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第三章 列侯会議編
番外編3 シキガミの弟と雷娘 後編
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年が明けて皇暦八三五年の一月。
皇都は相変わらず寒い日々が続いていた。
だというのに、結城家皇都屋敷の敷地内にある道場からは、熱気の籠った威勢の良い声が聞こえてくる。
執務の合間の気分転換に屋敷の庭園を散歩していた景紀は、その声を聞いてふと足を止めた。
「やはりというべきか案外というべきか、あの二人は上手くいっているようだな」
「そのようですね」彼の散歩に付き合っていた宵が頷く。「鉄之介さんも、口では文句を言いつつも八重さんとの鍛錬を楽しんでいるように見受けられます」
「素直になれない年頃って奴なのかねぇ?」
「その点、八重さんの方は判りやすいですね。ただ、男女の関係として認識しているかは少々疑問が残るところではありますが」
「まっ、どんな形であれ鉄之介と八重の距離が縮まるのは良いことだ。半分以上は俺の所為でもあるんだが、あいつもいい加減、姉離れをする歳だろうよ」
道場からの掛け声を聞きながら、景紀と宵はまたふらりと散歩を再開する。
今日は澄んだ空に太陽が浮かんでおり、寒いものの陽光を受けていると少しだけ温かく感じる。庭園の色彩は相変わらず茶色がかっているが、殺風景というほどではない。水仙や椿など、冬ならではの花が咲き、茶色がかった庭園を慎ましく彩っている。
「しかしまあ、屋敷に来るたびに冬花に挑んで、よく飽きないな、八重の奴」
普段であれば散歩であろうと景紀の側に控えている冬花がいないのは、そういう事情があった。
八重が、道場で冬花と手合わせを申し込んでいたのである。
結局、鉄之介も何だかんだ言いつつ、冬休みが終わっても浦部伊任の下で修行を続けていた。そうなると、今度は八重の方が修行の新鮮味を求めて結城家屋敷に押しかけるようになったのである。
いきなり屋敷に押しかけてきたあの日のようなことは流石にしないが、それでも冬花を打倒すべき相手と見ているらしい。さらに、結城家の家臣で武術の心得がある者に対しても、試合を申し込んでいた。
今のところ冬花が負けたことはないらしいが、それでもひやりとする場面はあったという。
また、結城家家臣で剣術や槍術の指南役を務める者たちには今一歩及ばないものの、それでも八重の武術の腕は彼らからも相応に評価されていた。
それだけ呪術・武術ともに才能豊かならば、男の子である鉄之介が刺激を受けて当然だろう。
このまま互いに切磋琢磨していけば、鉄之介もひとかどの陰陽師として名を成すに違いない。そう、景紀は思っていた。
◇◇◇
結局、この日も八重は呪術でも武術でも冬花に勝つことが出来なかった。
何度かこの妖狐の少女と試合をして感じるのは、実戦経験による差だ。結城景紀に従って、匪賊討伐や牢人反乱の鎮定に参加してきた冬花と自分とでは、やはりこなしてきた場数が違う。
「あぁぁぁー、今日も負けたわ」
負けた鬱憤を吐き出すように、八重は井戸に向かって愚痴を零した。
汗で濡れた体を清めるため、釣瓶を手繰り寄せる。組み上げた水を桶に移し、手ぬぐいを浸けて絞った。
道着の上半身をはだけさせ、汗で張り付いて気持ち悪くなったさらしも解いてしまう。
汗をまとった体に、外気の冷たさはかえって心地よい。
「……あなたって、本当に負けず嫌いね」
すると、後ろから声が掛かった。冬花の声だ。
思わず振り向いて、今の言葉を聞かれたと思って八重はばつが悪くなった。
「うぅ、何よ、悪い!?」
結局、羞恥心を誤魔化すために八重は開き直ることにした。
「いいえ、そういう気持ちは大事だと思うわよ」
