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第二章 シキガミの少女と北国の姫編
28 同期生
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「これ、作っておいたわよ」
景紀が有馬家別邸に赴くために屋敷を出る際、冬花は手の平に乗せたお守りを差し出した。
「ああ、助かる」
景紀は軽く笑みを浮かべて、それを受け取った。
「本当に、今の私が出来る最大限の術式を刻んであるわ。絶対に、手放さないで」
冬花はお守りを手にした景紀の手を、自身の手で握り込ませた。それだけ、主君の身が心配だったのである。
「お、おう」
その気迫に、景紀は少し気圧されたようであった。
景紀に渡したお守りは、見た目は本当に普通のお守りである。だが、陰陽師である彼女の出来る限りの守護の呪いが掛けられている。
術式だけではない。
赤い生地に織り込まれた刺繍には、彼女自身の髪の毛が使われていた。古来より、髪は「神」に通じ、呪術的な意味を持つものとされている。
「僭越ながら、私もお守り作りを手伝わせていただきました」
そして、冬花と同じく、宵もまた自身の髪の毛を生地に織り込ませていた。
「私は呪術師ではありませんが、“想い”というのは呪に繋がるものとのことでしたので、一人よりは二人の方が良いかと思ったのです」
「そっか、宵もか」
景紀は、もう一度手の中のお守りを見つめた。そして、その紐を首に掛け、お守りを服の内側にしまい込んだ。
「二人とも、心配してくれてありがとうな」
景紀はそっと両手で、二人の頭を撫でた。
「いえ……」
宵は少しだけ顔を赤らめて目を伏せる。ちらりと横を見れば、冬花も同じように赤い顔をしていた。
お守りの中には、男性に直接言うには恥ずかしい、呪術的にお守りの効果があるという、体のある部分の毛も入れてあった。それも、宵と冬花の二人分である。
純粋にお守りを作ってくれたことに感謝している景紀を見ていると、すべてを知っている自分たちが何となく恥ずかしく思えるのだ。
「じゃあ、お前たちの方も気を付けてな」
「はい、長尾家に下手な言質を与えぬよう、気を付けます」
あまり羞恥にもだえていても仕方がないので、宵は気分を切り替えた。
「まあ、あまりガチガチに緊張していても仕方ない。お前なら普段通りで大丈夫さ」
髪を撫でていた手で、景紀はぽんと宵の頭を叩いた。
「景紀様もお気を付けて」
そう言って、宵は袖口から取り出した火打ち石をカチカチと鳴らして、自らの夫となった少年を送り出したのだった。
◇◇◇
そして今、彼女と冬花は長尾家の皇都屋敷にいる。
「いやぁ、実に可愛らしいじゃないですか、私の従妹。私、末っ子なので妹が欲しかったんですよね」
宵は茶会というからもっと静かな雰囲気の下に行われるのかと思ったが、庭園に面した部屋で行われているものは、それとは正反対のものであった。
縁側のある和風の部屋には絨毯が敷かれ、洋風の机の上には白い布が被せられ、そこに置かれているのは紅茶や西洋菓子である。
西洋式の礼儀作法は宵も華族の娘なので心得ているのでそれは問題ないのだが、自身の目の前で喋る少女にどう対処すべきか、彼女は思案に暮れていた。
「この綺麗な顔立ちの中に幼さを残している雰囲気がまた良いですねぇ。どうです、今日から私のことを『姉上』と呼んで下さってもいいのですよ?」
単に饒舌なだけならば良い。だが、目の前の少女は時々、際どい台詞を放ってくる。
「姉上」と呼んでくれ、というのは、結城家は領地問題について長尾家側に付いてくれ、というような要求とも受け取れるのだ。
長尾多喜子という少女は、油断ならない人間であると宵は感じていた。
宵は自分自身でも、あまり感情を表に出さない性格であると思っている。それは十五年間の鷹前での生活の中で身に付いた、自身の心を守る術であるともいえた。
対して、目の前の少女は笑みを絶やさない。
自分より二歳年上で、より大人の女性へと成長途中であることが見て取れる容姿をしているのだが、顔には子供のような茶目っ気のある表情を浮かべているのだ。
凜とした雰囲気をまとう冬花とは、また違った種類の少女であった。
