ヲトルノ已ムナキニ至レリ

 この声明文に見られる帯城政府とは、李欽簒奪政権のことである。皇国はこの時期、公文書上では仁宗の政権を江蘭島政府、李欽簒奪政権を帯城政府と呼称していた。
 そして、この政府声明の決定を以て、事実上、皇国は対斉開戦を決意したこととなる。
 そのため政府声明の発表後、軍監本部の動員関係者たちは動員関係書類を携えて翼龍便で全国各地の鎮台へと飛び、これを受けた各鎮台は諸侯に動員令を伝達し、各師団は戦時編成へと移行することとなる(なお、中央政府直轄の北溟道、榧太に関しては、それぞれ北溟道庁、榧太庁が動員令を伝達する)。
 そして、一方の海軍は各艦隊の一元的運用のため「聯合艦隊」の編成を行った。
 皇国海軍は皇暦八三五年時点で、五個の常備艦隊を保有している。
 主力は第一、第二艦隊であり、第三艦隊は大陸沿岸および東南アジア周辺海域の警備、第四艦隊は皇国南洋植民地の警備、第五艦隊は沿海州から日高州沿岸にかけての泰平洋北方海域の警備を担当していた。
 これら艦隊を、新たに設置した聯合艦隊司令部の下で一元的に運用するのである。
 こうして皇国は、国内を戦時体制へと切り替えていくこととなった。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 結局、結城家屋敷に景忠が戻ってきたのは、十五日の午前三時頃であった。
 しかし、景忠が六家会議やその後の大本営政府連絡会議での議事内容を重臣たちと共有することはなかった。
 一度、病に倒れたことによって体力の低下していた景忠は、丸一日以上続いた会議によって疲労が激しく、帰宅後すぐに床に入ってしまったのだ。
 里見善光が主君・景忠の体調を慮って、そうさせたらしい。
 やむを得ず、景紀は里見に対して議事録を重臣たちに供覧に回すよう命令した。里見は議事録の清書が終わっておらず、また議事録の内容について景忠公の決裁を受けていないので供覧に回すことは出来ないと渋ったが、景紀は父上が政務を執れないならば次期当主である自分に代行権があると言って強引に押し切った。
 それによって、景紀と重臣たちは海軍の強硬姿勢や動員令の発令を知ることが出来たのである。
 宣戦の詔勅が下されたわけではないが、実質的に皇国は対斉開戦を決意したことになる。
 事ここに至っては、景紀個人に出来ることは少ない。
 結城家の政策決定過程に関わることの出来ない彼は、動員令が発令される運びとなった以上、自らが指揮することになるだろう部隊の業務に専念せざるを得ない。
 冬花に命じて、朝一番で澄之浦に帰るための汽車の切符を手配させる。
 重臣や屋敷で働く者たちにも、挨拶をしておく。
 出発前に父と母を起こして、最後の挨拶を済ませておこうと思う。
 宵にも言ったことだが、景紀は将家に生まれた人間として戦場に立つことに納得している。匪賊討伐などで初陣も済ませている。先月には、陽鮮での政変を切り抜けてきたばかりだ。
 対外戦争という、それらよりも遙かに規模の大きな戦いに赴くことになるのだが、今更、気負うほどのことでもなかった。
 重臣や屋敷で働く者たちへの挨拶は、それほど時間がかからなかった。
 皇都中央駅から始発の汽車が出る時間まで、一時間と少し、中途半端に時間が空いてしまった。仮眠は汽車の中で取ればいいと思い、最後に宵の寝ている寝室に向かう。

「……宵?」

「はい」

 自分に構わず寝ているように言っておいたのだが、そっと声をかけると白い着流し姿の少女はすぐに起き上がった。どうやら、ずっと起きていたらしい。
 景紀は部屋の行燈に火を灯した。薄明るく、部屋の中が照らされる。

「この後、動員令が発令される運びになった。俺も冬花も、朝一番で澄之浦に戻る」

「はい」

 布団の上で正座した宵は、神妙な表情で頷いた。先日、景紀たちを澄之浦に送り出した時点で覚悟を決めていたのだろう。動揺らしいものは見られなかった。

「もう一度、屋敷に戻ってこられるかは判らん。だから、お前に渡しておきたいものがある」

 景紀は、寝室と繋がっている自身の居室から、鮮やかな蒔絵の施された硯箱と白塗りの鞘に収められた一振りの刀を持ってきた。

「こっちの硯箱は、底が二重になっていてな」

 そう言って、景紀は硯箱の蓋を外し、二重になっている底を開いた。出てきたのは、和綴じになった一冊の冊子であった。

「こいつには、冬花に命じて収集させた主要な家臣たちの情報が書いてある。まあ、要するに弱みになりそうなことだな。俺がいない間、里見に対抗するために上手く使うといい」

