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第二章 シキガミの少女と北国の姫編
30 シキガミと怪僧
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宵と冬花の乗る馬車は、渋滞に巻き込まれていた。
御者が通行人に理由を尋ねると、すぐに答えが返ってきた。この先の大きな交差点で、交通整理に当たっている邏卒と士族の若い男が口論になっているという。
「何か、意図的なものを感じますね」
御者から報告を受けた宵は、そう言った。
「はい」
冬花もまったく同意見であった。
将家の主要な家臣に与えられる身分である士族は武士身分であり、帯刀などが許される特権身分の一つであった。一方で邏卒を始めとする警察官には平民出身者も多い。
そのため、皇都では職務に基づいて交通整理を行う警察官に、特権身分であることを笠に着てその指示に従おうとしない武士が一定数存在し、時折、新聞の紙面を賑わせることが起こる。
道路交通法制が未発達なこの時代、警察官が行う交通整理の法的根拠は不明確であり、彼らの指示に従わなかった者たちへの罰則規程も明確でない部分があった。そのため、身分差に基づいたこうした問題が時折、発生してしまうのである。
とはいえ、急いで景紀たちと合流したい宵たちにとってみれば、この状況はいささか出来過ぎているともいえた。
「冬花様は、相手が白昼堂々襲撃を仕掛けてくると思いますか?」
「……何とも、判断に困るところです。実際、そうした事例が存在しないわけではないですから」
「相手の目的は、やはり冬花様の足止めでしょうか?」
宵は、術者である冬花が景紀の傍から離れている今が彼を襲撃する好機であると考えていた。そのため、この状況が冬花の足止めにあると思っていたのである。
「このまま馬車に乗っていても埒が明きません。いっそ、降りて景紀様の下に向かうべきでは?」
「……わかりました。そういたしましょう」
わずかな逡巡の後、冬花はそう決断した。彼女も、この渋滞が自身の足止めを目的としているのではないかと思っていたのである。
景紀にはお守りを渡してあるとはいえ、不安なものは不安なのだ。
「……宵姫様、これを」
馬車の座席を空け、その下にある収納庫から冬花は小刀(脇差)を宵に渡した。
「武家の娘ですので、心得はありますよね?」
「ええ」
受け取った宵は、微塵も動揺を見せなかった。小刀を娘袴の腰に差す。
「では、行きましょう」
冬花は馬車の扉を開け、素早く周辺を確認した。普通に、通行人が往来しているだけだ。
「宵姫様」
異変がないことを確認してから、宵に下車を促す。将家の姫は行儀など無視して跳ねるように馬車を飛び降り、着地した。
周囲の人通りに紛れるようにして、二人は少し早めの歩調で歩き始めた。
未だ皇都の地理に不案内な宵は冬花の後を追うしかない。
「……やはり、追っ手は来ていますか?」
「ええ」
後ろを確認せずに、冬花は頷いた。彼女の感覚は、馬車を降りてもなお自分たちを追跡しようとする複数の人間の気配を捉えていた。
このままでは、追跡者を景紀の下に誘導してしまうことになるのではないか。
そんな懸念が、冬花の頭を過ぎる。
「追っ手を撒きます」
陰陽師の少女の決断は早かった。
「宵姫様、無礼をお許し下さい」
言うや否や、冬花は宵の腕を掴んで引き寄せると、彼女の背中と膝の裏に手を入れて抱きかかえた。そのまま、身体強化の術式を掛けて加速し、狭い路地に飛び込む。
「……術者が実際に術を使うところ、初めて見ました」
乏しい表情の中にかすかな驚きを込めて、冬花の腕の中に収まる宵は言った。
細い路地の両側に立つ建物が、勢いよく後方に流れていく。お互いの長く癖のない髪が風に舞う。
不意に、路地から覆面を被った人間が飛び出してきた。手には刃物らしき光るものを持っている。
「……」
冬花は驚きの表情一つ見せず、その場で宵を抱えたまま軽く跳躍。回転蹴りを相手の体に叩き込んだ。くぐもった呻きと共に、男は民家の壁に叩き付けられる。