「多喜子、宵姫様が困ってらっしゃるわ」
隣に座る冬花が、さりげなく宵が思考をまとめる時間を稼いでくれた。
「ふふっ、そんな緊張なされなくていいんですよ」多喜子は、そう宵に語りかける。「冬花も、そんなに私を警戒しないで下さいな。私たち、女子学士院の同期じゃありませんか」
「そうね」
冬花の応答は、饒舌な多喜子を軽くあしらうような冷たさがあった。
「でも、今の私は結城家の家臣の一人よ」
「うーん、この生真面目なところは学生時代と変わっていませんねぇ」
「今、うちと貴女の家、そして佐薙家の関係が微妙なところなのだから、警戒して当然じゃない」
「もう!」多喜子はふくれっ面を見せる。「それじゃあ、せっかくのお茶会が楽しくないじゃありませんか。お茶会は楽しむものでしょう?」
「それが本心なら、私も楽しめたんでしょうけれど」
「何ですか、まるで私がお腹の中真っ黒々な腹黒女みたいな言い草。私のお腹はこのケーキのクリームの如く純白ですよ」
「多喜子のお腹はこのチョコレートよりも真っ黒でしょう? 宵姫様に純情ぶろうとしたところで、同期生の私は騙されないわよ」
「もう、首席様はつれないですね」
「そういう貴女は万年次席だった癖に」
「だって一度も冬花が首席を譲ってくれなかったからでしょう。少しは私に譲ってくれても良かったのに」
「私には譲れないものがあるのよ」
「ははぁん! 景紀に『私凄いでしょ、褒めて褒めて!』ってやりたかったんですね。いやぁ、冬花も乙女ですねぇ」
「……それ以上言うと、ケーキを丸ごとその口に突っ込むわよ」
冬花は多喜子を罵倒しつつも、多喜子は冬花をからかいつつも、互いに友人同士の会話を楽しんでいるように、宵には聞こえた。
それは一面では正しいのだろうが、多喜子という少女はあえてそうした気安い会話で宵の警戒心を解こうとしているのかもしれない。冬花がこの長尾家の姫のことを「腹黒」というのならば、恐らくその通りなのだろう。
もっとも、そうした意味では景紀も相当だろう。
ただ、だからといってこの少女が景紀の夫に相応しいとは思わない。
多喜子という少女は、一時期、景紀との婚約が検討されたが、他の六家の理解が得られずに婚約の話は流れたという。そして、結果として自分が彼に嫁ぐことになったということも。
宵は多喜子に、警戒すべき何かを感じていた。
それは、女としてという意味ではない。
政治的に、この少女は警戒すべきだと思ったのだ。多喜子はこの状況で、自分の家と結城家との繋がりを強化しようとしているように見える。
それによってもしかしたら、佐薙家側の暴発を期待しているのかもしれない。そうなれば、先に手を出したのは佐薙家ということになり、長尾家は被害者としての地位を得られることになる。
それが、彼女自身の考えによるものなのか、あるいは父親からの指示によるものなのかは判らない。
だが、そうした企みを持ってこの茶会を主催してしまうくらいには、彼女は自身の能力に自信を持っているのだろう。
自家の利益を追及しようとする多喜子(あるいはその背後にいるかもしれない長尾憲隆)と、嶺州の領地経営を嶺州の民にも有益な形で提示してくれた景紀。
だから宵は、景紀を信頼するのだ。
だから宵は、この少女が景紀の妻に相応しくないと思ったのだ。
それは、女としてのちょっとした優越感であった。
そう思うことが出来れば、緊張で固まっていた心にも余裕が生まれてくる。
「よろしければ、お二人の学生時代のお話でも聞かせてもらえませんか」
宵は多喜子があえて持ち出していた女子学士院の話を利用することにした。女子学士院の話に専念させてしまえば、この長尾の姫が何かを企む隙も最小限に押さえ込めるだろう。
「そうですね。宵姫様には、是非とも多喜子が如何に腹が黒かったかということを知っていただきたいと思います」
宵の意図を察してくれたらしい冬花が、面白がるような口調で言った。
「あら、それでしたら私は幼少期の冬花の話でもさせてもらいますよ」
多喜子の方も、宵の意図を察したのだろう。今回は、一旦、諦めるらしい。
「いやぁ、小さい頃の冬花さんは今じゃ想像も付かないほど内気で、もう景紀の後ろに常に隠れているような女の子でして―――」
