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第六章 極東動乱編
101 長距離列車の情景
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皇暦八三五年七月三十日。
陽鮮王国王都・帯城から帰国した景紀たちの姿は、皇都へ向かう長距離列車の車中にあった。
「結局、何だったんだろうな?」
車窓の窓枠に頬杖をつきながら、景紀はゆっくりと離れていく本州最西端の駅・響関駅の駅舎を眺めていた。視線はさらにその先、海を越えた陽鮮半島を幻視している。
「結果だけ見れば、皇国は陽鮮で外交的敗北を喫したわけだ。電信敷設交渉は政変によって立ち消え、交渉相手の仁宗国王は江蘭島に逃げ込んだ状態、李欽政権は斥邪討倭を叫んで外交交渉の余地はなし、斉軍は鴨緑江を越えて半島に侵入。ここから先は強引な介入を行わない限り、半島への皇国の影響力拡大なんて不可能だろうよ」
二日前の七月二十八日、皇国海軍第七戦隊旗艦・栗駒から海軍の給炭艦に移乗して南嶺最大の商港・遠崎港に帰還した景紀たちを待ち受けていたのは、斉と陽鮮の国境となっている河川・鴨緑江を越えて斉軍が半島に侵入を始めたという知らせであった。李欽・太上王派についた陽鮮北部の平安道首府・平寧の監司(陽鮮の地方長官)が斉軍を迎え入れたという情報もある。
しかし、景紀を始めとした軍事視察団(菊水隊)に対しては、兵部省より皇都への帰還命令が出されていたので、それ以上、半島情勢の動向についての情報を得ることなく皇都に向かわざるを得なかった。なお、深見真鋤館長や森田茂夫首席全権などは外務省から遠崎で待機するように命ぜられており、景紀たちとはそこで別れた。
恐らく、新たな訓令と共に仁宗政権との交渉を再開するつもりなのだろう。陽鮮の正統な王として仁宗を復位させることが出来れば、皇国は再び半島で影響力を発揮することが出来る。
その上、宗主国である斉に見捨てられた仁宗国王にとって、頼れる外国勢力は皇国程度しか残されていない。
深見館長や森田全権らにどのような訓令がもたらされるのかは判らないが、この情勢では対陽鮮外交は武力を背景としたものとならざるを得ないだろう。
一方、兵部省からの命令に従った景紀らは遠崎港から本州―南嶺連絡船の出る港まで移動、連絡船で本州に渡り、兵部省が切符を手配した皇都行きの長距離列車に乗ることとなったのである。
長距離列車とは要するに夜行列車であり、三十日午後三時半、響関駅発皇都中央駅行き列車は出発した。皇都到着まで、二〇時間弱。明日の昼過ぎには皇都に到着出来るだろう。
夏であるため、まだ太陽は空の高い位置にあった。
ちなみに、皇国官営鉄道の軌間は、鉄道発祥の地・アルビオン連合王国のそれを倣って四フィート八インチ半(一四三五ミリ)の標準軌を採用している(一部私鉄会社には、三フィート六インチ、つまり一〇六七ミリの狭軌を採用しているところもあるが)。
そのため、景紀、冬花、貴通、宵の四名に宛がわれた一等客車の個室は、それなりにゆったりとした造りになっていた。向かい合わせになった座席の間に、卓子まで設えられている。座席自体も、横になって寝るための寝台として用いることも出来た。
一方、若林先任曹長以下、下士官兵卒たちには、二等客車が割り当てられている。
なお、鉄之介と八重にも一等客車の個室が割り当てられていたが、二人は学士院が事前に兵部省経由で送り付けてきた夏期課題の消化に追われていた。
「つまりは、外交的敗北を軍事的勝利で補おうとしているのでしょう」