冬花は勢いを殺さぬまま着地し、また駆け出す。
「……あまり動揺しておられませんね」
刃物男が飛び出してきたというのに、腕の中の宵があまりにも平静なので逆に冬花は怪訝になってしまった。
「まあ、私が動揺しようと悲鳴を上げようと、それで状況が変わるわけでもありませんから。ならば、心動かすだけ無駄です」
達観と諦観を混ぜ込んだ淡々とした声で、宵は答えた。覚悟が決まっているというよりも、それ自体が彼女の人生哲学なのだと冬花は悟った。
「……少し、拙いかもしれません」
白髪の陰陽師は、一瞬、上空を確認した。自分たちが相手の式に捉えられていることに気付いたのだ。先ほどの刃物男も、それで待ち伏せ出来ていたのだろう。
これならば、あえて襲撃の難しい人通りのある所に出た方がよかったか。
そう冬花が判断した時、彼女の体に異変が起こった。
「―――ぐっ!?」
全身の血液が泡立つような、体の内部から起こる不快な感覚。体の制御が、急に利かなくなった。
足がもつれ、駆けていた勢いのまま転倒してしまう。
「うっ……!」
投げ出された宵が、小さく呻き声を上げた。
「宵姫様……!」
自分の体が、酷く重い。倦怠感とは違う、自分の体なのに言うことが聞かせられない状況。
それでも、冬花は意地で体を起こした。
「ほう、まだ立ち上がる気力が残っていたか」
自分たちが進むはずだった道の先から響いてきた、険しい声。
「ぐっ……!」
刀を抜いた冬花はふらつきながらも、宵を庇うように前に出た。
そこにいたのは、網代笠を被った僧服姿の男。冬花は知らぬことだが、佐薙成親や伊東玄斎に対して自らを丞鎮と名乗った男であった。
手には錫杖を握りしめ、頬のこけた顔には独特の凄みがあった。
「化生の分際で、健気にも主君の妻を守ろうとするか」
感心と言うよりも侮蔑と嫌悪感を込めた声で、僧服の男は吐き捨てた。しゃらん、と遊環が鳴り、怪僧は錫杖を構えた。
「―――臨兵闘者皆陣列在前!」
「たわけ!」
素早く刀印を結んで唱えた冬花の九字を、丞鎮は錫杖を一振りするだけ防いでしまう。そして、錫杖の石突きで地面を叩く。
「うっ……」
途端、冬花の体に、凄まじい圧力が掛かる。すでに体の自由が利かなくなりつつあった彼女は、堪らずにその場に片膝をついてしまった。それでも、その眼光だけは鋭く怪僧を睨み続けている。
「冬花様!」
冬花の異変に、宵は声を上げていた。
「お逃げ下さい、宵姫様!」
力を振り絞って、冬花は叫ぶ。だが、それを許すほど相手も甘くはない。
「―――っ!?」
背後から迫ってきた気配に気付き、宵は咄嗟に小刀を振るった。だが―――。
「反応は悪くないが、いささか修羅場の経験が足らんな」
己の手首をがっちりと掴まれてしまった。
宵の手首を掴んでいたのは、左頬に傷のある男であった。数日前、景紀を襲撃しようとした伊東玄斎である。
「くっ……」
宵は何とか振りほどこうとするが、相手は万力の如き力で腕を締め上げ、それを許さない。
「うっ……」
そして、手を捻り上げられると、痛みのあまり小刀を取り落としてしまった。だが、それでも黒髪の少女は咄嗟に足を振り上げて、男の股間を狙おうとする。
だが、男の反応は早かった。掴んだ宵の手を更に捻り、投げるように地面へと引き倒した。
「ぐっ……」
「小娘に虚仮にされるのは、一度で十分だ」
苛立たしげに、傷の男は地面に投げ出された宵へと吐き捨てる。と、彼の視界に蒼い鬼火をまとった呪符が飛んできた。冬花が投げつけたのである。
「なっ!?」
流石にこれには、玄斎も反応が遅れた。咄嗟に着物の袖で、炎から顔を庇おうとする。
「甘いわ!」
だが、呪符は丞鎮の一喝で消滅してしまう。同時に彼は錫杖で冬花の側頭部を叩く。
「うっ……」
冬花の体が、堪えきれずに崩れ落ちる。丞鎮は草履を履いた足で彼女の刀を遠くに蹴り飛ばした。
そして、再び彼は石突きで地面を突いた。
「あっ……ぁ……ぁ」
体にのし掛かる圧迫感と、体の内側から湧き上がる不快感に、冬花は不規則で苦しげな呼吸を繰り返す。