彼女も体を清めようとしたのか、八重と同じように井戸から水を汲んだ。
冬花の道着は八重と違い、上下共に白ではなく、袴は濃紺であった。白と濃紺の対比は、普段とは違ったシキガミの少女の凜々しさを醸し出している。
そして、冬花もまた道着の上衣をするりと脱ぎ、汗に濡れてべっとりとしたさらしを解いた。
陰陽師の少女は二人して、水に濡らした手ぬぐいで体を拭いていく。
「ねえ、ちょっと冬花さんに訊きたいんだけど」
一度体を拭いた手ぬぐいを水で絞りながら、八重は問うた。
「あなたって、結城の若様の補佐官なのよね?」
流石に景紀などと呼び捨てにすると、この忠誠心の高い少女が不機嫌になるとここ数週間の経験で判っていたので、八重はそう言った。
「女なのにそういう役職に就いて、苦労した経験ってないの?」
「確かに、私が若様の側に控えていることで、要らぬ勘ぐりをしてくる奴はいるわよ。中には善意からか、私を若様の側室に、って言う人もいるし、まあ、女であることで色々言われることはあるわね」
「女子学士院時代はどうだったの? 武術に打ち込むよりは、もっと女子らしい礼儀作法を身に付けろ、とか言われなかった?」
「そっちはそっちでちゃんとやっていたわね。だって、若様のお側に控える人間として、教養も礼儀作法も完璧にしておかないと、若様に恥をかかせることになるもの。私は、若様のお側に控えるに相応しい人間になりたかったんだから」
冬花の言葉には、一片の疑問もなかった。自分がそうするのが当然であると、信じ切っている者の口調であった。
それだけ、結城景紀に対する想いが強いのだろう。
「……やっぱり、偉い人のお側に使える人って、みんなそうなのね」
八重と交流の深い皇宮警察の者たちも、皇主や皇族のお側に侍る側衛官などは皇族の話し相手も務められるように詩吟を始めとした高い教養が求められている。だから冬花のそうした姿勢も、彼女は理解出来た。
ただし、自分はどうなのかといわれれば、女子学士院の礼儀作法に関する講義を窮屈に感じている。
それは、冬花や皇宮警察の者たちが目指すものと、女子学士院の教師・講師陣が生徒に求めているものが違うからだろう。
冬花や皇宮警察の者たちは、己の呪術や武術、教養によって主君に仕えようとしている。
一方で、女子学士院は生徒たちに華族・士族の淑女、あるいは将来の妻として相応しい女性に育てようとしているのだ。
どうにも噛み合っていないのは、当然だった。
それでも、冬花はそれに折合いを付けていたから、女子学士院で首席の座を維持出来たのだろう。
「八重さんは、誰かの妻じゃなくて、一人の陰陽師として生きていきたいのね?」
「そうよ」きっぱりと、八重は断言した。「もちろん、龍王の血筋を繋いでいくために子供は生まなくちゃって思ってはいるけど、それだけを人生の目標にするつもりはないわ」
今の自分の目標は、父や兄を支えられる陰陽師になることだ。そのために、もっと強くならなくてはと思っている。
「この一ヶ月くらい、ずっと結城の若様とあなたたちの在り方ってのを見てきたわ」
八重にしては珍しく、どこか考え込むような表情になる。
「宵姫様って雰囲気は独特だけど、その所作は良家の子女そのものよね。礼儀作法は完璧、華道や茶道もこなせて、常に夫を献身的に支える妻。女子学士院が育てようとしている女子像そのものな気がするわ。そこいくと冬花さんは、宵姫様と同じく女の人なのに、主君に忠を尽くす武士って感じね」
八重の身の回りで、そういう生き方を選んだ女性はいなかった。だから一陰陽師として主君に仕えている葛葉冬花という存在は、彼女にとってあるべき一つの将来像だった。
「宵姫様も宵姫様で、自分なりのやり方で若様を支えようとしておられるわ。決して、型にはまったお姫様ではないわよ」
「でも、私の目指したい生き方じゃないわ」
