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第二章 シキガミの少女と北国の姫編
34 置き土産
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あれは、景紀と冬花がまだ八歳だった時のことだった。
二人が未だ領内の結城家居城で過ごしていた頃の事だ。
その頃の景紀は、教育掛の益永忠胤らから文武の教育を受けると共に、十歳になったら皇都の陸軍兵学寮へと入学するための勉学を始めていた。
結城家臣団やその子息たちの中には、未だ冬花を化け物の子と蔑む者たちがいる。そうした少女を傍に置く景紀に対しても、次代の当主として相応しいのかという疑問の声が上がっていることも、彼は幼いながらに理解していた。
だからこそ幼い景紀は、そうした者たちを実力で黙らせる必要があった。兵学寮首席合格というのは、その第一歩であると幼心に思っていた。
八歳の景紀は二年後の兵学寮入学試験のための勉学に、嫌な顔一つ見せずに取り組んでいた。
冬花が泣きながら景紀の元に飛び込んできたのは、それからしばらくしてのことだった。
「若様、どっかに行っちゃうんですか?」
涙と不安に震える声で、冬花は尋ねてきた。
この頃の冬花は耳と尻尾を上手く封印することが出来ておらず、感情が高ぶると封印が解けてしまう。
「すぐにじゃないよ。十歳になったらだよ」
少しびっくりしながらも、景紀は抱きついてきた冬花を宥めるように髪を梳いた。
「嫌です!」駄々っ子のように、幼い少女は叫んだ。「行っちゃ嫌です!」
冬花は景紀の腹に顔を押し付けたまま、胴に腕を回している。その体が小刻みに震えていることを、景紀は気付いていた。
「うっ……どこにも、行かないで下さい。ぐずっ……独りに、しないで……」
「……」
嗚咽を漏らしながら、冬花はたどたどしく懇願する。それを聞いて、景紀は途方に暮れたような思いになってしまった。
白髪の少女にとって、自分はこの城で唯一の庇護者のようなものなのだ。
葛葉家は主家の呪術的警護を担う家系であり、家臣団内部では特殊な部類に属しているとはいえ、用人系統の家臣ということもあり決して家格は高くない。だから、両親が娘を他者の悪意から庇おうにも限界があった。
景紀が兵学寮に行ってしまった後、城に残された自分がどのような扱いを受けるのか。
それが、冬花には不安で不安で仕方がないのだろう。その不安は、妖狐の血が色濃く出ている彼女にとってみれば、ほとんど恐怖に近いものだろう。
自分のシキガミとなってくれた少女を、守らなければならない。その思いは、景紀の中に強くある。
だが同時に、今の冬花の状態が決して良いものではないことも、景紀には判っていた。
冬花は、自分への依存が強すぎるのだ。
幼い頃は、それで良いかもしれない。でも、景紀は二年後には元服するし、冬花もいずれ大人になる。
冬花も、実力で他の家臣たちの反発を抑えられるだけの力を身に付けなければならない。そうでなければ、いずれ、彼女は自分の傍にいられなくなってしまう。
「うぐっ……若様、ずっと、傍にいて下さい……」
泣きじゃくる冬花の背中をぽんぽんと叩きながら、景紀は考えた。
彼女にもまた、自分の家臣として、シキガミとして、力を付けて貰わなくてはならない。
父上に、冬花のことについて相談しようと彼は決めた。
事件が起こったのは、それから数日後のことだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
境内へと続く風化の激しい石段は、酷い有り様だった。
石畳やその両脇の木々の幹に血がこびりつき、衣服を赤黒く染めた複数の死体が転がっている。
「ふっ……」
軽く息を吐きつつ、景紀は刀を振るって刀身に付いた血を払った。使っていたのは、黒い鞘に収まっていた方の刀であった。
「貴通、怪我はないか?」
「ええ、問題ありません」
背中合わせになるように立っている貴通は、景紀よりも少し息が上がっていた。しかし、その声に負傷による苦痛の響きはない。本当に傷一つないようであった。
「それにしても、連携一つ取れていないところを見ると、こいつら、寄せ集めの浪人連中みたいですね」
貴通の目には、木の幹にもたれ掛かるようにして絶命している男や、石段を転げ落ちたまま虚ろな目を天空に向けている男たちが映っていた。
「まあ、その通りやろうな」
すとん、と木の枝から飛び降りてきた新八が言った。その手には苦無が握られている。
「まあ、僕みたいな特殊訓練を受けた忍連中を始め、将家の隠密は混じってないようや」
「あくまで、浪士連中の凶行に見せたい、ってことか」
「そんなことよりも若、死体の処理はどうするん?」
新八は、念の為といった感じで問うた。
