秋津皇国興亡記

三笠 陣

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第六章 極東動乱編

110 シキガミの少女と忍の少女

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「……」

 重臣たちに配慮して御用場へと入室しなかった冬花は、皇都屋敷の自室にて待機していた。
 妖狐の聴力を発動させて、御用場の様子は常に確認している。
 自らの主君が矢継ぎ早に指示を下していく様子は、聞いていて痛快ですらある。景忠公が政務に復帰して以来、如何に当主と重臣の間での意思疎通が不十分であったのかがよく判る。
 ある意味で、里見善光という男は側用人として冬花の反面教師といえる存在であった。
 いっそこのまま景紀が結城家の実権を掌握してくれればいいのにという思いもあるが、主君自身がそれを望んでいない以上、冬花として何か言うことは出来ない。
 隠居願望を口にする景紀が、一応は景忠公が政務を執れる現状で、無理に実権を掌握しないであろうことは判っていた。
 とはいえ、シキガミとして自らが仕える人間が思うままに辣腕を振るう様を見てみたいという思いも確かに冬花の中には存在している。
 自分の慕う殿方がひとかどの人物でいて欲しいという欲求は、宵姫の言うところの“女の見栄”だろう。もっとも、景紀のシキガミであろうとする以上、自分の見栄を優先させるわけにはいかない。
 悩ましいところではあったが、戦争となれば景紀の活躍する様を側で見ることが出来るのだから、ひとまずはそれで自分の欲求を慰めようと思う。

「……」

 と、ふと廊下に気配を感じた。
 冬花は静かに立ち上がり、廊下に繋がる障子を開けた。

「……そこにいるんでしょう? 出てきたらどう?」

 およそ友好的とは言えない声を、廊下の曲がり角にかける。空気がわずかに動いて、影の中から抜け出すように一人の少女が現れた。
 その少女が姿を現わすまで、気配らしきものはまったくなかった。冬花の持つ妖狐の優れた知覚がなければ、気付かないほどである。
 それだけで、この少女が新八と同じく隠密としての特殊技能を持つ者、つまりは忍であると理解出来た。
 そんな少女を傍から見れば、冬花とは対照的にも見える装いだったろう。
 白髪の陰陽師と同年代と思われる少女の髪は黒髪で、それを頭の高い位置で一つに括っていた。身にまとっている着物も、シキガミの少女と同じように膝上丈のもので動きやすさを重視してやはり肩が剥き出しになっている。
 もっとも、もともと冬花の着物が女忍の装束を元にして作ったものなので、似ているのも当然といえた。
 唯一の違いは、少女の着物は冬花のものと違って着脱式の袖がないことだろう。呪術師と違って呪符を仕込む必要のない忍の少女にとって、袖はかえって邪魔になる。剥き出しになった肩から先の腕には、肘までの長さの黒い指貫手甲をはめていた。
 着物の色は黒を基調としており、全体的に黒い印象を与える少女であった。

「あなたが皇都で活動しているなんて、知らなかったわ。菖蒲あやめ

 冬花から菖蒲と呼ばれた少女は、小馬鹿にするように鼻を鳴らす。

「あんたこそ、恥知らずにもまだ若様の側にいるのね。やっぱり、化け狐ってのはどいつもこいつも男に取り入るのが上手いのかしら?」

 自身への明らかな侮蔑の含まれた言葉に、冬花の目線が険しくなる。

「若様を侮辱する気?」

「まさか? 私が見苦しく思っているのはあんたの方よ」

 不愉快そうに、黒衣の少女は吐き捨てた。

「女子学士院を首席で卒業して少しはマシになったらしいとは聞いていたけど、やっぱり人間の本性ってのはその程度じゃ変わらないようね」

 じろりと、不躾にも思える視線で菖蒲という少女は冬花を睨み付けた。

「結局、あんたは若様抜きじゃ生きていけない。それは子供の頃も今も変わっていない。まったく、主君を守るべき役目を負った人間が、主君に守られてどうするのよ? 臣下として見苦しい限りだわ」

「私は若様のシキガミであると誓いを立てた身よ。主従の誓いを侮辱するあなたこそ、臣下としての心構えがなっていないわ」

「私たち風間の忍が仕えているのは結城家という“家”で、あなたたち葛葉の陰陽師が仕えているのも結城家という“家”よ。決して、誰か個人に盲目的な忠誠を誓うことじゃない」

