秋津皇国興亡記

三笠 陣

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第四章 半島の暗雲編

69 華夷秩序の動揺

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 大斉帝国、陽鮮王国、秋津皇国による宗属関係、交隣関係によって成り立っていた華夷秩序が動揺を来し始めたのは、皇暦八〇〇年始め頃から始まったアルビオン連合王国を始めとする西洋列強の東洋進出であった。
 もともと、皇国の戦国時代末期から西洋諸国は東アジアに到達しており、特に皇国はそれ以来、西洋諸国との政治的・経済的な関係を深めていた。比島戦役に代表されるような西洋諸国との軍事衝突ですら、何度も経験してもいる。
 その意味では、秋津皇国にとって皇暦八〇〇年頃の西洋列強の東洋進出は政治的・思想的な衝撃でも何でもなかった。
 そもそも、西洋では多くの国々を巻き込んだ宗教戦争たる三〇年戦争の終結に伴って、ノルトファリア体制と呼ばれる近代的主権国家による国際秩序が成立していた。西洋諸国との繋がりを深めていた秋津皇国も、必然的に近代主権国家体制に組み込まれていき、東洋諸国の間ではその軍事力も含めて一種、異様な国家となっていたのである。
 そのため、華夷秩序によって成り立っていた東アジアの国際秩序に西洋諸国が強引な進出を果たしてこようとも、皇国としてはかつて自分たちがノルトファリア体制に組み込まれたのと同様の現象が斉や陽鮮に起きているだけだと捉えていた。
 しかし、華夷思想によって成り立つ国際秩序を国家の根幹に置いていた斉や陽鮮は、この西洋の進出は大きな政治的・思想的衝撃であった。皇国は華夷思想による国際秩序はあくまでも交易の一手段としてしか捉えていなかったために西洋式の国家体制・外交体制も柔軟に取り込むことが出来たのであるが(そもそも皇国は古代から周辺諸国の国家制度を自国に取り込んでおり、他国の模倣をすることにそこまで思想的な抵抗がない)、華夷思想によって国家や外交関係が成り立っていた斉や陽鮮にとってはそう簡単なことではなかった。
 異民族による征服王朝であった斉は、建国当初は自らが「夷」であると自覚していたためにその外交姿勢は朝貢・冊封だけに囚われない一定の柔軟性を持っていたが、建国から二〇〇年以上が経ち、皇帝たちも自らを「華」と認識するようになると、そうした外交的柔軟性は失われていった。
 そうした外交的硬直性に陥ってしまったところに通商の拡大を求めてやってきたのが、アルビオン連合王国であった。
 この頃、アルビオン連合王国では上流階級を中心に喫茶の風習が広まっており、茶の需要拡大からその供給地である斉との貿易拡大は外交上の課題となっていた。
 しかし、アルビオン連合王国は斉側の指定したわずか一港の拠点でしか、交易を認められていなかったのである。
 そのため斉との通商の拡大を望んでいたのであるが、そうした要求を携えて訪れた連合王国の使節に対し斉朝皇帝は朝貢の礼儀を求めた。
 実は斉王朝における交易手段は、何も朝貢だけではなかった。「互市」と呼ばれる、商人同士によって行われる交易手段もあったのである。互市は斉の役人が税を取り立てるものの、実際の交易に役人が干渉することはない。こうした商人任せの交易手段は、秋津皇国などのように華夷秩序に馴染まず、朝貢を求めようとすればかえって外交問題を引き起こしかねない相手との交易に対応するための、現実的な仕組みであった。
 にも関わらず、当時の斉朝皇帝はアルビオン側に朝貢を求めたのである。
 つまり、この時期にはそれまでの互市の活用という柔軟な外交手段は、すでに華夷秩序の中に組み込まれてしまっていたといえるだろう。
 もちろん、アルビオン側が表面上でも朝貢の姿勢を見せれば問題は解決したのかもしれないが、アルビオン側としても国家としての面子が掛かっている以上、斉に表面上でも従属する姿勢をとることは出来なかった。そして当然ながら、斉朝の側でも西洋式の外交儀礼に合わせるつもりなどまるでなかったのである(この問題を解決するために、互市という交易体制があったのであるが)。
 その後も従来の形式で斉とアルビオンとの交易は続いていたが、アルビオン側が茶を輸入するだけで斉側はアルビオンの製品を輸入しないので、アルビオン側の銀が斉に流入し続けるという不均衡な交易状態が続いていた。
 これに加え、アルビオンの国策会社一社が対斉貿易を独占しているという状況もあり、アルビオン側の地方商人カントリー・トレーダーたちは茶貿易に関われない代わりに斉にアヘンを密輸して利益を得ようとした(国策会社の方も、斉に流出する銀の回収などのために、地方商人によるアヘン密輸を後押ししている実態があった)。
 結果として、斉によるアヘン取り締まりに反発したアルビオン側が強引な出兵を行い発生したのが、アヘン戦争である。
 斉は戦争に敗北し、その後の講和条約で開港と領事館の設置、領土の割譲、賠償金の支払いなどを余儀なくされた。
 この斉とアルビオンとの条約締結に乗ずるように、ヴィンランド合衆国やフランク共和国(まだこの段階では帝政が開始されていなかった)も斉と条約を結んだ。その内容は後世の視点から見れば、斉は治外法権を認め、関税自主権がないなど不平等なものであったが、条約締結当時は斉側においてすらその認識はなかった。
 そもそも、華夷秩序において国家間の平等など存在しない。
 そのため、条約とその後の通商章程に以前の通商制度に基づく条項が多かったこともあり、斉はこの条約によって自国が西洋型の国際関係の枠組みに組み込まれたとは考えていなかった。むしろ、条約は外夷操縦の手段であり、「夷務」でしかなかいという考えが大半であったという。
 彼らは、条約を外夷操縦のための一時的なものでしかないと思っていたのである。
 しかし、斉側の主観はどうであれ、西洋の進出によって華夷思想に基づく東アジアの国際秩序が動揺を始めたことは事実であった。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