「とりあえず放置だ」景紀は平坦な声で答えた。「牢人の死体なら、死体であっても利用価値はある」
「そう、若が言うなら任せるわ」
言葉が終わる前に、新八は石段から外れて林の中へと消えていった。彼は基本的に単独行動、それも相手の視界外からの奇襲を得意としている。もっとも、純粋な武術の腕も相当なものなのだが。
「景くん、急いだ方が良いのでは?」貴通が言う。「こちらを阻む人間はもういないようでし」
石段を駆け上ろうとした四人の行く手を塞ごうとした男たちの中で、生きていそうな人間はいない。
正面から向かってくる相手は景紀と貴通が相手をし、二人が対応出来ない者たちは新八が影から苦無や吹き矢で無力化した。
「おい、鉄之介。行くぞ」
だが、この中で唯一、鉄之介だけは上手く立ち回ることが出来なかった。呪符を指の間に挟んだまま、今も落ち着きなく周囲をきょろきょろと見回している。
「あ、ああ」
青い顔のまま、鉄之介は頷いた。
「初めての実戦ですからね。緊張してしまうのも無理はありません」そんな鉄之介を落ち着かせるように、貴通は言う。「さあ、お姉さんを救うのでしょう? 頑張って下さい」
「はっ、はい!」
それで気を取り直したというわけでもないだろうが、鉄之介は表情を引き締めた。
「……すまん、貴通」
石段を駆け上がりながら、景紀は行った。
「景くんはお姫様や冬花さんのことで一杯一杯で、あの弟さんにまで気が回っていないようでしたので」
「恩に着る」
「やっぱり、僕を連れてきて良かったでしょう?」
「ああ、頼りにしている」
「ふふっ、兵学寮時代を思い出しますねぇ」
嬉しそうというには獰猛に過ぎる笑みを、貴通は浮かべていた。
石段を登り切ると、手入れのされていない境内に出た。その中心付近に荒れ果てた本堂が立ち、少し離れた場所には朽ちかけた鳥居と小さな社殿が建っていた。やはり、鉄之介が予測した通りの場所であった。
景紀はさっと警戒の視線を周囲に走らせる。貴通も油断なく刀を握っていた。
「あの中か?」
「いや、本堂の裏手だと思う……」
未だ青ざめた顔のまま、鉄之介が確信を持った口調で言った。冬花ほど場数は踏んでいない(冬花の場合は「景紀に踏まされた」という方が正しいのだろうが)とはいえ、彼も将来有望な陰陽師だ。その占術の結果、見えたものであるならば信じるに値する。
「行くぞ」
飛び出す景紀に応ずるように、貴通も駆け出していた。
それほど広くない境内を素早く半周すると、ちょうど三人の人影が裏手の林に消えようとするところだった。
その内の一人は、長く黒い髪をした少女だった。宵である。
「新八さん!」
「了解」
景紀が叫ぶと、どこからともなく新八の応えがあった。ひゅん、と空気を裂く音と共に人影の足下に複数の苦無が突き刺さる。
一瞬、相手の動きが止まった。
「動くな!」
間髪を容れずに叫んだのは貴通だった。いつの間にか刀を収めて拳銃を抜き、照準を定めている。
「鉄之介、例の術式を」
「あ、ああ」
景紀がぼそりと命じると、少し狼狽しつつも鉄之介は頷いた。そっと首掛け数珠を握りしめる。
「全員、両手を上げてゆっくりとこっちを向け」貴通の声は、境内に良く響いた。「怪しい動きをすれば、撃つ」
最初に応じたのは、町人風の男に腕を掴まれている宵だった。白い肌襦袢姿で、素足。顔には叩かれた痕が残っている。表情は相変わらずの無表情だったが、少し憔悴しているようにも見えた。
「……誰かと思えば、結城景紀殿か」
次に応じたのは、町人風の男。佐薙成親であった。どこか泰然とした態度であり、こちらが決して撃たないということを確信しているようである。
最後の一人は成親の護衛役だろう。視線を油断なく周囲に向けている。恐らく、苦無を飛ばしてきた相手の姿を探しているのだ。彼だけは、牢人ではなさそうであった。
「そのような無体な物を向けるのは止めてもらいたいものであるな」
成親の声は、いつも景紀に向けている高圧的なものであった。まるで自分には一切のやましいことはないとでも言いたげな態度である。
「あんたがここまでの短慮に出るとは思わなかったな」
実際、佐薙成親が宵に何らかの接触を図ってくる可能性は考えていたが、ここまでの凶行に及ぶほど分別がない人間だとは想定していなかった。
如何に自分の娘とはいえ、六家次期当主の妻を誘拐し、それが露見すれば失脚は免れない。
「言っている意味が判らんな」
だが、そうした状況下であるにも関わらず、景紀から見る成親の態度はどこかふてぶてしい。
「我が輩は、攘夷派の浪士どもに拐かされた我が娘を助けただけだ」
つまりは、そういう設定であるらしい。
現状、先ほど斬った浪士連中と成親の繋がりを示す証拠がない以上、筋は通ってしまう。景紀は苛立たしげに舌打ちをした。
だが、一人だけ、証拠を握っている人間がいた。
「そのような嘘が通用するとでも思っているのですか?」
宵である。
