秋津皇国興亡記

三笠 陣

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第四章 半島の暗雲編

80 放たれた刺客

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 行燈の光に照らされた部屋に突然、複数の黒い影が現れた瞬間、「ひっ」という怯えたような貞英の短い悲鳴が響いた。

「なによ、あんたたち」

 襖を破った侵入者たちに対する、龍王の血を引く少女の剣呑な問い。敷地に張られた結界だけでなく、冬花がせっかく組んでくれた通訳用の術式もすでに破壊されていた。
 明確な敵意を持つ相手を前にして、八重の全身が帯電しバチバチと音を立てている。
 全身を黒い布で包んだ者たちはそんな秋津人の少女に、一瞬だけ警戒の視線を向ける。が、すぐに彼女の背後にいる三人へと移った。
 床の間を背にして、熙王子を抱えてうずくまっている貞英。そして、そんな二人を庇うように宵が無言で立っていた。北国の姫の目には、怯えの色はない。ただ冷然と、護身用の懐剣を抜いて侵入者たる黒ずくめを見据えていた。
 無言の対峙は、ほんの数瞬であった。

「質問に答えなさいよ!」

 バチン、と痺れを切らした八重の電撃が彼らを襲う。だが、稲光が黒ずくめたちに直撃する寸前に、不可視の壁に弾かれた。
 護身用の結界。
 なるほど術者か、と八重は納得する。
 相手は五人。そしてまともに戦えるのは、自分一人。
 部屋の周囲に配置されていた陽鮮人武官は、すでに倒されてしまったに違いない。

『面倒だ、全員殺してしまえ。王子と公主が倭館で死んだという事実さえあればいいのだ』

「何言ってんのか全然判んないわよ!」

 だが、八重の心に怯えはない。頭目らしき人物が自分には理解出来ない言葉で何かを命じ、それに残りの四人が応じようとした瞬間、少女は畳を蹴っていた。
 八重は寝巻の裾を翻し、太腿の付け根まで丸見えになるような上段蹴りを繰り出した。一人の顎に、足裏が直撃する。
 足を振り上げるのと同時に腕を振るい、もう一人の黒ずくめの腹部に拳を叩き込んだ。
 足にも腕にも、身体強化の術式を掛けてある。一瞬にして、二人が庭まで吹き飛ばされた。

「はん! 甘っちょろい奴らね!」

 残った三人が八重を囲むように動く。黒ずくめたちは剣を抜き、慎重に重心を落とす。
 にぃ、と八重は歯を剥き出しにして獰猛な笑みを浮かべた。

「かかってきなさい!」

 黒ずくめたちも、八重の言葉が理解出来ていたわけではないだろう。しかし、彼女の言葉と三人の刺客が躍りかかるのは同時であった。

「臨兵闘者皆陣列在前!」

 八重は素早く九字を切った。相手も術式を放ったらしく、二つの霊力が狭い部屋の中でぶつかり合う。
 しかし、実戦経験という意味では黒ずくめたちの方が上手であった。二人が八重の術に応戦して宵たちから彼女の意識を逸らさせ、その間に頭目が二人の王族を庇うように立つ宵に向かって剣を突き出したのだ。

「させるわけないでしょ!」

 八重は一切の躊躇なく、自らの体を宵と刺客との間に割り込ませた。片腕を突き出して、剣を受け止める。
 だが、肉が裂かれることも、骨が断たれることも、ましてや血が噴き出すこともなかった。

「龍王の末裔を、甘く見るんじゃないわよ!」

 陰陽師の少女の腕が、剣を受け止めていたのだ。その腕には、龍の鱗をまとっていた。
正確には、自身の霊力が龍の鱗という形で実体化しているのである。その鱗が、振り下ろされた刃を止めていた。

「鉄之介、今よ!」

「おう!」

『くっ!?』

 刹那、部屋に飛び込んできた鉄之介が刀を振り下ろす。だが、黒ずくめも刺客として訓練されているのだろう、さっと剣を引いて跳び退いた。
 結果として鉄之介の刀は空を切ることになったが、部屋に飛び込んだ勢いのまま少年は八重の隣に並ぶ。

