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第四章 半島の暗雲編
67 再会
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千代を出て数日後、花岡を越えて景紀一行は嶺奥国首府・鷹前へと到着した。
皇都から千代までは鉄道を使っていたことを考えると、馬車での長距離移動がいかに時間がかかるものなのか、納得出来てしまう旅路であった。
移動の間に四月は終わり、鷹前に到着したのは五月二日のことであった。
嶺州政庁となっている鷹前城は、三重の天守を持った城であった。しかし、城でありながら、鷹前城には城らしからぬ特徴があった。
「……これは、壮観だな」
馬車を降りた景紀は、思わず感嘆の声を上げてしまった。
鷹前城は堀沿いや城内の敷地に、数多の桜が植えられていたのである。
五月初旬、皇都よりも春の訪れの遅いこの地域では、今まさに桜が満開に咲き誇る時期を迎えていた。風が吹くたびに薄紅色の粉雪のごとく桜の花弁が舞い、堀の水は水面に映る桜と舞い落ちた花弁によって美しく染め上げられていた。
「私も母上も、館から見えるこの景色を毎年楽しみにしていたものです」
宵が桜の木を見上げながら言った。
「もともと三代前の佐薙家当主が、民心の慰撫と長尾家への配慮として城の周りに桜を植えたことが始まりであるそうです」
三代前の佐薙家当主は城を桜で埋め尽くすことで、軍事的拠点としての価値を失わせ、長尾家に過度な警戒を抱かれないように腐心していたのだろう。六家による支配体制の中で諸侯が生き残るための強かな策であったろう。
それだけの機転が佐薙成親にも受け継がれていれば、もっと違う未来もあったのだろうが。
景紀は皮肉と共にそう思う。
「この時期になると、二の丸あたりまで領民たちに解放しています。厳しい冬を乗り越えた彼らにとって、この桜は明るい季節の訪れを象徴するものなのだと思います」
「なるほどな。俺たちはちょうど良い時期に、鷹前に来られたらしい」
そうやって桜を見上げながら、景紀たち一行は城の奥へと入っていった。
景紀、宵、冬花は旅装を解くと城内にある館に通された。宵の母である聡に挨拶をするためである。
「この度は、遠く鷹前までおいで下さりまして、心より感謝申し上げます」
畳の敷かれた広間で平伏するように挨拶した宵の母、聡は娘と同じく艶やかな黒髪を伸した女性であった。
宵の顔立ちは幼さを残しながらも整っているが、無表情であることと目付きの所為で少し不機嫌そうに見える。一方、彼女の母は娘と同じように整った顔立ちであるが、いささか気弱そうな印象を与えるものであった。
もっとも、宵の内面の強さを知っているから、景紀はそういう印象を受けてしまうのかもしれないが。
「いや、平伏して感謝されるようなことでもないでしょう。義息として、当然のことですよ」
宵が母親を大切に思っていることを知っている景紀としては、少しばかりの達成感のような感情を覚えていた。
「それに、あなたは長尾公の妹君であられます。そこまで平伏されますと、俺たちの方が困惑してしまいますよ」
「いえ、私は景紀様たちに命を救われたのです。感謝こそすれ、蔑ろにすることなど出来ようはずもありません」
「ああ、佐薙成親の呪詛の件ですか?」
「はい。そこの陰陽師の方の尽力があったと聞いております」
聡の視線が、景紀の後ろで端然と控えている冬花に向かう。
佐薙成親の失脚によって、宵と聡は佐薙家家臣によって検閲されることなく自由に手紙の遣り取りが出来るようになっていた。その手紙の中で、宵はこれまでの事情や冬花の存在を母に報告していたという。
聡が初対面となる冬花の容姿に驚きを見せていないのは、そのためもあるのだろう。
「それに、成親様が横領の咎で処罰を受け、私も当然連座させられるべきところを、これまでの事情を斟酌して罪に問わないよう景紀様が手を回して下さったとも聞いております」
「あなたはただ、六家と佐薙家の政争に巻き込まれただけです。そのような人物を処罰しては、道理が通らないでしょう。それに、宵が悲しみます」