窓際に座る景紀の正面に座る貴通が、そう応じた。景紀の隣に宵、正面に貴通、その隣に冬花という位置で座っている。
「対斉開戦がいよいよ現実味を帯びてきたってわけか。そのためには、開戦の口実を得るためにあえて外交的敗北も辞さないってことだ」
「とはいえ、意外と情勢の変化が急激だったことは否めません」
「あとは、国内の動向がどうなっているのかが問題だな。やっぱり地方の新聞だと情報伝達に時間がかかる所為で、皇都の最新の情報がどうにも判らん」
匙を投げるような調子で景紀は息をつき、座席の背もたれに深く寄りかかった。一等車の座席だけあり、座り心地は快適だ。
卓子の上には、景紀が帰国してから買い集めてきた新聞が重なっていた。陽鮮で発生した政変について書かれてはいたが、景紀にとってはすでに終わってしまった古い情報ばかりであった(この当時は通信技術の関係上、全国紙は存在していない)。
東萊倭館への海軍陸戦隊二〇〇〇名の派兵も、すでに第七戦隊司令官から聞かされていた。今更、新聞を見ても驚かない。
「まあ、それは皇都に帰ってからにしましょう」
貴通は自分たちの思考に区切りを付けるように言った。
「どうせ、ここで僕らが云々したところでどうしようもないのですから」
「まあ、それもそうだな」
皇都に帰れば、恐らくまた頼朋翁から呼び出しを受けるだろう。その時に、六家の動向や政府内部の動きもある程度、伝えられるに違いない。
新聞に載っている不確かな情報を追いかけるよりは、そちらのほうが確実だろう。
そう思い、景紀は汽車が出発する前に響関の街で購入した筆記帳を取り出した。
「軍事視察団としての報告書は船の中で書き上げたからいいとして、今回の戦闘の戦訓についての上申書の草稿でも書くか」
「ああ、そうですね」貴通は頷いた。「確かに、陽鮮の軍備の実情を報告するだけではあまりに味気ないですし、いいかもしれませんね」
「むしろ、陽鮮軍についての視察報告よりも、俺たちの戦い方の方が今後の参考になる点が多い」
例えば、後装式銃の弾薬消費量、十分な火力を備えた防御陣地への正面突撃の愚、呪術師の使う爆裂術式の威力、呪術通信とその妨害への対処など、単なる邦人保護のための軍事行動にしては、戦訓の多い戦いであった。
「弾薬消費量と防御陣地への正面突撃については当然として、問題は呪術師の扱いですね」
貴通はちらりと隣に座る冬花を見た。
「軍でも呪術通信などのために術者を一定程度、養成してはいますが、流石に冬花さんのように爆裂術式を何発も撃てる術者はいないはずです。そういう高位術者は、だいたいが宮内省御霊部か将家が抑えていて、残りが内務省で呪詛などの呪術犯罪を取り締る部署に配属されていますから」
「ただし、冬花は呪術師の中ではずば抜けて高い霊力量を誇っている。あまり基準としてはあてにならないぞ」
自分の話題が出されている所為で、冬花は少しだけ居心地悪そうな表情をしていた。
「まあそうですが、爆裂術式は火砲で代替可能だからいいとして、やはり呪術通信の妨害は大きな課題ですよ。はっきり言って、爆裂術式よりもこちらの方が軍として厄介です。呪術通信を遮断されれば、部隊同士の連絡手段は伝令しか残されていないわけですから」
「とはいえ、呪術師の人的資源は限られている。将来的なことを考えたら、呪術師の養成に金をかけるよりも、研究が進んでいる無線電信技術の実用化に予算を投じた方がいいんじゃないのか? まあ、あれの研究に雷系統の術が使える術者が絡んでいるから、一概に呪術師を養成する予算を減らせとは言い切れないが」
「兵部省や逓信省とは別に、六家の方で研究助成金とか出しません?」
「まあ、皇都に帰ったら父上に相談だな」
