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第五章 擾乱の半島編
92 安全保障問題としての半島
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七月二十五日。
皇都郊外の有馬家別邸に、珍しい客人が訪れていた。
「貴様の方から儂に接触してくるとは、意外であったぞ」
茶室でいつものように自らの点てた茶を客人に差し出しながら、有馬頼朋は言った。
「ええ、この度はお時間を割いていただいて、感謝しています」
少し微笑むような口調でそう言ったのは、娘袴を身に付けた少女であった。
「これは、誰の差し金か、長尾多喜子?」
「私自身の意思ですよ、頼朋翁」
女学生風の格好をした少女―――長尾多喜子は平然として答えた。
「一番上の兄上から、六家会議の様子は伺っています。景紀の所為で、だいぶ揉めているのだとか」
「陽鮮での騒擾を期に、あの若造を排除しようとする動きが随所で見られるものでな」
「まったく、景紀も方々から恨みを買っていますね」
くすりと、おかしそうに多喜子は微笑む。
「まあ、それが政を行う者の宿命でもある」当然とばかりに、頼朋翁は言う。「政を行えば、必ず支持する者、反発する者、両者が出てくる。敵のいない為政者などおるまい。そして、政敵に足下を掬われるのならば、それはその程度の者であったということだ」
「その割りに、翁は景紀を擁護する方向で世論を誘導出来るよう、新聞操縦に余念がないようですが」
恐れ知らずというべきか、多喜子の声にはこの六家長老をからかうような響きすらあった。
「何も政敵に一人で対峙せねばならぬという道理もあるまい」
一方、頼朋翁は若い娘の挑発的な口調に応じなかった。
「いざという時に自分の味方となってくれる者を予め作っておくこともまた、政を行う者に必要なことだ」
「まあ、そもそも最終的に景紀を陽鮮に送り込む決断をしたのは翁ですからね。例え、伊丹公や一色公が裏で動いていたとしても」
「なればこそ、結城の若造が手の回らん国内のことを、儂らが担当せねばならんのだ」
「しかし、我が父は氷州巡遊で不在、景忠公も六家会議で息子を積極的に擁護せず、むしろその側用人に至っては伊丹・一色両公の意見に同調し始める始末。貞朋公のお陰で何とか陽鮮問題への対処方針が議論されていますが、隙あらば景紀への個人攻撃が始まるようですね」
「だが、昨夜、状況が変わった」
「陽鮮国王が帯城倭館に逃げ込んできたという話ですね?」
多喜子の確認に、頼朋翁は鋭い視線で応じた。
「ふん、情報が早いな」
「我が長尾家も、それなりに情報網を持っていますから」
「いや、長尾家ではなく、貴様が、な」
「そりゃあ、幼馴染や女子学士院の同期生が関わっていることですから、知りたくもなりますよ」
「貴様は随分と、あの若造に未練があるようだな」
探るような視線を、老人は少女に向ける。
「景紀には未練はないようなのですが、私は未練ありまくりですよ」わざとらしく、多喜子は溜息をつく。「ええ、いっそ側室になってやろうか、むしろ景紀を陥れてやろうか、と考えるほどに」
「貴様の欲望は、相当に歪んでおるな」
不愉快そうに、頼朋翁は言う。
「愚鈍な殿方が多い所為ですね」だが、多喜子は悪びれずに、堂々とそう答えた。「ですから、愚鈍な人間どもに景紀が足を引っ張られるのを見ているのは我慢ならない。私は、彼の本気をまた見てみたいのです。子供の頃、囲碁や将棋、あるいは鬼ごっこやかくれんぼをして、他愛なく遊んでいた頃のように」
多喜子の声には、どこか稚気めいたものが含まれていた。過ぎ去ってしまった時を懐かしむような、どこか寂寥めいた感情もあった。
つまり、この少女は幼い頃のようにまた景紀と“遊びたい”というわけか。