「この子が嫁いだのが景紀様の元であったことを、私は幸運に思っております」
もう一度、聡は平伏するように頭を下げた。
「何卒、今後もこの子のことを宜しくお願い申し上げます」
「ええ、それは言われるまでもありません」
そもそも、景紀の中には宵を蔑ろにするという選択肢はない。この少女が後悔しない人生を生きて欲しいと思っている。
「宵」
「はい、景紀様」
「俺は冬花と、少し桜を見ながら城内を巡ってくる。母君と二人きりで話したいこともあるだろう?」
「……ありがとうございます」
宵は少しだけ戸惑いと困惑を表情に浮かべながらも、少年の気遣いを素直に受け取ることにした。
◇◇◇
景紀と冬花が出ていき、広間には親子二人が残された。
「……」
宵は正直、この状況を嬉しく思いつつも戸惑っていた。自分は、母と二度と会わぬ覚悟で鷹前を出た。母もまた、宵に結城家の人間として生きるように言いつけて送り出したのだ。
それなのに今、その母との再会を果たしている。
自分は母の言い付けを破ってしまったのではないだろうか、娘と別れる覚悟を決めていた母の決意を蔑ろにしてしまったのではないだろうか、そんな心配があるのだ。
「……宵、こちらに来なさい」
景紀の横に控えていた位置から動こうとしない宵に、聡は穏やかに声をかけた。
「はい」
少し硬い動作で母の側に近寄ると、そっと手を頬に添えられた。
「少し、顔つきが変わりましたね」愛おしそうに、聡は娘の顔を覗いている。「あなたのその無表情は子供の頃からあまり変わっていませんが、その奥にあるものが変わっているような気がします」
「そう、ですね」
確かに、自分が鷹前を出立した時は故郷の民のために六家に身を捧げる覚悟を決めていた。しかし、今もその思いはあるが、より積極的な覚悟に置き換わっている。今、宵の胸の内にあるのは景紀を支えたいという思いだ。
「あの方を、お慕いしているのですね?」
「はい」
少し気恥ずかしそうに答えた宵に、聡はほっとしたような笑みを見せる。
「此度の婚儀が、あなたにとって良きものであったことを、母として嬉しく思います」ぽすん、と聡は我が子を抱きしめた。「そして、あなたにまた会えたことを嬉しく思っています」
「母上……」
母の腕の中で、宵は体を弛緩させた。こうして抱きしめられたのは、久しぶりのことであった。鷹前を出立する時にはもう、今生の別れになると覚悟していたので、母も娘に未練を残すような行為はしなかった。
だから本当に、宵が母に抱きしめられるのは久しぶりなのだ。
ただ、それでも宵の瞳に涙は浮かばなかった。それは、母の前で見せるべきもではないという以前のような考えではなく、ただ自分が涙を見せていいのは景紀だけだという思いがあるからだ。
涙を流す基準一つとっても、自分は確かに、ここを発つ前と今とでは大きく変わったのだろう。
「時に、あの冬花という娘のことですが」
聡は宵を離すと、少し言いにくそうに言葉を続けた。
「宵はあの娘を友人と思っているようですが、やはり母としては少し心配になってしまいます」
「……」
母までそういうことを言うのか、と宵は少し辟易とした気分になりかけたが、よくよく考えたら母だからこそ心配なのかもしれない。
佐薙成親の正室として嫁いでおきながら、世継ぎを生めなかった母。それは、ただでさえ佐薙家内で孤立気味だった母をさらに孤立させたことだろう。
「もちろん、せっかくの友人を排斥しろとは言いません」
子供を諭す親特有の、心配と愛情と厳しさが混ぜ合わさった声で、聡は言う。
「しかし一方で、宵は景紀様の正室としての立場を確固たるものにしなければならないのです。ですから、早く景紀様のお子を、それも男児を授かるのです」
確かに、それは一つの道理だろうと宵は思う。母親自身の体験から導き出された結論でもあるのだろう。里見善光が自分と冬花の分断を図ろうとしているのも、まさにその点を突こうとしたものであるのだから。
となると、政敵に付け入る隙を与えないためにも、自分が景紀の正室としての立場を確固たるものにする必要があるか。
自分が景紀の正室であることと、冬花が景紀のシキガミであることとは別個の問題であるはずなのだが、やはりそれは自分たちの意識の問題で、周囲からはそう見られていないのだろう。