「ふん、案外早かったじゃない」

 にぃと不敵な笑みを黒ずくめたちに向けながら、陰陽師の少女は隣に立つ少年の気配に言う。

「ああ、姉上の結界が破られたからな」

 刀を油断なく構えながら、鉄之介は応じた。八重に出会う前の自分だったら、真っ先に姉の元に駆け付けようとしていたかもしれない。
 しかし、姉には姉の任務があるように、自分には自分の任務がある。
 今の自分の役割は、八重と共に宵姫を守ることなのだ。

「私、もう二人やっつけたわよ」

 どこか挑発するように八重は言って、再び体をバチバチと帯電させる。両手には、龍の腕をまとったままだ。

「じゃあ、残りは俺がやる」

 少女の言葉に応ずるように、鉄之介は刀に狐火をまとわせた。

「あはっ、言うじゃない」

 浮かべた笑みを獰猛なものに変えて、八重は両手を構える。
 三人の刺客と二人の陰陽師、その視線が静かに交差した。
 黒ずくめが一斉に黒衣の内側から呪符を放つ。

「はっ!」

 それを、鉄之介が刀を一閃して燃やし尽くす。そして振り抜いた姿勢から刀を翻し、頭目らしき相手に向けて勢いよく踏み込んだ。
 相手がその軌道を受け止めるように剣を構え、二つの刃が激突する。だが、鍔迫り合いは一瞬だった。
 妖狐の霊力をまとった鉄之介の刀が、相手の刃を打ち砕いたのだ。
 一瞬だけ、黒ずくめの目が驚愕に見開かれる。そして、跳び退いて距離を取ろうとする相手に、さらに鉄之介は追撃をかけた。
 青白い狐火をまとわせた刀の切っ先を突き出す。

『ぐっ……!』

 柄を通して手に伝わる、肉を裂く感触。
 だが、刀が貫いたのは頭目らしき黒ずくめではなかった。二人の間に、部下らしき刺客が割り込んできたのだ。
 刀は、その相手の胸を貫いていた。
 初めて人を斬ったこと、そして頭目を庇うような相手の動きに、一瞬だけ鉄之介の思考が停止する。

「馬鹿、呆けてんじゃないわよ!」

 八重の言葉が、少年を現実へ引き戻す。
 再び肉を裂く感触と共に、鉄之介は刀を抜いた。
 その時にはもう、頭目ともう一人の刺客は庭へと飛び出していた。恐らく、形勢不利を悟って逃げ出したのだろう。

「八重!」

「判ってるわ!」

 鉄之介の横を、疾風となって八重が駆け抜けた。

「逃がさないわよ!」

 彼女もまた、部屋から飛び出す。
 屋内では火事を恐れて制限しなければならない自らの電撃が、これで自在に使えるようになった。バチバチと、先ほどよりも一段と帯電の音が激しくなる。

「落ちろ!」

 少女の裂帛の叫びと共に、天からいかづちが降り注ぎ、逃走を図ろうとした二人の刺客を直撃した。

「はっ、刺客のくせに情けない連中ね」

 ふん、と八重は鼻を鳴らして、踵を返す。また新たな刺客が、宵姫たちを襲うかもしれないからだ。

「……」

 部屋の中では、鉄之介が刀を鞘に収めようとしているところだった。その足下には、死体となった刺客が転がっている。

「……俺、人を殺したんだな」

 淡々と紡がれた鉄之介の言葉には、奇妙なほどの納得が込められていた。

「私も、人を殺したわ」

 八重は、慰めようとしたわけではない。ただ、自分も同じであると事実を告げただけだった。
 そしてやはり、少女の言葉にも少年と同じような納得が込められていた。

「……」

「……」

 二人の視線が、交差する。
 互いに人殺しに対する苦い感情を抱いていないことだけは、確かなようだった。
 鉄之介は、景紀が姉や宵姫を救うために人を殺す場面を見ている。そして、その姉も人を殺した経験がある。つまりは、自分にその番が回ってきただけなのだと、自分自身でも意外なほどの納得があった。
 そして八重もまた、呪術師として覚悟を決めて生きてきた。その覚悟していた時が、今訪れただけなのだと、彼女自身も納得していた。