冬花の擁護を、八重はばっさりと切り捨てた。
景紀と宵の関係は、まだどこか自身の理解が及ばないところがあった。その点、景紀と冬花の関係は判りやすい。そして、自分の理想とする生き方は冬花のそれに近いのだ。
もっとも、八重には冬花のように仕えたい主君が明確に存在するわけではないのだが。
「……まあ、私は私の生きたいように生きるわ。あんまりこんなことで悩んでいるのって私らしくないし、冬花さんみたいな生き方もあるって判っただけでも自信になるし、鉄之介だって私に女らしい淑やかさなんて求めてないだろうし」
正直、だからこそ鉄之介とは張り合いがあるといえる。彼は、女が武術が達者だからと敬遠するような少年ではない。それだけでも、彼は自分にとって得がたい存在なのだ。
「んじゃ、今日は楽しかったわ」
再び道着を着込んで、八重は言った。
「いつかあなたを打ち負かしてやるから、冬花さんも日頃の鍛錬を怠らないことね。じゃないと私と鉄之介にあっという間に追い抜かれるわよ」
びしりと人差し指を突き付けて、八重はその場を後にした。
そしてふと、今、自分が自然と自身と鉄之介の名を同時に口にしていたことに気付いたのだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
三月。
冬の寒さもようやく和らぎ始め、桜はまだだが遅咲きの種の梅が宮城を彩る季節になった。
「鉄之介、あんた、河越に帰省することになったんですって?」
その日の修行が終わり、鉄之介が井戸のところで汗を拭っていると、やってきた八重が唐突に言った。
「ああ、春休みになったらな」
道着の上衣をはだけさせたまま体を水に濡らした手ぬぐいで清めながら、鉄之介は答えた。
この三ヶ月くらいで武術の鍛錬にも打ち込んだからか、以前よりも少し筋肉がついた気がする。
「っていうか、どこから聞いたんだよ?」
「お父様からよ」
確かに、鉄之介は浦部伊任に春休みは帰省するので、その間は稽古に来られないことを告げていた。それを、八重は聞いたのだろう。
「ねぇ、私も付いていっていい?」
「はぁ?」
いったいこいつは何を言い出しているんだ、と思わず鉄之介は怪訝な目線を八重に向けてしまう。
「だって、あんたが居ないと私の鍛錬は誰が相手をするのよ」
当然のように、白い道着に汗を滲ませた少女は問うてきた。
昨年末以来、すっかり鉄之介と八重は互いを鍛錬の相手と認識するようになっていた。ときには二人で伊任一人と術比べをすることもあったほどである。
「だからって、何で俺に付いてこようとするんだよ?」
だが、それと鉄之介の帰省に八重が付き添うのは、話が別だ。
「あんたは父様から呪術を習っているけど、私はあんたの親から呪術を習ってないわ。葛葉家の方がどんなものなのか、知りたいのよ。それに、あんたの親と手合わせしてみたいって思いもあるし」
相変わらず、呆れるくらい強くなることに貪欲な少女だった。
「……お前を連れて行くと、絶対に面倒なことになりそうなんだが。主に俺が」
「何でよ」
だってそれじゃあ婚約者を親に紹介する図そのものになっちまうじゃねぇか、と正直に口にするのは八重に対して自分の想いを告白するようなものなので鉄之介は黙り込む。
何となく、母か父か、はたまたその両人かにからかわれそうな気がするのだ。
「姉弟子として、あんたの日頃の頑張りもちゃんとご両親に言ってあげるわよ。最近、あんたもようやくなよっちさが消えてきたんだし」
そう言って、八重は上半身裸の鉄之介を特に顔を赤らめることなく眺めた。
むしろ気恥ずかしいのは、見られている鉄之介の方だった。
「……河越に来たって、別に楽しくも何ともないと思うぞ」
「別に観光に行くわけじゃないんだし、あんたと二人で行くこと自体が目的なんだから、別に構わないわよ」