「そもそもの問題は、連合王国が現状の斉との交易に不満を持っているということなのだ」

 皇都郊外の有馬家別邸の茶室にて、有馬頼朋翁は景紀に説明した。

「つまり、二度目のアヘン戦争を起こし、未だ華夷秩序でしか他国との交易を理解しようとしない斉に決定的な一撃を加えよう、ということですか?」

「まあ、その通りだろう。だが、アルビオンの連中にとっての問題は、一方でルーシー帝国との対立も抱えているということなのだ。マフムート帝国内での民族運動を口実に南下政策を推し進めようとしているルーシーに対し、アルビオンはマフムート朝を支援することでそれを抑えようとしている」

「しかし、一方で斉との戦争はしたい、と? つまりアルビオン側は二正面作戦を恐れているわけですか」

「ああ。そこで、彼らは皇国に目を付けた。ホラントとの四次にわたる戦争で我が国がアルビオン側について東南アジア一帯に出兵を行ったことを踏まえて、戦争発生時における共同出兵提案を行ってきた。もちろん、秘密裏に、な」

「それはまた、穏やかな話じゃないですね」景紀は頭痛を堪えるような調子で言った。「それは、事実上の軍事同盟の提案ですよ。その対象国は斉ですか、ルーシーですか?」

「どちらもだ。ただし、どちらかといえば斉を意識したものであろう。アルビオン側はアヘン戦争時の我が国の反アルビオン感情の悪化や広南出兵もあって、事前に東アジアに出兵する際には我が国と合意を形成しておくのが得策だと思っておるようだ」

「まあ、俺は西洋列強すべてを敵視する攘夷派ではないので、手を組める列強とは手を組むべきだと考えていますし、アルビオン連合王国はその筆頭だと考えています。ルーシー帝国の南下を抑えるためにも、連携は必要でしょう。実態はともかく、連合王国は皇国に好意的な西洋列強であるとの認識が国民の間に広まれば、攘夷派の切り崩しも可能でしょう。斉への共同出兵をするかどうかは別問題として」

「実際、問題はそこなのだ」

 もともと厳めしい顔をさらに厳めしくして、頼朋翁は言った。

「我が国としては、仮想敵国はルーシー帝国とヴィンランド合衆国だと考えている。斉との戦争は、物資や人的資源を浪費することにも繋がりかねん。我が国の南洋特殊権益を守るための広南出兵とは、その本質が違う」

「アルビオン側の圧勝だったアヘン戦争ですら、戦争終結まで二年はかかりましたからね」

「しかし一方で、我が国国内には西洋型外交関係と東洋型外交関係の二元性を改めるべきと言う議論もある。特に外務省関係者は、この二元性によって事務が繁雑化することから一元化論に多くの者が同調している。要するに、未だ華夷秩序を維持しようとする斉と陽鮮の認識を改めさせようというわけだな」