「まっ、あんたが無事ならそれでいいわ」

 普段ほどの快活さはなくどこか淡々と紡がれた八重の言葉だったが、それでも彼女の本心であることが鉄之介には判った。

「ああ、お前も、怪我がなくてよかった」

 もしかしたら、これが姉が景紀に対して抱いている思いなのかもしれない。
 自分の大切な誰かに無事でいて欲しい。そのために呪術師である自分の力が役に立つのならば、本望だ。例えそれで人を殺すことになっても。
 多分きっと、姉はそんな思いで景紀に仕えているのではないだろうか。
 だから自分も、次は絶対にこいつの背中を守ってやれるくらいにはなってやるんだと、鉄之介は静かにそう決意した。

  ◇◇◇

 冬花に向けて放たれた短剣を、景紀は刀で弾いた。

「……てめぇ、俺のシキガミに手ぇ出したな?」

 その言葉を、相手が理解しているかは判らない。それでも、この黒ずくめが冬花を標的にしていることだけは理解出来る。彼女は、倭館を覆う結界を維持していた術者なのだ。
 狙う理由としては、十分過ぎるほどだ。

常人ただびとの分際で、術師の前に立つか』

 黒衣の刺客が、何事かを呟く。刹那、カサカサと枯れ葉が舞うような音と共に、体を覆う黒布の下から無数の呪符が連なるように飛び出した。

『ならば、諸共に始末するだけよ』

 呪符は奔流となって、景紀と冬花を襲おうとする。紙同士のこすれる、乾いた音。が、呪符は寸前で青く燃え上がった。

「私の若様に、手出しはさせないわよ」

 刀印を組んだ手に狐火をまとわせながら、冬花が景紀の隣に並ぶ。ちらりと、互いに目配せ。
 とん、と二人して地を蹴った。
 景紀は刀を構えて踏み込むように、冬花は呪術で脚力を強化して高く跳躍するように。
 一瞬、刺客の視線が地表の景紀と空中の冬花の間を行き来した。どちらを先に相手にすべきか、咄嗟の判断を下そうとしたのだろう。
 そして、黒ずくめもまた景紀に向かって踏み込んだ。黒衣の内側で金属が光るのを、景紀は認めた。
 キン、と金属同士の激突音。
 景紀の刀を、黒衣の術者は逆手に持った二振りの短剣を交差させて受け止めていた。

「―――っ!?」

 斬り結んだ瞬間、景紀は咄嗟の判断で上体を逸らした。ひゅんと風を切る音と共に、術者の袖口から針が射出された。
 景紀はそのままの勢いで後方に倒立回転して距離を取る。

「っぶねぇ……!」

 斬り結んだ瞬間、景紀は相手の袖口に何かが仕込まれているのに気付いたのだ。冬花が同じように袖に呪具を仕込んでいるのを知っていたから咄嗟に対応出来たが、そうでなければ針が顔を直撃していただろう。
 恐らく、暗器。それも、毒か何かが塗ってあるに違いない。

「臨兵闘者皆陣列在前!」

 だが、それでも一瞬にせよ黒衣の術者の意識を冬花から逸らすことには成功していた。
 暗器による一撃で景紀を仕留めきれなかったことで生じた隙。
 冬花の放つ九字が刺客を直撃した。咄嗟に防御結界を構築したようだが、破砕音と共に結界は崩壊しその体が吹き飛ばされる。
 黒衣の影が何度か地面で跳ねて、それでも辛うじて体勢を立て直して立ち上がろうとする。だが、冬花はそれを許さなかった。
 跳躍で刺客との距離を一瞬で詰め、刀で相手の得物を弾き飛ばすと共に、鋭い蹴りを放つ。