とりあえず、思いついたことを景紀と貴通は筆記帳に書き付けていった。
呪術と科学、どちらが今後の戦争により必要となってくるのか、この時点では彼らもまだ明確な未来図を描くことは出来なかった。
夕食は、途中の停車駅で販売されていた駅弁を買って済ませた。
ご飯だけでなく、焼き魚、卵焼き、煮物の詰められた鮮やかな見た目の弁当は、汽車の中で食べたことも相俟って、普段の食事とは違った趣深さがあった。
夕食を食べ終わると、車窓の外は完全に暗くなっていた。
この時代、まだ皇国には寝台車というものが導入されていなかった(導入されている国家は、数年前に大陸横断鉄道を全通させた合衆国程度)ので、全員が椅子に座ったまま寝ることになる。
「……景紀様、肩をお借りしてもよろしいでしょうか?」
躊躇いがちに、宵が尋ねてきた。身長差のために必然的に上目遣いになってしまっているが、その瞳には少しだけ恥じらいの色があった。
景紀に対してだけでなく、対面に位置する貴通や冬花の目も気になってしまっているのだろう。
「ああ、いいよ」
だが、景紀の方は笑みと共に快諾した。彼の方には、恥じらう理由がない。
「好きなだけ甘えていいって約束したからな」
「……」
宵は衒いのない少年の態度に、照れたような恥じらうような赤い表情を浮かべて、そしてむきになったように体を景紀に押し付けた。
「……今夜は、私が景紀様を独り占めさせていただきます」
景紀の腕に額を押し付けながら、宵は小さく宣言した。
貴通と冬花は軽く苦笑を浮かべながら、後はお好きにとばかりに目を閉じて寝る姿勢に入った。
「……お休み、宵」
そう言うと、宵はもぞりと体を動かして寄りかかりやすい姿勢に変えた。
景紀は微笑ましそうな視線を自身に寄りかかる少女に向けながら、自らもまた瞼を落とした。
ゴトンと列車の揺れる音に誘われるように、四人は眠りについた。
◇◇◇
翌朝、列車は皇都まであと六時間程度の距離にまで進んでいた。
最初に目を覚ましたのは従者としての生活習慣が身に付いている冬花で、午前四時半頃には目を覚ましていた。景紀と貴通も、軍人としての習性もあって五時前には目を覚ましている。
三人とも、多少、座ったままの姿勢で寝た所為でいつもより早く目を覚ましていた。
宵は寝ている間に列車の揺れなどで倒れてしまったのか、あるいは無意識の内に寝やすい姿勢を取ろうとしたのか、景紀の膝を枕にして寝息を立てていた。
あえて起こすこともないので、景紀は宵の頭を膝に乗せたまま車窓の外の景色を眺めていた。
冬花と貴通は体の節々が固まっているような感覚があったので、宵姫を起こさないように通路に出て伸びをする。
ちょうど隣の個室にいた鉄之介と八重も起きたらしく、伸びをするときの呻きが聞こえてきた。
と、景紀の膝の上で宵の体がもぞりと動いた。
寝ぼけ眼で、景紀の顔を見上げてくる。
「おはよう、宵」
「……おはよう、ございます」
少し寝不足気味のぼんやりとした声で、宵は応じた。軍人である景紀と貴通、それに冬花も、ある程度どんな姿勢でも眠れる習性がついているが、彼女はそうではない。
夜中に何度か目を覚ましてしまったに違いない。
「あんまり眠れていなさそうだな。屋敷に帰ったら、ゆっくり休め」
宵はしばらく、景紀の膝に頭を預けたまま横になっていた。血の巡りがよくなって意識が完全に覚醒するまで、少し時間が必要なのだろう。
ただ、通路に出ていた貴通と冬花が戻ってくると、流石に恥ずかしかったのか、宵は起き上がった。とはいえ、その長い黒髪はだいぶ乱れてしまっている。
宵自身もそれは気になっているようで、櫛を取り出して自分の髪を梳こうとした。
「梳いてやろうか?」
「……お願いします」