何の衒いもなくそう言ってのける八重に、鉄之介はずるいと思ってしまう。こいつは、こちらの気も知らずに時々そういうことを言うのだ。
「じゃあ、そういうことで決定ね」
何が決定だよ、と内心で毒づくが、心の声ほどには反発を覚えていない自分がいるのも事実だった。
「……はぁ、判ったよ。好きにしろ」
結局、何だかんだで彼女に合わせてしまう自分も大概だな、と鉄之介は思う。
自分だって、八重と手合わせ出来なくなる帰省にどこか物寂しさを感じているのだ。
むしろ気恥ずかしさや意地が邪魔をして言い出せない自分の本心を、八重の積極さが上手く汲み取ってくれているような気さえする。
河越への帰省は、弟子同士のちょっとした遠足みたいなものかもしれない。
学士院の遠足もそこそこ楽しかったが、八重との帰省はそれとはまた違った楽しさがあるかもしれない。
まあ、初めての場所にはしゃぎ出しそうな八重に自分が振り回されそうな気もしないでもないが、それはそれで楽しめそうな自分がいる。
早く春休みになればいいのに、と鉄之介はそう思っていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あとがき
これにて番外編「シキガミの弟と雷娘」を完結させていただきます。
現状、シキガミである冬花の方が景紀に重用されていますが、葛葉家嫡男である鉄之介も、“家”という単位で見れば重要な人物です。
そもそも、冬花は現状ではヒロインの一人ではありますが、秋津皇国という単位で見れば結城景紀に仕える一代限りの人間に過ぎません。
拙作は秋津皇国の興亡を主人公たちの目線で追っていく物語としているのですが、最終目標である合衆国の撃破は、第四話のあとがきでも示唆しましたが、景紀たちの世代で見ることは叶わないでしょう。
だからこそ今回、鉄之介と八重という脇役を掘り下げる番外編を書かせていただいたのです。
次章から、いよいよ皇国の対外政策の展開や緊迫していく国際情勢を描いてまいります。
またどうぞ、拙作を宜しくお願いいたします。
皇都は相変わらず寒い日々が続いていた。
だというのに、結城家皇都屋敷の敷地内にある道場からは、熱気の籠った威勢の良い声が聞こえてくる。
執務の合間の気分転換に屋敷の庭園を散歩していた景紀は、その声を聞いてふと足を止めた。
「やはりというべきか案外というべきか、あの二人は上手くいっているようだな」
「そのようですね」彼の散歩に付き合っていた宵が頷く。「鉄之介さんも、口では文句を言いつつも八重さんとの鍛錬を楽しんでいるように見受けられます」
「素直になれない年頃って奴なのかねぇ?」
「その点、八重さんの方は判りやすいですね。ただ、男女の関係として認識しているかは少々疑問が残るところではありますが」
「まっ、どんな形であれ鉄之介と八重の距離が縮まるのは良いことだ。半分以上は俺の所為でもあるんだが、あいつもいい加減、姉離れをする歳だろうよ」
道場からの掛け声を聞きながら、景紀と宵はまたふらりと散歩を再開する。
今日は澄んだ空に太陽が浮かんでおり、寒いものの陽光を受けていると少しだけ温かく感じる。庭園の色彩は相変わらず茶色がかっているが、殺風景というほどではない。水仙や椿など、冬ならではの花が咲き、茶色がかった庭園を慎ましく彩っている。
「しかしまあ、屋敷に来るたびに冬花に挑んで、よく飽きないな、八重の奴」
普段であれば散歩であろうと景紀の側に控えている冬花がいないのは、そういう事情があった。
八重が、道場で冬花と手合わせを申し込んでいたのである。
結局、鉄之介も何だかんだ言いつつ、冬休みが終わっても浦部伊任の下で修行を続けていた。そうなると、今度は八重の方が修行の新鮮味を求めて結城家屋敷に押しかけるようになったのである。