『ぐぁっ……』

 吹き飛ばされた黒衣の術者が、庭園の石に背中を叩き付けられた。
 すかさず冬花がその体を地面に引き倒し、膝で背中を押さえつけた。さっと袖の内から呪符を取り出し、両手足に拘束のための術式を黒ずくめに掛けようとする。
 が、その瞬間、地面に押さえつけられた黒衣の術者の口元がにぃと歪んだ。

「―――っ!?」

 咄嗟の判断で、冬花は跳び退いた。

「ぐっ……!」

 だが、脇腹に鋭い痛みが走る。思わず、冬花は膝をついてしまった。手をやれば、脇腹のあたりにぬるりとした血の感触がある。
 顔を上げれば、刺客の黒衣の内側から蛇腹のような刀身を持つ剣が伸びていた。刃同士を霊力を通した鋼線で連結しているらしい剣が、蛇のようにくねっている。

「冬花!」

 少女の体を切り裂こうとした多関節の刃の軌道を、間に割って入った景紀が刀で逸らす。そして、左手で銃を抜き、黒衣の術者に向け連続で発砲。
 二人を襲おうとしていた蛇のような刃が引き戻され、銃弾を弾く。

「景紀、気を付けて!」

 冬花は苦痛を堪えて警告する。夜の暗がりから不意に多関節剣に襲われれば、常人である景紀はそう何度も防げるものではない。
 今は相手も銃を警戒して剣を収縮させているが、この均衡はいつ崩れてもおかしくない。

「……」

『……』

 景紀と黒ずくめの視線が、油断なく交差する。
 と、不意に天から二本の雷が敷地内に降り注いだ。
 耳をつんざく轟音と、一瞬だけ夜の闇を払う閃光。

『……向こうは失敗したか』

 ぼそりと、視線を景紀から逸らした黒衣の刺客が呟く。そして、ちらりと地面に膝を付く冬花を見遣った。

『今夜は、結界の主を仕留められただけで良しとしよう』

 とん、と黒ずくめは地面を蹴って跳躍し、二人の少年少女に背を向けた。

「……」

 景紀は鋭い視線でその背中を追っていたが、その場を動くことはしなかった。術者でない自分に、あの黒衣を追うことは不可能だからだ。
 それよりも、冬花の傷の方が気掛かりであった。
 先ほどから、景紀の失われた肋骨のあたりがしきりに疼いているのだ。冬花の中に流れる妖狐の血の暴走を防ぐために彼女に埋め込まれた、景紀の肋骨。
 血の暴走は、彼女が生命の危機に瀕した時に起きやすい。

「冬花」

「しんぱい、しないで」

 ぐっと痛みを堪えて、冬花は答えた。その顔には、脂汗が浮かんでいた。だが、冬花は歯を食いしばって立ち上がる。

「うっ……」

 また新しい痛みが、彼女の全身を駆け抜ける。傷口に治癒の術式をかけて、出血を止めた。
 だが、それでも彼女の苦痛は収まらず、景紀の脇腹も疼きを発したままだった。

「傷を見る。ひとまず、部屋に戻るぞ」

 景紀は冬花の腕を己の片に回して、彼女を立ち上がらせる。ゆっくりと、少女を気遣うように彼女の部屋へと向かう。

「っ……うっ……」

 食いしばった歯の間から、冬花の苦痛の呻きが漏れている。
 不意に、シキガミの少女がまとう雰囲気が変わったことに、景紀は気付く。首を回してみれば、頭には狐耳が現れ、着物の裾からは白い毛並みに覆われた尻尾が出ている。
 普段は封印している、彼女の本性。
 その封印が解けてしまうほどの事態に、景紀の顔が自然と険しくなる。

「景くん!」

 と、建物から漏れる薄明かりに照らされた庭園に、貴通が駆けてきた。彼女は冬花の様子を見て一瞬、ぎょっとした表情になったが、すぐに真面目な顔になる。

「公主殿下たちの部屋に、術者らしき賊が侵入しました。鉄之介さんと八重さんが撃退しましたが、陽鮮側武官に死傷者が出ています。ただ、宵姫様たちに怪我はありません」

「判った」

 あの雷から宵たちの方でも何事かが起こっていたと予測していたので、景紀に驚きはない。

「鉄之介と八重に、結界の再構築をさせろ。応急的なものでも構わん。それと念の為、館の中に賊がまだ潜んでいないか、手空きの人間に捜索させろ。万が一、術者が紛れ込んでいた場合は呪術で偽装している可能性もあるから、鉄之介たちは結界の再構築が終わったらそちらに合流させろ」