親子の情など微塵も感じさせない、少女の冷たい声。彼女は実際の被害者である以上、真犯人が誰であるかを判っている。
「景紀殿、我が娘は錯乱しているようだ」
そして、一方の成親も自身の嘘を押し通すようだ。
「景くん」
回転式拳銃を構えたままの貴通が言う。目線は、佐薙成親から離れていない。
「将家同士の私闘は、禁止されています。誘拐の明確な証拠がない以上、残念ですが、ここは一旦……」
貴通の発言はもっともであった。とはいえ、彼の声にも苦渋が滲んでいた。貴通もまた、父親から冷遇されて育ってきた人間だ。宵の境遇に、思うところがあるらしい。
「……とりあえず、宵をこちらに渡してもらう」
景紀は刀を構えたまま、冷たく命じた。
「ふん、妻の身すら守れん男に、娘を返すにわけにはいかんな」
どの口が言うのか、と景紀は思ったが、実際に口に出すことはない。私闘にならない範囲で宵を奪還しなければ、列侯会議において伊丹や一色に攻撃材料を与えてしまう。
あるいは、成親はそこまで考えてこの凶行に及んだのか。
くそったれ、と景紀は心の中で罵り声を上げる。
「……」
そんな双方の様子を、宵はじっと観察していた。
黙ったままの彼女の視線が景紀へと向き、次いで自身の腕を掴んだままの父親へと向かった。そして、また再び景紀へと戻る。
次の瞬間、宵は渾身の力で成親の手を振り解き、景紀の元へと駆け出した。
「なっ!?」
驚愕に目を見開いたのは成親だった。彼にとって、術式による記憶の改竄を行っていない段階で、拉致監禁の真犯人を証言出来る宵の身柄を、結城家側に渡すわけにはいかなかった。
だから、次に彼の取った行動は、ほとんど反射的なものだった。
腰から刀を抜き、一歩踏み出して―――。
それは、ほぼ同時に起こったことだった。
煌めく白刃。
響き渡る銃声。
成親の肩に突き刺さる苦無。
そして、切羽詰まった景紀の声。
「避けろ、宵!」
その声が届いた瞬間、咄嗟に宵は身を捻っていった。
刹那、彼女の左肩から腕にかけて熱が生じた。それは、即座に痛みへと変換される。
「ぐっ……!」
宵は苦痛の叫びを噛み殺したまま、足をもつれさせて倒れ込んでしまう。だが、苦痛の呻きを上げたのは成親も同じだった。右肩に苦無が突き刺さり、銃弾が突き抜ける。同時に、刀が地面へと落ちた。
「宵!」
景紀は地面へと倒れた宵に駆け寄り、その体を抱き起こす。刀は側の地面に突き刺した。
「……ご心配なく」
白い肌襦袢を血と土で汚しながら、宵は気丈に答えた。
「鉄之介!」
「はいっ!」
その剣幕に、鉄之介は思わずびくりと震えた。
「治癒の術式だ! 急げ!」
「判った!」
目の前で少女が斬られ、元々青ざめた顔をさらに青くしながらも、鉄之介は宵の傍に膝を付いた。そして片手で宵の傷口に触れ、もう片方の手で刀印を作った。治癒の術式を唱え始める。
「景くん!」
不意に、貴通が警告の叫びを上げる。
刹那、肌を粟立たせるほど不吉な気配が境内を包み込む。
「……貴様が、結城の小倅か?」
しゃらんと錫杖を鳴らしながら現れた僧衣の男は、まっすぐに景紀を見つめていた。
その怪僧が誰であるのか、宵を抱える少年は即座に理解した。
「あんたが、丞鎮か」
「如何にも」
答えると、丞鎮はちらりと佐薙成親とその護衛に視線を向けた。
「佐薙伯、ここは任されよう」
彼がそう言うと、護衛の男は右肩を押さえる成親を庇うようにして裏手の林へと消えていった。
「新八さん、追え! ただし、殺すな!」
景紀は怪僧への警戒を続けつつ、叫んだ。新八から返答の声はなかったが、これで問題ないだろう。
「景くん」
いささか強ばった声で、貴通が言った。その顔は、悲痛そうに歪んでいる。
「―――っ!?」
彼の視線を追って、景紀や腕の中の宵、そして彼女を治癒している鉄之介は息を呑んだ。
怪僧は、錫杖を持っているのとは別の手で、あるものを引き摺っていた。
鎖に繋がれた、狐の耳と尻尾を生やした少女を。
「冬花……」
景紀の視線は、必然的にその少女へと吸い寄せられた。
手足を鉄の枷で縛められ、白かったはずの肌襦袢は切り裂かれてぼろ切れのようになり、血で赤黒く染まったまま肌に張り付いている。白い髪にも付いた血が乾き、本来であれば艶やかな髪を歪に固めていた。
そして、引き摺られた後にはまだ乾ききっていない血痕が点々としていた。
意識を完全に失っているようで、その赤い瞳は閉じられている。
怪僧は、気を失っている冬花を無造作に地面に投げ出した。
「―――鉄之介、宵を頼む」
ぞっとするほどの低い声であった。腕の中の宵が、一瞬だけびくりと震えた。そんな少女を慮る暇もなく、景紀は彼女を鉄之介に預ける。そして、ゆっくりと立ち上がった。
「……この混じり物が、そんなに大切か」
錫杖の先で冬花を示しながら、丞鎮は問いかける。
「……」
景紀は、何も答えずに一歩前へ出る。