景紀の言葉にわずかな逡巡を見せて、宵は自身の櫛を差し出した。気恥ずかしさよりも、景紀に甘えたいという気持ちの方が勝ったらしい。
「……」
「……」
冬花と貴通はそっと顔を見合わせて、また通路へと出ていった。
二人だけとなった空間で、景紀は宵の髪に櫛を通す。そのまま、優しく彼女の髪を梳いていく。
その妙に慣れた手付きに、きっとの冬花の髪も梳いたことがあるのだろうなと宵は直感したが、あえて口に出すような野暮なことはしない。例え以前、景紀が冬花の髪を梳いていたとしても、今この瞬間は自分がこの少年を独占出来ている。それで、満足だった。
さらさらと景紀の手が髪を撫でていく感覚に、宵はくすぐったいような面はゆいような気持ちになる。
母親にすら甘えることが出来なかった自分がこうして全力で景紀に甘えていることに、宵はどこか落ち着かない思いを抱いてもいた。
これでいいのだろうか、迷惑に思われていないだろうか。そんな思いが、満たされた心の中に一点の染みを作ってしまう。
「甘えていいって言ったのは、俺だからな」
少しだけ身を固くしてしまった宵の内心に気付いたのか、景紀は優しく語りかけてくれた。
「それに、我が儘になってもいいって言っただろ」
随分と懐かしい話だ。あれは自分と景紀が出逢って少し経った頃、初めての皇都見物に行く前日のことだったか。
よくよく考えれば、まだ一年と経っていないのだ。
だからまだどこか、自分の心の中に鷹前にいた頃の考え方が残ってしまっているのだろう。
「だから、甘えたいだけ甘えればいいさ」
「……はい」
嬉しさと恥ずかしさで、宵は少しだけ俯いてしまった。
それからしばらく、宵は景紀に自らの髪が梳かれていく感覚を堪能していた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あとがき
いつも拙作をお読みいただき、誠にありがとございます。
今話より、拙作「秋津皇国興亡記」第六章を開始いたします。
本章もまた、楽しんでいただければ幸いです。読者の皆様からの忌憚のないご意見・ご感想をお待ちしております。
また、ブックマーク、評価等も大変励みになりますので、よろしければお願いいたします。
さて、作中の時代設定は、もともとが府藩県三治制期に着想を得たものですので、おおむね十九世紀中頃から後半にかけてとなります。
国際情勢としては、アロー戦争(第二次アヘン戦争)から普仏戦争あたりのものを参考にしておりますが、そもそも第四章で少し触れました通り、史実世界のクリミア戦争がこれから起こりそうな情勢だったりしますので、国際政治の流れが完全に史実世界と軌を一にしているわけではありません。
その辺りは、今後の物語を展開させる上でのネタにしたいものをあえて残していたりします。
今後とも、拙作をよろしくお願いいたします。
第六章を執筆するにあたって新たに参考にした文献
日清戦争関係資料
井上一次・辻善之助監修『大日本戦史』第四巻(三教書院、一九三九年)
大江志乃夫『日露戦争の軍事史的研究』(岩波書店、一九七六年)
大谷正『日清戦争』(中央公論新社、二〇一四年)
奥村房夫監修・船木繁編『近代日本戦争史』第一巻(同台経済懇話会、一九九五年)
参謀本部編『明治二十七八年日清戦史』全八巻・別巻(東京印刷株式会社、一九〇四年~一九〇七年)
原田敬一『戦争の日本史19 日清戦争』(吉川弘文館、二〇〇八年)
その他軍事史関係資料
生田惇『日本陸軍史』(教育社、一九八〇年)
大江志乃夫『日本の参謀本部』(中央公論社、一九八五年)
金子常規『兵器と戦術の世界史』(中央公論新社、二〇一三年)
