秋津皇国興亡記

三笠 陣

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第五章 擾乱の半島編

87 自衛行動

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『殿下、お気を付け下さい』

『分かっておる』

 倭館正門の屋根に梯子をかけて、貞英はそこに上ろうとしていた。顔が屋根の上に出た途端、十二歳の公主は思わず息を呑んだ。
 そこにいるのは、暴力的な熱気を放つ無数の人々であった。
 貞英は陽鮮人であるが故に、彼らの夷狄と役人への怨嗟の声が判ってしまう。
 苦労して正門の屋根へとよじ登り、滑落しないように上手く体の均衡を取ろうとする。

『ぅぁ……』

 高台の下を埋め尽くす群衆に気圧されたように、貞英の喉から小さな呻きが漏れた。
 屋根から見えるのは、槍や剣、火縄銃、弓、弩で武装した兵卒たちに、鋤や鍬、鎌など農具らしきもので武装した農民や下層の民衆たちであった。
 身分によって服の色が違う陽鮮らしく、無数の階級の者たちによって構成された集団は実に色とりどりであった。しかし、鮮やかな印象は受けない。誰も彼もが薄汚れた服を着ており、色とりどりとはいえどこか暗い印象を与えているからであった。
 いきなり正門の屋根に上がった緑色の唐衣姿の少女に驚いたのか、群衆の怒声が少しだけ小さくなる。

『……わ、妾は!』

 意を決して、貞英は叫ぶ。

『陽鮮公主・貞英である! この館におるのは、陽鮮王家の客人であるぞ! そなたらが礼節を重んずる真なる陽鮮臣民であるのならば、ただちに武器を置いて立ち去るのじゃ!』

 だが、立ち去ろうとする者は一人もいない。

『客人に武器を向けるのが陽鮮の礼儀だとでも、そなたらは言うのか! 武器を置いて立ち去れば、悪いようにはせぬ! 陽鮮公主たる妾の名において、約束する!』

 そのように数度、貞英は城壁の外を覆う群衆に呼びかけた。
 彼らの間に互いに顔を見合わせている者があることに、貞英は気付いていた。そのことに、彼女は一縷の望みを賭けようと、再度、口を開こうとした。
 だが、不意に視界の隅に黒いものが映った。

『―――っ!』

 石だ、と直感して貞英は身を固めてしまう。

「冬花」

「はっ」

 溜息の混じった声。そして、それに応える凜とした声。
 すとん、と公主たる少女の隣に白く艶やかな髪が舞う。
 空気を裂く音を引き摺りながら飛んできた礫が、不可視の壁に当たってはじき返された。