頼朋翁はそう察した。きっとその“遊び”とは、囲碁や将棋、鬼ごっこやかくれんぼなどではなく、“政治”という遊びのことだろう。
あの若造、厄介な娘に目を付けられているようだ。
「なるほど、皇都にいない結城景紀を支援する体制を、儂と共に構築したいということか? 貴様のような小娘が?」
「ええ。これでも私、六家の姫ですから、取り入ろうとする人間は相応にいるんですよ。それに少し甘い言葉を囁いてやれば、手駒として利用出来るでしょう」
つまり、自分の夫になろうと目論む者たちから情報を搾り取るなり操るなり出来ると、言外に告げているのである。
「ふん、女とは恐ろしい生き物だな」
「それもまた、女の魅力ではありませんか?」
あくまでもにこやかに、多喜子は応じる。
頼朋翁は鋭い視線のまま、少女に自身の要望を告げた。
「儂が今欲しているのは、我が有馬家、貴様ら長尾家、そして若造の結城家の連携を維持することだ。憲隆公とあの若造が六家会議を抜けた途端、我ら三家の連携が崩れ始めた。憲隆公はルーシー帝国への警戒のために氷州に留まっていることは理解出来るが、景忠公が若造を積極的に擁護せぬことは理解に苦しむ。何やらあの家では公の回復以来、重臣と側用人を中心とする用人派閥が対立していると聞く。それが影響しているのやもしれぬが……」
それでも、結城景忠が積極的に指導力を発揮しようとしないことに、頼朋翁は不満を抱いていた。一度病に倒れた所為で、六家当主としての気力を失ってしまっているのか、あるいは息子である景紀と対立を抱えているのか、外部からではどうにも判らないところがあった。
景紀から預けられた忍の青年・朝比奈新八は、あくまで景紀個人が雇っている元牢人であり、彼を通して結城家中枢に働きかけることは出来ない。
どうも自分が結城景忠に出した書状は、すべて側用人・里見善光を仲介としているということまでは判明しているが、それ以上の情報は入ってこないのだ。
自身の息子・貞朋の正室を利用して、将家の妻同士の茶会に景忠の正室・久を呼んで探りを入れさせたこともあるが、やはり彼女も六家の正室らしく軽々しく自家中枢のことは口にしなかった。
「長尾家は別に家臣団の統制が揺らいでいるわけではありませんからね、父上や兄上たちに、翁の言葉を伝えておきましょう。……う~ん、宵姫さんがいれば私経由で上手く景忠公に翁の言葉を伝えられたかもしれませんが」
「若造らが帰国したら、その情報伝達路は構築すべきであろうな」
女には女の伝手がある。それを男が利用して悪い道理はない。頼朋翁は冷徹にそう判断した。
宵姫を景紀が陽鮮に同行させたことは、この六家長老にとって手駒として使えそうな存在を一つ、奪う行為でもあった。
しかし、それもやむを得ないことであると、頼朋翁自身、納得している。
この老人は、景紀が近しい者を大切にする性格であることを知っていた。だからあの若造が、自分が不在中に重臣と側用人の間で対立が激化するだろう結城家内に正室である宵を置いておきたくなかったことは理解出来る。
それに、宵姫が国内に残っていたところで、次期当主の正室といった程度では、しかも未だ後継者たる男児を生めていない状況では、それほど結城家内で指導力を発揮出来はしないことも理解していた。
むしろ、景紀を支持する重臣たちに担がれて、結城家内の混乱を助長しかねない危険性もあったろう。その意味では、陽鮮に宵を連れて行った景紀の判断を、頼朋翁は明確に否定する気にもなれなかった。
ただ、結城家との連絡役になってくれる適切な人間がいないことは困ったことであった。
帰国次第、多喜子と宵との間に情報伝達経路を構築させることは、今後のためにも必要であろう。緊迫しつつある極東情勢を考えれば、景紀がまた外地に赴く可能性は高いのだ。そうなった時、国内で家臣たちに指導力を発揮するのは当主の妻たる者の役目である(もっとも、景紀は未だ次期当主扱いでしかないが)
