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第四章 半島の暗雲編
76 双方の混乱
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冬花の報告で、その場に緊張が走った。
「急ぎ戻った随員の報告によれば、森田全権は重傷。本日からの交渉を中止し、使節団はこちらに引き返す模様です」
「城内の動きは?」
景紀は早口に問う。
「現在、式を飛ばして確認中ですが、帯城内で大規模な政変が発生した兆候はありません。反秋津感情を持つ人間による突発的な犯行の可能性も」
「だが、これを切っ掛けに攘夷派が決起するかもしれん」景紀は苛立たしげに唸った。「若林曹長!」
「はっ!」
「団員に装備を調えさせ、正門の守備につかせろ。あそこだけは、外側から陽鮮側が鍵を管理している。一番、突破されやすいところだ。ただし、不用意な軍事衝突は絶対に避けるよう団員に徹底しろ。行動開始!」
「はっ、了解であります!」
サッと敬礼し、若林曹長は兵士たちの元へと駆けていった。
「穂積少佐」
「はっ!」
「お前は館内の外務省警察に、残りの門の警備を厳重にするよう伝えろ。鉄之介と八重にも、敷地の結界の強化を手伝わせろ」
「了解です」
貴通もまた、敬礼して外務省警察の詰め所へと向かった。
「冬花、お前は急いでこの事実を本国に連絡しろ。最優先の通信として外務省に届くようにするんだ。それが終わったら重傷を負った森田全権の治癒だ」
「判ったわ」
「くそっ、こういう突発的な動きを見せる奴が一番厄介なんだ。状況を引っ掻き回しやがって……」
呪詛にも似た不機嫌な口調で、景紀は吐き捨てた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
事件は、本当に突発的に発生したらしい。
陽鮮が迎えに寄越した使者の先導に従って帯城の西大門である敦義門を通過しようとした時、不意に門を守備していた当番兵の一人が使節団の行列に近付き、「倭奴め」と叫びながら剣を抜いて軺軒(陽鮮式の一輪の人力車)に乗る森田茂夫首席全権代表に斬りかかったという。
斬られた森田全権は人力車から転げ落ち、その兵士がさらに斬りかかろうとしたところで陽鮮人車夫が彼に飛びかかり、殺されるのだけは防いだとのことであった。
陽鮮側使者の咄嗟の判断で一行は倭館に引き返し、森田全権は倭館に収容されることになった。
斬られた首席全権は、刀傷の他、軺軒から転落した際に骨を折るなどの重傷を負っていたが、手の施しようがないほどではなかった。冬花が治癒の術式をかけたこともあり、大事には至らなかった。
一方、その他の使節団員は無事であったものの、混乱は酷かった。
景紀の下に赴き軍事視察団の武力を以て陽鮮側に強硬に犯人引き渡しを求めるべきと熱弁を振るう者、交渉を打ち切り即刻帰国すべしと主張する者、帯城での交渉は危険であるとして東萊倭館で改めて交渉の席を設けるべきと主張する者など、使節団の意見は完全に分裂していた。
そのため、使節団が本国外務省に対してなすべき請訓案がまとまらず、請訓が発されないという事態に陥っていた。
景紀はやむを得ず、冬花に対し、あくまでも軍事視察団長の意見として、帯城倭館から安全のために全員を一時的に本国、最低でも東萊倭館に引き揚げさせる意見具申を兵部省と軍監本部に行わせた。この事件を切っ掛けに陽鮮国内で政変に伴う動乱が発生した場合、帯城倭館に詰める者たちに被害が及ぶ危険性があるからである。
また、景紀は深見真鋤館長とも協議を行った。
この段階で、「領事官職務規則」に基づいて海軍に保護を要請すべきかどうかを判断するためである。結果として、今の段階では海軍の出動を求めるほど事態が逼迫しているとは認められないとの結論に達し、ひとまず陽鮮側の動向を見守ることで両者は合意した。
特に館長としては、条約上の根拠もなく他国(陽鮮)に海軍陸戦隊を上陸させることは、陽鮮側の反秋津感情を刺激するだけだと考えていた。
帯城は東萊倭館や元峯倭館と違い、港に面していないので、陸戦隊が救援に駆けつけるまでに時間がかかる。その間に、倭館は反秋津感情を持った暴民たちに蹂躙されるだろうと考えていたのである。
翌二十日。
この間、景紀に対して兵部省や軍監本部からの正式な回答はなかった。倭館館員と使節団の引き揚げということになれば、これは兵部省だけの決断で出来ることではなく、外務省との協議、さらには閣議が必要なため、結論を出すのが長引いているのだろう。
一方で、陽鮮側からの働きかけも一切ない。事件への公式の謝罪もなく、負傷した首席全権代表に対する見舞いの使者すら現れない。
恐らくは朝廷内部での混乱が拡大しているのだろうが、結果としてそうした不誠実にも見える姿勢が一部の使節団員の態度をさらに硬化させていた。