『そなたら……』

 いつの間にか、冬花とは反対側に景紀が立っている。

「あそこまで集まったら、例え理性を取り戻して抜け出そうとする奴がいても、周囲が許しませんよ」

 淡々と、景紀は言った。
 最初に飛んできた石に続き、次から次へと群衆は正門の上の貞英に向けて投石を始める。

『倭奴は殺せ!』

『夷狄に阿る公主も殺せ!』

『陽鮮王国万歳!』

 最初の投石に触発されたのか、群衆の怨嗟は公主たる貞英へと波及した。冬花の結界が、霰となって降り注ぐ石を阻んでいる。

「あなたが幼い頃から国民に愛されていたのならともかく、名前だけを朧気に聞いたことのあるお偉いさんが出てきたって、ああいう集団を動かすことなんて出来ません」

「……」

 その割り切った少年の言葉に、貞英は押し黙ってしまう。

「さっ、もう気は済んだでしょう? とっとと降りますよ」

 そう言うと、景紀はひょいと貞英を持ち上げた。軍隊で負傷者を担ぐのと同じように、少女の体を肩に担ぐ。

『うわっ!? 何をする、この無礼者!』

 突然のことに、思わず貞英は喚いてしまう。

「生憎、俺は陽鮮語が判らないんでね」

 片手で少女の足を抱えて、景紀は素早く梯子を降りた。
 すとん、と貞英を地面に下ろす。

「結城殿、ご迷惑をお掛けします」

 すまなそうに、正門の下で控えていた金光護が言う。

「とりあえず、このガキのお守りは頼みますよ」

 そう言って景紀は、貞英を金の方に突き出すようにその背中を押した。

  ◇◇◇

 すでに投石という形で倭館への攻撃が始まっていたこともあり、貴通と若林は指揮所から正門内陣地のところへと駆けてきた。

「中佐殿、如何なさいますか」

「まだ発砲は許可しない」景紀はあっさりとしていた。「投石程度で発砲しては、自衛行動とはいえない。それに、冬花たちの結界のお陰で石は全部弾かれているからな」

「まあ、それもそうですな」

「それに、砲撃だの銃撃だのに比べたら、あんなのは可愛いものだろう?」

 景紀の声は、諧謔に満ちていた。

「確かに、砲煙弾雨の下を潜り抜けてきた我が皇国陸軍が投石如きに怯えるとは、末代までの笑いものですな。ここは泰然としているとしましょう」

 若林曹長の方も、にやりとして応じる。

「中佐殿!」

 その時、積み上げた土嚢に乗って塀の外を監視していた兵の一人が声を上げた。

「連中、陽鮮兵の詰め所に放火したようです! それに、多数の群衆が正門前の坂を上り始めています!」

 倭館を外側から警備する陽鮮兵のために設けられた詰め所が、敷地に隣接していた。すでに無人となっているそこに、凶徒は火を掛けたのだろう。そして、坂を上り始めたということは、いよいよこの倭館を襲撃しようとしているということだ。

「冬花」

「問題ないわ。結界に阻まれて、こっちまで延焼するってことはないから」

「判った。……引き続き、見張りを続けろ!」

「了解であります!」

 いよいよ情勢は逼迫してきたな、と景紀は思う。とはいえ、外にいる連中を自国の王女の言葉にすら耳を貸さない凶徒という形に(秋津皇国の主観として)貶めることには成功した。彼らを撃つ一つ目の大義名分は得た。
 問題は、人数の差だろう。
 四〇名弱の軍事視察団改め“菊水隊”、外務省警察を加えても五〇人弱に過ぎない。これで数千の凶徒を相手にしなければならないのだ。
 先日の様に冬花の結界が破られれば、自分たちは容易く蹂躙されるだろう。

「穂積少佐」

「はっ!」

 景紀に呼びかけられて、貴通はピンと背筋を伸す。

「貴官は若林曹長と共に指揮所に詰めていろ。俺は外で指揮を執る。若林曹長、一番隊は司令部付きの予備隊とする。穂積少佐の指揮下に入れ。俺は残りを連れていく」

「了解いたしました」

 この状況で、予備隊として一隊十一名(若林曹長と十名の兵士)も引き抜くことについては、指揮官によって議論が分かれるところだろう。しかし、例え少人数でも予備隊がいるということは、兵にとって安心材料になる。
 二人は景紀の命を受けて、その場から駆け出していった。
 それを見届けて、景紀は体の向きを正門の方へと向ける。そして、ゆっくりと来た方向へと戻り出した。

「……?」

 主君の傍らに控えている陰陽師の少女は、不意に歌声を聞いた。それが景紀の口から紡がれていることを脳が理解するまで、少しの間を要した。
 少年の歌声は、快活そうな響きを乗せながら徐々に大きくなっていく。
 それは、軍歌だった。
 十数年前に発生した将家の反乱に際して活躍した、挺身斬込隊を讃える歌だった。官軍として敵の陣地へ抜刀突撃をかける兵士たちの心を歌詞に託した歌声が、朗々と響く。
 そして、冬花の主君の歌声は周囲で正門の守備についていた兵士たちに容易に伝播した。
 倭館の外から鳴り響く罵声に対抗するように、軍歌の大合唱が始まった。
 これが六家次期当主のあるべき姿なのかしら、と冬花はそんな少年のシキガミであることに少しだけ誇らしい気持ちになった。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 皇都にある華族会館の会議室は、いささか緊張感のある雰囲気に包まれていた。
 今この場には、六家の者たちが集まっていたのである。

「現状、帯城の状況はどうなっているのです?」

 氷州の視察に出ている父・長尾憲隆に代わり、六家会議に出席しているのはその長子である憲実のりざねであった。

「王太子が簒奪を行ったことまでは判明しているが、そこまでだ」有馬貞朋が答えた。「こちらの対応としては、海軍が帯城倭館からの要請に基づき救援部隊を出動させているといった程度だ。国王の安否も確認出来ていない」