いずれにせよ、国内の対立勢力に対抗するためにも、有馬家と結城家、そして長尾家は家臣団も含めた全体的な協力が必要となってくる。対斉戦争が現実味を帯びつつある今、そうした協力体制の強化はより急務であった。
政府や議会への対策、国内世論の誘導、新聞操縦、さらには戦時体制への移行や軍の動員、物資の確保などは、当主同士だけの協力体制だけではとても対応しきれないのだ。統治制度に封建体制が色濃く残る、皇国の弊害であるといえた。
戦国時代に各大名が作り上げた領国のすべてを戦争に動員するための体制を、皇国という国家規模で構築しなければならないのだ。
やはり、中央集権体制でなければ、これからの時代を乗り切ることは出来ないだろう。
頼朋翁は、その思いを新たにした。
「……時に、翁は半島問題を如何お考えで?」
探るというよりも、単に興味本位で多喜子は訊いていた。
「私は、かの地域を皇国の領土として切り取るべきだとか言う理論には賛同出来ません。生蕃(原住民のこと)しか住んでいなかった大陸植民地ですら、安定させるためには数十年の歳月を要しました。ましてや、陽鮮は独自の国家を形成している地域。いかに北部に豊富な鉱物資源があるとはいえ、安定的な統治を行うのは至難の業でしょう」
「ふむ、大陸植民地を経営している、長尾家らしい意見だな。実際のところ、貴様の意見が正しいだろうが」
現状の皇国において、半島は国防上の弱点であった。
海に囲まれ、さらには泰平洋の島々や中央大陸氷州に広大な植民地を築き上げて本土に対する広大な緩衝地帯を有している皇国であったが、唯一、半島は皇国本土への侵入が容易な距離に存在している。実際、六〇〇年ほど前には半島を経由して大陸からの軍勢が皇国に来寇していた。
征鮮論という主張が出てくるのも、切り取った領地を我が物とするという武士的な発想の他に、こうした国防上の問題が深く関わっていた。
「我が国が半島に必要なのは、植民地ではなく緩衝地帯、つまりは軍事的な縦深だ」
半島を支配する勢力の政権が安定し、かつ皇国に敵対的な勢力でないのならば、あえて植民地にする必要はない。そして、安全保障という観点から見た半島問題は、皇国が氷州や沿海州を保持している限り、そこまで深刻なものではない。
例え半島に皇国に敵対的な勢力が出現したとしても、皇国本土と大陸植民地の南北から挟撃することが出来る。
そのため、現状ですら過度に半島情勢に介入する軍事的理由は小さいといえた。
しかし問題は、東アジア国際情勢における主導権をどの国が握るのか、という政治的な理由であった。そちらの意味では、皇国は半島での政情不安を見逃すことは出来なかった。
軍事、政治、経済は時に混ざり合い、時に競合し、時に背反しながら展開していく。
今回でいえば、政治的な理由が軍事的理由を上回ったといえるだろう。
「この状況下で国王が倭館に逃げ込んできたというのは、我が国が半島問題において主導権を発揮する好機を掴んだということだ。我々は仁宗国王を支援しつつ、連合王国と共に斉への出兵の時機を見定めねばならん」
景紀がいないために若い人間に政治の話をする機会に飢えていたのか、頼朋翁は饒舌であった。
そんな六家長老の言葉を聞きながら、多喜子は思った。
どうかこの私をがっかりさせないでくださいよ、景紀、と。
せっかく、こちらは国内で景紀を支えようとしているのだ。当の景紀が、陽鮮で失態を犯すようでは意味がない。
その程度の人間であれば、彼は自分の見込み違いだったということだ。だが、多喜子の胸の内には、そうはならないだろうという確信に近い思いがあった。
そして、景紀が武功を立てることは国内の政争を劇化させる要因となるだろう。
もっとも、そうでなければ自分としては張り合いがないのだが。