「あなたに、それを言う権利があると思っているのかしら?」

 その赤い瞳の中にほの暗い感情を浮かべて、冬花は嗤った。
 自分の景紀への忠誠心を侮辱されることは、自分の存在意義そのものに関わることだ。絶対に、譲るわけにはいかない。

「家への忠誠? 確かに、それは必要なものでしょうね。でも、私はその“家”の一部である家臣たちから“不吉の子”だと言われて散々な目に遭わされたわ。助けてくれたのは、若様一人だけだった」

「……」

 菖蒲という少女は、思わずぐっと黙り込んでしまった。

「あなただって、その一人だったでしょう?」

「私はあんたの意気地のなさを指摘してやっただけよ」

 いじめっ子と同一視されたことが気に喰わなかったのか、黒衣の少女はきつめの口調で反論した。

「でも、助けてはくれなかった」だが、冬花は変わらずに嗤っていた。「ねぇ、容姿が人と違って、それを理由に虐められている人の気持ちが、あなたには判る? 気味が悪いって言われて堀に突き落とされて、妖が城の中を歩くなって言われて蔵の中に閉じ込められて、髪を黒くしてやるって言われて泥を塗りつけられて、獣臭いと嘲笑われて、そんな中で若様だけが私を庇ってくれたのよ」

 自分を生んだ母親をなじるほどに絶望していた幼少期、景紀と彼のシキガミであるということだけが自分の寄る辺だった。辛い気持ちに寄り添ってくれたのは、景紀だけだった。
 泣いている自分に、やり返さないからあいつらはつけ上がるんだとか、意気地がないから虐められるんだと冷たく蔑むように言ってきた目の前の忍の少女では、決してない。

「それでどうして、私が結城家という“家”に忠誠を誓わなくちゃいけないの?」

「―――っ!?」

 菖蒲と呼ばれた少女は、戦慄した表情になる。
 白髪の少女の中にある闇と、主家に対する不忠ともとれる発言。それは彼女をおののかせるには十分だったのだろう。

「冬花」

 と、凍り付いた場に新たな声が響いた。

「今の発言は迂闊だ。聞かなかったことにしてやるから、部屋に戻っていろ」

 ちょうど廊下の角から現れた、景紀の声だった。叱責するような声ではない。それでも、固い声ではあった。

「……はい、若様」

 暗い嗤いを落ち込んだ表情に変えて、冬花は頷いた。そのまま、力ない動作で部屋の中へと戻っていた。





「で、お前が皇都で動いているとは聞いていなかったぞ? 風間菖蒲」

 黒衣の少女は結城家次期当主の登場に、さっと廊下から庭へと飛び降りた。そのまま片膝をつき、臣下の礼を取る。

「あの女と同じことおっしゃるのですね」

 溜息をつくような調子で、菖蒲という少女は小さく呟いた。
 風間菖蒲は、結城家に仕える忍の一族・風間家当主の娘だ。歳は景紀や冬花と同じで十八歳。ただし、女子学士院には進学せず、結城家領首府・河越の女学校を卒業していた。
 その後は、忍として領内選出の衆民院議員やその支持者たる地主層の動向を監視する任務を負っていたはずであった。
 議員たちの利用する高級料亭などに芸妓として潜り込む任務もあるため、相応の教養も身に付けている。
 それが、皇都に出てきたので景紀は疑問に思ったのである。

「宵姫様専属の護衛として、参りました次第です」

「それは、里見善光の差し金か?」

 景紀はまだ、宵から専属護衛の話は聞いていなかった。そもそも、屋敷に到着してまず御用場に顔をだしたので、会ってすらいない。

「発案は里見殿です。しかし、人選の希望を出したのは宵姫様であると聞いております」

「それで、その人選に適う忍がお前というわけか。もう宵への挨拶は済ませたのか?」

「いえ、まだお会いしてもいません。念の為、若様から先に了承を得るべきかと思いまして。最初は澄之浦に伺うつもりだったのですが、半島での変事のために皇都に出ていると聞きましたので」