「判りました。今夜、一旦僕が団の指揮権を預かります。景くんは、冬花さんと共に本国から訓令が届くのを待っているという体にしておきます」

「すまん。俺も落ち着いたら、そっちに合流する」

 こういう時、こちらの事情を理解してくれる貴通の存在はありがたいと思う。団長としての責任放棄かもしれないが、景紀にとって今は冬花の怪我の具合の方が重要なのだ。

  ◇◇◇

 角灯の明かりの灯った部屋に戻ってくると、冬花の顔色の悪さがよりはっきりとした。

「……」

 景紀は険しい表情を崩さないまま、彼女に腰を下ろさせる。そして一旦部屋を出ると、井戸のところで水を汲み、清潔な布を取り出して彼女の元に戻った。
 着物の脇腹辺りを血で染めた冬花は、畳の上に胡座をかいて座っていた。苦痛を堪えているためか、少しだけ前屈みの姿勢であった。
 そして、目の前には通信盤が置いてある。
 だが、それを見つめる彼女の表情は、ずっと苦しげなままである。

「今くらい、横になっておけ」

 案ずる景紀に、冬花はふるふると首を振った。

「駄目よ、これは、私の役目なんだから」

 頑とした口調に、景紀は口を噤まざるを得なかった。それに今、本国との間で通信が不能となるのは避けたいというのも、また事実だった。

「……だが、本当に無理そうだったら横になれ」

 結局、景紀としてはそう言うしかなかった。

「ごめんなさい、心配かけて」

 苦しく呻くように、冬花は言う。

「傷の具合、見せてもらうぞ」

「うん」

 冬花は自分で着物を解くのも苦しそうで、景紀が帯を緩めて着物をはだけさせねばならなかった。シキガミの少女は、着物を脱がされながらも、嫌がる素振りを見せなかった。

「……」

 そして、血の染み込んだ肌襦袢と胸さらしも解くと、景紀の顔がいっそう険しくなかった。

「なんだ、これは……」

 傷口は、冬花自身が治癒の術式で塞いだのだろう。出血自体は止まっていた。だが、短剣が刺さっていたと思われる場所が、まるで壊疽のように黒ずんでいるのである。
 それは冬花の白い肌と対照的で、余計に毒々しく感じられた。
 しかも、それは徐々に冬花の肌を侵食しようとし、そして白い部分とせめぎ合うように時折後退する。

「呪詛、なのか……?」

 毒の可能性もあったが、その異様な光景から景紀はそう考えた。

「……多分、蠱毒の呪詛よ」

「呪詛の中でもとびきり強力な奴だな」

 蠱毒。
 それは、器に蛇や百足、蛙などの小動物、虫などを無数に入れて共食いさせ、最後に残った一体から毒を採取するという呪詛の方法である。
 この毒を仕込まれた人間は確実に死に至るとされるほど、強力な呪詛であった。

「解呪は出来るのか?」

 蠱毒と聞き、景紀の声は切迫感の溢れたものとなっていた。

「そんな声出さないで」

 だから冬花は、そんな主君を安心させるべく笑みを浮かべる。弱々しい笑みになっていないといいな、と思いながら。

「私は、妖狐の血を引いているのよ。人間の呪詛は、あくまで同じ人間に対するもの。妖には効かない。だから少し安静にしていれば、私の中にある妖狐の血が蠱毒の呪詛を喰らい尽くすわ」