「暴戻なる陽鮮人に対し、断乎膺懲の姿勢を見せるべきです!」
景紀は、武力行使を迫る次席全権の広瀬信弘を鬱陶しそうに見遣っていた。
使節団の中でも対陽鮮強硬派の一人である彼が景紀の居室を訪れ、しきりに説得を続けているのである。
「軍事視察団は最新鋭の武装をしているそうですな? 前近代の軍しか持たぬ陽鮮など鎧袖一触でしょう。その武力を以て、陽鮮政府に今回の暴挙に対する反省を促さねばなりません!」
「貴殿は自分の言っていることが判っているのか?」
正気を疑っているような声音で、景紀は問う。
「我が軍事視察団の目的は、あくまでも陽鮮の軍備の視察だ。武力行使などではない」
「それが表向きの理由でしかないことなど、使節団の全員が承知しています! いったい、結城殿は何のために視察団を率いておられるのか!?」
広瀬全権は拳で畳を叩いた。景紀の顔が、不愉快そうに歪む。
「視察団はあくまで軍の管轄であり、貴殿ら外務省の指揮下にはない。視察団の行動は、あくまで俺の判断において決定する」
「首席全権が害されるなど、前代未聞の暴挙ですぞ! 拱手傍観していては、六家や軍の威信にも関わるのではないのですかな?」
執拗に、次席全権を務める外交官は言いつのる。
頑迷なまでに華夷秩序に基づく外交体制を維持しようとする陽鮮に何度も苦労させられた経験が、彼をしてこうした態度に走らせているのだろう。
これまで秋鮮間の交易において、何度も問題が生じてきた。特に問題となっていたのが、「和水の弊」と呼ばれる陽鮮米の偽装問題や陽鮮人参の偽装問題である。陽鮮が皇国への交易品として米を輸出する際、規定の量を誤魔化すために米を水で和ませてかさ増しをし、さらには俵に砂を詰めるのである。勢道政治時代の陽鮮人役人の不正が横行していた時代には、こうした米の偽装は日常茶飯事であった。陽鮮人参に関しても、中身をくり抜き重りを入れて重量を偽るといった問題が多発していた。
歴代の倭館館長が陽鮮側に抗議しても一向にこの問題は改善されず、結局は秋津人商人たちが泣き寝入りするしかない事態となっていた。
こうした交易問題を解決するためにも、外務省としては武力に訴えてでも陽鮮に条約を結ばせて、皇国がしっかりとした条約上の根拠によって商人を保護すべきと考えているのだろう。そうした人間の一人が、目の前にいる外交官なのだ。
とはいえ、陽鮮側の非を鳴らす彼であるが、“前代未聞の暴挙”では、実はなかったりする。
「広瀬全権殿、貴殿は前代未聞などと言うが、以前、我が国の通訳が、通信使に侮辱されたと言って使節の一人を斬殺した事件があったように記憶しているのだが? その時、陽鮮側は武力行使などせず、犯人の引き渡しすら求めてこなかったはずなのだが?」
百年ほど前に発生したこの殺人事件は、結局、陽鮮側使節団の目の前で犯人の秋津人通訳を処刑するということで幕引きを図った。その前例に従えば、今度は陽鮮側が秋津人の前で犯人を処刑すべきだろう。
犯人の引き渡しだの武力行使だの、あまりにも強硬的に過ぎると景紀は思った。それに、あまりにも陽鮮王国の主権を無視し過ぎている。
「森田全権を斬った犯人はすでに陽鮮側官憲によって捕らえられたというではないか。ならば、我々は陽鮮政府の対応に注視すべきだろう」
「結城殿は六家次期当主であらせられる! その貴殿が、そのような弱腰では困りますぞ!」
自分よりはるかに年下である少年に対する苛立ちが、その言葉には混じっていた。
いい加減追い出すかと景紀が思っていると、廊下を駆ける音が聞こえてきた。
「景紀様、お話中失礼いたします!」
風を通すために開け放たれていた襖のところで、昨日と同じように駆けてきた冬花が片膝をついた。
「正門のところに、国王陛下の名代として、李熙王子殿下と貞英公主殿下がいらっしゃいました」
「なに?」
思い切り怪訝そうな声を、景紀は出してしまった。
歴史上、秋津人の使節団の前にこれまで一度たりとも国王が姿を現わしたことはない。それなのに、迎賓館である東平館にならばまだしも、帯城の城壁の外に立つ倭館に第二王子と第一王女がやって来たのである。
一瞬、陽鮮国王の意図が判らなくなったとしても無理からぬことであった。
「怪我を負った森田全権への見舞いとのことです」
これが、陽鮮国王なりの誠意の見せ方なのか、それとも別の思惑を秘めているのか、今の段階では判断がつかなかった。
だが、さらなる厄介事が舞い込んだことだけは確かだと、景紀は思った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
このところ、王宮が騒がしいと公主たる少女―――李貞英は思っていた。
七月十六日、王都・帯城での電信敷設交渉が始まってからは、それがさらに酷くなったと彼女は思う。
王宮には、判書(大臣に相当)や高名な儒学者たちが頻繁に上疏(国王への直訴)のために訪れていたのである。そのほとんどが太上王たる祖父の影響下にある者たちで、上疏の内容も決まりきったように秋津人たちを批難し、夷狄との斥和を訴え、彼らとの交渉を直ちに打ち切るように求めるものであった。