 景紀は冊子を硯箱の底に戻した。

「こいつは呪術的な仕掛けで俺だけしか開けられないようになっていてな。冬花が帰ってきたら、お前も開けられるように術式を組み替えてもらおう」

「はい、お預かりいたします」

 宵はそっと、硯箱を自分の方に引き寄せた。

「それと、こっちは一度見たことがあるな?」

 もう一つ、景紀は白塗りの鞘に収められた刀を示した。柄頭に椿の装飾が下げられている刀である。

「はい、廃寺の時に差していたものですね?」

「ああ」

 その刀は、宵と冬花が佐薙成親に捕らえられた事件の際、景紀が振るっていたものであった。

「こいつは冬花の霊力が宿っている霊刀だ。あいつと呪術契約を結んでいる俺に破邪の守護を与えてくれる刀だが、俺と夫婦の契りを交わしたお前にも一定の効力が及ぶらしい。お守り代わりに預かっておいてくれ」

「よろしいのですか?」宵は刀を受け取ることに躊躇を示した。「そのような刀であれば、むしろ景紀様が持っていかれるべきでは?」

「戦地で戦う分には、普通の刀で十分だ。それよりも、残していくお前の方が心配だからな」

「……」

 宵はしばし、逡巡の表情を見せた。
 そして、意を決したように手を寝巻の袖で覆ってその刀を受け取った。

「……ところで、この刀は何と言うのですか?」

「“鞍州国綱”」

 景紀は、あまり気に入っていない口調で答えた。
 刀には“銘”というものがあり、基本的には刀匠の名がそれに当たる。この場合、“結城家領鞍州の国綱という刀匠の作品”、という意味になる。

「あまりお気に召していないようですが?」

 あまり評判の良くない刀匠なのだろうかと宵は思い、訊いてみた。

「ああ、別にそいつの腕が悪いわけじゃない。ただ、俺にとってこの刀は“国綱の作品”じゃなくて、“冬花の刀”なんだ」

 景紀は、子供のようにふて腐れた表情になる。つまり、彼にとってこの刀は、冬花との呪術契約の証ともいえるものなのだ。そこに自分と冬花以外の名が入ることが、単純に気に入らないのだろう。

「でしたら、“号”を付けてしまいましょう」

 だから、宵はそう提案した。
 刀の“号”は、基本的にその刀の活躍や逸話などから徐々に形成されていくものだ。だから刀の中には、逸話の変遷によって何度も号が変わったものも存在する。
 しかし天下の名刀と呼ばれる刀たちと違い、この刀が戦などで活躍したという話はなく、逸話が出来るほど歴史を重ねてもいないので、宵はかなり強引なことをしようとしているわけである。

「……」

 宵は自らの手にある刀に目を落とした。

「雪椿」

 そうして、ぽつりと言う。ほとんど、第一印象でその言葉が浮かんだのだ。

「……典雅ではあるんだが、“号”としちゃあちょっと柔らか過ぎる気がするな」

「お気に召しませんか?」

 確かに、世には鬼を切っただの、雷を切っただのという勇ましい逸話から“号”が付いた刀が存在する。

「いや、いいんじゃないか」

 だが、景紀はそう言って笑った。

「その椿の装飾も、元はといえば冬花の刀であることを象徴するために付けたものだしな」

 景紀はそうまでして、この刀から“鞍州国綱”の印象を拭い去りたかったらしい。彼にとってはこの刀も冬花との絆を象徴するものなのだろうと、宵は思う。
 それを、自分は預かるのだ。