いきなり屋敷に押しかけてきたあの日のようなことは流石にしないが、それでも冬花を打倒すべき相手と見ているらしい。さらに、結城家の家臣で武術の心得がある者に対しても、試合を申し込んでいた。
今のところ冬花が負けたことはないらしいが、それでもひやりとする場面はあったという。
また、結城家家臣で剣術や槍術の指南役を務める者たちには今一歩及ばないものの、それでも八重の武術の腕は彼らからも相応に評価されていた。
それだけ呪術・武術ともに才能豊かならば、男の子である鉄之介が刺激を受けて当然だろう。
このまま互いに切磋琢磨していけば、鉄之介もひとかどの陰陽師として名を成すに違いない。そう、景紀は思っていた。
◇◇◇
結局、この日も八重は呪術でも武術でも冬花に勝つことが出来なかった。
何度かこの妖狐の少女と試合をして感じるのは、実戦経験による差だ。結城景紀に従って、匪賊討伐や牢人反乱の鎮定に参加してきた冬花と自分とでは、やはりこなしてきた場数が違う。
「あぁぁぁー、今日も負けたわ」
負けた鬱憤を吐き出すように、八重は井戸に向かって愚痴を零した。
汗で濡れた体を清めるため、釣瓶を手繰り寄せる。組み上げた水を桶に移し、手ぬぐいを浸けて絞った。
道着の上半身をはだけさせ、汗で張り付いて気持ち悪くなったさらしも解いてしまう。
汗をまとった体に、外気の冷たさはかえって心地よい。
「……あなたって、本当に負けず嫌いね」
すると、後ろから声が掛かった。冬花の声だ。
思わず振り向いて、今の言葉を聞かれたと思って八重はばつが悪くなった。
「うぅ、何よ、悪い!?」
結局、羞恥心を誤魔化すために八重は開き直ることにした。
「いいえ、そういう気持ちは大事だと思うわよ」
彼女も体を清めようとしたのか、八重と同じように井戸から水を汲んだ。
冬花の道着は八重と違い、上下共に白ではなく、袴は濃紺であった。白と濃紺の対比は、普段とは違ったシキガミの少女の凜々しさを醸し出している。
そして、冬花もまた道着の上衣をするりと脱ぎ、汗に濡れてべっとりとしたさらしを解いた。
陰陽師の少女は二人して、水に濡らした手ぬぐいで体を拭いていく。
「ねえ、ちょっと冬花さんに訊きたいんだけど」
一度体を拭いた手ぬぐいを水で絞りながら、八重は問うた。
「あなたって、結城の若様の補佐官なのよね?」
流石に景紀などと呼び捨てにすると、この忠誠心の高い少女が不機嫌になるとここ数週間の経験で判っていたので、八重はそう言った。
「女なのにそういう役職に就いて、苦労した経験ってないの?」
「確かに、私が若様の側に控えていることで、要らぬ勘ぐりをしてくる奴はいるわよ。中には善意からか、私を若様の側室に、って言う人もいるし、まあ、女であることで色々言われることはあるわね」
「女子学士院時代はどうだったの? 武術に打ち込むよりは、もっと女子らしい礼儀作法を身に付けろ、とか言われなかった?」
「そっちはそっちでちゃんとやっていたわね。だって、若様のお側に控える人間として、教養も礼儀作法も完璧にしておかないと、若様に恥をかかせることになるもの。私は、若様のお側に控えるに相応しい人間になりたかったんだから」
冬花の言葉には、一片の疑問もなかった。自分がそうするのが当然であると、信じ切っている者の口調であった。
それだけ、結城景紀に対する想いが強いのだろう。
「……やっぱり、偉い人のお側に使える人って、みんなそうなのね」
八重と交流の深い皇宮警察の者たちも、皇主や皇族のお側に侍る側衛官などは皇族の話し相手も務められるように詩吟を始めとした高い教養が求められている。だから冬花のそうした姿勢も、彼女は理解出来た。
ただし、自分はどうなのかといわれれば、女子学士院の礼儀作法に関する講義を窮屈に感じている。
それは、冬花や皇宮警察の者たちが目指すものと、女子学士院の教師・講師陣が生徒に求めているものが違うからだろう。