特に戸曹判書(大蔵大臣に相当)は斧を持って父王たる仁宗に上疏した。斧を持って上疏に臨むのは、己の意見が容れられなければこの斧で首を刎ねよとの覚悟を示すものである。
王宮内が騒がしくなるのも当然であった。
攘夷派官僚たちが異口同音に訴えているのは、秋津人の危険性であった。
東夷である倭人といっても、その実態は洋賊である。連中は西洋の蛮族の手先でしかなく、「倭洋一体」である。もし倭人の望むままに条約を結べば、国が亡ぶであろう。
そう、口々に国王に訴えたのである。
特に戸曹判書は、交易の観点から開港は絶対に不可であると説いた。倭人どもは貪欲な人種であり、自由な交易を許せばたちまち陽鮮は彼の文物によって蹂躙されるだろう。倭人どものもたらすものはみな淫邪奇玩(奢侈品や機械製品)である一方、我が国の商品はすべて民の生活に関わるもの(農産物など)であり、自由な交易を行えば民の生活は困窮し、数年にして国は亡ぶであろう。悪貨の流通で物価が高騰している王国の現状を鑑みればそれは明らかである、と。
さらに彼は、倭人が洋賊と一体である以上、西洋の蛮族による邪学の書や十字教の像が国中に溢れ、人倫は廃れ、国民は禽獣と化すであろうと述べる。
また、宗属関係を結ぶ斉もまた夷狄であるが、彼らは「以小事大」の交わりをすれば寛容である一方、倭人どもは貨色に目がなく、人理を弁えず、侵虐の思想を持つ禽獣であると主張したのである。
そして、学者の中にはさらに過激な理論を述べる者たちもいた。
陽鮮王国を東華たらしめているのは聖賢の道(儒教)を実践しているからであり、故にこそ王国は尊く、存在意義がある。だからこそ、その道を護持することは王国の存亡を超えた絶対的なものであり、それが実践出来ないのであれば陽鮮王国は陽鮮王国たり得ないと説いていた。
国の存亡よりも思想の方が大切とは、貞英にとってはまったく理解不能な考えであった。
そして、それを本気で信じている祖父・太上王やその影響を受ける兄・李欽王世子。
これでは、内政や外交は柔軟性を失い、逆に国は衰退していくだけだろう。
貞英は、自身の生まれた王国がそのような道を辿ろうとするのを潔しとしなかった。
祖父を献身的に支えていたという祖母の話を幼い頃から聞かされていたことも、彼女が政治に興味を持つに至った理由の一つだろう。
だが、彼女自身がどれほど勉学に励もうとも、それを実践する場はなかった。
貞英はまだ十二歳の少女であり、宮中での影響力などほとんど存在しないからだ。それでも、宮中に出入りする官僚たちに何度となく話しかけ、内心で迷惑に思われていようがお構いなしに様々な話を聞き、国内外の情勢に詳しくなろうとした。
父も、そうした娘の行為を黙認しているようであった。
貞英の皇国留学を認めない父は、大妃(陽鮮における王太后の称号)とその親戚が権勢を振るった勢道政治時代の反省から、女人に政治に関わって欲しくないと考えているのだろう。しかし一方で、王世子である李欽が祖父の強い影響を受けてしまったことから、開化思想に目覚めている貞英は父にとっても貴重な王族なのだ。
また、父としては第二王子たる李熙が攘夷思想に染まらないよう、姉の貞英を思想の防波堤にしているようなきらいも見受けられた。
そうした父・仁宗の思惑もあり、比較的、貞英は宮中の事情を自由に知ることの出来る立場にあった。
だからこそ、ここ連日の上疏の内容に辟易とした思いを抱いていたのである。
ただ、不穏な噂もあった。
宗主国である斉が、属国である陽鮮王国と秋津皇国の接近を警戒して国境付近に軍を配備しているというのである。君父たる皇帝を差し置いて属国が他の国と関係を取り結ぶことを、斉は良しとしていないのだろう。
このため、宮中では不用意な秋津国への接近は斉の怒りを買うことになるという意見も見られた。これはまだ、現実的視点に立った意見であろう。
問題は、攘夷派の一部が斉と繋がっている可能性があることだろう。秋津国へ通信使を送るのと同様に、陽鮮は斉への使節団である燕行使を送っている。そうした燕行使を経験した官僚の一部が、斉の武力を恃んで国王の廃位、秋津人の排除を目論んでいるというのである。
しかし、国王の側は太上王の影響力を宮廷内から排除出来ていないこともあり、噂に対する十分な調査を行えていない。
そうした中、七月十九日の朝、それまで単に騒がしかった景徳宮が激震に揺れる事件が発生した。
西大門の守備兵が、二回目の交渉に赴こうと門を通過していた秋津使節団の正使(首席全権代表)を、秋津人に対する蔑称を叫びながら斬りかかったというのである。
使節団の先導を務めていた陽鮮人使者が、咄嗟の判断で使節団を倭館に戻したのはあの時点では最善の決断であったろう。下手に城内の東平館に使節団を留めていては、陽鮮側が人質を取っているような印象を秋津側に与えかねなかったのだ。