鉄之介は宵の治癒に当たり、貴通は景紀の背を守るように周囲に警戒を向けていた。
荒れ果てた境内で対峙する怪僧と少年との間に、緊張感のある沈黙が流れる。
「……あの混じり物の娘、なかなかにしぶとかったぞ」
「……」
不意に放たれた丞鎮の言葉に、景紀の瞼が不愉快そうに痙攣する。
「どれほど痛めつけても、決してお前の守護を解こうとしなかった。指の骨を折り、人間の耳を切り落とし、爪を剥ぎ、全身を切り刻み、刀を突き立てられてもなお、な」
「……はぁ」
だが、丞鎮の挑発的な台詞に景紀が激発することはなかった。ただ、底冷えするような溜息をついただけだった。
「もういいよ、お前」
その言葉と共に景紀が抜いたのは、白い鞘の刀。
「むっ」
呪術師である怪僧は、その刀身に宿る霊力にすぐに気付いた。
「ふんっ!」
「縮!」
そして、景紀が踏み出すのと、丞鎮が術を繰り出すのは、同時であった。
景紀を中心に歪み、圧縮されていく空間。
刀を持つ少年の腕が持ち上がり、斬と一閃。
景紀を押し潰そうとする空間の歪みは、一刀の下に切り捨てられてしまった。刀が、術式ごと斬ったのだ。
「くっ!」
丞鎮は両手で錫杖を握り、景紀の振るう刀を受け止めた。
その刹那、金属音と共に錫杖が断ち切られる。
瞬時に後ろへと跳ぶ丞鎮。
即座に踏み込んで突きを放つ景紀。
決着は刹那の間。
景紀の刀が、丞鎮の胸を貫いていた。
「はぁ……」
怪僧に刀を突き立てた姿勢のまま、景紀は煩わしそうに息をついた。
「つまんねぇな。冬花を弄んだ奴をぶっ殺せるっていうのに、嬉しくも何ともない。最初から俺に殺されようとしている奴なんか斬っても、満たされねぇなぁ……」
景紀が刀を引き抜いて後ろに跳ぶと、丞鎮の体は膝から頽れた。吐き出された血で、怪僧の口元は赤く染まっている。
「一手、及ばなかったか……」
血濡れた刀を握る少年の姿を凝視して、丞鎮は諦観と共に呟いた。
刀を握る景紀の右手は、黒い靄に包まれている。だが、その靄は彼の全身を覆うことなく、数瞬の間に霧散してしまった。
「あんたら呪術師の中には、自分を殺した相手を道連れにする呪詛を仕込んでいる奴がいるってことは知っている」
黒い靄の正体は、呪詛であった。しかし、景紀の体に不調はない。
あの混じり物の小娘を始末してしまえば、結城の小倅の呪術的守護は強化される。ならば、今、自らを景紀に殺させ、自身の命を使って呪詛を仕掛ける。
その目論見が外れたことを、丞鎮は悟らざるを得なかった。
「我が呪詛に掛からぬという確信は、あったのか?」
血を吐き出しながら、最後の力で丞鎮は問いかける。それだけは聞いておかなければ、死に切れないとでもいいたげに。
「俺は、俺のシキガミを信頼している。それ以上でも、以下でもない」
傲然とも取れる、景紀の声。
この小倅はあの小娘を信頼し、あの小娘は小倅を案ずるあまり自身の力を信じていなかった。
だから小倅は自分を殺し、あの小娘は自分が小倅の元に行くのを止めようとした。
二人の主従の認識の差が、丞鎮の判断を誤らせたといえる。
失望と諦観、そして奇妙な納得と共に、怪僧の意識は血の中に沈んでいく。
「……化け物の一族になど、関わるべきではなかったということか……」
血溜まりの中にその言葉だけを残して、彼は絶命した。
「……ふん」
怪僧の死体を興味の失せた目で見、次いで景紀は刀の血を懐紙で拭って鞘に収める。
「……遅くなってごめんな、冬花」
投げ出されたまま地面に横たわっている己のシキガミ。
「姉上!」
すべてが終わったと見たのか、景紀の後ろから鉄之介が冬花へと駆け寄ろうとした。
その瞬間だった。
「……ぐっ」
突然、景紀の脇腹に走る痛み。即座に、拙いと悟った。
ぴくり、と冬花の体が痙攣するように動く。
「鉄之介、やめろ! 近付くな!」
パキン、と鉄鎖が千切れる音がした。
「えっ?」
鉄之介は一瞬、呆けた声を上げてしまった。
陰陽師の少女の目が、カッと見開かれた。そして、跳ねるようにして起き上がったのだ。
「馬鹿が!」
景紀は、姉の異変に一瞬、体の動きを止めてしまった鉄之介の襟首を掴んだ。そのまま自身と位置を入れ替えるようにして放り投げる。
そして、鮮血が舞った。
「ぐぁっ……」
景紀の左肩がざっくりと切り裂かれ、服が血に染まっていく。思わず、右手で傷口を押さえた。
「ああくそっ……、あの坊主、最後の最後に厄介な置き土産を残していきやがった……!」
景紀は怨嗟の声と共に、ふらりと目の前に立つ存在を睨み付けた。己のシキガミであって、シキガミでない存在を。
妖狐の血を引く証たる白い毛並みに覆われた獣の耳と尻尾、そして刀のように鋭く伸びた十の爪。そして、その表情には血に飢えた獣の凶暴性が宿っていた。
「冬花ぁぁぁ!」
叱り付けるような景紀の叫び。
直後、ぎょろりと少女の瞳が少年を捉えた。全体が赤く染め上げられた、妖の目。
