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第二章 シキガミの少女と北国の姫編
29 疑心
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「多喜子様という方は、中々に油断ならない方である反面、独特な人物でもありましたね」
長尾家皇都屋敷からの帰路、馬車に揺られながら宵は先ほどまで行われていた茶会の感想を漏らしていた。
「独特とは……また婉曲的な表現ですね」
宵の言い回しが面白かったのか、対面に座る冬花はくすりと笑った。
「まあ、同期生の私に言わせてもらえれば、悪い人間ではあるのですが、中々憎めない茶目っ気を持った人、といったところですかね」
「“悪い人間ではない”、ではなく」
「ええ、“悪い人間”です。宵姫様もそうお感じになったのでは?」
「何と言いますか、面白がって状況を引っ掻き回しそうな方であるようには感じました。特に会話の印象では、自身が主導権を握ることに拘っているような、そんな印象です」
「ええ、その印象で間違っていないと思います」
「あの方を奥方に貰う殿方は、苦労しそうですね」
「まあ、景紀様との婚約の話が流れて以来、多喜子の縁談は中々進んでいないらしいですけど。本人も女子学士院時代、『愚鈍な殿方には嫁ぎたくない』と公言していましたし。まあ、そろそろ将家の姫としては行き遅れを懸念すべき年頃だとは思いますが」
結局、多喜子主催の茶会は、宵が終始、警戒し続けていたので、何らの言質を与えることなく終わった。そのことに、彼女は安堵を覚えている。
「景紀様の方も、今頃は兵学寮同期の方とお会いしているのでしょうか?」
「ええ、頼朋翁との茶会が終わったら、その足で会ってくるとのことで」
「公家華族の穂積家の方でしたか? 冬花様は面識がおありで?」
「実は、その貴通殿という方と会ったことはないんです」冬花は答えた。「景紀様が兵学寮にいる頃、私は女子学士院にいましたし、たまの休暇で若様と会うことはあったのですが、一度も屋敷に連れてこられたことはありませんでした。卒業後は景紀様も私も領地で匪賊討伐に参加したり、南洋群島や新南嶺島の視察に行ったりもしていましたので」
「まあ、殿方には殿方同士の付き合いというのもあるのでしょう」
とはいえ、宵はその穂積貴通という人物には会ってみたい気もしていた。あの景紀がわざわざ会いにいくほどの人間なのだから、よほど興味深い人物なのだろう。
ただ、景紀が冬花と会わせていないという点は気になるところであった。やはり、その人物が冬花の容姿を嫌悪することを懸念しているのだろうか?
「もっとも、政治的に見ればまた別の思惑もありそうですが」
そう思う一方で、宵の頭脳は冷徹な計算も行っていた。
今や公家華族は、六家の傀儡となって大臣職を務める者がほとんどであり、政治的な実権はほとんどない。しかし一方で、宮廷文化の担い手でもあった公家には権威がある。五摂家などはその最たるものであり、六家としても傀儡として彼らとの繋がりは維持したいという思いがあるのだ。
権力とは、権威が付随して初めて正常に機能するものだ。剥き出しの暴力的な権力を握るだけでは、早晩、その者は破滅するだろう。六家が戦国時代を終わらせるにあたり、皇主を盟主としたのにはそうした意味もある。
景紀が五摂家の一角、穂積家の子息と密接な関係を持つことは、政治的に意義のあることであった。
貴通の詳しい出自を知らない宵としては、将来的にその人物を宰相にして結城家が裏で政治的実権を握るという構想まで考えていた。今の有馬家が、内閣に自身の派閥の者を多く入れているように。
「……」
ふと宵が気付けば、冬花が自分の肩越しに視線を遣っていた。宵の後ろには、後方を確認するための窓がある。
「……尾けられているようです」
冬花に固い声で報告されても、宵の心に動揺はなかった。列侯会議の近いこの時期ならば、そうしたことは起こり得ると考えていたからだ。
冬花が御者台に通じる窓を開けた。
「気付いていますか?」
「はい」
冬花の問いに、御者は頷いた。結城家家臣でもある御者にとって、この程度のことは慣れているのだ。
「それで、葛葉殿。如何いたしますか?」
御者が問う。同じ結城家家臣とはいえ、家格でいえば冬花の方が高い。そのため、この場の警備責任者は冬花となる。