問題は、事件への対処であった。
当然ながら、末端の兵士ですら倭人に反発しているのだから交渉は直ちに打ち切り秋津人使節団を追放すべきと声高に主張する攘夷派官僚はいた。
一方で、回賜を与えずに使者を帰すのは陽鮮国王の沽券に関わると、即時の追放に反対する者もいる。
開化派官僚は、交渉継続のためにも秋津人に誠意を示し、前例に倣い彼らの前で犯人を処刑すべきと主張する。
これに対して攘夷派官僚は、兵士の行動は義挙であるから一切の処分をすべきではなく、逆に倭人に対して今回の騒動を引き起こした責任を問うべきだと叫ぶ。
朝廷内の議論はまったくまとまらず、そもそも斬られた正使が結局、どうなったのかすら彼らは把握していないようであった。斬られた傷がもとで亡くなったのか、それとも治療を受けて生きているのか、宮中の誰も把握していない。
ここに来て、陽鮮政府内での開化派と攘夷派の対立は、いよいよ激しさを増すことになったのである。
「いったい、連中はどこを見て外交をしておるのじゃ……」
斉と秋津皇国という南北からの外圧が迫る中、宮廷はそうした脅威に対して一致団結するどころか、ますます分裂を深めている状態である。というよりも、外圧を利用して政敵を排除することに血道を上げているような気がしてならない。
貞英の嘆きは、ある意味で当然のものといえた。
そうして事件から一日が経った二十日の昼過ぎ、貞英は父である国王・仁宗に呼び出された。
「昨日の事件については、お前は耳にしているか?」
「はい、父上」
執務室で、父は疲れたような表情を見せていた。ここ連日の上疏に、今回の正使斬り付け事件である。無理もないと、貞英は思った。
「斉はアヘンの取り締まりを行ってアルビオン連合王国の侵攻を受けた。正使を傷付けられた秋津国が攻めてきても、不思議ではあるまい」
深刻な憂慮を込めて、父たる国王は言う。仁宗は開化派であるが、だからといって親秋津派というわけではないのだ。冷徹に現実を見据えて政治外交を行わなければならない国王という立場上、近代化の模範として秋津皇国を見つつも、同時にその存在を警戒してもいるのだろう。
「そこで、熙を余の名代として秋津人正使の見舞いに赴かせることに決めた。貞英、お前は煕の付き添いとして倭館に向かってくれ」
父の疲れた顔の理由は、もう一つあったようだ。恐らく、今まで一度も秋津人の使節に謁見を許したことのない王族が自ら倭館に出向くことに反対する臣下たちを抑えるのに苦労したのだろう。
事件発生からすでに一日以上が過ぎ、この決断を速いと見なすか遅いと見なすかは難しいところであった。
「それは、秋津人に対する人質としての意味でしょうか?」
わざわざ王世子である兄ではなく第二王子を向かわせることには、そうした意味があるのかと貞英は考えたのだ。だが、それでも構わないと思っている。王族が負傷した(もしかしたら治療の甲斐無く死亡している可能性もあるが)正使を見舞うというのは陽鮮史上前代未聞のことであり、それだけ秋津人側に王国側の誠意を示せるといえた。
それに、人質的な扱いになるとはいえ、秋津人もあえて陽鮮の王族を害そうとはしないだろう。むしろ、彼らとしては電信敷設交渉を成功させたい立場なのだ。その扱いは丁重になるだろうし、むしろ自分や熙を説得(五歳児に説得する外交官がいるとは思えないが)して宮中に繋がりを作ろうとするだろう。
「それもある」
仁宗の声は固かった。父としても、娘と息子を倭人のところに行かせるというのは苦渋の決断なのかもしれない。
「だが、むしろこれはお前たちの安全を考えた上での決断でもあるのだ」
それで、貞英はすべてを察した。
「秋津人たちにとって、開化派王族の存在は都合がいいはずだ。いざという時のためにも、連中と伝手を作っておく必要がある」
父は、太上王の復位を目指す動きなど、不穏な噂の絶えない宮中に娘と息子を置いておくことを危ぶんでいるのだ。王世子である兄が除外されたのも、彼が太上王派に属しているからだろう。宮中から攘夷派を一掃するに際して、兄も廃嫡されるのかもしれない。
そして、その過程で開化派官僚と交流のある貞英に危害を及ぼそうとする攘夷派の人間も出てくるだろう。
父はそのために、秋津人の勢力を利用して貞英の安全を図ろうとしているのだ。かの国にとって、利用価値のある開化派王族が攘夷派に害されることはそれだけで不利益となる。
万が一、政変が発生した場合、秋津人たちはその身柄を確保しようと動くだろう。
政敵を排除するために外国勢力を国内に引き入れることは危険ではあるが、父としては自身の力だけで娘の安全を確保出来ない以上、苦渋の選択だったに違いない。
「それに、お前の留学は許可出来んが、倭館の倭人たちから学べるものもあるだろう。あまり悲観せずに、この機会を活かすことを考えよ」
「はっ、王命、謹んでお受けいたします」