それは紛れもなく、獰猛な捕食者の瞳であった。
「■■■■■■■―――っ!」
刹那、境内に少女の声で獣の咆哮が響き渡った。
二人が未だ領内の結城家居城で過ごしていた頃の事だ。
その頃の景紀は、教育掛の益永忠胤らから文武の教育を受けると共に、十歳になったら皇都の陸軍兵学寮へと入学するための勉学を始めていた。
結城家臣団やその子息たちの中には、未だ冬花を化け物の子と蔑む者たちがいる。そうした少女を傍に置く景紀に対しても、次代の当主として相応しいのかという疑問の声が上がっていることも、彼は幼いながらに理解していた。
だからこそ幼い景紀は、そうした者たちを実力で黙らせる必要があった。兵学寮首席合格というのは、その第一歩であると幼心に思っていた。
八歳の景紀は二年後の兵学寮入学試験のための勉学に、嫌な顔一つ見せずに取り組んでいた。
冬花が泣きながら景紀の元に飛び込んできたのは、それからしばらくしてのことだった。
「若様、どっかに行っちゃうんですか?」
涙と不安に震える声で、冬花は尋ねてきた。
この頃の冬花は耳と尻尾を上手く封印することが出来ておらず、感情が高ぶると封印が解けてしまう。
「すぐにじゃないよ。十歳になったらだよ」
少しびっくりしながらも、景紀は抱きついてきた冬花を宥めるように髪を梳いた。
「嫌です!」駄々っ子のように、幼い少女は叫んだ。「行っちゃ嫌です!」
冬花は景紀の腹に顔を押し付けたまま、胴に腕を回している。その体が小刻みに震えていることを、景紀は気付いていた。
「うっ……どこにも、行かないで下さい。ぐずっ……独りに、しないで……」
「……」
嗚咽を漏らしながら、冬花はたどたどしく懇願する。それを聞いて、景紀は途方に暮れたような思いになってしまった。
白髪の少女にとって、自分はこの城で唯一の庇護者のようなものなのだ。
葛葉家は主家の呪術的警護を担う家系であり、家臣団内部では特殊な部類に属しているとはいえ、用人系統の家臣ということもあり決して家格は高くない。だから、両親が娘を他者の悪意から庇おうにも限界があった。
景紀が兵学寮に行ってしまった後、城に残された自分がどのような扱いを受けるのか。
それが、冬花には不安で不安で仕方がないのだろう。その不安は、妖狐の血が色濃く出ている彼女にとってみれば、ほとんど恐怖に近いものだろう。
自分のシキガミとなってくれた少女を、守らなければならない。その思いは、景紀の中に強くある。
だが同時に、今の冬花の状態が決して良いものではないことも、景紀には判っていた。
冬花は、自分への依存が強すぎるのだ。
幼い頃は、それで良いかもしれない。でも、景紀は二年後には元服するし、冬花もいずれ大人になる。
冬花も、実力で他の家臣たちの反発を抑えられるだけの力を身に付けなければならない。そうでなければ、いずれ、彼女は自分の傍にいられなくなってしまう。
「うぐっ……若様、ずっと、傍にいて下さい……」
泣きじゃくる冬花の背中をぽんぽんと叩きながら、景紀は考えた。
彼女にもまた、自分の家臣として、シキガミとして、力を付けて貰わなくてはならない。
父上に、冬花のことについて相談しようと彼は決めた。
事件が起こったのは、それから数日後のことだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
境内へと続く風化の激しい石段は、酷い有り様だった。
石畳やその両脇の木々の幹に血がこびりつき、衣服を赤黒く染めた複数の死体が転がっている。
「ふっ……」
軽く息を吐きつつ、景紀は刀を振るって刀身に付いた血を払った。使っていたのは、黒い鞘に収まっていた方の刀であった。
「貴通、怪我はないか?」
「ええ、問題ありません」
背中合わせになるように立っている貴通は、景紀よりも少し息が上がっていた。しかし、その声に負傷による苦痛の響きはない。本当に傷一つないようであった。
「それにしても、連携一つ取れていないところを見ると、こいつら、寄せ集めの浪人連中みたいですね」
貴通の目には、木の幹にもたれ掛かるようにして絶命している男や、石段を転げ落ちたまま虚ろな目を天空に向けている男たちが映っていた。
「まあ、その通りやろうな」
すとん、と木の枝から飛び降りてきた新八が言った。その手には苦無が握られている。
「まあ、僕みたいな特殊訓練を受けた忍連中を始め、将家の隠密は混じってないようや」
「あくまで、浪士連中の凶行に見せたい、ってことか」
「そんなことよりも若、死体の処理はどうするん?」
新八は、念の為といった感じで問うた。
「とりあえず放置だ」景紀は平坦な声で答えた。「牢人の死体なら、死体であっても利用価値はある」
「そう、若が言うなら任せるわ」
言葉が終わる前に、新八は石段から外れて林の中へと消えていった。彼は基本的に単独行動、それも相手の視界外からの奇襲を得意としている。もっとも、純粋な武術の腕も相当なものなのだが。