……前言撤回、と宵は思った。今度は、自分と冬花の確執を意図し始めたらしい。冬花と景紀の親密さを宵の前で暴露することで、結城家内の不和を狙っているのだろうか。
やはり、この少女は警戒すべきだと宵は結論付けた。
辟易とした気分と共に、彼女はケーキを一口、口に入れた。
ここで食べる西洋菓子よりも、あの金座の喫茶店で食べたあんみつの方がよほど美味だったのだが。
◇◇◇
有馬家別邸を後にした景紀は、皇都内にあるとある庭園にやってきていた。
皇都の一般市民にも開放されている公園であり、庭園には彼の他にも複数の市民たちが散策していた。
庭園は多くの将家屋敷などに見られるものと同じく池泉回遊式庭園で、池や築山と中心に構成されたものであった。
ただ、自身の皇都屋敷の庭園や、有馬頼朋翁によって作り込まれた庭園を見慣れている景紀にしてみれば、いささか雅さが不足しているようにも思えた。
庭園は、時期も時期だけにすでに多くの木々が葉を落とし、裸の木が寒そうに冬空の下に枝を伸ばしている。
景紀はしばらく庭園を散策すると、池のほとりに建っている茶屋に寄った。
建物の外、池に面した場所に置かれた腰掛けに座り、温かい茶と団子を注文した。しばらくすると、店員が赤い布の掛けられた腰掛けに注文の品を置いていく。
「―――もう少し早ければ、紅葉が楽しめたかもしれませんね」
不意に、彼の背後から涼やかな声が響いた。
「とはいえ、落ち葉が散らばっているというのも、これはこれで趣があると言えるのかもしれませんが」
穏やかな口調で、聞く者の耳にすっと入ってくるような少年の声。
そのまま、声の主は景紀と背中向かいになるように、同じ腰掛けに腰を下ろした。
「よう、貴通。元気にしてたか?」
「ええ。お陰様で、というのも変かもしれませんが」
小さく笑うように、貴通と呼ばれた少年は答えた。
シャツの上に着物をまとい、二重回し外套を羽織り、制帽を被ったその姿は、完全に文学少年という出で立ちであった。
景紀よりも幾分小柄な体格で、肌は白磁のように白く、柔和な笑みが似合う中性的な顔立ち。
恐らく世の女性たちから間違いなく美少年と太鼓判を押される容姿であろう。
だがこの一見、荒事とは無関係そうな少年は、景紀と陸軍兵学寮同期であった。
穂積貴通。
かつては摂政や関白も出した公家華族・穂積公爵家の人間であった。
「それにしても、ちょっと同期生の扱いが粗略に過ぎませんかね、景くん?」
貴通は穏やかで丁寧な口調のまま、むくれたように景紀に不満を零す。
「十月ごろにはもう皇都に出てきていたんでしょう? まともな挨拶もなしに兵学寮同期生をこんな風に情報提供者として呼び出すなんて、友達付き合いがなっていないと思います」
「こっちも色々あったんだよ。許せ」景紀はばつが悪そうに言った。「父上からの政務の引継ぎとか、佐薙家との婚礼の準備とか、六家会議とか」
「まったく、しょうがない首席様ですね」
からかうように、貴通は笑った。
二人は兵学寮で、常に首席と次席の座を争う関係にあった。景紀はついにその座を守り抜いたが、一方の貴通も次席の座は他の生徒に一切譲らなかったのである。
だが、常に競争していた相手であったものの、二人の関係は兵学寮在籍中、ほとんどの時期において親密そのものであった。
そして、兵学寮卒業後も、手紙のやり取りなどでその関係は続いていた。
ただ、直接会う機会が中々なかったため、貴通は景紀の薄情さに不満を漏らしたのである。
「六家会議の件は僕も知っています。来年度予算の中の軍事費の割合で荒れていたそうですね?」
再び話し出した時にはその声は真剣なものとなった。
貴通の父親である穂積家当主・通敏は、現在、文部大臣を務めている。だからこそ、政局の情報にも通じているのである。将家華族には将家華族なりの繋がりがあるように、公家華族には公家華族なりの繋がりがある。
「荒れていた、っていうか、荒れている、だな」景紀は現在形に訂正した。「下手をすると、列侯会議にまで持ち越されそうな勢いだぞ」
「政府としては、大蔵省を中心に、やはり軍事偏重の予算案は阻止したい構えのようです。ただ、列侯会議議員になっている公家華族たちには、伊丹、一色両家から圧力が掛かっています。やっぱり、公家華族は経済基盤が弱いところが多いですからね。金を握っているところには逆らえません」
