秋津皇国興亡記

三笠 陣

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第二章 シキガミの少女と北国の姫編

37 北国の姫の涙

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 宵の突然の叫びが執務室に響き渡ったとき、貴通と多喜子は一瞬だけ呆気にとられたような表情をしていた。しかし、ただ一人、宵の表情から何かを伝えたいのだと感じ取っていた景紀だけは、厳しい表情を崩さなかった。

「うちの重臣連中は、今回の事件を知っている。そうでなけりゃ、情報操作は出来ないからな。その上で佐薙家に協力してやろうなんてなると、反発も生まれるだろうよ。お前、この状況で家臣団をどう説得するつもりだ?」

「私はどのような扱いを受けても構いません」震える声で、宵は続けた。「冬花様が受けたのと同じ責め苦を与えられても、結城家の居城に幽閉されても構いません。それで景紀様と結城家の皆様の気が晴れるのならば。ですからどうか、嶺州の民だけは見捨てないで下さい……」

 最後はほとんど涙声になっていた。

「……」

 景紀は床の上に這いつくばるようにして小さく震えている少女を、無言で見下ろしていた。
 思えば、宵は最初からそうだったのだ。母親とともに嶺州で疎まれながら過ごす中で、唯一、見つけることが出来た自分の存在意義。
 結城景紀に嫁ぎ、六家の力を利用して嶺州の振興を図る。
 景紀に言われて中央集権国家にも乗り気であったが、やはり根底には嶺州の民を思う気持ちがある。

「……」

 景紀が見れば、多喜子は床に這いつくばる宵を興味なさげに見下ろしていた。長尾家の彼女にとって、政敵が失脚してくれるのならば、その娘のことなどどうでもいいのだろう。
 実際、政敵の娘が哀れに懇願した程度で手を緩めるようでは、政治の世界では生きていけない。相手の隙は徹底して突き、自身の優位を確立する。特に六家は、他の将家に下克上を起こされるわけにはいかない立場にある。
 佐薙家が自滅的にその勢力を弱めてくれるならば、ここぞとばかりに追い打ちをかけようとするだろう。

「……」

 一方、貴通を見れば、その表情はいささか同情的だった。彼の場合は公家華族出身ということもあり、将家華族同士の権力闘争とは棲み分けされた場所の人間であるので、そうした感情になるのだろう。それに、やはり宵の境遇への同情もあるのかもしれない。

「貴通、多喜子」

 景紀は宵を無視するように言った。びくりと、宵の体が大きく震えた。

「うちから馬車を出す。今日のところは引き取ってくれ」

「それは構いませんが……」多喜子は宵に視線を遣った。「私は我が長尾家と結城家にとって有利となる結末を望みますね」

「下手に俺らのことにちょっかいかけようとは思うなよ。こっちはこっちでやる」

「判ってますって」少しふて腐れたように多喜子は答えた。「冬花のことであなたを敵に回す怖さは、子供の頃に体に染み込んでいますから」

「ならいい」

 幼少期から付き合いがあるにしては、いささか剣呑な会話であった。
 しかし、景紀にも多喜子にも、互いに敵意はない。ただ、相手はこういう奴なのだ、という相互理解だけがあった。
 次いで口を開いたのは、貴通だった。

「景くん、僕は正直、宵姫様の心意気は立派だと思います」

 そう言いつつも、彼の声には宵への賞賛はなかった。顔には相変わらず同情的な表情が浮かんでいたが、声は裏腹に冷たさが宿っていた。

「しかし、景くんは結城家次期当主であり、今は当主代理です。その立場からすれば、佐薙成親は明らかに邪魔者です。列侯会議で伊丹、一色両公と対決しなければならない景くんにとって、後ろから刺される危険性がある人間は排除すべきです。僕は、景くんがつまらない人間に足を引っ張られ、無残に失脚する様は見たくありません」

「……お前らしいな」

 少し懐かしそうに、景紀は口元に薄く笑みを浮かべた。
 穂積貴通という人間が見せる、結城景紀への憧憬混じりの執着。それに比べれば、彼の宵への同情など些細なものなのだろう。

「だが、今日はここまでだ」

 何かを断ち切るような景紀の声が、執務室に虚ろに響いた。





 二人の出ていった部屋は、しんと静まりかえっていた。

「床は、冷たいだろう?」

 その静けさを破るように、茜色の執務室で景紀はぽつりと言った。
 宵は床に這いつくばった姿勢のまま、ふるふると首を振った。
 誰一人として、彼女の味方はいなかった。だから宵は、景紀に縋るしかない。

「はぁ……」

 煩わしそうに、景紀は溜息をついた。宵の体が、またびくりと震える。

「俺は正直、“民”なんていう曖昧な存在のために尽くしてやろうとは思っていない。政になんて興味はないし、ましてや馬鹿みたいな政治闘争は関わるだけ面倒だ。こんな立場からはとっととオサラバして、隠居生活を送りたい。俺は、俺の大切な人間が笑っていられれば、それで良かったんだ」

「……」

「そしたらその内の一人が、『自分の故郷の民が幸せに暮らせないのは嫌だ』と駄々をこねて泣きついてきた。……まったく、難儀なことだと思わないか、なあ、宵?」

「……っ」

「俺は、冬花を弄んだ奴は許せない。けど、だからといってお前に泣いて欲しいわけじゃないんだぜ?」

「かげのり、さま……」

 のろのろと、宵は顔を上げた。

「……お前の泣き顔を見るのは、初めてだな」

 そっと彼女の傍に屈み込んだ景紀は、着物の袖で少女の涙を拭う。

「だけれども、そういう顔は、やっぱり見たくないな」

「うっ……」

 嗚咽するような息を漏らして、宵は堪らずに景紀に抱きついた。「ぉわっ」という驚き声を上げて、景紀はその場に尻餅をついてしまう。
 宵は景紀の胴に手を回して、彼の胸に顔を押し付けていた。