「景くん、急いだ方が良いのでは?」貴通が言う。「こちらを阻む人間はもういないようでし」
石段を駆け上ろうとした四人の行く手を塞ごうとした男たちの中で、生きていそうな人間はいない。
正面から向かってくる相手は景紀と貴通が相手をし、二人が対応出来ない者たちは新八が影から苦無や吹き矢で無力化した。
「おい、鉄之介。行くぞ」
だが、この中で唯一、鉄之介だけは上手く立ち回ることが出来なかった。呪符を指の間に挟んだまま、今も落ち着きなく周囲をきょろきょろと見回している。
「あ、ああ」
青い顔のまま、鉄之介は頷いた。
「初めての実戦ですからね。緊張してしまうのも無理はありません」そんな鉄之介を落ち着かせるように、貴通は言う。「さあ、お姉さんを救うのでしょう? 頑張って下さい」
「はっ、はい!」
それで気を取り直したというわけでもないだろうが、鉄之介は表情を引き締めた。
「……すまん、貴通」
石段を駆け上がりながら、景紀は行った。
「景くんはお姫様や冬花さんのことで一杯一杯で、あの弟さんにまで気が回っていないようでしたので」
「恩に着る」
「やっぱり、僕を連れてきて良かったでしょう?」
「ああ、頼りにしている」
「ふふっ、兵学寮時代を思い出しますねぇ」
嬉しそうというには獰猛に過ぎる笑みを、貴通は浮かべていた。
石段を登り切ると、手入れのされていない境内に出た。その中心付近に荒れ果てた本堂が立ち、少し離れた場所には朽ちかけた鳥居と小さな社殿が建っていた。やはり、鉄之介が予測した通りの場所であった。
景紀はさっと警戒の視線を周囲に走らせる。貴通も油断なく刀を握っていた。
「あの中か?」
「いや、本堂の裏手だと思う……」
未だ青ざめた顔のまま、鉄之介が確信を持った口調で言った。冬花ほど場数は踏んでいない(冬花の場合は「景紀に踏まされた」という方が正しいのだろうが)とはいえ、彼も将来有望な陰陽師だ。その占術の結果、見えたものであるならば信じるに値する。
「行くぞ」
飛び出す景紀に応ずるように、貴通も駆け出していた。
それほど広くない境内を素早く半周すると、ちょうど三人の人影が裏手の林に消えようとするところだった。
その内の一人は、長く黒い髪をした少女だった。宵である。
「新八さん!」
「了解」
景紀が叫ぶと、どこからともなく新八の応えがあった。ひゅん、と空気を裂く音と共に人影の足下に複数の苦無が突き刺さる。
一瞬、相手の動きが止まった。
「動くな!」
間髪を容れずに叫んだのは貴通だった。いつの間にか刀を収めて拳銃を抜き、照準を定めている。
「鉄之介、例の術式を」
「あ、ああ」
景紀がぼそりと命じると、少し狼狽しつつも鉄之介は頷いた。そっと首掛け数珠を握りしめる。
「全員、両手を上げてゆっくりとこっちを向け」貴通の声は、境内に良く響いた。「怪しい動きをすれば、撃つ」
最初に応じたのは、町人風の男に腕を掴まれている宵だった。白い肌襦袢姿で、素足。顔には叩かれた痕が残っている。表情は相変わらずの無表情だったが、少し憔悴しているようにも見えた。
「……誰かと思えば、結城景紀殿か」
次に応じたのは、町人風の男。佐薙成親であった。どこか泰然とした態度であり、こちらが決して撃たないということを確信しているようである。
最後の一人は成親の護衛役だろう。視線を油断なく周囲に向けている。恐らく、苦無を飛ばしてきた相手の姿を探しているのだ。彼だけは、牢人ではなさそうであった。
「そのような無体な物を向けるのは止めてもらいたいものであるな」
成親の声は、いつも景紀に向けている高圧的なものであった。まるで自分には一切のやましいことはないとでも言いたげな態度である。
「あんたがここまでの短慮に出るとは思わなかったな」
実際、佐薙成親が宵に何らかの接触を図ってくる可能性は考えていたが、ここまでの凶行に及ぶほど分別がない人間だとは想定していなかった。
如何に自分の娘とはいえ、六家次期当主の妻を誘拐し、それが露見すれば失脚は免れない。
「言っている意味が判らんな」
だが、そうした状況下であるにも関わらず、景紀から見る成親の態度はどこかふてぶてしい。
「我が輩は、攘夷派の浪士どもに拐かされた我が娘を助けただけだ」
つまりは、そういう設定であるらしい。
現状、先ほど斬った浪士連中と成親の繋がりを示す証拠がない以上、筋は通ってしまう。景紀は苛立たしげに舌打ちをした。
だが、一人だけ、証拠を握っている人間がいた。
「そのような嘘が通用するとでも思っているのですか?」
宵である。
親子の情など微塵も感じさせない、少女の冷たい声。彼女は実際の被害者である以上、真犯人が誰であるかを判っている。
「景紀殿、我が娘は錯乱しているようだ」
そして、一方の成親も自身の嘘を押し通すようだ。
「景くん」