将家華族と公家華族の間には、厳然たる経済格差が存在していた。かつては荘園経営によって莫大な富を得ていた公家たちであったが、武士の台頭によって荘園経営は限界を迎え、戦国時代の終焉と六家による集団指導体制の確立によって、ほぼその経済基盤は失われたと言っていい。
現在、華族には政府から家禄が支払われているが、それでも戦功を元にした賞典禄を得られる将家華族と、そうでない公家華族の間には大きな差が設けられていた。
結果、公家華族の中には借財に苦しむ家もあり、そうしたところに相対的に豊かな六家が付け込み、経済的に公家華族を支配していくという状況が生まれてくることになったのである。
「お前のところの穂積家はどうだ?」
「うちもかつては五摂家の一角でしたが、やはり経済的には苦しいことには変わりありません。列侯会議議員とはいっても、公爵・侯爵議員は無給ですからね。うちは父が文部大臣を務めているのと、株式投資やわずかに残された土地の運用で何とか持っている感じです」
「政府の方は持ちそうか? 下手に閣内不一致、内閣総辞職ということになれば、列侯会議も衆民院も開会早々に大混乱だぞ?」
「その点については頼朋翁が手を回しているのを、景くんなら知っているんじゃないですか?」
「あの爺さんが何から何まで、俺に情報提供してくれるわけじゃない。多分、そうしているだろうと思ってはいるが、実際に政府の情報を得られる立場にある奴から確認を取りたい」
「兵部大臣の坂東友三郎大将は、六家のどこの派閥にも属していない軍人ですが、常識的な考えの持ち主です。兵部大臣が強硬に予算案を通そうとして、閣内不一致、内閣総辞職とはなりにくいかと。そもそも兵相自身が、伊丹・一色派の人間が押し付けてきた膨大な予算案に内心、苦々しい思いを抱いているようですし」
「まあ、そういう人間だからこそ、頼朋翁が兵部大臣に据えたんだろうが」
「現状の内閣は、内相や蔵相、法相といった主要閣僚を有馬閥が占めていますからね。なので、その点については心配ないと思いますよ。まあ、この世界に絶対と言えることはありませんが」
「それについては、俺もよく理解している。とはいっても、伊丹と一色がなりふり構わぬ倒閣運動に走る、なんて可能性も考慮には入れてる。お飾りで据えた公卿出身の大臣なんかに圧力を掛けて無理矢理辞職させる、なんてな」
「まあ、僕に出来るのは情報提供くらいです。あまり、お役に立つような情報を手に入れられなくて申し訳ないですが」
「いや、それで十分さ。後は、面倒臭いっちゃ面倒臭いが、俺たち六家の仕事だからな」
「ふふっ、景くんは相変わらずですね」
ごく自然な仕草で、貴通は笑った。単純に、景紀のものぐさ発言を面白がっている響きしかない。
「……でも、いいなぁ、景くんは」
だが、直後に貴通の口調は陰鬱で偏執的な憧れの混じったものへと変貌した。初めて聞く者がいれば、先ほどの優しげな喋り方からの豹変ぶりに、怖気を震うことだろう。
「結城家で辣腕を振るい放題じゃないですか。いいないいないいなぁ、本当にいいなぁ」
暗く澱んだ、妬みの感情を少年は呪いのように吐き出し続ける。
「僕なんて、どんなに頑張っても、所詮は愛妾の子供なのに……」
公家にとっても将家にとっても、正室の子でない人間というのは珍しくない。側室の子、あるいはそうした公的な地位すら与えられない愛妾の子というのは、ごく一般に存在する。実際、華族当主の三分の一程度は正室でない女性の子であるという。
「……はぁ、すっきりしました」
再び、貴通は突然に口調を変えた。元の優しげで丁寧な口調に戻り、狂気すら感じられた憧憬と嫉妬の感情は、どこにも見えなかった。
「ホント、兵学寮時代は良かったですね。景くんに気軽に愚痴を零せましたし。近衛将校となった今じゃ、そんな相手なんて一人もいませんし。そもそも、軍人らしい仕事なんてほとんど回ってきませんし」
「まあ、一人で抱え込むのがしんどくなったら、いつでも俺の所に来ればいいさ」兵学寮時代から、貴通のある種の危うさを知っている景紀は、慣れた口調で慰めた。「幸い、俺は当分は皇都にいることになるんだしな」