多喜子は胸の内で不穏な笑みを浮かべていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
帯城での武力衝突が発生して以降、六家会議と政府では居留民保護のための出兵計画が議論されていた。
まず、秋津海側に面した元峯倭館については六家会議では特に大きな議論を呼ぶことなく引き揚げが決定された。これを受けて兵部省は、海軍に対してただちに艦艇の派遣を命じている。
次いで、最大の倭館であり実質的な秋津人町を形成している東萊倭館に関しては、半島への影響力維持の観点から居留民の引き揚げは行わないこととされた。この決定には、引き揚げによって五〇〇名近い在陽鮮の秋津人が生活基盤を失うという事情も影響している。そして、東萊倭館の居留民保護のため海軍陸戦隊約二〇〇〇名の派遣が行われることとなった。
この派兵について、秋津皇国は居留民保護のための自衛上やむを得ない緊急措置であることを国際社会(この当時の国際社会とは、西洋列強を中心に構成されるものではあったが)に訴えるため、政府は皇都の各国大使館に声明文を送付している。また陽鮮の東萊府に対して、皇国は何ら領土的野心や長期駐屯の意思はなく、半島情勢が沈静化すればただちに撤退する旨を通知するよう、外務大臣の名で東萊倭館館長に命じていた。
皇国は帯城で発生した軍乱に対処するに当たり、可能な限り、出兵の正統性を確保しようとしていたのである。
こうした慎重な姿勢は、実は六家会議においても大きな対立が存在していなかった。
攘夷派である伊丹正信や一色公直は陽鮮出兵に関してアルビオン連合王国を始めとする西洋列強の干渉を受けることを警戒しており、一方の有馬貞朋(と、その背後にいる頼朋)も西洋列強との無用の軋轢を避けるために出兵の正統性に拘っていた。
このため東萊、元峯の二倭館に対する方針については、比較的、円滑に六家会議および政府内での協議は進められた。
一方で対立を生み出していたのは、帯城倭館に対する方針であった。
すでに領事官職務規則による海軍部隊の派遣は要請されているため、問題の焦点は陸戦隊の帯城進撃を許可するかどうかということにあった。
伊丹・一色両公は六家会議において、陽鮮の江蘭府との合意が形成された場合にのみ陸戦隊は上陸すべきであると主張して、帯城進撃以前に陸戦隊の上陸そのものに異議を唱えていた。その上で、帯城倭館に拠る軍事視察団は館員と使節団、そして陽鮮国王および王子、王女を保護しながら海岸へ脱出するよう命ずるべきであると主張した。
この主張は、一定程度、理のあるものであった。陸戦隊の上陸はそれだけで陽鮮側の過剰な反応を呼び起こしかねず、また陽鮮側の同意のない上陸は西洋列強に皇国の領土的野心を疑わせる結果となるというものである。
しかし二人の主張は、陽鮮側が上陸を許可するはずがないという前提に立っており、その意味では景紀に困難な脱出作戦を行わせて、その責任を問おうという意図が透けて見えるものであった。
一方、有馬貞朋は、軍艦外務令では現地国から許可を取ることはあくまで望ましいとされているだけであり、邦人保護のためには強行上陸もやむを得ないものであると主張していた。
なお、景紀を擁護することになるという理由で、結城景忠は会議で積極的な発言を行っていない。
結果として、景紀の存在が帯城倭館の邦人保護問題への対処方針策定を難しくしているといえた。
また、六家会議の様子が兵部省へと伝わったことで、別の問題も生じていた。
それは、海軍の六家、特に伊丹・一色両公への反発である。
陸戦隊はあくまでも海軍の部隊であり、そこに陸軍の軍閥でしかない六家が口を挟むのは海軍の統帥に対する重大な干渉であるとの反発が広がり始めたのだ。
皇都ではこのようにして、帯城倭館への対処方針を巡って幾重もの対立構造を生じさせていたのである。