「……」
冬花は一瞬、悩んだ。先日の、長尾公との会談の際の出来事が頭に浮かぶ。後ろから尾行してくる馬車の他に、待ち伏せしている刺客がいるかもしれない。
このまま素直に屋敷を目指してもいいものか、と思う。
それに、自分たちの方にも来たということは、景紀の方も心配だ。
「……景紀様が心配ですか?」
すると、内心を察したのか、宵が問いかけてきた。その問いに、冬花は即座に自身の思考を恥じる。今の自分は、宵の警護を任されている身だ。それを疎かにして、景紀の心配だけをするとは。
「このまま、景紀様と合流なさっては?」宵は、そのように提案した。「冬花様は陰陽師です。連絡の手段ならばあるのでは?」
宵の方が、よほど冷静であった。自分は景紀のシキガミであることに拘るあまり、視野が狭くなっていたと思う。
「はい。恐らく、屋敷の周辺で待ち伏せされている可能性もあります。景紀様への警告も必要でしょう」
そう言って冬花は御者に行き先の変更を告げると、着物の袖に仕込んである呪符の一つを取り出してさっと文字を書いた。
窓を開け、連絡用の呪符を放つ。少女の霊力を受けた呪符は小鳥の形へと変化し、やがて皇都の空へと消えていった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
結城景紀が有馬頼朋と、娘の宵が長尾多喜子と会うという情報は、佐薙成親の耳にも届いていた。
問題は、それが何を目的としているのかということである。
来年度予算を巡る六家同士の対立を考えるならば、有馬・長尾・結城三家の連携を強めるという目的と見るのが一番自然であろう。
しかし、長尾家との対立を抱える佐薙成親は、そう考えはしなかった。
嶺州鉄道建設請負契約について、あの三家で何かしらの密約を結ぼうとしているのではないかと思ったのである。
有馬頼朋翁は中央集権体制確立のための郡県制移行派として以前から有名であるし、長尾家は佐薙家との領地境界線を巡って対立している。
もしやこの機会に嶺州における佐薙家の統治権の縮小を狙っているのではないだろうか、と成親は勘ぐってしまったのである。
伝統的な将家の価値観の中でしか政治を考えられないが故の錯誤であったのであるが、それはあくまでも後世の視点からの評価であった。
将家にとっては、“家”を守ることが第一であり、そのためには領国経営が絶対に必要であった。それを脅かされる可能性があるとすれば、座視しているわけにはいかないのである。佐薙成親もそうした価値観の下に、三家の行動を見ていたのである。
そして、そうした彼の疑心を増幅させる出来事がここ数日の間に続いていた。
屋敷に潜入していた可能性があるという、どこかの術者の存在。もし家の機密に関わる情報が漏れていれば、拙いことになる。
そして先日、屋敷に投げ込まれていた怪文書の存在。
その怪文書とは、娘の宵が父である自分を陥れるために夫である結城景紀や長尾家に讒言を吹き込んでいる、というものである。
列侯会議が近付いていることもあり、そうした怪文書が出回ることについては成親も疑問を覚えていなかったが、問題はその内容である。
あの小娘にそれだけの影響力があるものか、という侮りと共に、逆に彼女の内心に結城や長尾が付け込んでいるのではないかという疑心に、佐薙成親の心は揺れていた。
元々、成親は娘である宵を信用していない。婚礼の儀の際、自分と共に結城景紀へ嶺州の窮状を訴える様に言いつけていたにも関わらず、それを無視していた。
今まで冷遇してきたためそうした反発は当然であると言えたが、十五になるまで華族の姫としての教育を施し、育ててきたのは佐薙家である。
佐薙成親は、娘を忘恩の輩であると考えていた。
怪文書の出所など気になる点はあるにせよ、その内容は娘に不信の目を向けている成親の内心と一致していた。
いずれにせよ、佐薙家を陥れようとする密約の有無を暴くために多少の手荒い手段は必要であると考えていた成親である。宵の件に関しても、その流れの中で真偽を見極める必要があると考えた。
問題は、そうした行為が露見した場合であった。それこそ、六家に佐薙家の統治権縮小の口実を与えかねない。
「攘夷派を使嗾すれば、伊丹や一色の連中の仕業に見せかけられるのではないか?」
そのため、成親の思考はどこに責任を押し付けるか、というものとなった。