金子常規『兵器と戦術の日本史』(中央公論新社、二〇一四年)
森松俊夫『大本営』(教育社、一九八〇年)
陽鮮王国王都・帯城から帰国した景紀たちの姿は、皇都へ向かう長距離列車の車中にあった。
「結局、何だったんだろうな?」
車窓の窓枠に頬杖をつきながら、景紀はゆっくりと離れていく本州最西端の駅・響関駅の駅舎を眺めていた。視線はさらにその先、海を越えた陽鮮半島を幻視している。
「結果だけ見れば、皇国は陽鮮で外交的敗北を喫したわけだ。電信敷設交渉は政変によって立ち消え、交渉相手の仁宗国王は江蘭島に逃げ込んだ状態、李欽政権は斥邪討倭を叫んで外交交渉の余地はなし、斉軍は鴨緑江を越えて半島に侵入。ここから先は強引な介入を行わない限り、半島への皇国の影響力拡大なんて不可能だろうよ」
二日前の七月二十八日、皇国海軍第七戦隊旗艦・栗駒から海軍の給炭艦に移乗して南嶺最大の商港・遠崎港に帰還した景紀たちを待ち受けていたのは、斉と陽鮮の国境となっている河川・鴨緑江を越えて斉軍が半島に侵入を始めたという知らせであった。李欽・太上王派についた陽鮮北部の平安道首府・平寧の監司(陽鮮の地方長官)が斉軍を迎え入れたという情報もある。
しかし、景紀を始めとした軍事視察団(菊水隊)に対しては、兵部省より皇都への帰還命令が出されていたので、それ以上、半島情勢の動向についての情報を得ることなく皇都に向かわざるを得なかった。なお、深見真鋤館長や森田茂夫首席全権などは外務省から遠崎で待機するように命ぜられており、景紀たちとはそこで別れた。
恐らく、新たな訓令と共に仁宗政権との交渉を再開するつもりなのだろう。陽鮮の正統な王として仁宗を復位させることが出来れば、皇国は再び半島で影響力を発揮することが出来る。
その上、宗主国である斉に見捨てられた仁宗国王にとって、頼れる外国勢力は皇国程度しか残されていない。
深見館長や森田全権らにどのような訓令がもたらされるのかは判らないが、この情勢では対陽鮮外交は武力を背景としたものとならざるを得ないだろう。
一方、兵部省からの命令に従った景紀らは遠崎港から本州―南嶺連絡船の出る港まで移動、連絡船で本州に渡り、兵部省が切符を手配した皇都行きの長距離列車に乗ることとなったのである。
長距離列車とは要するに夜行列車であり、三十日午後三時半、響関駅発皇都中央駅行き列車は出発した。皇都到着まで、二〇時間弱。明日の昼過ぎには皇都に到着出来るだろう。
夏であるため、まだ太陽は空の高い位置にあった。
ちなみに、皇国官営鉄道の軌間は、鉄道発祥の地・アルビオン連合王国のそれを倣って四フィート八インチ半(一四三五ミリ)の標準軌を採用している(一部私鉄会社には、三フィート六インチ、つまり一〇六七ミリの狭軌を採用しているところもあるが)。
そのため、景紀、冬花、貴通、宵の四名に宛がわれた一等客車の個室は、それなりにゆったりとした造りになっていた。向かい合わせになった座席の間に、卓子まで設えられている。座席自体も、横になって寝るための寝台として用いることも出来た。
一方、若林先任曹長以下、下士官兵卒たちには、二等客車が割り当てられている。
なお、鉄之介と八重にも一等客車の個室が割り当てられていたが、二人は学士院が事前に兵部省経由で送り付けてきた夏期課題の消化に追われていた。
「つまりは、外交的敗北を軍事的勝利で補おうとしているのでしょう」
窓際に座る景紀の正面に座る貴通が、そう応じた。景紀の隣に宵、正面に貴通、その隣に冬花という位置で座っている。
「対斉開戦がいよいよ現実味を帯びてきたってわけか。そのためには、開戦の口実を得るためにあえて外交的敗北も辞さないってことだ」