「では、こちらも景紀様がお帰りになるまで預からせて頂きます。手入れも、私自らが行いましょう」

「ああ、頼んだ」

「はい、お任せ下さい」

 普段通りの抑揚の乏しい調子のまま、宵は頷いた。そしてふと思いついたように刀を脇に置くと、座っている景紀の背後に回ってその背中に覆い被さるように抱きついてくる。

「冬花様が付いていらっしゃるのであまり心配はしておりません。とはいえ、お体には十分にお気を付け下さい」

「ああ」

 前に回された宵の手に己の手を重ねて、景紀は応じた。

「……」

「……」

 そのまましばらく、無言の時間が続いた。
 宵は最後に、景紀の体温を確認しておきたいのだろう。宵、冬花、貴通といった景紀の側にいる三人の少女の中で、彼女だけが内地に残されることになる。
 その寂しさやもどかしさは人一倍だろう。

「……あまり、未練がましくなっても仕方ありませんね」

 やがて、小さく笑って宵はその体を離した。

「ただ、出発の時間まで、お側にいてもよろしいですか?」

「ああ」

 そんな少女のいじらしい言葉を拒否出来るほど、景紀は冷たい人間ではない。
 と、そんな二人の下に、静かな足音が廊下を伝ってきた。

「若様、少しよろしいでしょうか?」

 行燈の明かりが灯っているので、起きていると思ったのだろう。廊下の障子越しに声を掛けてきたのは、冬花の父・英市郎だった。
 彼は主君・景忠に従って皇都に出ていたのである。

「ああ、何だ?」

「はっ、失礼いたします」

 英市郎が障子を開けた途端、彼は室内を見てハッとした顔になった。

「……これは、姫様。申し訳ございません」

 出発前最後の二人の時間を邪魔してしまったことに気付いたのか、英市郎は申し訳なさそうに頭を下げる。

「いえ、構いません。それよりも、景紀様にご用があるのでは?」

 宵は気にした素振りを微塵も見せず、端正な姿勢で景紀の隣に座っていた。
 英市郎は躊躇いがちに室内に入ってきた。

「若様へのお話と言いますのは、娘のことです」

「冬花がどうかしたのか?」

「はい、先ほど益永様より娘との挨拶を済ませておいた方がいいと言われまして、これはつまり、対斉開戦が決定したのだと思った次第です。それで、間違いないでしょうか?」

「ああ、事実上、開戦は決定したようなものだ」

「景紀様は、そこに娘も連れて行くおつもりなのでしょうか?」

 非常に聞き辛そうに、英市郎は問うてくる。

「ああ、あいつは俺のシキガミだからな」

「しかし、戦争となればこれまでの匪賊討伐などとは訳が違いましょう。どうか、あの子を内地に留めておいて頂くことは出来ますまいか?」

 そう言って、英市郎は畳の上に平伏した。
 親として、軍人でもない一少女が戦場に送られることに、この男なりの葛藤があるのだろう。主家への忠誠と女の子の親としての立場の間で、随分と悩んだはずだ。
 帯城倭館からの引き揚げの決断が遅れた所為で、景紀や冬花が陽鮮の凶徒に包囲された時には、親として娘の死を覚悟したのかもしれない。だからこそ、娘を戦地に送り出すことに躊躇いを覚えているのだろう。

「それは、あいつの覚悟を蔑ろにすることになる」

 だが、景紀は英市郎の親としての心情よりも、冬花のシキガミとしての矜持を優先させた。帯城では、妖狐の血の封印を解いてまで景紀のためにその力を振るってくれた冬花である。
 ここで内地に残すのは、彼女の覚悟を忠誠を誓われた主君自らが穢すことになる。それは、出来なかった。

「しかし……」

「そこまでにして下さい、父様」

 英市郎がさらに言葉を続けようとしたところに、冬花の声が被る。
 廊下のところに、切符の手配に向かわせた冬花が立っていた。

「私は若様のシキガミです。若様のお側を離れるわけにはいきません」

「……」

 父親を責めるような強い口調に、英市郎は黙り込んでしまった。

「それに、若様のための尽くせと言ったのは父様ではありませんか。なのに、今更になってそんなことを言うのですか?」

「戦場へ行くのは、軍人の役目だ」

 英市郎は険しい表情で首を振り、反論した。

「匪賊討伐はまだ領内の治安維持活動の一環だ。将家の家臣団に生まれた者の一人として、領内の治安を安定化させる責務はあろう。だが、戦争は軍人の役目であって、我ら呪術師の役目ではない。冬花、お前は陽鮮で何発の爆裂術式を使った? 呪術とは本来、そのように使うものではない。我ら陰陽師の本来の役目は、災厄を祓うことにある。我ら自身が災いとなるわけにはいかんのだ」