「本当だな?」

 嘘は許さないという、景紀の厳しい声。

「私が、景紀に嘘をついたことがあった?」

 冬花は主君に少しでも安心して欲しくて、茶目っ気のある声を出す。

「こっちを心配させないために、無茶することは結構あっただろ?」

 だが、それでも景紀の表情は晴れなかった。

「大丈夫」冬花は諭すように言う。「ちょっと妖狐の血が活性化しそうだけど、蠱毒に負けることはないから」

「……判った」

 完全に納得したわけではないが、景紀はひとまず冬花の言葉を信じることにした。

「……とりあえず、血の汚れとか落としてやるから、じっとしていろ」

 溜息一つ落としてから、シキガミの主君は水に濡らした布を絞った。

「ええ、おねが……っ!」

「冬花!?」

 突然、冬花は片手で苦しげに胸を押さえ、もう片方の手で畳に手をついた。景紀の脇腹の疼きが酷くなる。

「かげ、のり……」

 のろのろと顔を上げた冬花の目は、全体が紅玉のように赤く染まっていた。生命の危機を感じて、妖狐の血が暴走寸前になっているのだ。

「―――っ!?」

 景紀は迷った。露わになった冬花の胸のところに、浦部伊任が与えた勾玉が下がっている。自分の首にも、勾玉を掛けている。
 今、鎮まれと命じることは簡単だ。
 だが、蠱毒に打ち勝とうとしているのは、彼女の中に流れる妖狐の血なのだ。その血を押さえつけては、本当に命に関わるだろう。

「……血、が、欲し、い……の」

 自分自身の言葉に怯えるように、冬花は途切れ途切れに言った。
 血は、生命と強く結びついたもの。その霊的価値は高い。
 だが、それを見境なく啜れば人食いの化け物と変わりがなくなってしまう。だから、冬花は怯えているのだ。
 それでも、その欲求が口から出てしまったということは、人間としての理性が妖狐の本能を抑えきれなかったのだろう。
 そして、一方の景紀には怯えなどなった。
 冬花が血を欲するなら、与えてやればいい。それで彼女の苦しみが和らげられるのなら。