貴通には、年の離れた弟がいる。その弟は正室の子であり、そうである以上、貴通はその出自故に絶対に当主にはなれなかった。そして、何れどこかの段階で将来的に正室の子を脅かす存在として、穂積家から排除されるだろうことも予測していた。
分家という形での放逐ならばまだ良いが、事故死に見せかけた暗殺など、命を狙われる可能性すらあるのだ。実際、穂積通敏の正室は貴通の存在を酷く疎んでいると、景紀は彼自身から聞いている。
貴通の精神的な危うさは、そうした彼自身の不安定な立ち位置に由来しているのだろう。
「本当に危なくなったら、遠慮なくうちの屋敷に逃げてこい。まあ、俺がどうにかしてやる」
自分でも甘いと感じながらも、景紀は兵学寮同期生にそう言った。最悪、父親に頼み込んで貴通を結城家の養子にしてもらうことまで考えている。
切り捨てるには彼は貴通と親密になり過ぎており、また自分と争ったその才能を惜しいとも感じていた。
そんな景紀に対して、貴通は自己嫌悪に塗れた言葉を返す。
「やっぱり、僕って狡いですね。六家次期当主の景くんと関係を築いておけば、父上から軽々しく捨てられることはないって子供の考えで君に近づいて、今もこうやって同期生って理由で関係を保とうとしているんですから」
「別にお前が嫌いだったら、俺は会おうとも思わんし、情報を提供してくれとも言わん」
「ふふっ、ありがとうございます」
背中合わせのまま、貴通は儚げな笑みを見せた。
「とりあえず、今回の報酬だ」懐から取り出した小さな布袋を、景紀は赤い敷布の上を滑らせた。「言っておくが、返す必要はないからな」
「……提供出来る情報の質と報酬が合っていないような気がします」
少し躊躇いがちに受け取った貴通は、咎めるように言った。彼に手にした布袋は、小さいがずっしりと重かった。金貨が袋一杯に詰め込まれているのだ。
公家華族とはいえ、貴通自身に自由に出来る金はほとんどない。しかも将校とくれば、軍から生活必需品はすべて支給される兵卒と違い、基本的には自弁である。まだ尉官でしかなく、将家の家臣団でもないためその方面からの俸給もない貴通は、比較的貧しいのだ。
「俺はお前という情報提供者を繋ぎ止めておきたい。そのための金だと思ってくれ」
友人の窮状を見かねて、ということであれば、貴通はこの金を絶対に受け取ろうとしないだろう。だから、何か理屈を付けておく必要があった。
「……判りました。僕自身、もっと景くんのお役に立てる情報を集められるよう努力します」
自分自身を無理矢理納得させるような口調で、貴通は返した。
と、不意に景紀の視界に鳥が映った。紙の鳥、呪術師が操る式だ。それが彼の手の平の上に降りてきて、鳥の形から単なる紙片へと変わる。
そこには、文字が書かれていた。景紀には見慣れた、冬花の文字である。
「……拙いな」
さっと内容に目を通すと、ぼそりと景紀は呟いた。
「どうしましたか?」
その呟きに不穏な気配を感じて、貴通は問うた。
「貴通」
景紀の声は固かった。
「はい」
「お前、ここに来るまでに怪しい連中に尾けられていなかったか?」
「いいえ。そこは僕も警戒していますから」
「俺の方も、そういう連中の気配はなかった。尾行しようとする奴らがいれば、少なくとも相手が術者でない限り、俺の護衛が気付く」
「それはつまり―――」
それだけで、貴通はすべてを察した顔になった。
「ああ、宵や冬花の方に、ちょっかいを掛けてきた奴らがいたらしい」
景紀が有馬家別邸に赴くために屋敷を出る際、冬花は手の平に乗せたお守りを差し出した。
「ああ、助かる」
景紀は軽く笑みを浮かべて、それを受け取った。
「本当に、今の私が出来る最大限の術式を刻んであるわ。絶対に、手放さないで」
冬花はお守りを手にした景紀の手を、自身の手で握り込ませた。それだけ、主君の身が心配だったのである。
「お、おう」
その気迫に、景紀は少し気圧されたようであった。
景紀に渡したお守りは、見た目は本当に普通のお守りである。だが、陰陽師である彼女の出来る限りの守護の呪いが掛けられている。
術式だけではない。
赤い生地に織り込まれた刺繍には、彼女自身の髪の毛が使われていた。古来より、髪は「神」に通じ、呪術的な意味を持つものとされている。