「いったい、景紀殿は何をぐずぐずしているのだ?」

 険しい声でそう言ったのは、伊丹信正であった。

「兵部省は国王の安否確認と救出の命令を出したのであろう? 今になっても国王の安否確認も出来ぬとは、職務怠慢どころか明確な軍令違反ではないか」

「可能なれば、という命令だ。五〇名に満たぬ兵力では如何ともし難い事情もあろう」

 貞朋はそう言って、景紀を擁護する。
 本来であれば、兵部省からの命令は倭館の防衛だけであった。それが、相矛盾する仁宗国王の安否確認と救出が命令に加えられたのは、伊丹、一色両公の強引な要請による。
 相矛盾する命令を出すことで、今の伊丹公の発言にあるように景紀を政治的に攻撃することが目的だったのだろう。
 もちろん、極めて常識的・現実主義的な兵部大臣・坂東友三郎は六家の意向を汲み取りつつも、現地独自の判断が行えるように命令文に「可能ナレハ」の一言を付け加えることを忘れなかった。そして実際、景紀からはその余力なしとの答えが返ってきている。
 職務怠慢も軍令違反も、批判としては当たらない。

「断じて行えば鬼神も之を避く、と言うではありませんか。結城従五位殿は軍人としての敢闘精神に欠けているといわざるを得ません」

 だが、景紀を敵視する一色公直もまた、伊丹正信と同じような批判を行う。

「果たしてそのような人物が、六家の次期当主として相応しいと言えるのでしょうか?」

 一色が顔を向けたのは、景紀の父にして結城家現当主の景忠であった。

「この場で私が何を言おうとも、愚息を擁護しているようにしかならんだろう。相応しいか相応しくないかは、その実績を見て考えれば良いことだ。その意味では、愚息がどのように今回の事変に対応しようとしているのか、父親として見定めたく思っている」

 少し迷惑そうに、景忠は答えた。
 実際問題、貞朋も同様であった。陽鮮問題について話し合うための六家会議が、景紀批判と擁護の繰り返しになってしまっている。
 景紀殿がいた頃は良かったな、と貞朋は愚痴にも似た思いを抱いてしまう。少なくとも、景紀は六家会議で主導権を握ることに拘っていた。
 それが今や、有馬、結城、長尾の三家の協力体制の中で、自分が主導権を握りに行かねばならない状況に陥っている。
 長尾憲実はあくまで氷州視察中の父の代理ということで、実質的に当主としての権限を持っていた景紀と違い、会議の様子を父・憲隆に報告するためだけに出席していると言っていい。結城景忠は息子に関することでもあり、下手に身内贔屓と取られないように慎重な発言に終始している。
 あまりこの二人をあてには出来なかった。

「問題は、陽鮮の王都での騒擾に対して我が国としての立場を明確にすることでは?」

 いささかずれ始めている会議の主題を、元に戻すように貞朋は言う。

「そのためにも、国王の安否確認は必要なのであろうが!」

「我が国はすでに武力による簒奪を批難する声明を発表しています。まずはそれで十分では?」

 伊丹の威圧的な声に、貞朋は冷静に応じる。このような相手など、父・頼朋を相手にしているほどの厄介さは感じない。

「それよりも懸念すべきは、斉とアルビオン連合王国の動向です。斉に対する連合王国からの共同出兵提案、これを実行する時機を見定めなければなりません」

「そもそも、連合王国の提案に乗る必要があるのですかな?」一色公直が疑問を呈する。「かの国はアヘン戦争を起こした国家。そのような国と手を結ぶなど、皇国の威信を穢すようなものでは?」

「然り。我らは我らで、東亜に新たな国際秩序を打ち立てる必要がある。そこに連合王国を参入させることは出来ぬ」

「ことは東亜情勢だけでなく、ルーシー帝国やマフムート帝国も含めた中央大陸全体の問題です。それに、連合王国は我が国最大の貿易相手国。東洋市場への参入を無理に阻止しようとすれば、それこそ両公が常々懸念しておられる、皇国がアヘン戦争に敗れた斉の二の舞になるのでは? 連合王国はあくまで東洋での市場の拡大を欲しているのですから、東亜新秩序にかの国を加えることに何の問題もないでしょう。むしろ、東亜と連合王国とを含めた巨大な経済圏が出来、我が国運を発展させることが可能になるでしょうな」

「金のために道義に悖ることをやると?」伊丹が貞朋を睨む。「貴殿の皇国武士道精神はどこへいったのだ?」

「皇主陛下を仰ぎ奉り、国運を隆盛させることこそ、皇室第一の藩屏たる我ら六家の役目では?」

 貞朋は即座に反論する。
 どうもこのままでは堂々巡りだな、と彼は思い始めていた。昨年の予算問題の際は景紀が上手く妥協の道筋を付けてくれたが、今回は自分がやる必要があるのか……。そんな辟易とした思いまで抱いてしまう。
 父の操り人形であることも、存外、楽なものではないのだ。
 これは、陽鮮の情勢がまた大きく変化するのを待つしかないだろう。