「うっ……ひっく……」

 しゃくり上げるような声は、必死に泣くことを堪えているようにも聞こえた。

「お前は精一杯頑張っているよ、宵」

 少女の背に手を回し、あやすようにぽんぽんと叩く。

「……初めて、だったんです」嗚咽混じりに、宵は話し出した。「私に、出来ることを、見つけたのが……」

「うん」

 ただ優しく、景紀は相槌を打つ。

「嶺州の人たちのために、何かをしてあげられないかって、それで、あなたに……」

「ああ」

「景紀様はおっしゃいました。文句を言ってもいいと、自分のしたいことを言ってもいいと……」

 故郷である嶺州の民のために何かをするというのは、彼女の覚悟の根幹だ。
 それを再び、景紀は折ろうとしてしまっているのだ。
 最初の時、宵が抱いたのは諦観だった。それは、自分と宵の関係性がまだ築けていなかったからだろう。だけれどもこの数週間、自分たちは冬花や新八も含めてそれなりの関係性を築いてしまっていた。
 そうなれば、抱くのは諦観ではなく恐怖だ。
 自分の覚悟を折られるのではないかという恐怖、景紀から疎まれるのではないかという恐怖、
 ここで、景紀に同調することは簡単だ。そうやって夫の顔色を窺い、従順にしていれば、少なくとも蔑ろにされることはないだろう。
 だけれども、そうすれば彼女は一生、結城家の中で怯えながら暮らすことになる。
 彼女の母親とはまた違った意味で、その日々は辛いものとなるだろう。
 だから彼女は、以前、景紀が言った言葉に縋ることにしたのだ。自分の覚悟を貫くために。
 それは、彼女なりの矜持の通し方だったのだろう。
 もちろん、景紀には宵を無碍に扱うつもりはない。しかし、彼女自身が景紀の態度どう捉えていたかは判らない。
 宵が最初に景紀に求めたのは自身の政治的価値であり、景紀を政治的に支えられる存在となることだ。
 だけれども、それだけで割り切れるほど人間の心というものは単純ではない。
 冬花だって、宵が来てからの複雑な心境を景紀に吐露している。
 それなのに、この少女は一度もそうした自分の中にある割り切れない思いを漏らしたことはない。それを言えば、景紀に失望されると考えていたのかもしれない。
 彼女の中には、夫に疎まれることに対する潜在的な恐怖がある。
 これまでの人生で受けてきた様々な精神的重圧が、景紀の言葉で決壊してしまったのだろう。
 重く辛く悲しく、複雑に絡まり合った感情を、涙にして流さずにはいられなかったのだろう。
 そこで「ああ」と、景紀は腑に落ちた。
 自分はこの少女を、自分にとって大切な人間の一人だと、面と向かって言ったことがあっただろうか?
 鉄道問題で相談を持ちかけたことも、彼女が求める政治的役割を与えるためのものだった。それが彼女自身の望んだこととはいえ、逆に自分の価値はそれだけだと思い込む結果になってしまったのかもしれない。
 その役割に殉じなければならないという意識だけが、彼女の中で肥大化してしまったのだろう。

「俺は、お前の覚悟を認めているし、それを尊いものだと思っている」両手で優しく背中を叩きながら、景紀は言う。「俺は、そんな宵を好ましく思っている」

 ぎゅっと、宵の腕に籠る力が強くなった。

「……私のやりたいことを、取らないで……」

 景紀の腹部に顔をうずめたまま、宵は懇願した。体はしゃくり上げるように小さく痙攣している。
 いつかの冬花と同じだな、と景紀は思った。
 あの時、冬花は完全に自分に依存していた。だけれども、今、景紀に抱きついて泣いている少女は自信の中に確固たる信念を持っている。
 なら、それを尊重するのが夫たる自分の役割だろう。

「ああ、判ったよ」

 片手でそっと、彼は少女の黒くさらりとした髪を梳いていく。
 佐薙成親に対する怒りは、景紀の中に今も存在している。冬花を弄んだことを、決して許しはしないだろう。
 だけれども、冬花ばかりを想うあまり、自分は今回の事件においてこの少女を蔑ろにしていたようにも思う。
 個人的な復讐心を満たそうとしている自分と、父やその家臣に疎まれてなお故郷のために何かをしようとする宵。
 どちらが立派かといえば、それは宵だろう。

「それと、ごめんな」

 謝罪は、自然と景紀の口から出た。宵を少しだけ強く抱きしめる。

「お前のこと、あんまり心配してやれなくて。お前も、辛かったろう?」

「……うぅ……ひっく……」

 優しく言葉をかけられて、再び宵の涙腺が緩んだ。思えば、自ら誰かに抱きついて泣くということは、彼女の記憶にはあまりなかった。
 唯一、自分に愛情を注いでくれた母に対しては、あまり心配を掛けたくないために、自ら慰めを欲したことはない。それでも時折、母は自分の気持ちを察してそっと抱きしめてくれたことはある。しかし、その時でも宵は泣かなかった。
 ああきっと、と少女は思った。きっと私は、この人のことが好きなのだ。





 景紀は宵の気が済むまで、泣き続ける彼女を抱きしめていた。
 きっとその涙は、彼女の十五年の人生の中でずっと溜め込まれたものだったのだろう。
 宵が泣き止む頃にはもう、日は完全に落ちていた。
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