つまりは、双方の認識の齟齬、乖離、断絶。面倒なことであった。
確かにこんなことが続けば、景紀が人間不信に陥り、隠居願望を口にするのも納得出来るな、と宵は思った。
まあ、隠居されても困るのだが。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
景紀と宵は、佐薙家当主の居館だった建物に逗留することになった。
佐薙家当主が不在のため、この館の主もまた不在であった。
「まったく、こんなところに逗留することになるなんて、何かの因縁を感じるな」
夜、白い寝巻に着替えた景紀が部屋を見回しながら皮肉そうに言った。調度品の趣味は、恐らく佐薙成親のものだろう。自らが失脚させた人間の部屋に泊まるというのも、中々に奇妙な感覚であった。
「とりあえず、明日以降、鉄道問題以外にも領内の振興策の実施のために色々動き回る。宵も付いてくるだろ?」
「はい、是非ともお供させていただきます」
自身が関われることが嬉しいのか、行燈の淡い光に照らされた少女の顔には微かな喜色が浮かんでいた。
「んじゃあ、よろしく頼むぜ」
「はい」
いつも通り布団の上で正座していた宵が、応ずるように頭を下げた。
「とりあえず、今日はもう寝るか」
景紀が枕元に置いた懐中時計の時間を確認すると、夜の九時を回っていた。寝るにはちょうど良い時間だろう。
「景紀様」すると、布団に入り込もうとする景紀に宵は声をかけた。「そちらに行ってもよろしいでしょうか?」
「……ああ、いいよ」
宵の意図を察して、景紀はなるべく柔らかい声で応じた。その言葉を待っていたかのように、するりと艶やかな黒髪をした少女が布団の中に入り込んでくる。
横になった景紀の上に、もたれ掛かるようにして宵が被さった。小柄な少女の頭が、ちょうど少年の胸にあたりに来る。それはどこか、小動物が甘える仕草にも似ていた。
「……何だか、いつもの宵と違って甘えん坊な感じだな」
「そうですね」自らの頭を景紀の胸に委ねながら、宵は言う。「少し、自分でも思うところがありまして」
「ああ」
景紀はあやすような調子で、宵の髪を梳いていく。
「……景紀様をお支えするにも、やはりあなたの正室としての立場を確固たるものにしなければならないと思うのです」
裾からはだけた足を、宵は景紀の足に絡み付かせた。絹のように滑らかな肌の感触が、景紀の脳裏に伝わる。
「景紀様の妻としての役割を果たせれば、里見善光のような輩も黙らせることが出来るのではないかと」
慎ましやかながらも弾力を感じさせる胸を、宵は景紀の体に押し付けている。彼女は、事前にわざと寝巻の帯を緩めに巻いていた。
「そっか」
景紀の方は、硝子細工を触るような手付きで宵を抱きしめている。
「済殿にも、今夜、こうなるかもしれないということは伝えてあります」
景紀一行の随員として、宵の世話役である益永済も加わっていた。子を授かる可能性がある行為をする以上、世話役には事前に報告をしておく必要があった。
「ただ、済は少し心配していたんじゃないか? 十六だが、お前の体は同年代に比べて小さい。子を成すにはもう少し体が成熟してからの方がいいだろう、ってのが済の見立てだろ?」
宵の世話役として、済は景紀にもそうした注意を与えていた。
「しかし、世継ぎを生めぬとなるとそこに付け入ろうとする人間も出てくるでしょうから。そんなことで、私や景紀様、冬花様の関係に亀裂が入るのは嫌なのです」
だが、宵には宵なりの覚悟があるようであった。
行燈によって薄暗く照らされた室内で、二人の視線が交わる。先に折れたのは、景紀だった。
「……ほんと、お前の覚悟にはいつも負けるよ」
そして、小さく笑みを零す。少女の想いを無碍にすることは出来なかった。
「ただし、一回だけだからな」
「はい、よろしくお願いいたします」
その整った顔立ちに、宵は口元に艶めかしい笑みを浮かべていた。
「まったく……」
急に色気を増した態度に、景紀も観念せざるを得なかった。くるりと体勢を入れ替えて、宵を布団の上に横たえる。
「きゃっ―――」
