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第四章 半島の暗雲編
64 職制改革構想
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一通り身近な者たちへの帰還の挨拶が終わった後、城内の景紀の書斎には宵、冬花、新八が集合していた。
「父上は、このまま政務に復帰するつもりらしい」
冬花が盗聴や覗き見防止のための結界を張った部屋で、景紀は先ほどの父との会話について報告した。
「父上としては、自分の寵臣たちを俺が重用しなかったことが不満らしい」
「しかし、それは重臣の皆様を蔑ろにすることに繋がるのでは?」
「ああ、宵の指摘は正しい。代替わりは、そうした意味では父上の側近たちの影響力を排除して、家老を始めとした官僚系家臣団を領国の統治機構として用人系統の家臣団から完全に分離させる良い機会なんだがな」
「しかし景紀様、それは封建的な身分制度や統治制度を解体することにも繋がります。あまり性急にやり過ぎれば、官僚系統の者たちはともかく、用人の者たちからは不満も出ましょう。そこは、結城家一家だけでなく、中央政府も巻き込んだ形で慎重に事を進めるべきかと」
「まあ、宵の指摘ももっともなんだよなぁ」
腕を組んで、景紀は悩ましげに唸る。
未だ封建的な統治制度が継続している秋津皇国において、中央集権化への制度的課題は、将家やその家臣団をどのようにして中央政府に取り込むか、ということであった。
用人系統の家臣団は、その家の庶務を司る者たちであり、ざっくりとした表現が許されるならば“召使い”たちである。これを中央政府が取り込んだところで、意味はない。むしろ、今まで将家が彼らに支給していた給禄まで中央政府が引き継ぐことになり、国家財政を圧迫するだろう。
一方で家老を始めとする官僚系統の家臣団は、領国統治を始めとした地方行政に通暁した者たちであり、彼らを中央政府、特に地方行政の統制を行っている内務官僚として取り込むことには一定の意義がある。しかし問題は、彼ら家臣の意識であった。
これまで代々その将家に仕えてきた者たちにとって、突然、主君が人間という実体のある存在から“中央政府”、つまりは国家という目に見えない存在に変わることは戸惑いと混乱を生むだろう。
そのためには将家の当主自らが中央集権化に協力していくことが求められ、実際に財政難に陥って統治権を皇主に返上した将家ではこうした現象が不可抗力的に発生している。
しかし、六家に関しては列侯会議における拒否権など実質的に中央政府の意向を左右出来る立場にあるため、中央政府に服属するという意識は薄く(そもそも六家は皇主陛下を盟主にして盟約を結んだ歴史があるため、皇主にのみ服属するという意識が強い。また中央政府自体が六家の集団指導体制を確立するための手段)、数百年続く封建制度が色濃く残っているという実態があった。
だからこそ、中央集権化を目指す第一段階として、官僚系家臣団と用人系家臣団の公私の別を完全に分離してしまうことが必要なわけであるが、そうなると用人系統の家臣団は主君にその能力を認められることで家柄に関係なく立身出世する機会を奪われることになる。
だからこそ、宵の言うように将家の職制改革は慎重に行う必要があったのである。
「しかしそれでも、必要な改革ではあるんだよぁ」
「それは、私も理解しています。ただ、やはり景忠様がご健在な内は難しいかと。景紀様が真の意味で結城家の全権を掌握された後に、行うべきでしょう」
宵は景忠亡き後の結城家の構想について、淡々とした口調で述べていく。その冷徹な眼差しに、逆に景紀は満足していた。
「そのためにも、以前にも言った通り、益永たち重臣連中の支持を取り付けておく必要はあるな」