貞英はそうして、弟と幾人かの護衛や女官と共に倭館へと赴くことになったのである。
「急ぎ戻った随員の報告によれば、森田全権は重傷。本日からの交渉を中止し、使節団はこちらに引き返す模様です」
「城内の動きは?」
景紀は早口に問う。
「現在、式を飛ばして確認中ですが、帯城内で大規模な政変が発生した兆候はありません。反秋津感情を持つ人間による突発的な犯行の可能性も」
「だが、これを切っ掛けに攘夷派が決起するかもしれん」景紀は苛立たしげに唸った。「若林曹長!」
「はっ!」
「団員に装備を調えさせ、正門の守備につかせろ。あそこだけは、外側から陽鮮側が鍵を管理している。一番、突破されやすいところだ。ただし、不用意な軍事衝突は絶対に避けるよう団員に徹底しろ。行動開始!」
「はっ、了解であります!」
サッと敬礼し、若林曹長は兵士たちの元へと駆けていった。
「穂積少佐」
「はっ!」
「お前は館内の外務省警察に、残りの門の警備を厳重にするよう伝えろ。鉄之介と八重にも、敷地の結界の強化を手伝わせろ」
「了解です」
貴通もまた、敬礼して外務省警察の詰め所へと向かった。
「冬花、お前は急いでこの事実を本国に連絡しろ。最優先の通信として外務省に届くようにするんだ。それが終わったら重傷を負った森田全権の治癒だ」
「判ったわ」
「くそっ、こういう突発的な動きを見せる奴が一番厄介なんだ。状況を引っ掻き回しやがって……」
呪詛にも似た不機嫌な口調で、景紀は吐き捨てた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
事件は、本当に突発的に発生したらしい。
陽鮮が迎えに寄越した使者の先導に従って帯城の西大門である敦義門を通過しようとした時、不意に門を守備していた当番兵の一人が使節団の行列に近付き、「倭奴め」と叫びながら剣を抜いて軺軒(陽鮮式の一輪の人力車)に乗る森田茂夫首席全権代表に斬りかかったという。
斬られた森田全権は人力車から転げ落ち、その兵士がさらに斬りかかろうとしたところで陽鮮人車夫が彼に飛びかかり、殺されるのだけは防いだとのことであった。
陽鮮側使者の咄嗟の判断で一行は倭館に引き返し、森田全権は倭館に収容されることになった。
斬られた首席全権は、刀傷の他、軺軒から転落した際に骨を折るなどの重傷を負っていたが、手の施しようがないほどではなかった。冬花が治癒の術式をかけたこともあり、大事には至らなかった。
一方、その他の使節団員は無事であったものの、混乱は酷かった。
景紀の下に赴き軍事視察団の武力を以て陽鮮側に強硬に犯人引き渡しを求めるべきと熱弁を振るう者、交渉を打ち切り即刻帰国すべしと主張する者、帯城での交渉は危険であるとして東萊倭館で改めて交渉の席を設けるべきと主張する者など、使節団の意見は完全に分裂していた。
そのため、使節団が本国外務省に対してなすべき請訓案がまとまらず、請訓が発されないという事態に陥っていた。
景紀はやむを得ず、冬花に対し、あくまでも軍事視察団長の意見として、帯城倭館から安全のために全員を一時的に本国、最低でも東萊倭館に引き揚げさせる意見具申を兵部省と軍監本部に行わせた。この事件を切っ掛けに陽鮮国内で政変に伴う動乱が発生した場合、帯城倭館に詰める者たちに被害が及ぶ危険性があるからである。
また、景紀は深見真鋤館長とも協議を行った。
この段階で、「領事官職務規則」に基づいて海軍に保護を要請すべきかどうかを判断するためである。結果として、今の段階では海軍の出動を求めるほど事態が逼迫しているとは認められないとの結論に達し、ひとまず陽鮮側の動向を見守ることで両者は合意した。
特に館長としては、条約上の根拠もなく他国(陽鮮)に海軍陸戦隊を上陸させることは、陽鮮側の反秋津感情を刺激するだけだと考えていた。
帯城は東萊倭館や元峯倭館と違い、港に面していないので、陸戦隊が救援に駆けつけるまでに時間がかかる。その間に、倭館は反秋津感情を持った暴民たちに蹂躙されるだろうと考えていたのである。
翌二十日。
この間、景紀に対して兵部省や軍監本部からの正式な回答はなかった。倭館館員と使節団の引き揚げということになれば、これは兵部省だけの決断で出来ることではなく、外務省との協議、さらには閣議が必要なため、結論を出すのが長引いているのだろう。
一方で、陽鮮側からの働きかけも一切ない。事件への公式の謝罪もなく、負傷した首席全権代表に対する見舞いの使者すら現れない。
恐らくは朝廷内部での混乱が拡大しているのだろうが、結果としてそうした不誠実にも見える姿勢が一部の使節団員の態度をさらに硬化させていた。
「暴戻なる陽鮮人に対し、断乎膺懲の姿勢を見せるべきです!」
景紀は、武力行使を迫る次席全権の広瀬信弘を鬱陶しそうに見遣っていた。
使節団の中でも対陽鮮強硬派の一人である彼が景紀の居室を訪れ、しきりに説得を続けているのである。