回転式拳銃を構えたままの貴通が言う。目線は、佐薙成親から離れていない。
「将家同士の私闘は、禁止されています。誘拐の明確な証拠がない以上、残念ですが、ここは一旦……」
貴通の発言はもっともであった。とはいえ、彼の声にも苦渋が滲んでいた。貴通もまた、父親から冷遇されて育ってきた人間だ。宵の境遇に、思うところがあるらしい。
「……とりあえず、宵をこちらに渡してもらう」
景紀は刀を構えたまま、冷たく命じた。
「ふん、妻の身すら守れん男に、娘を返すにわけにはいかんな」
どの口が言うのか、と景紀は思ったが、実際に口に出すことはない。私闘にならない範囲で宵を奪還しなければ、列侯会議において伊丹や一色に攻撃材料を与えてしまう。
あるいは、成親はそこまで考えてこの凶行に及んだのか。
くそったれ、と景紀は心の中で罵り声を上げる。
「……」
そんな双方の様子を、宵はじっと観察していた。
黙ったままの彼女の視線が景紀へと向き、次いで自身の腕を掴んだままの父親へと向かった。そして、また再び景紀へと戻る。
次の瞬間、宵は渾身の力で成親の手を振り解き、景紀の元へと駆け出した。
「なっ!?」
驚愕に目を見開いたのは成親だった。彼にとって、術式による記憶の改竄を行っていない段階で、拉致監禁の真犯人を証言出来る宵の身柄を、結城家側に渡すわけにはいかなかった。
だから、次に彼の取った行動は、ほとんど反射的なものだった。
腰から刀を抜き、一歩踏み出して―――。
それは、ほぼ同時に起こったことだった。
煌めく白刃。
響き渡る銃声。
成親の肩に突き刺さる苦無。
そして、切羽詰まった景紀の声。
「避けろ、宵!」
その声が届いた瞬間、咄嗟に宵は身を捻っていった。
刹那、彼女の左肩から腕にかけて熱が生じた。それは、即座に痛みへと変換される。
「ぐっ……!」
宵は苦痛の叫びを噛み殺したまま、足をもつれさせて倒れ込んでしまう。だが、苦痛の呻きを上げたのは成親も同じだった。右肩に苦無が突き刺さり、銃弾が突き抜ける。同時に、刀が地面へと落ちた。
「宵!」
景紀は地面へと倒れた宵に駆け寄り、その体を抱き起こす。刀は側の地面に突き刺した。
「……ご心配なく」
白い肌襦袢を血と土で汚しながら、宵は気丈に答えた。
「鉄之介!」
「はいっ!」
その剣幕に、鉄之介は思わずびくりと震えた。
「治癒の術式だ! 急げ!」
「判った!」
目の前で少女が斬られ、元々青ざめた顔をさらに青くしながらも、鉄之介は宵の傍に膝を付いた。そして片手で宵の傷口に触れ、もう片方の手で刀印を作った。治癒の術式を唱え始める。
「景くん!」
不意に、貴通が警告の叫びを上げる。
刹那、肌を粟立たせるほど不吉な気配が境内を包み込む。
「……貴様が、結城の小倅か?」
しゃらんと錫杖を鳴らしながら現れた僧衣の男は、まっすぐに景紀を見つめていた。
その怪僧が誰であるのか、宵を抱える少年は即座に理解した。
「あんたが、丞鎮か」
「如何にも」
答えると、丞鎮はちらりと佐薙成親とその護衛に視線を向けた。
「佐薙伯、ここは任されよう」
彼がそう言うと、護衛の男は右肩を押さえる成親を庇うようにして裏手の林へと消えていった。
「新八さん、追え! ただし、殺すな!」
景紀は怪僧への警戒を続けつつ、叫んだ。新八から返答の声はなかったが、これで問題ないだろう。
「景くん」
いささか強ばった声で、貴通が言った。その顔は、悲痛そうに歪んでいる。
「―――っ!?」
彼の視線を追って、景紀や腕の中の宵、そして彼女を治癒している鉄之介は息を呑んだ。
怪僧は、錫杖を持っているのとは別の手で、あるものを引き摺っていた。
鎖に繋がれた、狐の耳と尻尾を生やした少女を。
「冬花……」
景紀の視線は、必然的にその少女へと吸い寄せられた。
手足を鉄の枷で縛められ、白かったはずの肌襦袢は切り裂かれてぼろ切れのようになり、血で赤黒く染まったまま肌に張り付いている。白い髪にも付いた血が乾き、本来であれば艶やかな髪を歪に固めていた。
そして、引き摺られた後にはまだ乾ききっていない血痕が点々としていた。
意識を完全に失っているようで、その赤い瞳は閉じられている。
怪僧は、気を失っている冬花を無造作に地面に投げ出した。
「―――鉄之介、宵を頼む」
ぞっとするほどの低い声であった。腕の中の宵が、一瞬だけびくりと震えた。そんな少女を慮る暇もなく、景紀は彼女を鉄之介に預ける。そして、ゆっくりと立ち上がった。
「……この混じり物が、そんなに大切か」
錫杖の先で冬花を示しながら、丞鎮は問いかける。
「……」
景紀は、何も答えずに一歩前へ出る。
鉄之介は宵の治癒に当たり、貴通は景紀の背を守るように周囲に警戒を向けていた。
荒れ果てた境内で対峙する怪僧と少年との間に、緊張感のある沈黙が流れる。
「……あの混じり物の娘、なかなかにしぶとかったぞ」
「……」