そして、そうした状況を打開した要因は、やはり現地の情勢の変化であった。
皇都郊外の有馬家別邸に、珍しい客人が訪れていた。
「貴様の方から儂に接触してくるとは、意外であったぞ」
茶室でいつものように自らの点てた茶を客人に差し出しながら、有馬頼朋は言った。
「ええ、この度はお時間を割いていただいて、感謝しています」
少し微笑むような口調でそう言ったのは、娘袴を身に付けた少女であった。
「これは、誰の差し金か、長尾多喜子?」
「私自身の意思ですよ、頼朋翁」
女学生風の格好をした少女―――長尾多喜子は平然として答えた。
「一番上の兄上から、六家会議の様子は伺っています。景紀の所為で、だいぶ揉めているのだとか」
「陽鮮での騒擾を期に、あの若造を排除しようとする動きが随所で見られるものでな」
「まったく、景紀も方々から恨みを買っていますね」
くすりと、おかしそうに多喜子は微笑む。
「まあ、それが政を行う者の宿命でもある」当然とばかりに、頼朋翁は言う。「政を行えば、必ず支持する者、反発する者、両者が出てくる。敵のいない為政者などおるまい。そして、政敵に足下を掬われるのならば、それはその程度の者であったということだ」
「その割りに、翁は景紀を擁護する方向で世論を誘導出来るよう、新聞操縦に余念がないようですが」
恐れ知らずというべきか、多喜子の声にはこの六家長老をからかうような響きすらあった。
「何も政敵に一人で対峙せねばならぬという道理もあるまい」
一方、頼朋翁は若い娘の挑発的な口調に応じなかった。
「いざという時に自分の味方となってくれる者を予め作っておくこともまた、政を行う者に必要なことだ」
「まあ、そもそも最終的に景紀を陽鮮に送り込む決断をしたのは翁ですからね。例え、伊丹公や一色公が裏で動いていたとしても」
「なればこそ、結城の若造が手の回らん国内のことを、儂らが担当せねばならんのだ」
「しかし、我が父は氷州巡遊で不在、景忠公も六家会議で息子を積極的に擁護せず、むしろその側用人に至っては伊丹・一色両公の意見に同調し始める始末。貞朋公のお陰で何とか陽鮮問題への対処方針が議論されていますが、隙あらば景紀への個人攻撃が始まるようですね」
「だが、昨夜、状況が変わった」
「陽鮮国王が帯城倭館に逃げ込んできたという話ですね?」
多喜子の確認に、頼朋翁は鋭い視線で応じた。
「ふん、情報が早いな」
「我が長尾家も、それなりに情報網を持っていますから」
「いや、長尾家ではなく、貴様が、な」
「そりゃあ、幼馴染や女子学士院の同期生が関わっていることですから、知りたくもなりますよ」
「貴様は随分と、あの若造に未練があるようだな」
探るような視線を、老人は少女に向ける。
「景紀には未練はないようなのですが、私は未練ありまくりですよ」わざとらしく、多喜子は溜息をつく。「ええ、いっそ側室になってやろうか、むしろ景紀を陥れてやろうか、と考えるほどに」
「貴様の欲望は、相当に歪んでおるな」
不愉快そうに、頼朋翁は言う。
「愚鈍な殿方が多い所為ですね」だが、多喜子は悪びれずに、堂々とそう答えた。「ですから、愚鈍な人間どもに景紀が足を引っ張られるのを見ているのは我慢ならない。私は、彼の本気をまた見てみたいのです。子供の頃、囲碁や将棋、あるいは鬼ごっこやかくれんぼをして、他愛なく遊んでいた頃のように」
多喜子の声には、どこか稚気めいたものが含まれていた。過ぎ去ってしまった時を懐かしむような、どこか寂寥めいた感情もあった。
つまり、この少女は幼い頃のようにまた景紀と“遊びたい”というわけか。
頼朋翁はそう察した。きっとその“遊び”とは、囲碁や将棋、鬼ごっこやかくれんぼなどではなく、“政治”という遊びのことだろう。
あの若造、厄介な娘に目を付けられているようだ。