「僭越ながら、私もお守り作りを手伝わせていただきました」
そして、冬花と同じく、宵もまた自身の髪の毛を生地に織り込ませていた。
「私は呪術師ではありませんが、“想い”というのは呪に繋がるものとのことでしたので、一人よりは二人の方が良いかと思ったのです」
「そっか、宵もか」
景紀は、もう一度手の中のお守りを見つめた。そして、その紐を首に掛け、お守りを服の内側にしまい込んだ。
「二人とも、心配してくれてありがとうな」
景紀はそっと両手で、二人の頭を撫でた。
「いえ……」
宵は少しだけ顔を赤らめて目を伏せる。ちらりと横を見れば、冬花も同じように赤い顔をしていた。
お守りの中には、男性に直接言うには恥ずかしい、呪術的にお守りの効果があるという、体のある部分の毛も入れてあった。それも、宵と冬花の二人分である。
純粋にお守りを作ってくれたことに感謝している景紀を見ていると、すべてを知っている自分たちが何となく恥ずかしく思えるのだ。
「じゃあ、お前たちの方も気を付けてな」
「はい、長尾家に下手な言質を与えぬよう、気を付けます」
あまり羞恥にもだえていても仕方がないので、宵は気分を切り替えた。
「まあ、あまりガチガチに緊張していても仕方ない。お前なら普段通りで大丈夫さ」
髪を撫でていた手で、景紀はぽんと宵の頭を叩いた。
「景紀様もお気を付けて」
そう言って、宵は袖口から取り出した火打ち石をカチカチと鳴らして、自らの夫となった少年を送り出したのだった。
◇◇◇
そして今、彼女と冬花は長尾家の皇都屋敷にいる。
「いやぁ、実に可愛らしいじゃないですか、私の従妹。私、末っ子なので妹が欲しかったんですよね」
宵は茶会というからもっと静かな雰囲気の下に行われるのかと思ったが、庭園に面した部屋で行われているものは、それとは正反対のものであった。
縁側のある和風の部屋には絨毯が敷かれ、洋風の机の上には白い布が被せられ、そこに置かれているのは紅茶や西洋菓子である。
西洋式の礼儀作法は宵も華族の娘なので心得ているのでそれは問題ないのだが、自身の目の前で喋る少女にどう対処すべきか、彼女は思案に暮れていた。
「この綺麗な顔立ちの中に幼さを残している雰囲気がまた良いですねぇ。どうです、今日から私のことを『姉上』と呼んで下さってもいいのですよ?」
単に饒舌なだけならば良い。だが、目の前の少女は時々、際どい台詞を放ってくる。
「姉上」と呼んでくれ、というのは、結城家は領地問題について長尾家側に付いてくれ、というような要求とも受け取れるのだ。
長尾多喜子という少女は、油断ならない人間であると宵は感じていた。
宵は自分自身でも、あまり感情を表に出さない性格であると思っている。それは十五年間の鷹前での生活の中で身に付いた、自身の心を守る術であるともいえた。
対して、目の前の少女は笑みを絶やさない。
自分より二歳年上で、より大人の女性へと成長途中であることが見て取れる容姿をしているのだが、顔には子供のような茶目っ気のある表情を浮かべているのだ。
凜とした雰囲気をまとう冬花とは、また違った種類の少女であった。
「多喜子、宵姫様が困ってらっしゃるわ」
隣に座る冬花が、さりげなく宵が思考をまとめる時間を稼いでくれた。
「ふふっ、そんな緊張なされなくていいんですよ」多喜子は、そう宵に語りかける。「冬花も、そんなに私を警戒しないで下さいな。私たち、女子学士院の同期じゃありませんか」
「そうね」
冬花の応答は、饒舌な多喜子を軽くあしらうような冷たさがあった。
「でも、今の私は結城家の家臣の一人よ」
「うーん、この生真面目なところは学生時代と変わっていませんねぇ」
「今、うちと貴女の家、そして佐薙家の関係が微妙なところなのだから、警戒して当然じゃない」
「もう!」多喜子はふくれっ面を見せる。「それじゃあ、せっかくのお茶会が楽しくないじゃありませんか。お茶会は楽しむものでしょう?」
「それが本心なら、私も楽しめたんでしょうけれど」
「何ですか、まるで私がお腹の中真っ黒々な腹黒女みたいな言い草。私のお腹はこのケーキのクリームの如く純白ですよ」