「で、その前に冬花をいびってたってわけか」

 わずかに不愉快そうな響きを込めて、景紀は言う。

「相変わらず、あいつが気に入らないのか?」

「今でも私は、あの女の振る舞いが臣下として適切なものであるとは考えておりません」

 きっぱりと、菖蒲は言い切った。景紀から不興を買うことを、まるで恐れていない様子である。

「かもしれない」

 八歳の時、独りにしないでと泣きついてきた冬花のことを思い出しながら、景紀は頷いた。あの時に見せた景紀への依存心を、冬花が完全に克服出来たとは考えていない。それは、形を変えて今も彼女の心の中にあるだろう。
 でも景紀は、冬花が幼少期に比べて成長していると思っている。
 そんな彼女を見ずに、安易にその依存心を否定する気にはなれなかった。

「だが、あいつはあいつなりに頑張っている」

 だから、景紀はそう言った。

「それに、臣下として不適切な振る舞いというのなら、まずはお前を推薦した里見に言うべきじゃないのか?」

「……」

 もっともな指摘に、菖蒲は黙り込む。

「それをすっ飛ばして冬花ってのは、筋が通らない。それは単に、お前が冬花の奴を嫌っているからだ」

「……」

 しかしそれでも、忍の少女は謝罪の言葉を口にしなかった。自分が間違ったことを言っているとは思ってないのだろう。

「まあいい。宵のことは頼んだぞ」

 そう言って、景紀は庭に片膝をつく菖蒲の前を通り過ぎようとする。

「よろしいのですか? 私が宵姫様の専属護衛で」

「お前は、俺が冬花を貶した奴を誰でも彼でも粛清する奴だと思っているのか?」

 溜息をつくような調子で、景紀は言った。

「例えあいつを蔑んでいようが嫌っていようが、使える奴は使う。もっとも、だからといってそいつを冬花の近くに配置するかどうかは別問題だがな。とはいえ、お前の働きぶりについては報告を受けている。忍の腕も相応だろう。他に適任者を探すのも難しい」

 淡々とした視線で、結城家次期当主の少年は忍の少女を見下ろしている。

「だったら後は、宵自身の判断に任せるさ。お前を護衛として側に置きたいかどうか、最終的に決めるのは宵自身だ」

 そう言って、今度こそ景紀は忍の少女の前を通り過ぎていった。

  ◇◇◇

「入るぞ、冬花」

 景紀は障子を開けて、冬花の部屋へと入った。シキガミの少女は、部屋の中で神妙な表情で正座をしていた。
 景紀は後ろ手に障子を閉めた。

「ごめんなさい」そう言って、冬花は畳に両手をついて謝罪する。「私の迂闊な発言で、景紀がお館様に叛意を抱いているって誤解されたら……」

「いいさ、それでも」

 景紀はきっぱりと言い切った。はっとなって、冬花は顔を上げる。

「俺にとっては父上との関係よりも、お前との関係の方が大切だ。それで父上に疑われるんだったら、父上を幽閉してでも俺が結城家の実権を握ってやる。だから、あんまり気にするな」

 そう言うと、シキガミの少女の顔がくしゃりと泣きそうに歪んだ。景紀はそっと冬花を抱き寄せて、腕の中に収める。
 少女の体は、少しだけ震えていた。

「……私って、相変わらず泣き虫ね」

 自らも腕を回して主君の胸に顔を押し付けながら、冬花は小さな嗚咽交じりに言う。

「乗り越えようとしたはずなのに、このザマよ……」

 幼少期の辛い記憶を、冬花は乗り越えたと思っていたのだろう。それが、あの忍の少女との会話で蘇ってしまったのだ。
 正論は、時に人を傷付ける。いや、正論だからこそ、より辛いのかもしれない。反論出来ないからこそ、その嫌悪や反発は自分自身へと向かってしまう。