「それに関しては、あまり問題ないんじゃない?」冬花が会話に加わる。「少なくとも、景紀が皇都に連れていった重臣たちは景紀を次期当主として認めているわ。むしろ直近の問題としては、城内でそうした景紀支持派と御館様の側近たちが対立することじゃないの?」
「まあ、そうなりそうだからこそ、俺は東北視察に行こうとしているわけだが」
例え、景紀支持派が城内にいたとしても、担ぐべき神輿である景紀自身がいなければ、行動は起こせない。そのため、当面の間は彼らとしても景忠が倒れる前の状態に回帰せざるを得ないだろう。
もっとも、景紀自身としては、自分を支持している人間たちがどこまで本気なのか怪しいと思っている。冬花は景紀支持派などというが、所詮は“次期当主としての景紀を認めている”程度であり、景忠を強引に隠居に追い込んでまで景紀が結城家内の権力を掌握することを期待しているわけではないだろう。
冬花には悪いが、“景紀支持派”などというのは彼女自身の願望が生み出した幻想なのだ。
「んじゃあ、僕はどないすればいいんや?」柱に寄りかかって煙管を弄んでいる新八が問うた。「なんやら城内がちょいときな臭くなりそうな雰囲気やけど、家臣団内の内偵なら冬花の嬢ちゃんの方が適任やろ?」
如何に変装が得意な新八とはいえ、顔の割れている結城家家臣団が相手では、その諜報能力を十分に発揮することは出来ない。むしろ、その聴覚などによって家臣たちの動向を探ることの出来る冬花の方が、内偵には適任であった。
「まあ、対峙すべき相手は結城家内だけにいるわけじゃないしな。新八さんには、皇都やその周辺で攘夷派連中の動向を探っておいてくれ。出来れば、攘夷派を通じて伊丹や一色の動向を探れるとなおいい。俺は当面、皇都に戻れそうにないから、信頼出来る奴を一人、皇都に置いておきたい」
「了解。任しとき。若の方も、気ぃ付けてな」
そう言い残して、新八はするりと障子の向こうへと消えていった。それだけで、忍の青年の気配は完全に感じ取れなくなった。
「さて、宵や冬花の方はどうだった?」
景紀は新八の気配が消えた方向から、二人の少女へと視線を移した。
「里見善光という景忠様の側用人から、冬花様に関するお話を少々」
「私も、里見殿の件でちょっと」
宵が里見の名を出した途端、冬花も宵に促されたかのようにその人物の名を出した。
「里見善光、だと?」
途端、景紀の目に剣呑な光が宿る。
「まずは宵、あの男にどんなことを言われた?」
「冬花様のお話も控えていますからざっくりとご報告いたしますと、私に対して正室としての自覚を持て、景紀様の寵愛を受ける冬花様を警戒しろ、というものでした。冬花様のことを誹謗する内容もありましたが、それもお伝えした方が?」
「いや、予想がつくからいい」
聞くのも不愉快だと言わんばかりの調子で、景紀は手を振った。
「それで、冬花の方は何かあったのか?」
「ああ、それなんだけど……」
少し視線を彷徨わせながら、冬花は父親から聞かされた話を景紀に伝えた。側室云々の話は、自分が聞かされる分には何とも思わないのであるが、それをこの少年の前で自分で言うには何とも気恥ずかしい思いがあるのだ。
「……なるほど、な」
それでも羞恥を堪えて一通り冬花が話し終わると、景紀は低く呟いた。
「別に父上の側用人をしている分には何とも思わんが、未だに俺の冬花に難癖を付けてくるのは少し苛立つな」
“少し”どころではないだろう、とその表情を見ていた冬花と宵は心を一つにした。
「その里見善光という方は、それほど問題のある人物なのですか?」
里見善光という人物の詳細情報を知らない宵は、そう尋ねる。
「俺と冬花が小さいころから、冬花のことを不吉の子だ何だと言っていた奴の一人だぞ? それも、父上に対しては忠実な臣下を気取りながら、陰で冬花の容姿や妖狐の血を引くことを悪し様に言っていやがった奴だ」