冬花や皇宮警察の者たちは、己の呪術や武術、教養によって主君に仕えようとしている。
一方で、女子学士院は生徒たちに華族・士族の淑女、あるいは将来の妻として相応しい女性に育てようとしているのだ。
どうにも噛み合っていないのは、当然だった。
それでも、冬花はそれに折合いを付けていたから、女子学士院で首席の座を維持出来たのだろう。
「八重さんは、誰かの妻じゃなくて、一人の陰陽師として生きていきたいのね?」
「そうよ」きっぱりと、八重は断言した。「もちろん、龍王の血筋を繋いでいくために子供は生まなくちゃって思ってはいるけど、それだけを人生の目標にするつもりはないわ」
今の自分の目標は、父や兄を支えられる陰陽師になることだ。そのために、もっと強くならなくてはと思っている。
「この一ヶ月くらい、ずっと結城の若様とあなたたちの在り方ってのを見てきたわ」
八重にしては珍しく、どこか考え込むような表情になる。
「宵姫様って雰囲気は独特だけど、その所作は良家の子女そのものよね。礼儀作法は完璧、華道や茶道もこなせて、常に夫を献身的に支える妻。女子学士院が育てようとしている女子像そのものな気がするわ。そこいくと冬花さんは、宵姫様と同じく女の人なのに、主君に忠を尽くす武士って感じね」
八重の身の回りで、そういう生き方を選んだ女性はいなかった。だから一陰陽師として主君に仕えている葛葉冬花という存在は、彼女にとってあるべき一つの将来像だった。
「宵姫様も宵姫様で、自分なりのやり方で若様を支えようとしておられるわ。決して、型にはまったお姫様ではないわよ」
「でも、私の目指したい生き方じゃないわ」
冬花の擁護を、八重はばっさりと切り捨てた。
景紀と宵の関係は、まだどこか自身の理解が及ばないところがあった。その点、景紀と冬花の関係は判りやすい。そして、自分の理想とする生き方は冬花のそれに近いのだ。
もっとも、八重には冬花のように仕えたい主君が明確に存在するわけではないのだが。
「……まあ、私は私の生きたいように生きるわ。あんまりこんなことで悩んでいるのって私らしくないし、冬花さんみたいな生き方もあるって判っただけでも自信になるし、鉄之介だって私に女らしい淑やかさなんて求めてないだろうし」
正直、だからこそ鉄之介とは張り合いがあるといえる。彼は、女が武術が達者だからと敬遠するような少年ではない。それだけでも、彼は自分にとって得がたい存在なのだ。
「んじゃ、今日は楽しかったわ」
再び道着を着込んで、八重は言った。
「いつかあなたを打ち負かしてやるから、冬花さんも日頃の鍛錬を怠らないことね。じゃないと私と鉄之介にあっという間に追い抜かれるわよ」
びしりと人差し指を突き付けて、八重はその場を後にした。
そしてふと、今、自分が自然と自身と鉄之介の名を同時に口にしていたことに気付いたのだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
三月。
冬の寒さもようやく和らぎ始め、桜はまだだが遅咲きの種の梅が宮城を彩る季節になった。
「鉄之介、あんた、河越に帰省することになったんですって?」
その日の修行が終わり、鉄之介が井戸のところで汗を拭っていると、やってきた八重が唐突に言った。
「ああ、春休みになったらな」
道着の上衣をはだけさせたまま体を水に濡らした手ぬぐいで清めながら、鉄之介は答えた。
この三ヶ月くらいで武術の鍛錬にも打ち込んだからか、以前よりも少し筋肉がついた気がする。
「っていうか、どこから聞いたんだよ?」
「お父様からよ」
確かに、鉄之介は浦部伊任に春休みは帰省するので、その間は稽古に来られないことを告げていた。それを、八重は聞いたのだろう。
「ねぇ、私も付いていっていい?」
「はぁ?」
いったいこいつは何を言い出しているんだ、と思わず鉄之介は怪訝な目線を八重に向けてしまう。