「妖魔を調伏するための結界だ」苦悩を抱える修行僧のような硬い声音で、怪僧は言う。「混じり物の貴様には、さぞ辛かろう」
そして、彼は視線を冬花から宵へと移す。それを受けて、玄斎が乱暴に宵の髪を掴んで無理矢理顔を上げさせた。
宵は少しだけ不快そうな表情を見せたが、直後に鋭い視線を怪僧へと向けた。
「……いったい、何が目的なのですか?」
彼女の口調は、この期に及んでもなお、微塵も動揺の気配を見せていなかった。その胆力に、丞鎮は若干の感心を覚える。
「佐薙の姫、いや、今は結城の姫であったか」
だが、そうした自身の感情を斟酌することなく、丞鎮は険しい声のまま告げた。
「よく見ておくがいい。これが、この小娘の正体だ」
丞鎮は錫杖の先端を、冬花に向けた。
「がぁ……ぐっ……」
地面に倒れた冬花が、苦悶に身を捩らせていた。地面に爪を食い込ませ、必死に苦痛から逃れようとしている。
「……っ」
その様子は、正視に耐えなかった。だが、宵が顔を背けようとしても、髪をがっしりと掴まれてしまってどうすることも出来ない。
「目を閉じずに見よ。さもなくば、この者の苦痛は増すばかりだぞ」
その上、僧服の男はそのような残酷な脅しをかけてくる。
「あっ……がっ……ぐぁ……」
苦痛に見開かれた冬花の目に、涙が浮かんでいた。
「……ふむ、意外としぶといようだな」
淡々と足下でのたうつ少女を見下ろしながら、丞鎮はもう一度、錫杖で地面を打った。途端、冬花の体がびくんと跳ねた。
「―――うぁ……やめ……あがっ……あああああああああっ!」
血反吐を吐くような、それでいて獣じみた咆哮が、白髪の陰陽師の口から迸る。
そして、宵は見てしまった。
雪のように白い彼女の髪に一対の獣耳が生えるのを。
短い着物の裾を跳ね上げて膨れ上がった獣の尾を。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
辻馬車を捕まえた景紀は、学士院に寄って冬花の弟である鉄之介を拾うと、屋敷へと急いだ。
「……」
何の事情説明もなく、誘拐のような恰好で馬車に詰め込まれた鉄之介は、むすっとした顔を景紀に向けている。ただ、流石に景紀の機嫌が非常に悪いことを察しているのか、陰陽師の少年は何かを尋ねることをしなかった。
「景くん、何か言ってあげないと、流石にこの子が可哀想では?」
見かねた貴通が、そう言う。彼は状況次第では自分も力になれるだろうと景紀を説得し、同行していた。
新八は御者と共に御者台に乗り、念の為、周囲を警戒していてくれている。
「……冬花の身に、何か異変が起こった」
「姉上の―――っ!?」
思わず立ち上がった鉄之介だったが、馬車の天蓋に強かに頭をぶつけてしまう。頭を抑えて椅子に座り直したシキガミの弟に対して、景紀はそれ以上何も言わなかった。
「……」
景紀の隣に座る貴通は、なおも何か言いたげな目をこの同期生に向けていたが、諦めたような息をついて視線を元に戻した。
貴通は直接会ったことはないが、冬花という少女を景紀が大切に思っていることは兵学寮での五年間の付き合いで理解している。
だから、焦燥感から口数が少なくなってしまった景紀のことを案じはするが、非難する気にはなれなかった。
首席の足りない部分は次席が補えばいいし、次席の足りない部分は首席が補えばいい。
そうやって、二人は兵学寮の五年間を過ごしてきたのだ。
景紀には悪いとは思いつつも、窮屈な近衛将校としての軍務に服していた貴通にとって、この状況に彼と共に当たれることに喜びを覚えていた。
やがて、辻馬車は何事もなく結城家屋敷の正門前に到着する。
景紀は御者に料金を多めに払うと、そそくさと正門を潜った。貴通、新八、鉄之介がそれに続く。
すると、その姿を見つけた屋敷の家令長が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「若様、ご報告すべき件が」
その声には、多分に困惑が混じっていた。
「何だ?」
急いでいるというのに自分の邪魔をする家令長に対して、景紀は冷たい声を出してしまう。