突然のことに、宵の甘い悲鳴が漏れる。白い寝巻は、すでに胸の辺りの合わせ目がはだけていた。
―――その夜、薄明かりの中で、二つの影が一つに重なった。
皇都から千代までは鉄道を使っていたことを考えると、馬車での長距離移動がいかに時間がかかるものなのか、納得出来てしまう旅路であった。
移動の間に四月は終わり、鷹前に到着したのは五月二日のことであった。
嶺州政庁となっている鷹前城は、三重の天守を持った城であった。しかし、城でありながら、鷹前城には城らしからぬ特徴があった。
「……これは、壮観だな」
馬車を降りた景紀は、思わず感嘆の声を上げてしまった。
鷹前城は堀沿いや城内の敷地に、数多の桜が植えられていたのである。
五月初旬、皇都よりも春の訪れの遅いこの地域では、今まさに桜が満開に咲き誇る時期を迎えていた。風が吹くたびに薄紅色の粉雪のごとく桜の花弁が舞い、堀の水は水面に映る桜と舞い落ちた花弁によって美しく染め上げられていた。
「私も母上も、館から見えるこの景色を毎年楽しみにしていたものです」
宵が桜の木を見上げながら言った。
「もともと三代前の佐薙家当主が、民心の慰撫と長尾家への配慮として城の周りに桜を植えたことが始まりであるそうです」
三代前の佐薙家当主は城を桜で埋め尽くすことで、軍事的拠点としての価値を失わせ、長尾家に過度な警戒を抱かれないように腐心していたのだろう。六家による支配体制の中で諸侯が生き残るための強かな策であったろう。
それだけの機転が佐薙成親にも受け継がれていれば、もっと違う未来もあったのだろうが。
景紀は皮肉と共にそう思う。
「この時期になると、二の丸あたりまで領民たちに解放しています。厳しい冬を乗り越えた彼らにとって、この桜は明るい季節の訪れを象徴するものなのだと思います」
「なるほどな。俺たちはちょうど良い時期に、鷹前に来られたらしい」
そうやって桜を見上げながら、景紀たち一行は城の奥へと入っていった。
景紀、宵、冬花は旅装を解くと城内にある館に通された。宵の母である聡に挨拶をするためである。
「この度は、遠く鷹前までおいで下さりまして、心より感謝申し上げます」
畳の敷かれた広間で平伏するように挨拶した宵の母、聡は娘と同じく艶やかな黒髪を伸した女性であった。
宵の顔立ちは幼さを残しながらも整っているが、無表情であることと目付きの所為で少し不機嫌そうに見える。一方、彼女の母は娘と同じように整った顔立ちであるが、いささか気弱そうな印象を与えるものであった。
もっとも、宵の内面の強さを知っているから、景紀はそういう印象を受けてしまうのかもしれないが。
「いや、平伏して感謝されるようなことでもないでしょう。義息として、当然のことですよ」
宵が母親を大切に思っていることを知っている景紀としては、少しばかりの達成感のような感情を覚えていた。
「それに、あなたは長尾公の妹君であられます。そこまで平伏されますと、俺たちの方が困惑してしまいますよ」
「いえ、私は景紀様たちに命を救われたのです。感謝こそすれ、蔑ろにすることなど出来ようはずもありません」
「ああ、佐薙成親の呪詛の件ですか?」
「はい。そこの陰陽師の方の尽力があったと聞いております」
聡の視線が、景紀の後ろで端然と控えている冬花に向かう。
佐薙成親の失脚によって、宵と聡は佐薙家家臣によって検閲されることなく自由に手紙の遣り取りが出来るようになっていた。その手紙の中で、宵はこれまでの事情や冬花の存在を母に報告していたという。
聡が初対面となる冬花の容姿に驚きを見せていないのは、そのためもあるのだろう。
「それに、成親様が横領の咎で処罰を受け、私も当然連座させられるべきところを、これまでの事情を斟酌して罪に問わないよう景紀様が手を回して下さったとも聞いております」
「あなたはただ、六家と佐薙家の政争に巻き込まれただけです。そのような人物を処罰しては、道理が通らないでしょう。それに、宵が悲しみます」
「この子が嫁いだのが景紀様の元であったことを、私は幸運に思っております」
もう一度、聡は平伏するように頭を下げた。
「何卒、今後もこの子のことを宜しくお願い申し上げます」