「とはいえ、意外と情勢の変化が急激だったことは否めません」
「あとは、国内の動向がどうなっているのかが問題だな。やっぱり地方の新聞だと情報伝達に時間がかかる所為で、皇都の最新の情報がどうにも判らん」
匙を投げるような調子で景紀は息をつき、座席の背もたれに深く寄りかかった。一等車の座席だけあり、座り心地は快適だ。
卓子の上には、景紀が帰国してから買い集めてきた新聞が重なっていた。陽鮮で発生した政変について書かれてはいたが、景紀にとってはすでに終わってしまった古い情報ばかりであった(この当時は通信技術の関係上、全国紙は存在していない)。
東萊倭館への海軍陸戦隊二〇〇〇名の派兵も、すでに第七戦隊司令官から聞かされていた。今更、新聞を見ても驚かない。
「まあ、それは皇都に帰ってからにしましょう」
貴通は自分たちの思考に区切りを付けるように言った。
「どうせ、ここで僕らが云々したところでどうしようもないのですから」
「まあ、それもそうだな」
皇都に帰れば、恐らくまた頼朋翁から呼び出しを受けるだろう。その時に、六家の動向や政府内部の動きもある程度、伝えられるに違いない。
新聞に載っている不確かな情報を追いかけるよりは、そちらのほうが確実だろう。
そう思い、景紀は汽車が出発する前に響関の街で購入した筆記帳を取り出した。
「軍事視察団としての報告書は船の中で書き上げたからいいとして、今回の戦闘の戦訓についての上申書の草稿でも書くか」
「ああ、そうですね」貴通は頷いた。「確かに、陽鮮の軍備の実情を報告するだけではあまりに味気ないですし、いいかもしれませんね」
「むしろ、陽鮮軍についての視察報告よりも、俺たちの戦い方の方が今後の参考になる点が多い」
例えば、後装式銃の弾薬消費量、十分な火力を備えた防御陣地への正面突撃の愚、呪術師の使う爆裂術式の威力、呪術通信とその妨害への対処など、単なる邦人保護のための軍事行動にしては、戦訓の多い戦いであった。
「弾薬消費量と防御陣地への正面突撃については当然として、問題は呪術師の扱いですね」
貴通はちらりと隣に座る冬花を見た。
「軍でも呪術通信などのために術者を一定程度、養成してはいますが、流石に冬花さんのように爆裂術式を何発も撃てる術者はいないはずです。そういう高位術者は、だいたいが宮内省御霊部か将家が抑えていて、残りが内務省で呪詛などの呪術犯罪を取り締る部署に配属されていますから」
「ただし、冬花は呪術師の中ではずば抜けて高い霊力量を誇っている。あまり基準としてはあてにならないぞ」
自分の話題が出されている所為で、冬花は少しだけ居心地悪そうな表情をしていた。
「まあそうですが、爆裂術式は火砲で代替可能だからいいとして、やはり呪術通信の妨害は大きな課題ですよ。はっきり言って、爆裂術式よりもこちらの方が軍として厄介です。呪術通信を遮断されれば、部隊同士の連絡手段は伝令しか残されていないわけですから」
「とはいえ、呪術師の人的資源は限られている。将来的なことを考えたら、呪術師の養成に金をかけるよりも、研究が進んでいる無線電信技術の実用化に予算を投じた方がいいんじゃないのか? まあ、あれの研究に雷系統の術が使える術者が絡んでいるから、一概に呪術師を養成する予算を減らせとは言い切れないが」
「兵部省や逓信省とは別に、六家の方で研究助成金とか出しません?」
「まあ、皇都に帰ったら父上に相談だな」
とりあえず、思いついたことを景紀と貴通は筆記帳に書き付けていった。
呪術と科学、どちらが今後の戦争により必要となってくるのか、この時点では彼らもまだ明確な未来図を描くことは出来なかった。