吐き捨てるように、景紀は答えた。
「なるほど」宵は、その言葉で景紀が里見をどう思っているかを理解した。「しかしそれは冬花様という要素を介した、景紀様の見方です。里見善光の側用人としての結城家内での政治的な位置付けはどうなのですか?」
景紀の言葉が、冬花の悪口を言われたという、かなり歪められた主観的なものであったために、宵はさらに訊いた。
それに、景紀は苦笑を見せる。
「お前、俺に対しても容赦ないな」
「景紀様を支えるのに、景紀様とまったく同じ視点では意味がないでしょう」当然のことのように、北国の姫は言った。「それに、冬花様を個人的に嫌悪していることと、その人物が有能か無能かというのは、また別個の問題です」
「まったくの正論だな」
降参、とばかりに景紀は両手をひらひらとさせた。
「まあ、主君の寵愛をいいことに専横を振るうようなことは今のところしていないな。ただまあ、重臣連中と対等な関係だと思っているらしく、益永たちとの関係が必ずしも良好ではない。まあ、これは何も里見に限った話じゃなく、歴史上の家老と側用人の関係に言えることだが」
宵の問いに、景紀が答える。
「しかし、そうであるならば、一度築き上げた地位を当主が代替わりしたからと簡単に諦められるほどの人物でもないのでは?」
「一度得た権力にしがみつくっていうのも、これまた歴史上、珍しい話ではないがな」
「そういう景紀様は、あっさりと当主代理としての権力をお父上に返上されたようですが?」
「正直、面倒だからな。高い地位や権力にしがみつく奴の気が知れん」
「まあ、今回はそうした景紀様の性格が結城家内に過度な混乱を引き起こさずに済みそうなのが幸いですね」
宵の声には、少しだけ残念そうな響きが混じっていた。彼女は以前、景紀の構想する新しい国家を見てみたいと言っていた。それが、遠のいたと感じたのだろう。
「それにしても、こうして見ますと、景紀様の言う中央集権化に向けた将家家臣団の職制改革の重要性が判るような気がします。主君がどの家臣を重用するかで簡単に家内に混乱が起こるようでは、統制の取れた統治機構とは言えませんから」
「まあ、近代的な統治機構が完成された暁には、将家当主なんていうものは単なる社会的称号の一つに過ぎなくなるだろうな。公家が将家に権力を奪われたように、将家は近代的な官僚制度にその権力を奪われることになるだろうよ」
封建制度を維持している側の人間であるというのに、景紀の声はひどく達観したものであった。彼自身の隠居願望とともに、封建制度の限界性を見抜けるだけの判断力が、景紀をしてそうした態度を取らせているのである。
「職制改革については景紀様が正式に当主となった日の課題として、私としては冬花様にお尋ねしたいことがあります」
今まで景紀に向けていた顔を、宵は冬花へと向けた。
「何でしょうか?」
「冬花様が景紀様の側室に云々という話について、冬花様ご自身の存念を、私は知りたいのです」
宵は真っ直ぐな視線で、じっと白髪の少女を見つめる。
景紀は、あえて黙っていてくれているようだった。
宵としても、側室云々という話が景紀にとって不愉快なものであることは察している。彼にとって葛葉冬花という少女は自らのシキガミであって、その関係性を彼自身は大切にしているのだ。
しかし冬花にとってはどうなのだろうか、と宵は疑問であった。
宵としても同じ女性として、ここまで景紀のために尽くしている少女に相応に幸せを掴んで欲しいという思いがあるのだ。そこには、景紀と冬花の間に自分が後から割り込んでしまったという、負い目も関係しているのかもしれない。
景紀も以前、冬花が自分など生まれてこなければよかったと思わせたくないと言っていた。