 ある意味で、安全な場所にいるが故の有馬貞朋のそうした呑気な願いは、この少し後に陽鮮にて叶えられることになった。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 罵声と怨嗟の声を倭館に向けて放っていた陽鮮の蜂起軍民たちは、やがて決壊したように高台の倭館へと続く道を上り始めた。そして、正門を破ろうと喊声を上げる。

「正門も結界を張ってあるな?」

「当然よ」

 景紀と冬花は、正門脇の塀から顔を出して状況の把握に努めていた。

「門が破られたとしても、結界に阻まれて侵入は難しいはずよ。それに、八重さんが外部から不用意に結界に触れると感電するように、電撃を流す術式を組み込んでくれたから」

「そいつは何とも物騒な結界だな」

 楽しげに、景紀は笑った。多少の本心は混じっているが、かなりの部分が演技である。多数の乱賊に囲まれても笑っていられる指揮官を、あえて演じているのだ。
 巨大な木槌を持った凶徒たちが、ついに正門を破壊しようとそれを打ち付ける。恐らく、帯城での打ち壊しでも、同様の光景が見られたことだろう。

「とりあえず、警告を発するか。冬花、呪術による録画と録音を」

 景紀は、塀の上によじ登った。倭館の通訳官や、金光護に教えてもらった陽鮮語の警告を叫ぶ。

『陽鮮臣民諸君に告げます! ここは陽鮮国王陛下より認められた秋津皇国の商館です! 不法侵入は陽鮮の法により罰せられ、また諸君が武器を持って当館に侵入するというのならば、我々は館員の安全を図るため実力を以て排除せざるを得なくなります! 両国友好の志を持つ者は、ただちに武器を置いてこの場を離れなさい!』

 そのような言葉を、景紀は三度繰り返した。
 もちろん、貞英に言ったようにこれで凶徒が大人しくなるとは思っていない。あくまでも、武力行使をするための正統性を確保するための警告である。
 それに、自分の陽鮮語の発音に大して自信があるわけでもない。
 不意に、群衆の中から火縄銃を持つ者たちが前に出てきた。
 塀の上に立つ景紀に狙いを定めている。

「景紀!」

 冬花の警告の声が飛ぶが、景紀はなおも警告の言葉を発し続けた。
 銃口から閃光と白煙、一瞬の差で銃声が届く。
 景紀の体が塀の上から落ち、地面に叩き付けられる直前で冬花が受け止めた。

「無茶しないでって言ったじゃない!」

 怒っているような、悲鳴のような、そんな声でシキガミの少女は叫んだ。

「ははっ、結界が張ってあるんだから大丈夫だろ」

「そういう問題じゃないでしょ!」

 冬花の腕の中に収まっている景紀は、当然ながら傷一つない。だがそれでも、シキガミの少女は主君の無茶を諫めずにいられなかったのだ。
 景紀は地面に下ろされて、立ち上がった。
 気付けば、正門守備兵たちがにやついた顔で二人を見ていた。景紀はにやりと笑みを返し、一方の冬花は顔を赤らめて咳払いをする。

「さて、第一撃は向こうから放ってきた。それで間違いないな?」

 冬花も含め、正門の守備についている兵士たち全員を見回して、景紀は確認する。

「ええ、間違いないわ。水晶球にもそれは記録されているわ」

 代表して、冬花が答えた。周囲の目があるのに景紀に対する敬語を使っていないのは、今の出来事でもう色々と諦めたからだろう。

「つまり現時刻を以て、彼らは皇軍に敵対的な勢力であると認められるわけだ」

 明快な、あらゆる迷いを捨て去った声だった。ある意味で、悪魔的ともいえる声でもあった。

「これより我が菊水隊は、倭館防衛のための自衛行動へと移行する! 総員反撃せよ、反撃せよ! 皇国に仇なす者たちを殲滅するのだ!」

 正門守備兵は、即座に塀に取り付いた。予め積まれていた土嚢や机などの足場を利用して高い塀から三十年式歩兵銃を突き出す。
 瞬間、無数の発砲音が鳴り響いた。
 それは、両国の軍事衝突を告げる、第一声となった。
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