「なるほど、皇都にいない結城景紀を支援する体制を、儂と共に構築したいということか? 貴様のような小娘が?」
「ええ。これでも私、六家の姫ですから、取り入ろうとする人間は相応にいるんですよ。それに少し甘い言葉を囁いてやれば、手駒として利用出来るでしょう」
つまり、自分の夫になろうと目論む者たちから情報を搾り取るなり操るなり出来ると、言外に告げているのである。
「ふん、女とは恐ろしい生き物だな」
「それもまた、女の魅力ではありませんか?」
あくまでもにこやかに、多喜子は応じる。
頼朋翁は鋭い視線のまま、少女に自身の要望を告げた。
「儂が今欲しているのは、我が有馬家、貴様ら長尾家、そして若造の結城家の連携を維持することだ。憲隆公とあの若造が六家会議を抜けた途端、我ら三家の連携が崩れ始めた。憲隆公はルーシー帝国への警戒のために氷州に留まっていることは理解出来るが、景忠公が若造を積極的に擁護せぬことは理解に苦しむ。何やらあの家では公の回復以来、重臣と側用人を中心とする用人派閥が対立していると聞く。それが影響しているのやもしれぬが……」
それでも、結城景忠が積極的に指導力を発揮しようとしないことに、頼朋翁は不満を抱いていた。一度病に倒れた所為で、六家当主としての気力を失ってしまっているのか、あるいは息子である景紀と対立を抱えているのか、外部からではどうにも判らないところがあった。
景紀から預けられた忍の青年・朝比奈新八は、あくまで景紀個人が雇っている元牢人であり、彼を通して結城家中枢に働きかけることは出来ない。
どうも自分が結城景忠に出した書状は、すべて側用人・里見善光を仲介としているということまでは判明しているが、それ以上の情報は入ってこないのだ。
自身の息子・貞朋の正室を利用して、将家の妻同士の茶会に景忠の正室・久を呼んで探りを入れさせたこともあるが、やはり彼女も六家の正室らしく軽々しく自家中枢のことは口にしなかった。
「長尾家は別に家臣団の統制が揺らいでいるわけではありませんからね、父上や兄上たちに、翁の言葉を伝えておきましょう。……う~ん、宵姫さんがいれば私経由で上手く景忠公に翁の言葉を伝えられたかもしれませんが」
「若造らが帰国したら、その情報伝達路は構築すべきであろうな」
女には女の伝手がある。それを男が利用して悪い道理はない。頼朋翁は冷徹にそう判断した。
宵姫を景紀が陽鮮に同行させたことは、この六家長老にとって手駒として使えそうな存在を一つ、奪う行為でもあった。
しかし、それもやむを得ないことであると、頼朋翁自身、納得している。
この老人は、景紀が近しい者を大切にする性格であることを知っていた。だからあの若造が、自分が不在中に重臣と側用人の間で対立が激化するだろう結城家内に正室である宵を置いておきたくなかったことは理解出来る。
それに、宵姫が国内に残っていたところで、次期当主の正室といった程度では、しかも未だ後継者たる男児を生めていない状況では、それほど結城家内で指導力を発揮出来はしないことも理解していた。
むしろ、景紀を支持する重臣たちに担がれて、結城家内の混乱を助長しかねない危険性もあったろう。その意味では、陽鮮に宵を連れて行った景紀の判断を、頼朋翁は明確に否定する気にもなれなかった。
ただ、結城家との連絡役になってくれる適切な人間がいないことは困ったことであった。
帰国次第、多喜子と宵との間に情報伝達経路を構築させることは、今後のためにも必要であろう。緊迫しつつある極東情勢を考えれば、景紀がまた外地に赴く可能性は高いのだ。そうなった時、国内で家臣たちに指導力を発揮するのは当主の妻たる者の役目である(もっとも、景紀は未だ次期当主扱いでしかないが)
いずれにせよ、国内の対立勢力に対抗するためにも、有馬家と結城家、そして長尾家は家臣団も含めた全体的な協力が必要となってくる。対斉戦争が現実味を帯びつつある今、そうした協力体制の強化はより急務であった。
