秋津皇国興亡記

三笠 陣

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第四章 半島の暗雲編

70 出発準備

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 有馬家皇都別邸から延びる坂を降りる景紀の足取りは荒かった。少し早歩き気味である。
 懐から金平糖の入った巾着を取り出すと、何粒かまとめて口の中に放り込んだ。そのまま、無言で巾着袋を冬花に渡す。

「……」

 白髪の少女は何も言わず、少し心配そうな目線を向けながら巾着を受け取った。自身も一粒、金平糖を口に入れる。

「……」

 景紀は険しい視線のまま歩いていく。ボリボリと金平糖を噛み砕く音が冬花の耳に届いた。

「……下手すれば、戦争だぞ。あの爺さんも外務省も、何を考えていやがる」

 低く、呪詛のように景紀は呟いた。
 いや、景紀も理解出来ないことはない。陽鮮半島は皇国にとっても国防上の要衝だ。
 氷州、日高州、南洋群島、新南嶺島、そして同盟国たる泰平洋中央のペレ王国。植民地や大洋、そして同盟国という緩衝地帯を有する皇国にとって、半島だけが唯一、国防上の空白地帯となっている。そこに影響力を伸そうというのは、皇国の安全保障を担う者たちにとって当然の選択であろう。
 しかし、皇国が陽鮮の情勢に介入すれば、斉も自らの勢力圏たる朝貢国を守るために確実に出兵してくるだろう。その隙を突いて対斉戦争を始めようとするアルビオン連合王国と、南下政策を推進しようとするルーシー帝国。
 下手をすれば、極東全域を巻き込んだ大動乱に発展する。

「……くそっ、そうなると皇国が東洋で影響力を維持するためには積極的に動乱に介入するしかねぇ。そして、旧態依然たる華夷秩序を破壊するしか……。ったく、思想ってのはこれだから。華夷思想の信奉者も、攘夷思想に取り憑かれた連中も、思想に国家や人間を従属させて何になる……」

 ぶつぶつと、苛立ちを隠せない調子で景紀は独りごちる。

「……冬花」

「何?」

「頼朋翁はお前を通信掛として使うつもりのようだが、実際に政変が起きたらそれだけで済むとは俺は思えん。先代国王の下で攘夷思想が吹き荒れていた当時は、暴民が倭館に侵入するなんて事態もあったからな。だから今回の政変でも、例えば倭館を結界で防護するとか、そういうこともやってもらうかもしれない。そうなったとして、お前一人で霊力は持ちそうか?」

「私が皇都屋敷に張った結界とは、また違ったものになるのよね?」

「ああ。屋敷の結界は呪詛なんかを想定した対呪術結界だが、倭館に張るのは侵入者を阻み、さらには銃砲を撃ち込まれても耐えられるものになるだろうからな。呪術、物理、両方どうにか出来る結界だ」

「私は妖狐の血が濃く出たお陰で霊力量は多い方だけど、流石に五日とか一週間とか籠城して戦いながら結界を維持するってことになったら、流石に無理ね」

「了解。なら、もう少し呪術師が必要だな。……鉄之介と八重を連れていくか」

「学士院はどうするの?」

「七月から休ませる。ちょうど夏期休暇も近い。教師連中には迷惑をかけるだろうが、後で補習を組んでもらうしかないだろう」

「それだったら、わざわざ鉄之介や八重じゃなくて、浦部伊季殿に頼んだ方が良いんじゃない?」

「駄目だ」景紀はかぶりを振った。「伊季は伊任の嫡男で御霊部の人間だ。こんな危険なことに巻き込んで、何かしらの責任問題が発生したら宮内省にまで累が及ぶ。そうなれば、皇室の権威に傷か付く。その点、八重なら鉄之介の婚約者ってことで、何か問題が発生しても結城家の責任において処理出来る」

「八重さんの方は乗り気になってくれそうだけど、鉄之介はどうかしらね?」

「いや、今回に関しては俺への反発は少ないんじゃないか?」少し楽観的な調子で、景紀は言った。「姉貴だけを危険な目に遭わせないで済むとか何とか思いそうじゃないか?」

「ああ、確かに。それはあるかも」

 冬花も納得したようだった。

「だろ? となると、あとは御霊部長自身の許可だな。この足で宮内省に向かうか?」

「早い方が良いでしょうから、そうしましょう」

 そう言って二人は、馬鉄に乗って宮城を目指した。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 宮内省御霊部長・浦部伊任は、以前と変わらぬ凶相で執務を行っていた。