不意に放たれた丞鎮の言葉に、景紀の瞼が不愉快そうに痙攣する。
「どれほど痛めつけても、決してお前の守護を解こうとしなかった。指の骨を折り、人間の耳を切り落とし、爪を剥ぎ、全身を切り刻み、刀を突き立てられてもなお、な」
「……はぁ」
だが、丞鎮の挑発的な台詞に景紀が激発することはなかった。ただ、底冷えするような溜息をついただけだった。
「もういいよ、お前」
その言葉と共に景紀が抜いたのは、白い鞘の刀。
「むっ」
呪術師である怪僧は、その刀身に宿る霊力にすぐに気付いた。
「ふんっ!」
「縮!」
そして、景紀が踏み出すのと、丞鎮が術を繰り出すのは、同時であった。
景紀を中心に歪み、圧縮されていく空間。
刀を持つ少年の腕が持ち上がり、斬と一閃。
景紀を押し潰そうとする空間の歪みは、一刀の下に切り捨てられてしまった。刀が、術式ごと斬ったのだ。
「くっ!」
丞鎮は両手で錫杖を握り、景紀の振るう刀を受け止めた。
その刹那、金属音と共に錫杖が断ち切られる。
瞬時に後ろへと跳ぶ丞鎮。
即座に踏み込んで突きを放つ景紀。
決着は刹那の間。
景紀の刀が、丞鎮の胸を貫いていた。
「はぁ……」
怪僧に刀を突き立てた姿勢のまま、景紀は煩わしそうに息をついた。
「つまんねぇな。冬花を弄んだ奴をぶっ殺せるっていうのに、嬉しくも何ともない。最初から俺に殺されようとしている奴なんか斬っても、満たされねぇなぁ……」
景紀が刀を引き抜いて後ろに跳ぶと、丞鎮の体は膝から頽れた。吐き出された血で、怪僧の口元は赤く染まっている。
「一手、及ばなかったか……」
血濡れた刀を握る少年の姿を凝視して、丞鎮は諦観と共に呟いた。
刀を握る景紀の右手は、黒い靄に包まれている。だが、その靄は彼の全身を覆うことなく、数瞬の間に霧散してしまった。
「あんたら呪術師の中には、自分を殺した相手を道連れにする呪詛を仕込んでいる奴がいるってことは知っている」
黒い靄の正体は、呪詛であった。しかし、景紀の体に不調はない。
あの混じり物の小娘を始末してしまえば、結城の小倅の呪術的守護は強化される。ならば、今、自らを景紀に殺させ、自身の命を使って呪詛を仕掛ける。
その目論見が外れたことを、丞鎮は悟らざるを得なかった。
「我が呪詛に掛からぬという確信は、あったのか?」
血を吐き出しながら、最後の力で丞鎮は問いかける。それだけは聞いておかなければ、死に切れないとでもいいたげに。
「俺は、俺のシキガミを信頼している。それ以上でも、以下でもない」
傲然とも取れる、景紀の声。
この小倅はあの小娘を信頼し、あの小娘は小倅を案ずるあまり自身の力を信じていなかった。
だから小倅は自分を殺し、あの小娘は自分が小倅の元に行くのを止めようとした。
二人の主従の認識の差が、丞鎮の判断を誤らせたといえる。
失望と諦観、そして奇妙な納得と共に、怪僧の意識は血の中に沈んでいく。
「……化け物の一族になど、関わるべきではなかったということか……」
血溜まりの中にその言葉だけを残して、彼は絶命した。
「……ふん」
怪僧の死体を興味の失せた目で見、次いで景紀は刀の血を懐紙で拭って鞘に収める。
「……遅くなってごめんな、冬花」
投げ出されたまま地面に横たわっている己のシキガミ。
「姉上!」
すべてが終わったと見たのか、景紀の後ろから鉄之介が冬花へと駆け寄ろうとした。
その瞬間だった。
「……ぐっ」
突然、景紀の脇腹に走る痛み。即座に、拙いと悟った。
ぴくり、と冬花の体が痙攣するように動く。
「鉄之介、やめろ! 近付くな!」
パキン、と鉄鎖が千切れる音がした。
「えっ?」
鉄之介は一瞬、呆けた声を上げてしまった。
陰陽師の少女の目が、カッと見開かれた。そして、跳ねるようにして起き上がったのだ。
「馬鹿が!」
景紀は、姉の異変に一瞬、体の動きを止めてしまった鉄之介の襟首を掴んだ。そのまま自身と位置を入れ替えるようにして放り投げる。
そして、鮮血が舞った。
「ぐぁっ……」
景紀の左肩がざっくりと切り裂かれ、服が血に染まっていく。思わず、右手で傷口を押さえた。
「ああくそっ……、あの坊主、最後の最後に厄介な置き土産を残していきやがった……!」
景紀は怨嗟の声と共に、ふらりと目の前に立つ存在を睨み付けた。己のシキガミであって、シキガミでない存在を。
妖狐の血を引く証たる白い毛並みに覆われた獣の耳と尻尾、そして刀のように鋭く伸びた十の爪。そして、その表情には血に飢えた獣の凶暴性が宿っていた。
「冬花ぁぁぁ!」
叱り付けるような景紀の叫び。
直後、ぎょろりと少女の瞳が少年を捉えた。全体が赤く染め上げられた、妖の目。
それは紛れもなく、獰猛な捕食者の瞳であった。
「■■■■■■■―――っ!」
刹那、境内に少女の声で獣の咆哮が響き渡った。
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