政府や議会への対策、国内世論の誘導、新聞操縦、さらには戦時体制への移行や軍の動員、物資の確保などは、当主同士だけの協力体制だけではとても対応しきれないのだ。統治制度に封建体制が色濃く残る、皇国の弊害であるといえた。
戦国時代に各大名が作り上げた領国のすべてを戦争に動員するための体制を、皇国という国家規模で構築しなければならないのだ。
やはり、中央集権体制でなければ、これからの時代を乗り切ることは出来ないだろう。
頼朋翁は、その思いを新たにした。
「……時に、翁は半島問題を如何お考えで?」
探るというよりも、単に興味本位で多喜子は訊いていた。
「私は、かの地域を皇国の領土として切り取るべきだとか言う理論には賛同出来ません。生蕃(原住民のこと)しか住んでいなかった大陸植民地ですら、安定させるためには数十年の歳月を要しました。ましてや、陽鮮は独自の国家を形成している地域。いかに北部に豊富な鉱物資源があるとはいえ、安定的な統治を行うのは至難の業でしょう」
「ふむ、大陸植民地を経営している、長尾家らしい意見だな。実際のところ、貴様の意見が正しいだろうが」
現状の皇国において、半島は国防上の弱点であった。
海に囲まれ、さらには泰平洋の島々や中央大陸氷州に広大な植民地を築き上げて本土に対する広大な緩衝地帯を有している皇国であったが、唯一、半島は皇国本土への侵入が容易な距離に存在している。実際、六〇〇年ほど前には半島を経由して大陸からの軍勢が皇国に来寇していた。
征鮮論という主張が出てくるのも、切り取った領地を我が物とするという武士的な発想の他に、こうした国防上の問題が深く関わっていた。
「我が国が半島に必要なのは、植民地ではなく緩衝地帯、つまりは軍事的な縦深だ」
半島を支配する勢力の政権が安定し、かつ皇国に敵対的な勢力でないのならば、あえて植民地にする必要はない。そして、安全保障という観点から見た半島問題は、皇国が氷州や沿海州を保持している限り、そこまで深刻なものではない。
例え半島に皇国に敵対的な勢力が出現したとしても、皇国本土と大陸植民地の南北から挟撃することが出来る。
そのため、現状ですら過度に半島情勢に介入する軍事的理由は小さいといえた。
しかし問題は、東アジア国際情勢における主導権をどの国が握るのか、という政治的な理由であった。そちらの意味では、皇国は半島での政情不安を見逃すことは出来なかった。
軍事、政治、経済は時に混ざり合い、時に競合し、時に背反しながら展開していく。
今回でいえば、政治的な理由が軍事的理由を上回ったといえるだろう。
「この状況下で国王が倭館に逃げ込んできたというのは、我が国が半島問題において主導権を発揮する好機を掴んだということだ。我々は仁宗国王を支援しつつ、連合王国と共に斉への出兵の時機を見定めねばならん」
景紀がいないために若い人間に政治の話をする機会に飢えていたのか、頼朋翁は饒舌であった。
そんな六家長老の言葉を聞きながら、多喜子は思った。
どうかこの私をがっかりさせないでくださいよ、景紀、と。
せっかく、こちらは国内で景紀を支えようとしているのだ。当の景紀が、陽鮮で失態を犯すようでは意味がない。
その程度の人間であれば、彼は自分の見込み違いだったということだ。だが、多喜子の胸の内には、そうはならないだろうという確信に近い思いがあった。
そして、景紀が武功を立てることは国内の政争を劇化させる要因となるだろう。
もっとも、そうでなければ自分としては張り合いがないのだが。
多喜子は胸の内で不穏な笑みを浮かべていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
帯城での武力衝突が発生して以降、六家会議と政府では居留民保護のための出兵計画が議論されていた。