「……なるほど、事情は理解した」

 書類からちらりと顔を上げ、伊任は景紀と狐耳と尻尾の封印を解いた冬花を一瞥する。そしてまた、視線を書類へと戻してしまった。

「八重の件については、父である私の方から女子学士院には伝えておこう」

「随分あっさりしてるな。いいのか、あんたにとっては娘だろ?」

「葛葉冬花を連れ回している貴殿が、それを言うのか?」

 もう一度、伊任は書類から顔を上げた。心なしか、皮肉そうな視線であった。
 確かに、景紀は十歳の段階で冬花を親元から引き離して女子学士院に入れ、その後も側に置き続けている。伊任の言葉は、もっともであった。

「親としての心配は、無論ある。だが同時に呪術師として、八重がどれほどの実力を示せるのかと期待する思いもある。娘にとっては、良き成長の場になるだろう」

「まるで、政変が起こって欲しいような言い草だな」

 少し気に入らないものを感じて、景紀は険のある声を出してしまう。

「欲しい欲しくないの問題など、この際、無意味だろう」

 だが、伊任は冷然と少年の言葉を切り捨てた。

「私も貴殿も、外交官ではない。そして、戦争を避けるのは外交官の仕事であるが、その外交官が戦争回避のための努力をしていないのだ。恐らく、六家の圧力で出来ないというわけではなく、むしろ外務省自身も陽鮮での政変を望んでいるのだろう。華夷秩序を崩壊させるために、な。もう、この流れは誰にも止められんよ」

「もしかしてあんたも、華夷秩序の崩壊を望んでいるのか?」

「かの国々は、皇主陛下の存在を頑なに認めようとせん。代々、皇室に仕える者として、そういう思いを抱いたとしても不思議ではあるまい?」

 淡々と書類を処理しながら、やはり淡々とした声で伊任は答えた。
 陽鮮との交隣関係において、大きな問題となったのは皇主の存在であった。陽鮮側にとっては、夷狄が「皇」の字を使うなど言語道断の所業であり、秋津側の国書に「皇」の字を使うことを許容しようとしなかった。そのため両国の国書では長らく、皇主のことを「大君」と表記していた。
 「大君」は皇国においては「諸侯の長」を意味し、六家が皇主を盟主とした盟約を結んでいることから、皇主を意味すると解釈出来た。一方、陽鮮においては「大君」は臣下に与える称号であり、華夷秩序における陽鮮側の優位性を認識することが出来た。
 だが、皇国における国民意識ナショナリズムの芽生えとそれに伴う尊皇思想の高まりから、陽鮮側が優位性を示せるような「大君」の使用を取りやめ、国書にはっきりと「皇主」の文字を使うべきだとの議論が高まり、実際に国書に「皇主」と書いて陽鮮側に送ったことがあった。しかし、当時は攘夷思想を持つ康祖が国王であったことも関係し、陽鮮側は「皇」の字が使われた国書の受け取りを拒否、両国間の関係が一時、悪化したことがあった。
 これは、双方にとって君主の面子の問題であり、また同時に国家の面子の問題であった。
 それぞれ自分たちが主観的に自認していたことを自らの国内に留めている間はよかったのであるが、その主観を他国にまで押し付けようとしたために発生した問題であった。
 結局、陽鮮側の強硬な態度は変わらず、皇国は「大君」を「秋津君主」と改めることで妥協せざるを得なかった(もちろん、陽鮮側は「君主」という国王と対等とも受け取れる言葉を夷狄が使うことすら不遜であると考えている)。
 ただし、皇国国内にはそれでも納得しない尊皇派の人間は依然として存在しており、この妥協を国辱と捉える者もいた。そうした者たちは「陽鮮を断乎膺懲すべし」と叫び、征鮮論者の中へと取り込まれていった。
 今、目の前にいる御霊部長がそうした征鮮論者であるとは聞いたことがないが、本人の言う通り、皇室に仕える者として面白からざる思いを抱いているのは事実なのだろう。

「まあ、あんたの皇室尊崇の念は判った。俺としては、八重も含めて全員が無事に帰国出来るよう努力はするつもりだ」

「外交使節の問題については、私は口出しせん。学士院のことについては私も手を回しておく故、貴殿は陽鮮の件に集中するがよかろう。帰国後に孫が生まれても、一向に構わん」

「……」

 最後の一言を冗談と受け取るべきか、景紀は悩んだ。何せ、他の言葉と同じく、平然とした調子で紡がれたのである。
 救いを求めるように冬花を見るが、狐耳の少女もまた困惑気味の苦笑を浮かべているだけであった。
 実際、女子学士院では「寿退学」というものが存在する。この時代、女学校に在学中の学生が結婚や妊娠によって退学することは、珍しいことではないのだ。

「……じゃあ、学士院の件はあんたに頼んだ」

 結局、景紀は何も聞かなかったことにしたのだった。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 その日の夜、景紀と冬花の姿は澄之浦の駐屯地官舎の中にあった。