「軍事視察団は最新鋭の武装をしているそうですな? 前近代の軍しか持たぬ陽鮮など鎧袖一触でしょう。その武力を以て、陽鮮政府に今回の暴挙に対する反省を促さねばなりません!」
「貴殿は自分の言っていることが判っているのか?」
正気を疑っているような声音で、景紀は問う。
「我が軍事視察団の目的は、あくまでも陽鮮の軍備の視察だ。武力行使などではない」
「それが表向きの理由でしかないことなど、使節団の全員が承知しています! いったい、結城殿は何のために視察団を率いておられるのか!?」
広瀬全権は拳で畳を叩いた。景紀の顔が、不愉快そうに歪む。
「視察団はあくまで軍の管轄であり、貴殿ら外務省の指揮下にはない。視察団の行動は、あくまで俺の判断において決定する」
「首席全権が害されるなど、前代未聞の暴挙ですぞ! 拱手傍観していては、六家や軍の威信にも関わるのではないのですかな?」
執拗に、次席全権を務める外交官は言いつのる。
頑迷なまでに華夷秩序に基づく外交体制を維持しようとする陽鮮に何度も苦労させられた経験が、彼をしてこうした態度に走らせているのだろう。
これまで秋鮮間の交易において、何度も問題が生じてきた。特に問題となっていたのが、「和水の弊」と呼ばれる陽鮮米の偽装問題や陽鮮人参の偽装問題である。陽鮮が皇国への交易品として米を輸出する際、規定の量を誤魔化すために米を水で和ませてかさ増しをし、さらには俵に砂を詰めるのである。勢道政治時代の陽鮮人役人の不正が横行していた時代には、こうした米の偽装は日常茶飯事であった。陽鮮人参に関しても、中身をくり抜き重りを入れて重量を偽るといった問題が多発していた。
歴代の倭館館長が陽鮮側に抗議しても一向にこの問題は改善されず、結局は秋津人商人たちが泣き寝入りするしかない事態となっていた。
こうした交易問題を解決するためにも、外務省としては武力に訴えてでも陽鮮に条約を結ばせて、皇国がしっかりとした条約上の根拠によって商人を保護すべきと考えているのだろう。そうした人間の一人が、目の前にいる外交官なのだ。
とはいえ、陽鮮側の非を鳴らす彼であるが、“前代未聞の暴挙”では、実はなかったりする。
「広瀬全権殿、貴殿は前代未聞などと言うが、以前、我が国の通訳が、通信使に侮辱されたと言って使節の一人を斬殺した事件があったように記憶しているのだが? その時、陽鮮側は武力行使などせず、犯人の引き渡しすら求めてこなかったはずなのだが?」
百年ほど前に発生したこの殺人事件は、結局、陽鮮側使節団の目の前で犯人の秋津人通訳を処刑するということで幕引きを図った。その前例に従えば、今度は陽鮮側が秋津人の前で犯人を処刑すべきだろう。
犯人の引き渡しだの武力行使だの、あまりにも強硬的に過ぎると景紀は思った。それに、あまりにも陽鮮王国の主権を無視し過ぎている。
「森田全権を斬った犯人はすでに陽鮮側官憲によって捕らえられたというではないか。ならば、我々は陽鮮政府の対応に注視すべきだろう」
「結城殿は六家次期当主であらせられる! その貴殿が、そのような弱腰では困りますぞ!」
自分よりはるかに年下である少年に対する苛立ちが、その言葉には混じっていた。
いい加減追い出すかと景紀が思っていると、廊下を駆ける音が聞こえてきた。
「景紀様、お話中失礼いたします!」
風を通すために開け放たれていた襖のところで、昨日と同じように駆けてきた冬花が片膝をついた。
「正門のところに、国王陛下の名代として、李熙王子殿下と貞英公主殿下がいらっしゃいました」
「なに?」
思い切り怪訝そうな声を、景紀は出してしまった。
歴史上、秋津人の使節団の前にこれまで一度たりとも国王が姿を現わしたことはない。それなのに、迎賓館である東平館にならばまだしも、帯城の城壁の外に立つ倭館に第二王子と第一王女がやって来たのである。
一瞬、陽鮮国王の意図が判らなくなったとしても無理からぬことであった。
「怪我を負った森田全権への見舞いとのことです」
これが、陽鮮国王なりの誠意の見せ方なのか、それとも別の思惑を秘めているのか、今の段階では判断がつかなかった。
だが、さらなる厄介事が舞い込んだことだけは確かだと、景紀は思った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
このところ、王宮が騒がしいと公主たる少女―――李貞英は思っていた。
七月十六日、王都・帯城での電信敷設交渉が始まってからは、それがさらに酷くなったと彼女は思う。
王宮には、判書(大臣に相当)や高名な儒学者たちが頻繁に上疏(国王への直訴)のために訪れていたのである。そのほとんどが太上王たる祖父の影響下にある者たちで、上疏の内容も決まりきったように秋津人たちを批難し、夷狄との斥和を訴え、彼らとの交渉を直ちに打ち切るように求めるものであった。