「あとで、治してくれよ」

 どこかおどけたように言い、景紀は上着の襟をずらして首筋を見せる。

「ごめん、なさい」

 冬花は一粒、涙を落として犬歯を少年の首元に突き立てた。
 肉を裂かれる痛みが走るが、景紀は身じろぎ一つしなかった。ただ、狐耳の少女を優しく受入れるように、そっと両腕をその背中に回した。
 自分が感じている痛みなど、少女を苛む苦痛に比べたら大したことはないのだから。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 倭館に侵入した賊の数は、景紀と冬花の前に現れた一人と、宵や八重、貞英の前に現れた五人の計六人であったようである。
 館内を捜索しても、それ以外に怪しい人間は確認出来なかった。
 倭館の被害は、二人の王族の警護を担っていた陽鮮人武官三名の死亡、三人の負傷(鉄之介と八重が治癒の術式を施した)、一部の部屋の損壊。
 そして、こちらが仕留めたのは鉄之介が刺殺した一人と、八重が電撃を加えた二人の計三人、そして八重の蹴りと拳を喰らって気絶していた二人は捕らえられた。
 この二人の刺客は目覚めた後、鉄之介や八重が暗示の術をかけて情報を引き出そうとしたが、事前に記憶を封印ないしは消去する術式を掛けられていたらしく、さしたる情報は得られなかった。
 ただ、陽鮮語の呟きを理解出来ていた貞英公主の証言から(冬花の構築した通訳用の術式は、賊によって破壊されていた)、刺客たちが李熙王子と貞英公主を狙っていたことだけは判った。刺客たちは、倭館で二人が死んだという事実を作りたかったらしい。
 つまり、術者たちの背後には現国王の開化政策に反感を抱く攘夷派の存在があるということだ。もちろん、首謀者は判らない。太上王やその周辺の者なのか、それとも他の攘夷派陣営の者なのか、まったくの不明である。
 生け捕った二人の刺客の身柄については倭館に置いておくわけにもいかないので、正門を警備する陽鮮側の兵士に伝言を頼み、刺客によって殺害された陽鮮人武官の遺体と共に京畿監営の役人に引き渡した。
 城内が混乱状態のため、捕らえられた二人の刺客は一旦、京畿監営に収容されることになるだろうが、そのようなことはこの時点で秋津側にとってどうでもよかった。
 問題は、倭館に王子と公主を狙う刺客が放たれたということであった。
 万が一のことがあれば、秋津側が責任を取らされかねない。しかし一方で、帯城が混乱状態にある中で王族の身柄を抑えていることの意味は大きい。
 現国王・仁宗の身に万が一があれば、秋津皇国は陽鮮国内の開化派と協力して李熙王子を新たな王として擁立、半島に影響力を拡大させることが出来る。傀儡政権の樹立すら、可能である。
 このため、再び館内の意見は割れてしまった。
 陽鮮に長年駐在している深見真鋤館長は、王族が倭館に留まっているという慣例無視の異常事態を解消したいらしく京畿監営に二人の身柄を預けるべきだと主張し、逆に使節団の中でも特に次席全権の広瀬信弘は王族の身柄を抑えておくことの重要性を主張する。
 概して館長は慎重派であり、使節団は急進派・強硬派であった。こうした両者の姿勢の違いは、陽鮮への駐在期間の長短に由来するものであろう。館長は陽鮮人たちの小中華としての自負心、それに基づく夷狄に対する感情(つまりは反秋津感情)を十分に理解しており、徒に強硬策に走れば半島情勢をさらに混沌化させるだけだと思っていたのである。
 一方、本国から派遣された使節団は陽鮮人たちのそうした国民感情を十分に理解しておらず、単純に皇国の国益を増進することを最大の目標としていた。
 また、京畿監営との夜を徹しての協議も難航していた。監営側の態度は相変わらず責任回避に終始しており、刺客によって二人の王族の身が危険に晒された件について倭館と金光護を糺弾する一方、王族の身柄の安全について監営は責任ある態度を示そうとしなかった。
 そして景紀は兵部省からの訓令待ちとして、これらの議論・協議に加わることはしなかった。
 その肝心の本国からの訓令であるが、帯城での騒擾に皇国がどう関与するかを決めかねているのか、夜が明ける頃になっても外務省からも兵部省からももたらされていなかった。





 帯城での騒擾の発生や刺客の侵入によって倭館を取り巻く状勢は緊迫感を増しながらも、こうして時間だけが無為に過ぎていったのである。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
  あとがき

 本話をもちまして、拙作「秋津皇国興亡記」第四章を終わらせていただきます。
 ここまでの内容につきまして、ご意見・ご感想等ございましたらばお寄せいただけると幸いです。何分、第四章で選んだ題材について筆者自身、不安に思っておりますので、読者の皆様からの忌憚のないご意見をお聞かせいただけると有り難いです。

 さて、作中の「帯城軍乱」ですが、これは一八八二(明治十五)年七月二十三日に発生した「壬午軍乱」が題材となっております。
 壬午軍乱の直接的な原因は、兵士に対する俸給米の支給が十三ヶ月も滞った挙げ句、やっと支給された米も役人の横領によって粗悪米など手にする羽目になったことです。そこに新式軍隊である「別技軍」との待遇格差への不満、反日感情なども加わって、日本公使館襲撃や朝鮮宮廷内での政変に発展したのが、史実の壬午軍乱でした。
 当時、電信が漢城まで通っていなかったため、日本政府が軍乱の発生を知ったのは、漢城を脱出した花房義質公使らが英国商船に拾われて何とか長崎に帰還した三十日のことでした。そこから日本政府の軍乱への対応が決定され、それが花房公使に伝達されたのが八月七日と、かなり後手後手の対応になっています。
 逆に清の対応は早く、八月九日には仁川に軍を派遣しています。一方、花房公使が仁川に到着したのは、十二日になってからでした。
 もちろん、この世界では我々の世界とは違って秋津皇国は政変の予兆を掴んでいましたので、史実で日本が清に対して遅れを取ったほどには、時間を浪費しないでしょう。

 次章は「擾乱の半島」編として、引き続き半島や東アジアを巡る国際情勢を描いてまいります。
 また何卒、宜しくお願いいたします。
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