「ええ、それは言われるまでもありません」
そもそも、景紀の中には宵を蔑ろにするという選択肢はない。この少女が後悔しない人生を生きて欲しいと思っている。
「宵」
「はい、景紀様」
「俺は冬花と、少し桜を見ながら城内を巡ってくる。母君と二人きりで話したいこともあるだろう?」
「……ありがとうございます」
宵は少しだけ戸惑いと困惑を表情に浮かべながらも、少年の気遣いを素直に受け取ることにした。
◇◇◇
景紀と冬花が出ていき、広間には親子二人が残された。
「……」
宵は正直、この状況を嬉しく思いつつも戸惑っていた。自分は、母と二度と会わぬ覚悟で鷹前を出た。母もまた、宵に結城家の人間として生きるように言いつけて送り出したのだ。
それなのに今、その母との再会を果たしている。
自分は母の言い付けを破ってしまったのではないだろうか、娘と別れる覚悟を決めていた母の決意を蔑ろにしてしまったのではないだろうか、そんな心配があるのだ。
「……宵、こちらに来なさい」
景紀の横に控えていた位置から動こうとしない宵に、聡は穏やかに声をかけた。
「はい」
少し硬い動作で母の側に近寄ると、そっと手を頬に添えられた。
「少し、顔つきが変わりましたね」愛おしそうに、聡は娘の顔を覗いている。「あなたのその無表情は子供の頃からあまり変わっていませんが、その奥にあるものが変わっているような気がします」
「そう、ですね」
確かに、自分が鷹前を出立した時は故郷の民のために六家に身を捧げる覚悟を決めていた。しかし、今もその思いはあるが、より積極的な覚悟に置き換わっている。今、宵の胸の内にあるのは景紀を支えたいという思いだ。
「あの方を、お慕いしているのですね?」
「はい」
少し気恥ずかしそうに答えた宵に、聡はほっとしたような笑みを見せる。
「此度の婚儀が、あなたにとって良きものであったことを、母として嬉しく思います」ぽすん、と聡は我が子を抱きしめた。「そして、あなたにまた会えたことを嬉しく思っています」
「母上……」
母の腕の中で、宵は体を弛緩させた。こうして抱きしめられたのは、久しぶりのことであった。鷹前を出立する時にはもう、今生の別れになると覚悟していたので、母も娘に未練を残すような行為はしなかった。
だから本当に、宵が母に抱きしめられるのは久しぶりなのだ。
ただ、それでも宵の瞳に涙は浮かばなかった。それは、母の前で見せるべきもではないという以前のような考えではなく、ただ自分が涙を見せていいのは景紀だけだという思いがあるからだ。
涙を流す基準一つとっても、自分は確かに、ここを発つ前と今とでは大きく変わったのだろう。
「時に、あの冬花という娘のことですが」
聡は宵を離すと、少し言いにくそうに言葉を続けた。
「宵はあの娘を友人と思っているようですが、やはり母としては少し心配になってしまいます」
「……」
母までそういうことを言うのか、と宵は少し辟易とした気分になりかけたが、よくよく考えたら母だからこそ心配なのかもしれない。
佐薙成親の正室として嫁いでおきながら、世継ぎを生めなかった母。それは、ただでさえ佐薙家内で孤立気味だった母をさらに孤立させたことだろう。
「もちろん、せっかくの友人を排斥しろとは言いません」
子供を諭す親特有の、心配と愛情と厳しさが混ぜ合わさった声で、聡は言う。
「しかし一方で、宵は景紀様の正室としての立場を確固たるものにしなければならないのです。ですから、早く景紀様のお子を、それも男児を授かるのです」
確かに、それは一つの道理だろうと宵は思う。母親自身の体験から導き出された結論でもあるのだろう。里見善光が自分と冬花の分断を図ろうとしているのも、まさにその点を突こうとしたものであるのだから。
となると、政敵に付け入る隙を与えないためにも、自分が景紀の正室としての立場を確固たるものにする必要があるか。
自分が景紀の正室であることと、冬花が景紀のシキガミであることとは別個の問題であるはずなのだが、やはりそれは自分たちの意識の問題で、周囲からはそう見られていないのだろう。
つまりは、双方の認識の齟齬、乖離、断絶。面倒なことであった。