伊丹・一色両家が攘夷派将家の筆頭格であることは、衆目の一致するところである。そうした者たちであれば、攘夷派浪士などを煽動して反対派の排除を行うことも考えられる。
実際、ここ数年で発生した攘夷派による暗殺事件の背後には、伊丹正信や一色公直がいるのではないかと噂されたことがある。それが事実かどうかはともかく、多くの者たちはそう思っているわけだ。
これを利用しない手はない、と成親は考えたのである。
金に困っている牢人連中、不逞浪士ならば、多少の報酬を示せば即座に操ることが出来るだろう。それに、軍事費の急激な増大に反対する有馬、結城、長尾三家を目の敵にする攘夷派は、少なくないに違いない。
問題は、誰を標的として情報を引き出すか、ということである。
その点に関して、成親の判断は速かった。
宵しかいない。
あの娘には政略結婚の道具としての価値以上は感じていないが、こうした場合には有力な情報源となり得る。また、彼女が結城や長尾からどのようなことを吹き込まれ、自分たち佐薙家への奸計を巡らせているのかも確認する必要もあった。
攘夷派による襲撃を装い、宵を誘拐。
佐薙家の立場としては、攘夷派に誘拐された娘を救出したという体を取ればいい。
用が済めば、口封じのために雇った不逞浪士は始末する。
攘夷を唱える者たちは、正直、成親にとっても邪魔者であった。伊丹、一色は軍事偏重の予算案を編成して、佐薙家を始めとする諸将が国庫に納めた税を国内の振興に回そうとしない。
ここで攘夷派浪士による過激な行動を起こせば、伊丹、一色の対外強硬的な言動に民権派議員たちの非難が集中し、彼らに政治的打撃を与えられるかもしれない。
六家に反発を抱いている成親にとって、自らの策謀は悪くないように思えた。
後は宵が素直に口を割るかであるが、それに関しては問題ないだろう。あれは、母親を大切に思っている。鷹前に留めている正室の身柄は、未だ成親の手の内にあるのだ。
人質の安全と引き換えに情報を引き出し、さらに佐薙成親が宵を誘拐したという事実さえ母親の安全を引き換えにして彼女の口を噤ませる。
「問題は、あの陰陽師の小娘だな」
佐薙家には、有力な術者の家臣は存在しない。そのため、彼は自らが雇い入れた僧侶・丞鎮に葛葉冬花という少女の排除を依頼することとした。
この術者は先日も、屋敷に潜入していたと思しき術者の反応を探知している。呪術師としては相応の実力を持つ者と、成親は評価していた。
「よろしいでしょう」
成親が報酬を示して依頼すると、丞鎮と名乗る僧侶は重々しく頷いた。
「異形のものを退治するのは、我ら術者の本来の務めであるが故」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「冬花は、俺たちと合流すると言っている」
冬花から届いた紙片を貴通に渡した景紀は、焦燥の滲んだ声で言った。
「冬花さんとは、景くんの陰陽師の家臣でしたよね?」
「ああ。恐らく、直接屋敷に戻るのが危険と判断して、一旦、俺たちを合流するつもりなんだろう」
「それ自体は悪い考えではないと思いますが、こちらに妙な連中がいないことを考えると、狙いは彼女たちということになりますね」
「ああ」景紀は頷いた。「だが問題は、冬花には連絡手段があるが、俺にはそれがないってことだ。無事に合流できれば問題はないだろうが……」
「あるいは、どこかの将家の単なる嫌がらせの可能性もありますが」
一応の可能性を、貴通は口にする。
「貴通」なるべく小さな声で、景紀は言った。「ここだけの話、先日、俺は攘夷派の刺客に狙われた」
「それは……穏やかじゃありませんね」貴通の顔が険しくなる。「それで、景くんが無理ならその奥さんを、という安直な行動に出たということですか」
「まだよく判らん」
「しかし、困りましたね。景くんはここから動けない。万が一、冬花さんたちが無事にこの公園に辿り着けた時、景くんの姿がないと騒ぎになってしまうでしょうから」
「ああ、だからといって流石に俺の護衛を動かすことも出来ない」
二人から離れた位置に潜んでいる新八のことを、景紀は言っていた。
貴通は少しの間、思案顔になった。
「……僕が結城家の屋敷に使者として赴きましょうか?」
「冬花への連絡手段がないんだったら、行ったところで無駄になるだけだ」