冬花が主とシキガミという関係以外のものも望むのであれば、きっと彼は戸惑いながらも受入れるだろう。
「どうなのですか、冬花様?」
尋ねる宵に対して、冬花は少し困惑げな表情を浮かべていた。
「……ちょっと景紀の前で言うのは恥ずかしいのですが」躊躇いがちに、それでもシキガミの少女は答えた。「若様を主君として敬愛しておりますし、一人の殿方としてお慕い申し上げる気持ちも、否定しません。ただ、それで景紀と結ばれたいかと言われますと、違う気がするのです。私は、若様のシキガミでありたいのです」
「そうですか」
躊躇いながらもはっきりと紡がれた陰陽師の少女の言葉に、北国の姫は納得とともに頷いた。
何も、殿方との添い遂げ方は夫婦関係だけとは限らない。冬花の場合は少し特殊なのだろうが、主とシキガミという関係で生涯を共にするのも、また一つの関係性の在り様だろう。
あるいは、と宵は思った。
もしかしたらこの少女は、子を成すということに対して無意識の恐れがあるのではないだろうか。自分と同じ妖狐の血を色濃く引いた赤子が生まれれば、自分が幼いころに味わった辛い思いを、子供にもさせてしまうのではないか、と。
もっとも、冬花自身がそうしたことを口にしていない以上、宵が訊くわけにもいかないが。
「判りました。では、これからも互いに景紀様をお支え申し上げましょう」
「はい。我が身命を賭しまして」
それで、女同士の問答は終わった。
途端、景紀の長い溜息が部屋に響く。
「まったく、そんな小っ恥ずかしいこと、よく淡々と訊けるな」
景紀は上体を反らして両手を畳につき、天を仰いでいる。
「しかし、冬花様のお気持ちも判ったでしょう?」
少しからかうような声で、宵は言う。冬花は恥じらうように肩を縮こまらせて、景紀は片手で顔を覆った。
「……まったく、お前って奴は」
呆れとも感嘆ともとれぬ声で、景紀は呟いた。
「……まあ、二人とも、これからもよろしく頼む」
「承知しております」
「ええ、もちろんよ」
そんな遣り取りが何となくおかしくて、三人はそれぞれに笑い声を上げてしまったのだった。
「父上は、このまま政務に復帰するつもりらしい」
冬花が盗聴や覗き見防止のための結界を張った部屋で、景紀は先ほどの父との会話について報告した。
「父上としては、自分の寵臣たちを俺が重用しなかったことが不満らしい」
「しかし、それは重臣の皆様を蔑ろにすることに繋がるのでは?」
「ああ、宵の指摘は正しい。代替わりは、そうした意味では父上の側近たちの影響力を排除して、家老を始めとした官僚系家臣団を領国の統治機構として用人系統の家臣団から完全に分離させる良い機会なんだがな」
「しかし景紀様、それは封建的な身分制度や統治制度を解体することにも繋がります。あまり性急にやり過ぎれば、官僚系統の者たちはともかく、用人の者たちからは不満も出ましょう。そこは、結城家一家だけでなく、中央政府も巻き込んだ形で慎重に事を進めるべきかと」
「まあ、宵の指摘ももっともなんだよなぁ」
腕を組んで、景紀は悩ましげに唸る。
未だ封建的な統治制度が継続している秋津皇国において、中央集権化への制度的課題は、将家やその家臣団をどのようにして中央政府に取り込むか、ということであった。
用人系統の家臣団は、その家の庶務を司る者たちであり、ざっくりとした表現が許されるならば“召使い”たちである。これを中央政府が取り込んだところで、意味はない。むしろ、今まで将家が彼らに支給していた給禄まで中央政府が引き継ぐことになり、国家財政を圧迫するだろう。
一方で家老を始めとする官僚系統の家臣団は、領国統治を始めとした地方行政に通暁した者たちであり、彼らを中央政府、特に地方行政の統制を行っている内務官僚として取り込むことには一定の意義がある。しかし問題は、彼ら家臣の意識であった。