「今回の陽鮮との電信敷設交渉を、その機会にしようと?」

「ああ。条約というのは、早い者勝ちという面があるからな」

 頼朋翁が言っているのは、最恵国待遇のことである。
 最恵国待遇とは、ある国が条約によって有利な待遇を受けた場合、その待遇が他の条約締結国にも自動的に適用されるという外交上の概念である(ただし、これが片務的最恵国待遇であると不平等条約となる)。
 この概念が定着したことにより、ある国と最初に条約を結んだ国の条約内容が、その後に条約を結ぼうとする国の条約内容を拘束することに繋がった。つまり、最初の国がその後に結ばれる条約の基準を作ることになるのである。
 そのため、未だ西洋型の条約をどこの国とも結んでいない陽鮮に対して、皇国が最初に条約を締結しようとする意図は理解出来る。

「しかし、それと俺が陽鮮に行くことにどのような関係が?」

「儂の意見は別だが、攘夷論者、特に征鮮論者の目論見ならば見当がついているのではないか?」

 六家長老たる老人は、意地の悪い笑みを見せた。

「やはり、俺は囮ですか」溜息混じりに、景紀は言った。「六家の嫡男という、判りやすい暗殺目標を陽鮮の攘夷派の前にぶら下げ、連中の暴発を図る。こちらの攘夷論者としては、出兵の口実が出来、自らの手を汚さずに俺を消すことも出来て、一石二鳥」

「そういうことだ」

「しかし、それで陽鮮へ出兵するとなれば、結局、物資と人的資源の浪費という意味では対斉戦争とさほど変わらないのでは?」

「だから、儂の意見は別だと言ったのだ」

「お聞かせ頂いても?」

「陽鮮の攘夷派の一部に、斉と繋がっておる者たちがいるらしい。そして斉が陽鮮向けの兵を整えているとの情報も、各地の商館からの報告で上がっている」

 ここで言う商館とは、斉や陽鮮に皇国が置いたものである。斉の互市や陽鮮の倭館のように、皇国は長年、これらの国々と交易中心の関係を結んできた。そのため、商館が実質的に大使館や公使館のような役割を果たしているのである(そのため、これら商館は商工省ではなく外務省の管轄)。

「つまり、陽鮮で攘夷派による政変が起こる可能性があると?」

「ああ、我が国が使節団派遣を決定した少し後に、斉が動き出したようだ」

「問題は、斉がどこまで本気であるか、ですね。斉としては、属国の王が夷狄に阿ろうとしているのでそれを牽制するために軍に動員をかけて圧力をかけようとしているのか、それとも本気で半島に出兵して夷狄たる我が国を陽鮮国内から討伐しようとしているのか」

「そこまでは判らん。だが、斉側では我が国の使節団派遣に危機意識を持っていることだけは確かだろう。南でアルビオン連合王国、北西部でルーシー帝国、北東部で我が氷州植民地と国境を接している以上、陽鮮半島に敵対勢力の影響力が及ぶのは国防上、避けたいところであろうからな」

「むしろ、斉にとって最大の仮想敵国は我が秋津皇国というわけですか。今まさに第二次アヘン戦争を起こそうとしているアルビオンではなく」

「別に不思議ではあるまい?」

 呆れた調子の景紀に、嗤うように頼朋翁は言う。

「斉にとって西洋列強は通商と布教を求めてくる連中に過ぎんが、我々皇国は領土を切り取っていく。沿海州、氷州、日高州、高山島、南洋群島、新南嶺島。すべてではないが、我々が戦国時代以来手に入れた領土の中には、歴代中華帝国の朝貢国だった領域も含まれているのだぞ?」

「それに、斉の朝貢国の一つである広南国への出兵。確かに、斉がそう認識していたとしてもおかしくはありませんね」

「我々は斉との戦争は避けたい認識であるのに、連中は皇国が攻めてくると認識しておる。何とも滑稽なことではないか」

「互いの認識の齟齬が、外交関係を破綻させる。まったく、厄介なことです」

 景紀は思わず溜息をもらした。これは、想像以上に厄介な案件に巻き込まれたらしい。

「そして、この斉の陽鮮への派兵の可能性については、アルビオン連合王国でも把握しているとのことだ」

「つまり、斉が陽鮮ヘと討伐の軍を派遣した隙を突こうと?」

「国際情勢とは、なかなか複雑なものであろう?」

 にやり、とした笑みを六家長老は浮かべる。むしろ、その複雑さをひもといて自らが主導権を握ることに、この老人は生き甲斐を見出しているのかもしれないと景紀は思う。
 景紀にとっては、どうしてそこまで面倒事に関わろうとするのか、理解に苦しむところであった。
 とはいえ、それを口に出すことはしないが。