夕食は、途中の停車駅で販売されていた駅弁を買って済ませた。
ご飯だけでなく、焼き魚、卵焼き、煮物の詰められた鮮やかな見た目の弁当は、汽車の中で食べたことも相俟って、普段の食事とは違った趣深さがあった。
夕食を食べ終わると、車窓の外は完全に暗くなっていた。
この時代、まだ皇国には寝台車というものが導入されていなかった(導入されている国家は、数年前に大陸横断鉄道を全通させた合衆国程度)ので、全員が椅子に座ったまま寝ることになる。
「……景紀様、肩をお借りしてもよろしいでしょうか?」
躊躇いがちに、宵が尋ねてきた。身長差のために必然的に上目遣いになってしまっているが、その瞳には少しだけ恥じらいの色があった。
景紀に対してだけでなく、対面に位置する貴通や冬花の目も気になってしまっているのだろう。
「ああ、いいよ」
だが、景紀の方は笑みと共に快諾した。彼の方には、恥じらう理由がない。
「好きなだけ甘えていいって約束したからな」
「……」
宵は衒いのない少年の態度に、照れたような恥じらうような赤い表情を浮かべて、そしてむきになったように体を景紀に押し付けた。
「……今夜は、私が景紀様を独り占めさせていただきます」
景紀の腕に額を押し付けながら、宵は小さく宣言した。
貴通と冬花は軽く苦笑を浮かべながら、後はお好きにとばかりに目を閉じて寝る姿勢に入った。
「……お休み、宵」
そう言うと、宵はもぞりと体を動かして寄りかかりやすい姿勢に変えた。
景紀は微笑ましそうな視線を自身に寄りかかる少女に向けながら、自らもまた瞼を落とした。
ゴトンと列車の揺れる音に誘われるように、四人は眠りについた。
◇◇◇
翌朝、列車は皇都まであと六時間程度の距離にまで進んでいた。
最初に目を覚ましたのは従者としての生活習慣が身に付いている冬花で、午前四時半頃には目を覚ましていた。景紀と貴通も、軍人としての習性もあって五時前には目を覚ましている。
三人とも、多少、座ったままの姿勢で寝た所為でいつもより早く目を覚ましていた。
宵は寝ている間に列車の揺れなどで倒れてしまったのか、あるいは無意識の内に寝やすい姿勢を取ろうとしたのか、景紀の膝を枕にして寝息を立てていた。
あえて起こすこともないので、景紀は宵の頭を膝に乗せたまま車窓の外の景色を眺めていた。
冬花と貴通は体の節々が固まっているような感覚があったので、宵姫を起こさないように通路に出て伸びをする。
ちょうど隣の個室にいた鉄之介と八重も起きたらしく、伸びをするときの呻きが聞こえてきた。
と、景紀の膝の上で宵の体がもぞりと動いた。
寝ぼけ眼で、景紀の顔を見上げてくる。
「おはよう、宵」
「……おはよう、ございます」
少し寝不足気味のぼんやりとした声で、宵は応じた。軍人である景紀と貴通、それに冬花も、ある程度どんな姿勢でも眠れる習性がついているが、彼女はそうではない。
夜中に何度か目を覚ましてしまったに違いない。
「あんまり眠れていなさそうだな。屋敷に帰ったら、ゆっくり休め」
宵はしばらく、景紀の膝に頭を預けたまま横になっていた。血の巡りがよくなって意識が完全に覚醒するまで、少し時間が必要なのだろう。
ただ、通路に出ていた貴通と冬花が戻ってくると、流石に恥ずかしかったのか、宵は起き上がった。とはいえ、その長い黒髪はだいぶ乱れてしまっている。
宵自身もそれは気になっているようで、櫛を取り出して自分の髪を梳こうとした。
「梳いてやろうか?」
「……お願いします」
景紀の言葉にわずかな逡巡を見せて、宵は自身の櫛を差し出した。気恥ずかしさよりも、景紀に甘えたいという気持ちの方が勝ったらしい。
「……」
「……」
冬花と貴通はそっと顔を見合わせて、また通路へと出ていった。