「なるほど、厄介なことになりましたね」

 角灯の明かりが灯る会議室の中で、貴通はその秀麗な顔に悩ましげな表情を浮かべていた。

「頼朋翁はともかく、里見善光という人間は本気で景くんを結城家から切り離す心算なのかもしれません」

 彼女は景紀から大方の事情を聞き、そう判断していた。

「ただ、今それを言ったところでどうにもならん」

 一方、景紀は投げやりな態度で机に肘を乗せて頬杖をついていた。

「俺が国外に行くことで重臣連中と里見の分裂が加速する可能性はあるが、俺が国外に行く以上、手の打ちようがない」

「一旦、この件については棚上げするしかなかろう」

 同席している百武好古中将が、どこか諦観を含んだ声で指摘した。

「若君には、これも次期当主としての試練だと思って頂きたい。主家の状況は私も懸念している故、益永殿らとの連絡は密にしておこう」

「将軍にはご迷惑をおかけしますが、俺のいない間のことは、宜しくお願いいたします」

 結城家家臣団長老の一人である老将軍に、景紀は慇懃な態度で頭を下げた。

「構わん。私自身、主家への最後の御奉公として現役に復帰したのだ。若君が帰国する頃には、部隊を完全に仕上がった状態で若君に指揮を引き継げるよう、尽力する所存だ」

「頼もしい言葉です」

「それで、もう一つの問題は陽鮮の状況、そして対斉戦争の可能性です」

 そう言った貴通の声は険しかった。

「現国王側が攘夷派を政権内から一掃出来れば良いんだろうが、攘夷派の背後に前国王がいるとなると、これは難しい。これほどあちこちから情報が届いているんだ、十中八九、政変が起こるだろうよ」

「問題は、斉がどこまで本気であるか、ですね。アルビオンやルーシーを警戒するならば、軍の動員はあくまでも牽制程度に留めるでしょう。しかし、それらの脅威を無視、あるいは認識出来ていないならば、我が国を討滅するために半島に出兵、陽鮮国内の攘夷派と手を組んで現国王を退位に追い込もうとするかもしれません」

「ああ、そこの情勢判断が難しいところだ。だが、有馬翁を始め、どうも軍事衝突は起こり得るという前提で動いている。まあ、国防の観点からすれば当然の危機意識なんだろうが」

「そして、半島での動乱の隙を突いたアルビオンやルーシーの対斉出兵の可能性。我が皇国が東洋での影響力を確保するためには、拱手傍観しているわけにはいきませんね。そうなると、対斉戦争はほぼ確実ですか」

「そのために、演習の名目で動員を開始するらしい」

「軍監本部の対斉作戦計画はどうなっているか、景くんはご存じで?」

 この時期、皇国軍では「軍監本部」という、後の参謀本部の萌芽的組織が存在していた。
 戦国時代と比べて軍の組織が複雑化し、その業務も煩雑化したため、主に兵站を担当する部署として兵部省内に設置されたのが、軍監本部であった。その後、軍の近代化に伴って諸侯の領軍からなる半封建的軍隊の統一的運用を図るため、軍監本部の権限は徐々に拡大し、現在では作戦立案や兵站など皇国軍における用兵部門を担当する部署に発展していた(編制や動員、予算などの軍政担当は兵部省)。

「俺はまだ六家当主じゃないんだ。対外作戦計画は軍内部でも機密中の機密事項だぞ? 俺が詳しく知っているわけがない」

 陸海軍が作成する作戦計画は、策定途上の関与者、策定時の商議者、策定後作戦計画書の配布者が極端に限定されており、未だ六家当主を継いでいない景紀は、その詳細を知る立場にはなかったのである。

「やむを得ませんね。そこは、軍監本部の人間たちを信じるしかないですか」

 溜息一つで、貴通は納得することにした。

「あとは、視察団の人員構成についてですか」

「それについてなんだが、貴通、お前に副団長をやってもらいたい」

「ふふっ、景くんから話を聞いた時点で、僕はそのつもりでしたから。喜んで、お受けいたします」

 嬉しそうに、軍装の少女は顔をほころばせた。

「これでようやく、景くんの幕下らしい働きが出来そうですね」

 景紀の幕下として本格的に働き始められることが、余程待ち遠しかったらしい。

「視察団の人員選定は兵部省の方でやったらしい」景紀が言う。「とはいえ、あの有馬の爺さんが関わっているんだ。きっと、爺さんの息の掛かった俺へのお目付役みたいのがいるはずだ」

「判りました。なるべく上手くやれるよう、努力します」

 貴通はそう言って景紀に一礼した。それを見てから、景紀は百武中将に顔を向ける。

「すみませんが、そういうわけで貴通はこちらで引き抜きます。兵団の方、よろしくお願いいたします」

「若君の方こそ、ご武運を」

「まあ、それが必要にならないことを俺としては祈っていますがね」

 大して期待していない、むしろ皮肉そうな声で、景紀はそう応じたのだった。
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