「多喜子のお腹はこのチョコレートよりも真っ黒でしょう? 宵姫様に純情ぶろうとしたところで、同期生の私は騙されないわよ」
「もう、首席様はつれないですね」
「そういう貴女は万年次席だった癖に」
「だって一度も冬花が首席を譲ってくれなかったからでしょう。少しは私に譲ってくれても良かったのに」
「私には譲れないものがあるのよ」
「ははぁん! 景紀に『私凄いでしょ、褒めて褒めて!』ってやりたかったんですね。いやぁ、冬花も乙女ですねぇ」
「……それ以上言うと、ケーキを丸ごとその口に突っ込むわよ」
冬花は多喜子を罵倒しつつも、多喜子は冬花をからかいつつも、互いに友人同士の会話を楽しんでいるように、宵には聞こえた。
それは一面では正しいのだろうが、多喜子という少女はあえてそうした気安い会話で宵の警戒心を解こうとしているのかもしれない。冬花がこの長尾家の姫のことを「腹黒」というのならば、恐らくその通りなのだろう。
もっとも、そうした意味では景紀も相当だろう。
ただ、だからといってこの少女が景紀の夫に相応しいとは思わない。
多喜子という少女は、一時期、景紀との婚約が検討されたが、他の六家の理解が得られずに婚約の話は流れたという。そして、結果として自分が彼に嫁ぐことになったということも。
宵は多喜子に、警戒すべき何かを感じていた。
それは、女としてという意味ではない。
政治的に、この少女は警戒すべきだと思ったのだ。多喜子はこの状況で、自分の家と結城家との繋がりを強化しようとしているように見える。
それによってもしかしたら、佐薙家側の暴発を期待しているのかもしれない。そうなれば、先に手を出したのは佐薙家ということになり、長尾家は被害者としての地位を得られることになる。
それが、彼女自身の考えによるものなのか、あるいは父親からの指示によるものなのかは判らない。
だが、そうした企みを持ってこの茶会を主催してしまうくらいには、彼女は自身の能力に自信を持っているのだろう。
自家の利益を追及しようとする多喜子(あるいはその背後にいるかもしれない長尾憲隆)と、嶺州の領地経営を嶺州の民にも有益な形で提示してくれた景紀。
だから宵は、景紀を信頼するのだ。
だから宵は、この少女が景紀の妻に相応しくないと思ったのだ。
それは、女としてのちょっとした優越感であった。
そう思うことが出来れば、緊張で固まっていた心にも余裕が生まれてくる。
「よろしければ、お二人の学生時代のお話でも聞かせてもらえませんか」
宵は多喜子があえて持ち出していた女子学士院の話を利用することにした。女子学士院の話に専念させてしまえば、この長尾の姫が何かを企む隙も最小限に押さえ込めるだろう。
「そうですね。宵姫様には、是非とも多喜子が如何に腹が黒かったかということを知っていただきたいと思います」
宵の意図を察してくれたらしい冬花が、面白がるような口調で言った。
「あら、それでしたら私は幼少期の冬花の話でもさせてもらいますよ」
多喜子の方も、宵の意図を察したのだろう。今回は、一旦、諦めるらしい。
「いやぁ、小さい頃の冬花さんは今じゃ想像も付かないほど内気で、もう景紀の後ろに常に隠れているような女の子でして―――」
……前言撤回、と宵は思った。今度は、自分と冬花の確執を意図し始めたらしい。冬花と景紀の親密さを宵の前で暴露することで、結城家内の不和を狙っているのだろうか。
やはり、この少女は警戒すべきだと宵は結論付けた。
辟易とした気分と共に、彼女はケーキを一口、口に入れた。
ここで食べる西洋菓子よりも、あの金座の喫茶店で食べたあんみつの方がよほど美味だったのだが。
◇◇◇
有馬家別邸を後にした景紀は、皇都内にあるとある庭園にやってきていた。
皇都の一般市民にも開放されている公園であり、庭園には彼の他にも複数の市民たちが散策していた。
庭園は多くの将家屋敷などに見られるものと同じく池泉回遊式庭園で、池や築山と中心に構成されたものであった。
ただ、自身の皇都屋敷の庭園や、有馬頼朋翁によって作り込まれた庭園を見慣れている景紀にしてみれば、いささか雅さが不足しているようにも思えた。
庭園は、時期も時期だけにすでに多くの木々が葉を落とし、裸の木が寒そうに冬空の下に枝を伸ばしている。