二人だけとなった空間で、景紀は宵の髪に櫛を通す。そのまま、優しく彼女の髪を梳いていく。
その妙に慣れた手付きに、きっとの冬花の髪も梳いたことがあるのだろうなと宵は直感したが、あえて口に出すような野暮なことはしない。例え以前、景紀が冬花の髪を梳いていたとしても、今この瞬間は自分がこの少年を独占出来ている。それで、満足だった。
さらさらと景紀の手が髪を撫でていく感覚に、宵はくすぐったいような面はゆいような気持ちになる。
母親にすら甘えることが出来なかった自分がこうして全力で景紀に甘えていることに、宵はどこか落ち着かない思いを抱いてもいた。
これでいいのだろうか、迷惑に思われていないだろうか。そんな思いが、満たされた心の中に一点の染みを作ってしまう。
「甘えていいって言ったのは、俺だからな」
少しだけ身を固くしてしまった宵の内心に気付いたのか、景紀は優しく語りかけてくれた。
「それに、我が儘になってもいいって言っただろ」
随分と懐かしい話だ。あれは自分と景紀が出逢って少し経った頃、初めての皇都見物に行く前日のことだったか。
よくよく考えれば、まだ一年と経っていないのだ。
だからまだどこか、自分の心の中に鷹前にいた頃の考え方が残ってしまっているのだろう。
「だから、甘えたいだけ甘えればいいさ」
「……はい」
嬉しさと恥ずかしさで、宵は少しだけ俯いてしまった。
それからしばらく、宵は景紀に自らの髪が梳かれていく感覚を堪能していた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あとがき
いつも拙作をお読みいただき、誠にありがとございます。
今話より、拙作「秋津皇国興亡記」第六章を開始いたします。
本章もまた、楽しんでいただければ幸いです。読者の皆様からの忌憚のないご意見・ご感想をお待ちしております。
また、ブックマーク、評価等も大変励みになりますので、よろしければお願いいたします。
さて、作中の時代設定は、もともとが府藩県三治制期に着想を得たものですので、おおむね十九世紀中頃から後半にかけてとなります。
国際情勢としては、アロー戦争(第二次アヘン戦争)から普仏戦争あたりのものを参考にしておりますが、そもそも第四章で少し触れました通り、史実世界のクリミア戦争がこれから起こりそうな情勢だったりしますので、国際政治の流れが完全に史実世界と軌を一にしているわけではありません。
その辺りは、今後の物語を展開させる上でのネタにしたいものをあえて残していたりします。
今後とも、拙作をよろしくお願いいたします。
第六章を執筆するにあたって新たに参考にした文献
日清戦争関係資料
井上一次・辻善之助監修『大日本戦史』第四巻(三教書院、一九三九年)
大江志乃夫『日露戦争の軍事史的研究』(岩波書店、一九七六年)
大谷正『日清戦争』(中央公論新社、二〇一四年)
奥村房夫監修・船木繁編『近代日本戦争史』第一巻(同台経済懇話会、一九九五年)
参謀本部編『明治二十七八年日清戦史』全八巻・別巻(東京印刷株式会社、一九〇四年~一九〇七年)
原田敬一『戦争の日本史19 日清戦争』(吉川弘文館、二〇〇八年)
その他軍事史関係資料
生田惇『日本陸軍史』(教育社、一九八〇年)
大江志乃夫『日本の参謀本部』(中央公論社、一九八五年)
金子常規『兵器と戦術の世界史』(中央公論新社、二〇一三年)
金子常規『兵器と戦術の日本史』(中央公論新社、二〇一四年)
森松俊夫『大本営』(教育社、一九八〇年)
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