特に戸曹判書(大蔵大臣に相当)は斧を持って父王たる仁宗に上疏した。斧を持って上疏に臨むのは、己の意見が容れられなければこの斧で首を刎ねよとの覚悟を示すものである。
王宮内が騒がしくなるのも当然であった。
攘夷派官僚たちが異口同音に訴えているのは、秋津人の危険性であった。
東夷である倭人といっても、その実態は洋賊である。連中は西洋の蛮族の手先でしかなく、「倭洋一体」である。もし倭人の望むままに条約を結べば、国が亡ぶであろう。
そう、口々に国王に訴えたのである。
特に戸曹判書は、交易の観点から開港は絶対に不可であると説いた。倭人どもは貪欲な人種であり、自由な交易を許せばたちまち陽鮮は彼の文物によって蹂躙されるだろう。倭人どものもたらすものはみな淫邪奇玩(奢侈品や機械製品)である一方、我が国の商品はすべて民の生活に関わるもの(農産物など)であり、自由な交易を行えば民の生活は困窮し、数年にして国は亡ぶであろう。悪貨の流通で物価が高騰している王国の現状を鑑みればそれは明らかである、と。
さらに彼は、倭人が洋賊と一体である以上、西洋の蛮族による邪学の書や十字教の像が国中に溢れ、人倫は廃れ、国民は禽獣と化すであろうと述べる。
また、宗属関係を結ぶ斉もまた夷狄であるが、彼らは「以小事大」の交わりをすれば寛容である一方、倭人どもは貨色に目がなく、人理を弁えず、侵虐の思想を持つ禽獣であると主張したのである。
そして、学者の中にはさらに過激な理論を述べる者たちもいた。
陽鮮王国を東華たらしめているのは聖賢の道(儒教)を実践しているからであり、故にこそ王国は尊く、存在意義がある。だからこそ、その道を護持することは王国の存亡を超えた絶対的なものであり、それが実践出来ないのであれば陽鮮王国は陽鮮王国たり得ないと説いていた。
国の存亡よりも思想の方が大切とは、貞英にとってはまったく理解不能な考えであった。
そして、それを本気で信じている祖父・太上王やその影響を受ける兄・李欽王世子。
これでは、内政や外交は柔軟性を失い、逆に国は衰退していくだけだろう。
貞英は、自身の生まれた王国がそのような道を辿ろうとするのを潔しとしなかった。
祖父を献身的に支えていたという祖母の話を幼い頃から聞かされていたことも、彼女が政治に興味を持つに至った理由の一つだろう。
だが、彼女自身がどれほど勉学に励もうとも、それを実践する場はなかった。
貞英はまだ十二歳の少女であり、宮中での影響力などほとんど存在しないからだ。それでも、宮中に出入りする官僚たちに何度となく話しかけ、内心で迷惑に思われていようがお構いなしに様々な話を聞き、国内外の情勢に詳しくなろうとした。
父も、そうした娘の行為を黙認しているようであった。
貞英の皇国留学を認めない父は、大妃(陽鮮における王太后の称号)とその親戚が権勢を振るった勢道政治時代の反省から、女人に政治に関わって欲しくないと考えているのだろう。しかし一方で、王世子である李欽が祖父の強い影響を受けてしまったことから、開化思想に目覚めている貞英は父にとっても貴重な王族なのだ。
また、父としては第二王子たる李熙が攘夷思想に染まらないよう、姉の貞英を思想の防波堤にしているようなきらいも見受けられた。
そうした父・仁宗の思惑もあり、比較的、貞英は宮中の事情を自由に知ることの出来る立場にあった。
だからこそ、ここ連日の上疏の内容に辟易とした思いを抱いていたのである。
ただ、不穏な噂もあった。
宗主国である斉が、属国である陽鮮王国と秋津皇国の接近を警戒して国境付近に軍を配備しているというのである。君父たる皇帝を差し置いて属国が他の国と関係を取り結ぶことを、斉は良しとしていないのだろう。
このため、宮中では不用意な秋津国への接近は斉の怒りを買うことになるという意見も見られた。これはまだ、現実的視点に立った意見であろう。
問題は、攘夷派の一部が斉と繋がっている可能性があることだろう。秋津国へ通信使を送るのと同様に、陽鮮は斉への使節団である燕行使を送っている。そうした燕行使を経験した官僚の一部が、斉の武力を恃んで国王の廃位、秋津人の排除を目論んでいるというのである。
しかし、国王の側は太上王の影響力を宮廷内から排除出来ていないこともあり、噂に対する十分な調査を行えていない。
そうした中、七月十九日の朝、それまで単に騒がしかった景徳宮が激震に揺れる事件が発生した。
西大門の守備兵が、二回目の交渉に赴こうと門を通過していた秋津使節団の正使(首席全権代表)を、秋津人に対する蔑称を叫びながら斬りかかったというのである。
使節団の先導を務めていた陽鮮人使者が、咄嗟の判断で使節団を倭館に戻したのはあの時点では最善の決断であったろう。下手に城内の東平館に使節団を留めていては、陽鮮側が人質を取っているような印象を秋津側に与えかねなかったのだ。
問題は、事件への対処であった。
当然ながら、末端の兵士ですら倭人に反発しているのだから交渉は直ちに打ち切り秋津人使節団を追放すべきと声高に主張する攘夷派官僚はいた。