これまで代々その将家に仕えてきた者たちにとって、突然、主君が人間という実体のある存在から“中央政府”、つまりは国家という目に見えない存在に変わることは戸惑いと混乱を生むだろう。
そのためには将家の当主自らが中央集権化に協力していくことが求められ、実際に財政難に陥って統治権を皇主に返上した将家ではこうした現象が不可抗力的に発生している。
しかし、六家に関しては列侯会議における拒否権など実質的に中央政府の意向を左右出来る立場にあるため、中央政府に服属するという意識は薄く(そもそも六家は皇主陛下を盟主にして盟約を結んだ歴史があるため、皇主にのみ服属するという意識が強い。また中央政府自体が六家の集団指導体制を確立するための手段)、数百年続く封建制度が色濃く残っているという実態があった。
だからこそ、中央集権化を目指す第一段階として、官僚系家臣団と用人系家臣団の公私の別を完全に分離してしまうことが必要なわけであるが、そうなると用人系統の家臣団は主君にその能力を認められることで家柄に関係なく立身出世する機会を奪われることになる。
だからこそ、宵の言うように将家の職制改革は慎重に行う必要があったのである。
「しかしそれでも、必要な改革ではあるんだよぁ」
「それは、私も理解しています。ただ、やはり景忠様がご健在な内は難しいかと。景紀様が真の意味で結城家の全権を掌握された後に、行うべきでしょう」
宵は景忠亡き後の結城家の構想について、淡々とした口調で述べていく。その冷徹な眼差しに、逆に景紀は満足していた。
「そのためにも、以前にも言った通り、益永たち重臣連中の支持を取り付けておく必要はあるな」
「それに関しては、あまり問題ないんじゃない?」冬花が会話に加わる。「少なくとも、景紀が皇都に連れていった重臣たちは景紀を次期当主として認めているわ。むしろ直近の問題としては、城内でそうした景紀支持派と御館様の側近たちが対立することじゃないの?」
「まあ、そうなりそうだからこそ、俺は東北視察に行こうとしているわけだが」
例え、景紀支持派が城内にいたとしても、担ぐべき神輿である景紀自身がいなければ、行動は起こせない。そのため、当面の間は彼らとしても景忠が倒れる前の状態に回帰せざるを得ないだろう。
もっとも、景紀自身としては、自分を支持している人間たちがどこまで本気なのか怪しいと思っている。冬花は景紀支持派などというが、所詮は“次期当主としての景紀を認めている”程度であり、景忠を強引に隠居に追い込んでまで景紀が結城家内の権力を掌握することを期待しているわけではないだろう。
冬花には悪いが、“景紀支持派”などというのは彼女自身の願望が生み出した幻想なのだ。
「んじゃあ、僕はどないすればいいんや?」柱に寄りかかって煙管を弄んでいる新八が問うた。「なんやら城内がちょいときな臭くなりそうな雰囲気やけど、家臣団内の内偵なら冬花の嬢ちゃんの方が適任やろ?」
如何に変装が得意な新八とはいえ、顔の割れている結城家家臣団が相手では、その諜報能力を十分に発揮することは出来ない。むしろ、その聴覚などによって家臣たちの動向を探ることの出来る冬花の方が、内偵には適任であった。
「まあ、対峙すべき相手は結城家内だけにいるわけじゃないしな。新八さんには、皇都やその周辺で攘夷派連中の動向を探っておいてくれ。出来れば、攘夷派を通じて伊丹や一色の動向を探れるとなおいい。俺は当面、皇都に戻れそうにないから、信頼出来る奴を一人、皇都に置いておきたい」
「了解。任しとき。若の方も、気ぃ付けてな」
そう言い残して、新八はするりと障子の向こうへと消えていった。それだけで、忍の青年の気配は完全に感じ取れなくなった。
「さて、宵や冬花の方はどうだった?」
景紀は新八の気配が消えた方向から、二人の少女へと視線を移した。