景紀はかぶりを振った。
結局、思考は堂々巡りをするだけだ。冬花は景紀への連絡手段があるが、景紀の方にはそれがない。そして、宵と冬花の乗る馬車の現在位置が判らない以上、下手にこの公園から動くことも出来ない。
景紀は冬花の術者としての能力を信用している。彼女が術を展開すれば、攘夷派浪士十人に襲いかかられたところで、問題もならないだろう。
だが、正体不明の術者の存在が頭を過ぎるのだ。あえて冬花のいる方を狙ったということは、何かあるのではないだろうかと思ってしまうのだ。
これが、自分と冬花、そして新八の組み合わせであれば何ら心配しなかっただろう。先日の攘夷派浪士の件のように、景紀は冬花と共に戦うことが出来る。
だが、今回は宵という明確な護衛対象がいるのだ。冬花にとっても、いつもと勝手が違うだろう。
だから、心配になってしまう。
そうして焦燥だけが膨れていく無為の時間が過ぎてく。
脇腹に鋭い痛みが走ったのは、その時だった。
「―――っ!」
思わず手で脇腹を押さえ、顔を思い切りしかめてしまう。
「景くん!?」
いきなりのことに、貴通が声を上げる。まさか茶店に毒を盛られたのかと思ったのだ。
「若、どないしたん!?」
と、貴通の気付かぬ間に彼よりも少し年上の青年が景紀の傍に立っていた。見知らぬ男の出現に、一瞬、貴通の警戒心が跳ね上がる。
「二人とも落ち着け!」
貴通と新八の動揺を叱り付けるように、景紀は怒鳴った。痛みは一瞬で、すでに引いている。
「俺は何も問題ない」
「そうは見えませんでしたが……」
案ずるように、それでいて疑わしそうに、貴通は兵学寮同期生を見た。だが、景紀は本当に何事もなかったかのように立ち上がった。
「新八さん、急いで屋敷に戻るぞ」断乎たる声で、景紀は言った。「だがその前に、学士院の鉄之介を拾っていく」
「本当に、何があったん?」
問いかけた新八を、景紀は殺意すらこもった視線で睨み付けた。
「どこかの馬鹿が、俺のシキガミに手を出しやがった……!」
それは、この世のすべてを呪うような、低く不穏な声であった。
長尾家皇都屋敷からの帰路、馬車に揺られながら宵は先ほどまで行われていた茶会の感想を漏らしていた。
「独特とは……また婉曲的な表現ですね」
宵の言い回しが面白かったのか、対面に座る冬花はくすりと笑った。
「まあ、同期生の私に言わせてもらえれば、悪い人間ではあるのですが、中々憎めない茶目っ気を持った人、といったところですかね」
「“悪い人間ではない”、ではなく」
「ええ、“悪い人間”です。宵姫様もそうお感じになったのでは?」
「何と言いますか、面白がって状況を引っ掻き回しそうな方であるようには感じました。特に会話の印象では、自身が主導権を握ることに拘っているような、そんな印象です」
「ええ、その印象で間違っていないと思います」
「あの方を奥方に貰う殿方は、苦労しそうですね」
「まあ、景紀様との婚約の話が流れて以来、多喜子の縁談は中々進んでいないらしいですけど。本人も女子学士院時代、『愚鈍な殿方には嫁ぎたくない』と公言していましたし。まあ、そろそろ将家の姫としては行き遅れを懸念すべき年頃だとは思いますが」
結局、多喜子主催の茶会は、宵が終始、警戒し続けていたので、何らの言質を与えることなく終わった。そのことに、彼女は安堵を覚えている。
「景紀様の方も、今頃は兵学寮同期の方とお会いしているのでしょうか?」
「ええ、頼朋翁との茶会が終わったら、その足で会ってくるとのことで」
「公家華族の穂積家の方でしたか? 冬花様は面識がおありで?」
「実は、その貴通殿という方と会ったことはないんです」冬花は答えた。「景紀様が兵学寮にいる頃、私は女子学士院にいましたし、たまの休暇で若様と会うことはあったのですが、一度も屋敷に連れてこられたことはありませんでした。卒業後は景紀様も私も領地で匪賊討伐に参加したり、南洋群島や新南嶺島の視察に行ったりもしていましたので」
「まあ、殿方には殿方同士の付き合いというのもあるのでしょう」
とはいえ、宵はその穂積貴通という人物には会ってみたい気もしていた。あの景紀がわざわざ会いにいくほどの人間なのだから、よほど興味深い人物なのだろう。
ただ、景紀が冬花と会わせていないという点は気になるところであった。やはり、その人物が冬花の容姿を嫌悪することを懸念しているのだろうか?