「長尾多喜子様が、先ほど屋敷にいらっしゃいました。若様をお待ちです」
御者が通行人に理由を尋ねると、すぐに答えが返ってきた。この先の大きな交差点で、交通整理に当たっている邏卒と士族の若い男が口論になっているという。
「何か、意図的なものを感じますね」
御者から報告を受けた宵は、そう言った。
「はい」
冬花もまったく同意見であった。
将家の主要な家臣に与えられる身分である士族は武士身分であり、帯刀などが許される特権身分の一つであった。一方で邏卒を始めとする警察官には平民出身者も多い。
そのため、皇都では職務に基づいて交通整理を行う警察官に、特権身分であることを笠に着てその指示に従おうとしない武士が一定数存在し、時折、新聞の紙面を賑わせることが起こる。
道路交通法制が未発達なこの時代、警察官が行う交通整理の法的根拠は不明確であり、彼らの指示に従わなかった者たちへの罰則規程も明確でない部分があった。そのため、身分差に基づいたこうした問題が時折、発生してしまうのである。
とはいえ、急いで景紀たちと合流したい宵たちにとってみれば、この状況はいささか出来過ぎているともいえた。
「冬花様は、相手が白昼堂々襲撃を仕掛けてくると思いますか?」
「……何とも、判断に困るところです。実際、そうした事例が存在しないわけではないですから」
「相手の目的は、やはり冬花様の足止めでしょうか?」
宵は、術者である冬花が景紀の傍から離れている今が彼を襲撃する好機であると考えていた。そのため、この状況が冬花の足止めにあると思っていたのである。
「このまま馬車に乗っていても埒が明きません。いっそ、降りて景紀様の下に向かうべきでは?」
「……わかりました。そういたしましょう」
わずかな逡巡の後、冬花はそう決断した。彼女も、この渋滞が自身の足止めを目的としているのではないかと思っていたのである。
景紀にはお守りを渡してあるとはいえ、不安なものは不安なのだ。
「……宵姫様、これを」
馬車の座席を空け、その下にある収納庫から冬花は小刀(脇差)を宵に渡した。
「武家の娘ですので、心得はありますよね?」
「ええ」
受け取った宵は、微塵も動揺を見せなかった。小刀を娘袴の腰に差す。
「では、行きましょう」
冬花は馬車の扉を開け、素早く周辺を確認した。普通に、通行人が往来しているだけだ。
「宵姫様」
異変がないことを確認してから、宵に下車を促す。将家の姫は行儀など無視して跳ねるように馬車を飛び降り、着地した。
周囲の人通りに紛れるようにして、二人は少し早めの歩調で歩き始めた。
未だ皇都の地理に不案内な宵は冬花の後を追うしかない。
「……やはり、追っ手は来ていますか?」
「ええ」
後ろを確認せずに、冬花は頷いた。彼女の感覚は、馬車を降りてもなお自分たちを追跡しようとする複数の人間の気配を捉えていた。
このままでは、追跡者を景紀の下に誘導してしまうことになるのではないか。
そんな懸念が、冬花の頭を過ぎる。
「追っ手を撒きます」
陰陽師の少女の決断は早かった。
「宵姫様、無礼をお許し下さい」
言うや否や、冬花は宵の腕を掴んで引き寄せると、彼女の背中と膝の裏に手を入れて抱きかかえた。そのまま、身体強化の術式を掛けて加速し、狭い路地に飛び込む。
「……術者が実際に術を使うところ、初めて見ました」
乏しい表情の中にかすかな驚きを込めて、冬花の腕の中に収まる宵は言った。
細い路地の両側に立つ建物が、勢いよく後方に流れていく。お互いの長く癖のない髪が風に舞う。
不意に、路地から覆面を被った人間が飛び出してきた。手には刃物らしき光るものを持っている。
「……」
冬花は驚きの表情一つ見せず、その場で宵を抱えたまま軽く跳躍。回転蹴りを相手の体に叩き込んだ。くぐもった呻きと共に、男は民家の壁に叩き付けられる。
冬花は勢いを殺さぬまま着地し、また駆け出す。
「……あまり動揺しておられませんね」
刃物男が飛び出してきたというのに、腕の中の宵があまりにも平静なので逆に冬花は怪訝になってしまった。