一方で、回賜を与えずに使者を帰すのは陽鮮国王の沽券に関わると、即時の追放に反対する者もいる。
開化派官僚は、交渉継続のためにも秋津人に誠意を示し、前例に倣い彼らの前で犯人を処刑すべきと主張する。
これに対して攘夷派官僚は、兵士の行動は義挙であるから一切の処分をすべきではなく、逆に倭人に対して今回の騒動を引き起こした責任を問うべきだと叫ぶ。
朝廷内の議論はまったくまとまらず、そもそも斬られた正使が結局、どうなったのかすら彼らは把握していないようであった。斬られた傷がもとで亡くなったのか、それとも治療を受けて生きているのか、宮中の誰も把握していない。
ここに来て、陽鮮政府内での開化派と攘夷派の対立は、いよいよ激しさを増すことになったのである。
「いったい、連中はどこを見て外交をしておるのじゃ……」
斉と秋津皇国という南北からの外圧が迫る中、宮廷はそうした脅威に対して一致団結するどころか、ますます分裂を深めている状態である。というよりも、外圧を利用して政敵を排除することに血道を上げているような気がしてならない。
貞英の嘆きは、ある意味で当然のものといえた。
そうして事件から一日が経った二十日の昼過ぎ、貞英は父である国王・仁宗に呼び出された。
「昨日の事件については、お前は耳にしているか?」
「はい、父上」
執務室で、父は疲れたような表情を見せていた。ここ連日の上疏に、今回の正使斬り付け事件である。無理もないと、貞英は思った。
「斉はアヘンの取り締まりを行ってアルビオン連合王国の侵攻を受けた。正使を傷付けられた秋津国が攻めてきても、不思議ではあるまい」
深刻な憂慮を込めて、父たる国王は言う。仁宗は開化派であるが、だからといって親秋津派というわけではないのだ。冷徹に現実を見据えて政治外交を行わなければならない国王という立場上、近代化の模範として秋津皇国を見つつも、同時にその存在を警戒してもいるのだろう。
「そこで、熙を余の名代として秋津人正使の見舞いに赴かせることに決めた。貞英、お前は煕の付き添いとして倭館に向かってくれ」
父の疲れた顔の理由は、もう一つあったようだ。恐らく、今まで一度も秋津人の使節に謁見を許したことのない王族が自ら倭館に出向くことに反対する臣下たちを抑えるのに苦労したのだろう。
事件発生からすでに一日以上が過ぎ、この決断を速いと見なすか遅いと見なすかは難しいところであった。
「それは、秋津人に対する人質としての意味でしょうか?」
わざわざ王世子である兄ではなく第二王子を向かわせることには、そうした意味があるのかと貞英は考えたのだ。だが、それでも構わないと思っている。王族が負傷した(もしかしたら治療の甲斐無く死亡している可能性もあるが)正使を見舞うというのは陽鮮史上前代未聞のことであり、それだけ秋津人側に王国側の誠意を示せるといえた。
それに、人質的な扱いになるとはいえ、秋津人もあえて陽鮮の王族を害そうとはしないだろう。むしろ、彼らとしては電信敷設交渉を成功させたい立場なのだ。その扱いは丁重になるだろうし、むしろ自分や熙を説得(五歳児に説得する外交官がいるとは思えないが)して宮中に繋がりを作ろうとするだろう。
「それもある」
仁宗の声は固かった。父としても、娘と息子を倭人のところに行かせるというのは苦渋の決断なのかもしれない。
「だが、むしろこれはお前たちの安全を考えた上での決断でもあるのだ」
それで、貞英はすべてを察した。
「秋津人たちにとって、開化派王族の存在は都合がいいはずだ。いざという時のためにも、連中と伝手を作っておく必要がある」
父は、太上王の復位を目指す動きなど、不穏な噂の絶えない宮中に娘と息子を置いておくことを危ぶんでいるのだ。王世子である兄が除外されたのも、彼が太上王派に属しているからだろう。宮中から攘夷派を一掃するに際して、兄も廃嫡されるのかもしれない。
そして、その過程で開化派官僚と交流のある貞英に危害を及ぼそうとする攘夷派の人間も出てくるだろう。
父はそのために、秋津人の勢力を利用して貞英の安全を図ろうとしているのだ。かの国にとって、利用価値のある開化派王族が攘夷派に害されることはそれだけで不利益となる。
万が一、政変が発生した場合、秋津人たちはその身柄を確保しようと動くだろう。
政敵を排除するために外国勢力を国内に引き入れることは危険ではあるが、父としては自身の力だけで娘の安全を確保出来ない以上、苦渋の選択だったに違いない。
「それに、お前の留学は許可出来んが、倭館の倭人たちから学べるものもあるだろう。あまり悲観せずに、この機会を活かすことを考えよ」
「はっ、王命、謹んでお受けいたします」
貞英はそうして、弟と幾人かの護衛や女官と共に倭館へと赴くことになったのである。
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