「もっとも、政治的に見ればまた別の思惑もありそうですが」
そう思う一方で、宵の頭脳は冷徹な計算も行っていた。
今や公家華族は、六家の傀儡となって大臣職を務める者がほとんどであり、政治的な実権はほとんどない。しかし一方で、宮廷文化の担い手でもあった公家には権威がある。五摂家などはその最たるものであり、六家としても傀儡として彼らとの繋がりは維持したいという思いがあるのだ。
権力とは、権威が付随して初めて正常に機能するものだ。剥き出しの暴力的な権力を握るだけでは、早晩、その者は破滅するだろう。六家が戦国時代を終わらせるにあたり、皇主を盟主としたのにはそうした意味もある。
景紀が五摂家の一角、穂積家の子息と密接な関係を持つことは、政治的に意義のあることであった。
貴通の詳しい出自を知らない宵としては、将来的にその人物を宰相にして結城家が裏で政治的実権を握るという構想まで考えていた。今の有馬家が、内閣に自身の派閥の者を多く入れているように。
「……」
ふと宵が気付けば、冬花が自分の肩越しに視線を遣っていた。宵の後ろには、後方を確認するための窓がある。
「……尾けられているようです」
冬花に固い声で報告されても、宵の心に動揺はなかった。列侯会議の近いこの時期ならば、そうしたことは起こり得ると考えていたからだ。
冬花が御者台に通じる窓を開けた。
「気付いていますか?」
「はい」
冬花の問いに、御者は頷いた。結城家家臣でもある御者にとって、この程度のことは慣れているのだ。
「それで、葛葉殿。如何いたしますか?」
御者が問う。同じ結城家家臣とはいえ、家格でいえば冬花の方が高い。そのため、この場の警備責任者は冬花となる。
「……」
冬花は一瞬、悩んだ。先日の、長尾公との会談の際の出来事が頭に浮かぶ。後ろから尾行してくる馬車の他に、待ち伏せしている刺客がいるかもしれない。
このまま素直に屋敷を目指してもいいものか、と思う。
それに、自分たちの方にも来たということは、景紀の方も心配だ。
「……景紀様が心配ですか?」
すると、内心を察したのか、宵が問いかけてきた。その問いに、冬花は即座に自身の思考を恥じる。今の自分は、宵の警護を任されている身だ。それを疎かにして、景紀の心配だけをするとは。
「このまま、景紀様と合流なさっては?」宵は、そのように提案した。「冬花様は陰陽師です。連絡の手段ならばあるのでは?」
宵の方が、よほど冷静であった。自分は景紀のシキガミであることに拘るあまり、視野が狭くなっていたと思う。
「はい。恐らく、屋敷の周辺で待ち伏せされている可能性もあります。景紀様への警告も必要でしょう」
そう言って冬花は御者に行き先の変更を告げると、着物の袖に仕込んである呪符の一つを取り出してさっと文字を書いた。
窓を開け、連絡用の呪符を放つ。少女の霊力を受けた呪符は小鳥の形へと変化し、やがて皇都の空へと消えていった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
結城景紀が有馬頼朋と、娘の宵が長尾多喜子と会うという情報は、佐薙成親の耳にも届いていた。
問題は、それが何を目的としているのかということである。
来年度予算を巡る六家同士の対立を考えるならば、有馬・長尾・結城三家の連携を強めるという目的と見るのが一番自然であろう。
しかし、長尾家との対立を抱える佐薙成親は、そう考えはしなかった。
嶺州鉄道建設請負契約について、あの三家で何かしらの密約を結ぼうとしているのではないかと思ったのである。
有馬頼朋翁は中央集権体制確立のための郡県制移行派として以前から有名であるし、長尾家は佐薙家との領地境界線を巡って対立している。
もしやこの機会に嶺州における佐薙家の統治権の縮小を狙っているのではないだろうか、と成親は勘ぐってしまったのである。
伝統的な将家の価値観の中でしか政治を考えられないが故の錯誤であったのであるが、それはあくまでも後世の視点からの評価であった。
将家にとっては、“家”を守ることが第一であり、そのためには領国経営が絶対に必要であった。それを脅かされる可能性があるとすれば、座視しているわけにはいかないのである。佐薙成親もそうした価値観の下に、三家の行動を見ていたのである。