「まあ、私が動揺しようと悲鳴を上げようと、それで状況が変わるわけでもありませんから。ならば、心動かすだけ無駄です」
達観と諦観を混ぜ込んだ淡々とした声で、宵は答えた。覚悟が決まっているというよりも、それ自体が彼女の人生哲学なのだと冬花は悟った。
「……少し、拙いかもしれません」
白髪の陰陽師は、一瞬、上空を確認した。自分たちが相手の式に捉えられていることに気付いたのだ。先ほどの刃物男も、それで待ち伏せ出来ていたのだろう。
これならば、あえて襲撃の難しい人通りのある所に出た方がよかったか。
そう冬花が判断した時、彼女の体に異変が起こった。
「―――ぐっ!?」
全身の血液が泡立つような、体の内部から起こる不快な感覚。体の制御が、急に利かなくなった。
足がもつれ、駆けていた勢いのまま転倒してしまう。
「うっ……!」
投げ出された宵が、小さく呻き声を上げた。
「宵姫様……!」
自分の体が、酷く重い。倦怠感とは違う、自分の体なのに言うことが聞かせられない状況。
それでも、冬花は意地で体を起こした。
「ほう、まだ立ち上がる気力が残っていたか」
自分たちが進むはずだった道の先から響いてきた、険しい声。
「ぐっ……!」
刀を抜いた冬花はふらつきながらも、宵を庇うように前に出た。
そこにいたのは、網代笠を被った僧服姿の男。冬花は知らぬことだが、佐薙成親や伊東玄斎に対して自らを丞鎮と名乗った男であった。
手には錫杖を握りしめ、頬のこけた顔には独特の凄みがあった。
「化生の分際で、健気にも主君の妻を守ろうとするか」
感心と言うよりも侮蔑と嫌悪感を込めた声で、僧服の男は吐き捨てた。しゃらん、と遊環が鳴り、怪僧は錫杖を構えた。
「―――臨兵闘者皆陣列在前!」
「たわけ!」
素早く刀印を結んで唱えた冬花の九字を、丞鎮は錫杖を一振りするだけ防いでしまう。そして、錫杖の石突きで地面を叩く。
「うっ……」
途端、冬花の体に、凄まじい圧力が掛かる。すでに体の自由が利かなくなりつつあった彼女は、堪らずにその場に片膝をついてしまった。それでも、その眼光だけは鋭く怪僧を睨み続けている。
「冬花様!」
冬花の異変に、宵は声を上げていた。
「お逃げ下さい、宵姫様!」
力を振り絞って、冬花は叫ぶ。だが、それを許すほど相手も甘くはない。
「―――っ!?」
背後から迫ってきた気配に気付き、宵は咄嗟に小刀を振るった。だが―――。
「反応は悪くないが、いささか修羅場の経験が足らんな」
己の手首をがっちりと掴まれてしまった。
宵の手首を掴んでいたのは、左頬に傷のある男であった。数日前、景紀を襲撃しようとした伊東玄斎である。
「くっ……」
宵は何とか振りほどこうとするが、相手は万力の如き力で腕を締め上げ、それを許さない。
「うっ……」
そして、手を捻り上げられると、痛みのあまり小刀を取り落としてしまった。だが、それでも黒髪の少女は咄嗟に足を振り上げて、男の股間を狙おうとする。
だが、男の反応は早かった。掴んだ宵の手を更に捻り、投げるように地面へと引き倒した。
「ぐっ……」
「小娘に虚仮にされるのは、一度で十分だ」
苛立たしげに、傷の男は地面に投げ出された宵へと吐き捨てる。と、彼の視界に蒼い鬼火をまとった呪符が飛んできた。冬花が投げつけたのである。
「なっ!?」
流石にこれには、玄斎も反応が遅れた。咄嗟に着物の袖で、炎から顔を庇おうとする。
「甘いわ!」
だが、呪符は丞鎮の一喝で消滅してしまう。同時に彼は錫杖で冬花の側頭部を叩く。
「うっ……」
冬花の体が、堪えきれずに崩れ落ちる。丞鎮は草履を履いた足で彼女の刀を遠くに蹴り飛ばした。
そして、再び彼は石突きで地面を突いた。
「あっ……ぁ……ぁ」
体にのし掛かる圧迫感と、体の内側から湧き上がる不快感に、冬花は不規則で苦しげな呼吸を繰り返す。
「妖魔を調伏するための結界だ」苦悩を抱える修行僧のような硬い声音で、怪僧は言う。「混じり物の貴様には、さぞ辛かろう」
そして、彼は視線を冬花から宵へと移す。それを受けて、玄斎が乱暴に宵の髪を掴んで無理矢理顔を上げさせた。