「攘夷という単純な図式で対外認識を出来る連中は、むしろ幸運なのかもしれませんね」

 景紀はそう皮肉を言うに留めておいた。

「……ああ、そうなるとルーシー帝国も斉が半島へ出兵する隙を突いて東洋方面で南下を企てる可能性がありますか」

 アルビオン連合王国や秋津皇国に南下政策を妨害されているルーシー帝国としては、斉の領土を一気に縦断して不凍港の確保を狙いたいところだろう。
 陽鮮では政変、斉は陽鮮へ出兵、アルビオンは斉へ出兵、ルーシーも斉(あるいはマフムート朝)へ出兵。
 この動乱の予兆の中で、皇国だけが安寧を貪ることなど出来はしないだろう

「それで、結局、俺の陽鮮での役目を、またお答えいただけていない気がしますが?」

「儂が用があるのは、貴様ではない。その後ろに控えておる娘だ」

 頼朋翁の鋭い視線が、景紀の背後に控えたままの冬花へと向かう。

「電信敷設交渉の舞台は、王都・帯城となろう。だが、そこまで電信は通じておらん。政変の予兆、そして万が一発生した際に、その情報をいち早く内地に伝えるためには、呪術による通信方法しかない。そして、外交交渉に関わる機微な情報を扱う以上、信頼の置ける術者でなければならん」

「そのために、冬花の主である俺を陽鮮に送り込むと?」

「まあ、貴様にも役割がないわけではない。“軍事視察団”は、要するに政変の際に帯城の倭館にいる者たちを保護させるために送るという意図がある。多くの兵を送る無理であろうが、小隊程度の人員であれば向こうを納得させることが出来よう。使節団を帯城に上京させる際には、向こうの通信使が多数の武官を護衛として伴って来るのと同様に、こちらも“儀仗兵”を付ける慣習がある。多少人数が多いと指摘されたところで、“儀仗兵”として押し通す予定だ」

「使節団や倭館の人間が陽鮮の攘夷派によって殺害されれば、我が国の国論が沸騰してしまいそうですからね」

「ああ。上手く世論が征鮮論に流れぬように誘導し、なおかつ現国王から支援の要請があれば呪術通信を用いて斉に先んじて迅速に半島情勢に介入する」

「半島への出兵を国民に納得させる一方で征鮮論を押さえ込むのは、難しいのでは?」

「半島を植民地化したところで、持て余すだけだ」頼朋翁は、征鮮論者たちを嗤うように言った。「当時北方の一騎馬民族に過ぎなかった斉が陽鮮を服属させるのに、何年かかった? 二〇年だ。それでも、斉は中華となれたのだからまだいい。我が国は、どうやろうとも中華にはなれん。半島の連中にとって我々は、永遠に東夷のままなのだ。二〇年、あるいはそれ以上の期間、皇国軍に流血を強いろとでも? 我々は、斉と同じ轍を踏むわけにはいかん。我が国が半島に求めるのは国防上の緩衝地帯であって、植民地ではない」

「頼朋翁の存念は判りました。それで、迅速に介入するとおっしゃいましたが、具体的にどのように?」

「使節団の派遣に合わせて、南嶺鎮台は大規模な演習に入る」

「演習の名目で、動員をかけるわけですか」

「何事もなければ、演習の名目であれば動員の解除も容易であるからな」

「判りました」

 もう巻き込まれることが確定的である以上、景紀としても腹を括るしかない。

「その視察団の人員は、俺の方で選定させていただいてよろしいので?」

「基幹となる団員については、すでに兵部省に根回して選定してある。身近に置く人間を数名程度なら、貴様の方で選んで構わん。とはいえ、あくまで“皇国軍の軍事視察団”として送り込む以上、あまり結城家色の濃いものにされては困るが、まあ、好きにせい」

「判りました。時に、使節団の出発は?」

「七月十五日に帯城に到着出来るようにしたいというのが、外務省側の意向だ」

「では、俺の補佐をしてもらえる団員を選定次第、残りの期間で倭館防衛を想定した訓練をさせていただきます」

「ああ、そうするがいい」

「では、早速、取りかからせていただきます」

 そう言って景紀は一礼し、立ち上がった。
 河越へ帰らずに済むという自身の願いが実現した形ではあるが、だからといって嬉しくも何ともなかった。
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