そして、そうした彼の疑心を増幅させる出来事がここ数日の間に続いていた。
屋敷に潜入していた可能性があるという、どこかの術者の存在。もし家の機密に関わる情報が漏れていれば、拙いことになる。
そして先日、屋敷に投げ込まれていた怪文書の存在。
その怪文書とは、娘の宵が父である自分を陥れるために夫である結城景紀や長尾家に讒言を吹き込んでいる、というものである。
列侯会議が近付いていることもあり、そうした怪文書が出回ることについては成親も疑問を覚えていなかったが、問題はその内容である。
あの小娘にそれだけの影響力があるものか、という侮りと共に、逆に彼女の内心に結城や長尾が付け込んでいるのではないかという疑心に、佐薙成親の心は揺れていた。
元々、成親は娘である宵を信用していない。婚礼の儀の際、自分と共に結城景紀へ嶺州の窮状を訴える様に言いつけていたにも関わらず、それを無視していた。
今まで冷遇してきたためそうした反発は当然であると言えたが、十五になるまで華族の姫としての教育を施し、育ててきたのは佐薙家である。
佐薙成親は、娘を忘恩の輩であると考えていた。
怪文書の出所など気になる点はあるにせよ、その内容は娘に不信の目を向けている成親の内心と一致していた。
いずれにせよ、佐薙家を陥れようとする密約の有無を暴くために多少の手荒い手段は必要であると考えていた成親である。宵の件に関しても、その流れの中で真偽を見極める必要があると考えた。
問題は、そうした行為が露見した場合であった。それこそ、六家に佐薙家の統治権縮小の口実を与えかねない。
「攘夷派を使嗾すれば、伊丹や一色の連中の仕業に見せかけられるのではないか?」
そのため、成親の思考はどこに責任を押し付けるか、というものとなった。
伊丹・一色両家が攘夷派将家の筆頭格であることは、衆目の一致するところである。そうした者たちであれば、攘夷派浪士などを煽動して反対派の排除を行うことも考えられる。
実際、ここ数年で発生した攘夷派による暗殺事件の背後には、伊丹正信や一色公直がいるのではないかと噂されたことがある。それが事実かどうかはともかく、多くの者たちはそう思っているわけだ。
これを利用しない手はない、と成親は考えたのである。
金に困っている牢人連中、不逞浪士ならば、多少の報酬を示せば即座に操ることが出来るだろう。それに、軍事費の急激な増大に反対する有馬、結城、長尾三家を目の敵にする攘夷派は、少なくないに違いない。
問題は、誰を標的として情報を引き出すか、ということである。
その点に関して、成親の判断は速かった。
宵しかいない。
あの娘には政略結婚の道具としての価値以上は感じていないが、こうした場合には有力な情報源となり得る。また、彼女が結城や長尾からどのようなことを吹き込まれ、自分たち佐薙家への奸計を巡らせているのかも確認する必要もあった。
攘夷派による襲撃を装い、宵を誘拐。
佐薙家の立場としては、攘夷派に誘拐された娘を救出したという体を取ればいい。
用が済めば、口封じのために雇った不逞浪士は始末する。
攘夷を唱える者たちは、正直、成親にとっても邪魔者であった。伊丹、一色は軍事偏重の予算案を編成して、佐薙家を始めとする諸将が国庫に納めた税を国内の振興に回そうとしない。
ここで攘夷派浪士による過激な行動を起こせば、伊丹、一色の対外強硬的な言動に民権派議員たちの非難が集中し、彼らに政治的打撃を与えられるかもしれない。
六家に反発を抱いている成親にとって、自らの策謀は悪くないように思えた。
後は宵が素直に口を割るかであるが、それに関しては問題ないだろう。あれは、母親を大切に思っている。鷹前に留めている正室の身柄は、未だ成親の手の内にあるのだ。
人質の安全と引き換えに情報を引き出し、さらに佐薙成親が宵を誘拐したという事実さえ母親の安全を引き換えにして彼女の口を噤ませる。
「問題は、あの陰陽師の小娘だな」
佐薙家には、有力な術者の家臣は存在しない。そのため、彼は自らが雇い入れた僧侶・丞鎮に葛葉冬花という少女の排除を依頼することとした。
この術者は先日も、屋敷に潜入していたと思しき術者の反応を探知している。呪術師としては相応の実力を持つ者と、成親は評価していた。
「よろしいでしょう」