「別に、無理に乗り越えなくてもいんじゃないかな」

 景紀は片手で冬花の頭を抱えながら、もう片方の手でぽんぽんと優しく背中を叩く。

「辛い気持ちを抱え込まずに誰かに吐露することも、立派な勇気さ」

「みっともないって、思わない?」

 不安そうな、少女の問いかけ。

「思うわけないだろ?」

 きゅっと、景紀は少し力を込めて冬花を抱きしめた。武術の鍛錬を積んだ、しなやかな少女の体。しかし、だからといって限界を越えれば折れてしまうことに変わりないのだ。

「……じゃあ、ちょっとだけこのままでいさせて」

「ああ」

 そう言うと、景紀に耳にか細い嗚咽が聞こえ始めた。
 そして、その嗚咽が聞こえなくなっても、冬花の気の済むまで景紀は彼女の体を抱きしめ続けていた。

  ◇◇◇

 宵は世話役である済から景紀と冬花が屋敷に帰ってきたことを知らされていたが、景紀がすぐに御用場に向かったため、顔を合わせる時機を逸してしまった。とはいえ、同じ屋敷にいながら会えないことに納得してもいる。
 昨日、陽鮮半島南部の商港・東萊にて大規模な軍事衝突が発生したことは、彼女も知らされていた。それへの対応に景紀たちが追われることは、当然だろう。
 今朝の朝刊も、どの新聞社も一面で東萊での軍事衝突事件を取り上げていた。
 対外硬派系の新聞は、李欽簒奪政権が抗秋・侮秋政策をとり続けているのは背後に斉があるからだとして、この二国を断乎膺懲して皇国主導の東亜新秩序を樹立すべきと書き立てている。
 一方、民権派新聞は、仁宗正統政権を擁護し陽鮮を斉から独立させることが東洋前途の平和に資するものであると説く一方で、半島の併呑は以前に陽鮮に対して開国を迫っていた帝政フランク、ヴィンランド合衆国の干渉を招き、これらの国々とも争わなければならない事態を招くとして、征鮮論を否定していた。

「宵姫様」

 自室で新聞記事の内容をまとめていると、廊下から済が声を掛けてきた。

「当家の忍の者が、姫様への接見を申し出ています。里見殿より推薦を受けた者です」

 なるほど、と宵は思った。

「判りました。お会いしましょう。通して下さい」

「いえ、当人は姫様のお部屋に上がり込むのは畏れ多いとのことで、庭におります」

 それを聞いた宵の印象は、随分と古風な価値観の人間なのだな、というものであった。忍が「御庭番」(忍が、当主居館の庭にいつも控えていたことからこの名が付いた)と呼ばれていた時代の気風を、今も受け継いでいるということか。
 立ち上がって、廊下に出る。
 その先の庭に、一人の少女が片膝をつく形で顔を伏せ、臣下の礼を取っていた。その装いは、どことなく冬花のまとっている着物を連想させた。どちらも、動きやすさを重視した意匠になっているのだ。
 似ているのは恐らく、忍の着物を冬花が呪術師用に作り直したからだろう。

「面を上げて、名を申しなさい」

「はっ、風間菖蒲と申します」

 ハキハキとした口調で答える菖蒲。意志の強そうな瞳が印象的だった。
 冬花を凜とした少女とするならば、こちらはいささか気の強そうな少女と評すべきか。
 表情と口調から、宵はそう観察する。

「風間というと、結城家に代々仕える忍の家系と記憶していますが?」

「はっ、私は風間家当主・卯太郎の娘にございます。これより、宵姫様外出の際の護衛として務めるよう、仰せつかって参りました」

 要するに、この少女も呪術の葛葉家と同じように、忍の技をもって主家に仕えている人間ということか。
 そんな少女を自分の側に付けようとするわけだから、これは葛葉家の冬花に対する当て付けという面もあるのだろう。
 忍は密偵としての役割の他に、要人護衛の任もある。
 現状では、景紀の護衛は専ら冬花が行っているわけで、風間家として面白からざる思いを抱いていたとしても不思議ではない。そうした風間家の意向と、里見善光の目論見が上手く合致した結果の人選ということだろうか。
 もっとも、宵は風間家当主・卯太郎なる人物の為人を知らない。安易な断定は危険だろう。
 ひとまずは、この少女の為人から確認していくべきだ。

「では、あなたの忠勤に期待させていただきます」

「はっ」

 そう言って、菖蒲は再び顔を伏せた。
 少なくとも、里見善光の遣わした監視役としての気配は微塵も感じさせなかった。もっとも、こんな小娘に内心を見破られるような人間に、忍など務まらないだろうが。
 さて、まずはどうやってこの少女の為人を確認すべきか。
 宵は忍の少女を見下ろしながら、そんなことを考えていた。
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