「里見善光という景忠様の側用人から、冬花様に関するお話を少々」
「私も、里見殿の件でちょっと」
宵が里見の名を出した途端、冬花も宵に促されたかのようにその人物の名を出した。
「里見善光、だと?」
途端、景紀の目に剣呑な光が宿る。
「まずは宵、あの男にどんなことを言われた?」
「冬花様のお話も控えていますからざっくりとご報告いたしますと、私に対して正室としての自覚を持て、景紀様の寵愛を受ける冬花様を警戒しろ、というものでした。冬花様のことを誹謗する内容もありましたが、それもお伝えした方が?」
「いや、予想がつくからいい」
聞くのも不愉快だと言わんばかりの調子で、景紀は手を振った。
「それで、冬花の方は何かあったのか?」
「ああ、それなんだけど……」
少し視線を彷徨わせながら、冬花は父親から聞かされた話を景紀に伝えた。側室云々の話は、自分が聞かされる分には何とも思わないのであるが、それをこの少年の前で自分で言うには何とも気恥ずかしい思いがあるのだ。
「……なるほど、な」
それでも羞恥を堪えて一通り冬花が話し終わると、景紀は低く呟いた。
「別に父上の側用人をしている分には何とも思わんが、未だに俺の冬花に難癖を付けてくるのは少し苛立つな」
“少し”どころではないだろう、とその表情を見ていた冬花と宵は心を一つにした。
「その里見善光という方は、それほど問題のある人物なのですか?」
里見善光という人物の詳細情報を知らない宵は、そう尋ねる。
「俺と冬花が小さいころから、冬花のことを不吉の子だ何だと言っていた奴の一人だぞ? それも、父上に対しては忠実な臣下を気取りながら、陰で冬花の容姿や妖狐の血を引くことを悪し様に言っていやがった奴だ」
吐き捨てるように、景紀は答えた。
「なるほど」宵は、その言葉で景紀が里見をどう思っているかを理解した。「しかしそれは冬花様という要素を介した、景紀様の見方です。里見善光の側用人としての結城家内での政治的な位置付けはどうなのですか?」
景紀の言葉が、冬花の悪口を言われたという、かなり歪められた主観的なものであったために、宵はさらに訊いた。
それに、景紀は苦笑を見せる。
「お前、俺に対しても容赦ないな」
「景紀様を支えるのに、景紀様とまったく同じ視点では意味がないでしょう」当然のことのように、北国の姫は言った。「それに、冬花様を個人的に嫌悪していることと、その人物が有能か無能かというのは、また別個の問題です」
「まったくの正論だな」
降参、とばかりに景紀は両手をひらひらとさせた。
「まあ、主君の寵愛をいいことに専横を振るうようなことは今のところしていないな。ただまあ、重臣連中と対等な関係だと思っているらしく、益永たちとの関係が必ずしも良好ではない。まあ、これは何も里見に限った話じゃなく、歴史上の家老と側用人の関係に言えることだが」
宵の問いに、景紀が答える。
「しかし、そうであるならば、一度築き上げた地位を当主が代替わりしたからと簡単に諦められるほどの人物でもないのでは?」
「一度得た権力にしがみつくっていうのも、これまた歴史上、珍しい話ではないがな」
「そういう景紀様は、あっさりと当主代理としての権力をお父上に返上されたようですが?」
「正直、面倒だからな。高い地位や権力にしがみつく奴の気が知れん」
「まあ、今回はそうした景紀様の性格が結城家内に過度な混乱を引き起こさずに済みそうなのが幸いですね」
宵の声には、少しだけ残念そうな響きが混じっていた。彼女は以前、景紀の構想する新しい国家を見てみたいと言っていた。それが、遠のいたと感じたのだろう。
「それにしても、こうして見ますと、景紀様の言う中央集権化に向けた将家家臣団の職制改革の重要性が判るような気がします。主君がどの家臣を重用するかで簡単に家内に混乱が起こるようでは、統制の取れた統治機構とは言えませんから」