「主君に降りかかる災厄を祓うことが、我が葛葉家の役目であったはずです」

 冬花は父から責められるようなことは何もないと言いたげに、強い口調で断言した。

「英市郎、冬花を責めるな」景紀もまた、英市郎に言う。「お前の陰陽師としての道徳観は傾聴に値するが、冬花の主君は俺だ。こいつの行動の結果に対する責任は、すべて俺にある」

「若様の御前で見苦しいこととは判っているのですが、やはり親として、そして呪術の師としての感情も捨てがたくあることを、ご理解いただきたく」

「ああ、理解はしよう。だが、俺が尊重するのは、俺のシキガミであると誓ってくれた冬花の方だ」

 景紀の断乎たる言葉に、英市郎はうなだれたような表情になる。

「英市郎殿」宵もまた、口を開いた。「私は冬花様がいらっしゃるからこそ、景紀様を安心して戦地に送り出すことが出来るのです」

「しかし、姫様……」

 言いかけて、英市郎は口を噤んだ。景紀の見た通り、確かに彼の中には様々な葛藤があった。
 娘を戦地に送り出す親としての不安、災厄を祓うべき陰陽師が災厄そのものというような破壊を撒き散らすことへの忌避感、そして景紀が正室たる宵を内地に残し、補佐官とはいえ一部では愛妾のように見られている冬花を連れて行くことへの懸念。
 未だ宵が景紀の子を授かっていない段階で、もし景紀が冬花にお手出しをすれば、景紀と宵との間に隔意が生まれる危険性もある。そうなれば、葛葉家も結城家内の政争に巻き込まれる可能性が増す。
 そうした思いが、英市郎の中にはあるのである。
 しかし、それを宵姫に対して正直に言うことは、あまりにも不敬であるように思えたのだ。

「英市郎、お前の気持ちは判るが、冬花は俺が連れて行く。それが、俺の決定だ」

「……はっ、それが若様のご決断であるのならば」

 英市郎はもう一度平伏し、すべての葛藤を呑み込むような固い声でそう返答した。

「冬花、どうかくれぐれも、臣下としての本分を忘れることのないようにせよ」

 そして、娘に釘を刺すようにそう言い残し退出していった。

「……親子の関係というのは、なかなかに難しいものですね」

 恐らくはここにいる三人の中でもっとも複雑な親子関係にあった宵が、溜息をつきたそうな調子で感想を漏らした。同感だというふうに、景紀と冬花は同時に溜息をつく。

「……ああ、それで景紀、始発の汽車の切符を抑えてきたわよ」

「ああ、助かる」

「皇都中央駅を五時十五分に出発する列車だから、もう一時間もないわ。私、部屋の整理をしてくるから」

 そのまま、冬花は障子の向こうへと消えていった。
 冬花も景紀も、皇都屋敷の自室の整理は先日、澄之浦に出発する前に済ませていた。なのにそう言ったのは、宵を景紀と二人きりにさせてあげようという彼女の気遣いだろう。
 改めて、景紀は宵に向き直った。

「……宵、お前は俺のことを心配してくれているが、お前も体には気を付けるんだぞ?」

「はい」

「それと、澄之浦に着いたら向こうに持っていった俺の私物をお前宛に送る。株とか俺個人の財産目録や、通帳の類だ。必要なら、工作資金にでも何にでも使え。ああ、やってみたければ株の運用だってしていい。多少失敗したって、それはそれで経験だ」

「判りました。景紀様のお役に立てるよう、精一杯、頑張ります」

「まあ、あんまり気負わずにいればいい」

 そっと、景紀は宵を抱きしめた。

「ここは鷹前の城じゃない。お前一人で耐えなきゃならないことなんて何にもない。どこにいたって手紙は出すし、皇都には新八さんや鉄之介、八重だっている」

「はい」

 宵もまた、彼の背に腕を回した。

「景紀様、どうかご武運を。そして、無事のお帰りをお待ちしております」

「ああ、必ず」

 宵は、今この時抱きしめている景紀の温もりを覚えておこうと思った。
 それはきっと、自分の心に火を灯してくれる温もりだから。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
  あとがき

 作中の皇国政府声明は、史実の第二次上海事変後に発せられた帝国政府声明(昭和十二年八月十五日午前一時十分発表)を元にしたものです。
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