確かにこんなことが続けば、景紀が人間不信に陥り、隠居願望を口にするのも納得出来るな、と宵は思った。
まあ、隠居されても困るのだが。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
景紀と宵は、佐薙家当主の居館だった建物に逗留することになった。
佐薙家当主が不在のため、この館の主もまた不在であった。
「まったく、こんなところに逗留することになるなんて、何かの因縁を感じるな」
夜、白い寝巻に着替えた景紀が部屋を見回しながら皮肉そうに言った。調度品の趣味は、恐らく佐薙成親のものだろう。自らが失脚させた人間の部屋に泊まるというのも、中々に奇妙な感覚であった。
「とりあえず、明日以降、鉄道問題以外にも領内の振興策の実施のために色々動き回る。宵も付いてくるだろ?」
「はい、是非ともお供させていただきます」
自身が関われることが嬉しいのか、行燈の淡い光に照らされた少女の顔には微かな喜色が浮かんでいた。
「んじゃあ、よろしく頼むぜ」
「はい」
いつも通り布団の上で正座していた宵が、応ずるように頭を下げた。
「とりあえず、今日はもう寝るか」
景紀が枕元に置いた懐中時計の時間を確認すると、夜の九時を回っていた。寝るにはちょうど良い時間だろう。
「景紀様」すると、布団に入り込もうとする景紀に宵は声をかけた。「そちらに行ってもよろしいでしょうか?」
「……ああ、いいよ」
宵の意図を察して、景紀はなるべく柔らかい声で応じた。その言葉を待っていたかのように、するりと艶やかな黒髪をした少女が布団の中に入り込んでくる。
横になった景紀の上に、もたれ掛かるようにして宵が被さった。小柄な少女の頭が、ちょうど少年の胸にあたりに来る。それはどこか、小動物が甘える仕草にも似ていた。
「……何だか、いつもの宵と違って甘えん坊な感じだな」
「そうですね」自らの頭を景紀の胸に委ねながら、宵は言う。「少し、自分でも思うところがありまして」
「ああ」
景紀はあやすような調子で、宵の髪を梳いていく。
「……景紀様をお支えするにも、やはりあなたの正室としての立場を確固たるものにしなければならないと思うのです」
裾からはだけた足を、宵は景紀の足に絡み付かせた。絹のように滑らかな肌の感触が、景紀の脳裏に伝わる。
「景紀様の妻としての役割を果たせれば、里見善光のような輩も黙らせることが出来るのではないかと」
慎ましやかながらも弾力を感じさせる胸を、宵は景紀の体に押し付けている。彼女は、事前にわざと寝巻の帯を緩めに巻いていた。
「そっか」
景紀の方は、硝子細工を触るような手付きで宵を抱きしめている。
「済殿にも、今夜、こうなるかもしれないということは伝えてあります」
景紀一行の随員として、宵の世話役である益永済も加わっていた。子を授かる可能性がある行為をする以上、世話役には事前に報告をしておく必要があった。
「ただ、済は少し心配していたんじゃないか? 十六だが、お前の体は同年代に比べて小さい。子を成すにはもう少し体が成熟してからの方がいいだろう、ってのが済の見立てだろ?」
宵の世話役として、済は景紀にもそうした注意を与えていた。
「しかし、世継ぎを生めぬとなるとそこに付け入ろうとする人間も出てくるでしょうから。そんなことで、私や景紀様、冬花様の関係に亀裂が入るのは嫌なのです」
だが、宵には宵なりの覚悟があるようであった。
行燈によって薄暗く照らされた室内で、二人の視線が交わる。先に折れたのは、景紀だった。
「……ほんと、お前の覚悟にはいつも負けるよ」
そして、小さく笑みを零す。少女の想いを無碍にすることは出来なかった。
「ただし、一回だけだからな」
「はい、よろしくお願いいたします」
その整った顔立ちに、宵は口元に艶めかしい笑みを浮かべていた。
「まったく……」
急に色気を増した態度に、景紀も観念せざるを得なかった。くるりと体勢を入れ替えて、宵を布団の上に横たえる。
「きゃっ―――」
突然のことに、宵の甘い悲鳴が漏れる。白い寝巻は、すでに胸の辺りの合わせ目がはだけていた。
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