「まあ、近代的な統治機構が完成された暁には、将家当主なんていうものは単なる社会的称号の一つに過ぎなくなるだろうな。公家が将家に権力を奪われたように、将家は近代的な官僚制度にその権力を奪われることになるだろうよ」
封建制度を維持している側の人間であるというのに、景紀の声はひどく達観したものであった。彼自身の隠居願望とともに、封建制度の限界性を見抜けるだけの判断力が、景紀をしてそうした態度を取らせているのである。
「職制改革については景紀様が正式に当主となった日の課題として、私としては冬花様にお尋ねしたいことがあります」
今まで景紀に向けていた顔を、宵は冬花へと向けた。
「何でしょうか?」
「冬花様が景紀様の側室に云々という話について、冬花様ご自身の存念を、私は知りたいのです」
宵は真っ直ぐな視線で、じっと白髪の少女を見つめる。
景紀は、あえて黙っていてくれているようだった。
宵としても、側室云々という話が景紀にとって不愉快なものであることは察している。彼にとって葛葉冬花という少女は自らのシキガミであって、その関係性を彼自身は大切にしているのだ。
しかし冬花にとってはどうなのだろうか、と宵は疑問であった。
宵としても同じ女性として、ここまで景紀のために尽くしている少女に相応に幸せを掴んで欲しいという思いがあるのだ。そこには、景紀と冬花の間に自分が後から割り込んでしまったという、負い目も関係しているのかもしれない。
景紀も以前、冬花が自分など生まれてこなければよかったと思わせたくないと言っていた。
冬花が主とシキガミという関係以外のものも望むのであれば、きっと彼は戸惑いながらも受入れるだろう。
「どうなのですか、冬花様?」
尋ねる宵に対して、冬花は少し困惑げな表情を浮かべていた。
「……ちょっと景紀の前で言うのは恥ずかしいのですが」躊躇いがちに、それでもシキガミの少女は答えた。「若様を主君として敬愛しておりますし、一人の殿方としてお慕い申し上げる気持ちも、否定しません。ただ、それで景紀と結ばれたいかと言われますと、違う気がするのです。私は、若様のシキガミでありたいのです」
「そうですか」
躊躇いながらもはっきりと紡がれた陰陽師の少女の言葉に、北国の姫は納得とともに頷いた。
何も、殿方との添い遂げ方は夫婦関係だけとは限らない。冬花の場合は少し特殊なのだろうが、主とシキガミという関係で生涯を共にするのも、また一つの関係性の在り様だろう。
あるいは、と宵は思った。
もしかしたらこの少女は、子を成すということに対して無意識の恐れがあるのではないだろうか。自分と同じ妖狐の血を色濃く引いた赤子が生まれれば、自分が幼いころに味わった辛い思いを、子供にもさせてしまうのではないか、と。
もっとも、冬花自身がそうしたことを口にしていない以上、宵が訊くわけにもいかないが。
「判りました。では、これからも互いに景紀様をお支え申し上げましょう」
「はい。我が身命を賭しまして」
それで、女同士の問答は終わった。
途端、景紀の長い溜息が部屋に響く。
「まったく、そんな小っ恥ずかしいこと、よく淡々と訊けるな」
景紀は上体を反らして両手を畳につき、天を仰いでいる。
「しかし、冬花様のお気持ちも判ったでしょう?」
少しからかうような声で、宵は言う。冬花は恥じらうように肩を縮こまらせて、景紀は片手で顔を覆った。
「……まったく、お前って奴は」
呆れとも感嘆ともとれぬ声で、景紀は呟いた。
「……まあ、二人とも、これからもよろしく頼む」
「承知しております」
「ええ、もちろんよ」
そんな遣り取りが何となくおかしくて、三人はそれぞれに笑い声を上げてしまったのだった。
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