成親が報酬を示して依頼すると、丞鎮と名乗る僧侶は重々しく頷いた。
「異形のものを退治するのは、我ら術者の本来の務めであるが故」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「冬花は、俺たちと合流すると言っている」
冬花から届いた紙片を貴通に渡した景紀は、焦燥の滲んだ声で言った。
「冬花さんとは、景くんの陰陽師の家臣でしたよね?」
「ああ。恐らく、直接屋敷に戻るのが危険と判断して、一旦、俺たちを合流するつもりなんだろう」
「それ自体は悪い考えではないと思いますが、こちらに妙な連中がいないことを考えると、狙いは彼女たちということになりますね」
「ああ」景紀は頷いた。「だが問題は、冬花には連絡手段があるが、俺にはそれがないってことだ。無事に合流できれば問題はないだろうが……」
「あるいは、どこかの将家の単なる嫌がらせの可能性もありますが」
一応の可能性を、貴通は口にする。
「貴通」なるべく小さな声で、景紀は言った。「ここだけの話、先日、俺は攘夷派の刺客に狙われた」
「それは……穏やかじゃありませんね」貴通の顔が険しくなる。「それで、景くんが無理ならその奥さんを、という安直な行動に出たということですか」
「まだよく判らん」
「しかし、困りましたね。景くんはここから動けない。万が一、冬花さんたちが無事にこの公園に辿り着けた時、景くんの姿がないと騒ぎになってしまうでしょうから」
「ああ、だからといって流石に俺の護衛を動かすことも出来ない」
二人から離れた位置に潜んでいる新八のことを、景紀は言っていた。
貴通は少しの間、思案顔になった。
「……僕が結城家の屋敷に使者として赴きましょうか?」
「冬花への連絡手段がないんだったら、行ったところで無駄になるだけだ」
景紀はかぶりを振った。
結局、思考は堂々巡りをするだけだ。冬花は景紀への連絡手段があるが、景紀の方にはそれがない。そして、宵と冬花の乗る馬車の現在位置が判らない以上、下手にこの公園から動くことも出来ない。
景紀は冬花の術者としての能力を信用している。彼女が術を展開すれば、攘夷派浪士十人に襲いかかられたところで、問題もならないだろう。
だが、正体不明の術者の存在が頭を過ぎるのだ。あえて冬花のいる方を狙ったということは、何かあるのではないだろうかと思ってしまうのだ。
これが、自分と冬花、そして新八の組み合わせであれば何ら心配しなかっただろう。先日の攘夷派浪士の件のように、景紀は冬花と共に戦うことが出来る。
だが、今回は宵という明確な護衛対象がいるのだ。冬花にとっても、いつもと勝手が違うだろう。
だから、心配になってしまう。
そうして焦燥だけが膨れていく無為の時間が過ぎてく。
脇腹に鋭い痛みが走ったのは、その時だった。
「―――っ!」
思わず手で脇腹を押さえ、顔を思い切りしかめてしまう。
「景くん!?」
いきなりのことに、貴通が声を上げる。まさか茶店に毒を盛られたのかと思ったのだ。
「若、どないしたん!?」
と、貴通の気付かぬ間に彼よりも少し年上の青年が景紀の傍に立っていた。見知らぬ男の出現に、一瞬、貴通の警戒心が跳ね上がる。
「二人とも落ち着け!」
貴通と新八の動揺を叱り付けるように、景紀は怒鳴った。痛みは一瞬で、すでに引いている。
「俺は何も問題ない」
「そうは見えませんでしたが……」
案ずるように、それでいて疑わしそうに、貴通は兵学寮同期生を見た。だが、景紀は本当に何事もなかったかのように立ち上がった。
「新八さん、急いで屋敷に戻るぞ」断乎たる声で、景紀は言った。「だがその前に、学士院の鉄之介を拾っていく」
「本当に、何があったん?」
問いかけた新八を、景紀は殺意すらこもった視線で睨み付けた。
「どこかの馬鹿が、俺のシキガミに手を出しやがった……!」
それは、この世のすべてを呪うような、低く不穏な声であった。
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愚父→ぐふ
⚠︎注意⚠︎
不定期更新です。作者の妄想をつぎ込んだ作品です。
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