「だって、あんたが居ないと私の鍛錬は誰が相手をするのよ」
当然のように、白い道着に汗を滲ませた少女は問うてきた。
昨年末以来、すっかり鉄之介と八重は互いを鍛錬の相手と認識するようになっていた。ときには二人で伊任一人と術比べをすることもあったほどである。
「だからって、何で俺に付いてこようとするんだよ?」
だが、それと鉄之介の帰省に八重が付き添うのは、話が別だ。
「あんたは父様から呪術を習っているけど、私はあんたの親から呪術を習ってないわ。葛葉家の方がどんなものなのか、知りたいのよ。それに、あんたの親と手合わせしてみたいって思いもあるし」
相変わらず、呆れるくらい強くなることに貪欲な少女だった。
「……お前を連れて行くと、絶対に面倒なことになりそうなんだが。主に俺が」
「何でよ」
だってそれじゃあ婚約者を親に紹介する図そのものになっちまうじゃねぇか、と正直に口にするのは八重に対して自分の想いを告白するようなものなので鉄之介は黙り込む。
何となく、母か父か、はたまたその両人かにからかわれそうな気がするのだ。
「姉弟子として、あんたの日頃の頑張りもちゃんとご両親に言ってあげるわよ。最近、あんたもようやくなよっちさが消えてきたんだし」
そう言って、八重は上半身裸の鉄之介を特に顔を赤らめることなく眺めた。
むしろ気恥ずかしいのは、見られている鉄之介の方だった。
「……河越に来たって、別に楽しくも何ともないと思うぞ」
「別に観光に行くわけじゃないんだし、あんたと二人で行くこと自体が目的なんだから、別に構わないわよ」
何の衒いもなくそう言ってのける八重に、鉄之介はずるいと思ってしまう。こいつは、こちらの気も知らずに時々そういうことを言うのだ。
「じゃあ、そういうことで決定ね」
何が決定だよ、と内心で毒づくが、心の声ほどには反発を覚えていない自分がいるのも事実だった。
「……はぁ、判ったよ。好きにしろ」
結局、何だかんだで彼女に合わせてしまう自分も大概だな、と鉄之介は思う。
自分だって、八重と手合わせ出来なくなる帰省にどこか物寂しさを感じているのだ。
むしろ気恥ずかしさや意地が邪魔をして言い出せない自分の本心を、八重の積極さが上手く汲み取ってくれているような気さえする。
河越への帰省は、弟子同士のちょっとした遠足みたいなものかもしれない。
学士院の遠足もそこそこ楽しかったが、八重との帰省はそれとはまた違った楽しさがあるかもしれない。
まあ、初めての場所にはしゃぎ出しそうな八重に自分が振り回されそうな気もしないでもないが、それはそれで楽しめそうな自分がいる。
早く春休みになればいいのに、と鉄之介はそう思っていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あとがき
これにて番外編「シキガミの弟と雷娘」を完結させていただきます。
現状、シキガミである冬花の方が景紀に重用されていますが、葛葉家嫡男である鉄之介も、“家”という単位で見れば重要な人物です。
そもそも、冬花は現状ではヒロインの一人ではありますが、秋津皇国という単位で見れば結城景紀に仕える一代限りの人間に過ぎません。
拙作は秋津皇国の興亡を主人公たちの目線で追っていく物語としているのですが、最終目標である合衆国の撃破は、第四話のあとがきでも示唆しましたが、景紀たちの世代で見ることは叶わないでしょう。
だからこそ今回、鉄之介と八重という脇役を掘り下げる番外編を書かせていただいたのです。
次章から、いよいよ皇国の対外政策の展開や緊迫していく国際情勢を描いてまいります。
またどうぞ、拙作を宜しくお願いいたします。
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