宵は少しだけ不快そうな表情を見せたが、直後に鋭い視線を怪僧へと向けた。
「……いったい、何が目的なのですか?」
彼女の口調は、この期に及んでもなお、微塵も動揺の気配を見せていなかった。その胆力に、丞鎮は若干の感心を覚える。
「佐薙の姫、いや、今は結城の姫であったか」
だが、そうした自身の感情を斟酌することなく、丞鎮は険しい声のまま告げた。
「よく見ておくがいい。これが、この小娘の正体だ」
丞鎮は錫杖の先端を、冬花に向けた。
「がぁ……ぐっ……」
地面に倒れた冬花が、苦悶に身を捩らせていた。地面に爪を食い込ませ、必死に苦痛から逃れようとしている。
「……っ」
その様子は、正視に耐えなかった。だが、宵が顔を背けようとしても、髪をがっしりと掴まれてしまってどうすることも出来ない。
「目を閉じずに見よ。さもなくば、この者の苦痛は増すばかりだぞ」
その上、僧服の男はそのような残酷な脅しをかけてくる。
「あっ……がっ……ぐぁ……」
苦痛に見開かれた冬花の目に、涙が浮かんでいた。
「……ふむ、意外としぶといようだな」
淡々と足下でのたうつ少女を見下ろしながら、丞鎮はもう一度、錫杖で地面を打った。途端、冬花の体がびくんと跳ねた。
「―――うぁ……やめ……あがっ……あああああああああっ!」
血反吐を吐くような、それでいて獣じみた咆哮が、白髪の陰陽師の口から迸る。
そして、宵は見てしまった。
雪のように白い彼女の髪に一対の獣耳が生えるのを。
短い着物の裾を跳ね上げて膨れ上がった獣の尾を。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
辻馬車を捕まえた景紀は、学士院に寄って冬花の弟である鉄之介を拾うと、屋敷へと急いだ。
「……」
何の事情説明もなく、誘拐のような恰好で馬車に詰め込まれた鉄之介は、むすっとした顔を景紀に向けている。ただ、流石に景紀の機嫌が非常に悪いことを察しているのか、陰陽師の少年は何かを尋ねることをしなかった。
「景くん、何か言ってあげないと、流石にこの子が可哀想では?」
見かねた貴通が、そう言う。彼は状況次第では自分も力になれるだろうと景紀を説得し、同行していた。
新八は御者と共に御者台に乗り、念の為、周囲を警戒していてくれている。
「……冬花の身に、何か異変が起こった」
「姉上の―――っ!?」
思わず立ち上がった鉄之介だったが、馬車の天蓋に強かに頭をぶつけてしまう。頭を抑えて椅子に座り直したシキガミの弟に対して、景紀はそれ以上何も言わなかった。
「……」
景紀の隣に座る貴通は、なおも何か言いたげな目をこの同期生に向けていたが、諦めたような息をついて視線を元に戻した。
貴通は直接会ったことはないが、冬花という少女を景紀が大切に思っていることは兵学寮での五年間の付き合いで理解している。
だから、焦燥感から口数が少なくなってしまった景紀のことを案じはするが、非難する気にはなれなかった。
首席の足りない部分は次席が補えばいいし、次席の足りない部分は首席が補えばいい。
そうやって、二人は兵学寮の五年間を過ごしてきたのだ。
景紀には悪いとは思いつつも、窮屈な近衛将校としての軍務に服していた貴通にとって、この状況に彼と共に当たれることに喜びを覚えていた。
やがて、辻馬車は何事もなく結城家屋敷の正門前に到着する。
景紀は御者に料金を多めに払うと、そそくさと正門を潜った。貴通、新八、鉄之介がそれに続く。
すると、その姿を見つけた屋敷の家令長が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「若様、ご報告すべき件が」
その声には、多分に困惑が混じっていた。
「何だ?」
急いでいるというのに自分の邪魔をする家令長に対して、景紀は冷たい声を出してしまう。
「長尾多喜子様が、先ほど屋敷にいらっしゃいました。若様をお待ちです」
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