まず、秋津海側に面した元峯倭館については六家会議では特に大きな議論を呼ぶことなく引き揚げが決定された。これを受けて兵部省は、海軍に対してただちに艦艇の派遣を命じている。
次いで、最大の倭館であり実質的な秋津人町を形成している東萊倭館に関しては、半島への影響力維持の観点から居留民の引き揚げは行わないこととされた。この決定には、引き揚げによって五〇〇名近い在陽鮮の秋津人が生活基盤を失うという事情も影響している。そして、東萊倭館の居留民保護のため海軍陸戦隊約二〇〇〇名の派遣が行われることとなった。
この派兵について、秋津皇国は居留民保護のための自衛上やむを得ない緊急措置であることを国際社会(この当時の国際社会とは、西洋列強を中心に構成されるものではあったが)に訴えるため、政府は皇都の各国大使館に声明文を送付している。また陽鮮の東萊府に対して、皇国は何ら領土的野心や長期駐屯の意思はなく、半島情勢が沈静化すればただちに撤退する旨を通知するよう、外務大臣の名で東萊倭館館長に命じていた。
皇国は帯城で発生した軍乱に対処するに当たり、可能な限り、出兵の正統性を確保しようとしていたのである。
こうした慎重な姿勢は、実は六家会議においても大きな対立が存在していなかった。
攘夷派である伊丹正信や一色公直は陽鮮出兵に関してアルビオン連合王国を始めとする西洋列強の干渉を受けることを警戒しており、一方の有馬貞朋(と、その背後にいる頼朋)も西洋列強との無用の軋轢を避けるために出兵の正統性に拘っていた。
このため東萊、元峯の二倭館に対する方針については、比較的、円滑に六家会議および政府内での協議は進められた。
一方で対立を生み出していたのは、帯城倭館に対する方針であった。
すでに領事官職務規則による海軍部隊の派遣は要請されているため、問題の焦点は陸戦隊の帯城進撃を許可するかどうかということにあった。
伊丹・一色両公は六家会議において、陽鮮の江蘭府との合意が形成された場合にのみ陸戦隊は上陸すべきであると主張して、帯城進撃以前に陸戦隊の上陸そのものに異議を唱えていた。その上で、帯城倭館に拠る軍事視察団は館員と使節団、そして陽鮮国王および王子、王女を保護しながら海岸へ脱出するよう命ずるべきであると主張した。
この主張は、一定程度、理のあるものであった。陸戦隊の上陸はそれだけで陽鮮側の過剰な反応を呼び起こしかねず、また陽鮮側の同意のない上陸は西洋列強に皇国の領土的野心を疑わせる結果となるというものである。
しかし二人の主張は、陽鮮側が上陸を許可するはずがないという前提に立っており、その意味では景紀に困難な脱出作戦を行わせて、その責任を問おうという意図が透けて見えるものであった。
一方、有馬貞朋は、軍艦外務令では現地国から許可を取ることはあくまで望ましいとされているだけであり、邦人保護のためには強行上陸もやむを得ないものであると主張していた。
なお、景紀を擁護することになるという理由で、結城景忠は会議で積極的な発言を行っていない。
結果として、景紀の存在が帯城倭館の邦人保護問題への対処方針策定を難しくしているといえた。
また、六家会議の様子が兵部省へと伝わったことで、別の問題も生じていた。
それは、海軍の六家、特に伊丹・一色両公への反発である。
陸戦隊はあくまでも海軍の部隊であり、そこに陸軍の軍閥でしかない六家が口を挟むのは海軍の統帥に対する重大な干渉であるとの反発が広がり始めたのだ。
皇都ではこのようにして、帯城倭館への対処方針を巡って幾重もの対立構造を生じさせていたのである。
そして、そうした状況を打開した要因は、やはり現地の情勢の変化であった。
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