景紀はしばらく庭園を散策すると、池のほとりに建っている茶屋に寄った。
建物の外、池に面した場所に置かれた腰掛けに座り、温かい茶と団子を注文した。しばらくすると、店員が赤い布の掛けられた腰掛けに注文の品を置いていく。
「―――もう少し早ければ、紅葉が楽しめたかもしれませんね」
不意に、彼の背後から涼やかな声が響いた。
「とはいえ、落ち葉が散らばっているというのも、これはこれで趣があると言えるのかもしれませんが」
穏やかな口調で、聞く者の耳にすっと入ってくるような少年の声。
そのまま、声の主は景紀と背中向かいになるように、同じ腰掛けに腰を下ろした。
「よう、貴通。元気にしてたか?」
「ええ。お陰様で、というのも変かもしれませんが」
小さく笑うように、貴通と呼ばれた少年は答えた。
シャツの上に着物をまとい、二重回し外套を羽織り、制帽を被ったその姿は、完全に文学少年という出で立ちであった。
景紀よりも幾分小柄な体格で、肌は白磁のように白く、柔和な笑みが似合う中性的な顔立ち。
恐らく世の女性たちから間違いなく美少年と太鼓判を押される容姿であろう。
だがこの一見、荒事とは無関係そうな少年は、景紀と陸軍兵学寮同期であった。
穂積貴通。
かつては摂政や関白も出した公家華族・穂積公爵家の人間であった。
「それにしても、ちょっと同期生の扱いが粗略に過ぎませんかね、景くん?」
貴通は穏やかで丁寧な口調のまま、むくれたように景紀に不満を零す。
「十月ごろにはもう皇都に出てきていたんでしょう? まともな挨拶もなしに兵学寮同期生をこんな風に情報提供者として呼び出すなんて、友達付き合いがなっていないと思います」
「こっちも色々あったんだよ。許せ」景紀はばつが悪そうに言った。「父上からの政務の引継ぎとか、佐薙家との婚礼の準備とか、六家会議とか」
「まったく、しょうがない首席様ですね」
からかうように、貴通は笑った。
二人は兵学寮で、常に首席と次席の座を争う関係にあった。景紀はついにその座を守り抜いたが、一方の貴通も次席の座は他の生徒に一切譲らなかったのである。
だが、常に競争していた相手であったものの、二人の関係は兵学寮在籍中、ほとんどの時期において親密そのものであった。
そして、兵学寮卒業後も、手紙のやり取りなどでその関係は続いていた。
ただ、直接会う機会が中々なかったため、貴通は景紀の薄情さに不満を漏らしたのである。
「六家会議の件は僕も知っています。来年度予算の中の軍事費の割合で荒れていたそうですね?」
再び話し出した時にはその声は真剣なものとなった。
貴通の父親である穂積家当主・通敏は、現在、文部大臣を務めている。だからこそ、政局の情報にも通じているのである。将家華族には将家華族なりの繋がりがあるように、公家華族には公家華族なりの繋がりがある。
「荒れていた、っていうか、荒れている、だな」景紀は現在形に訂正した。「下手をすると、列侯会議にまで持ち越されそうな勢いだぞ」
「政府としては、大蔵省を中心に、やはり軍事偏重の予算案は阻止したい構えのようです。ただ、列侯会議議員になっている公家華族たちには、伊丹、一色両家から圧力が掛かっています。やっぱり、公家華族は経済基盤が弱いところが多いですからね。金を握っているところには逆らえません」
将家華族と公家華族の間には、厳然たる経済格差が存在していた。かつては荘園経営によって莫大な富を得ていた公家たちであったが、武士の台頭によって荘園経営は限界を迎え、戦国時代の終焉と六家による集団指導体制の確立によって、ほぼその経済基盤は失われたと言っていい。
現在、華族には政府から家禄が支払われているが、それでも戦功を元にした賞典禄を得られる将家華族と、そうでない公家華族の間には大きな差が設けられていた。
結果、公家華族の中には借財に苦しむ家もあり、そうしたところに相対的に豊かな六家が付け込み、経済的に公家華族を支配していくという状況が生まれてくることになったのである。
「お前のところの穂積家はどうだ?」
「うちもかつては五摂家の一角でしたが、やはり経済的には苦しいことには変わりありません。列侯会議議員とはいっても、公爵・侯爵議員は無給ですからね。うちは父が文部大臣を務めているのと、株式投資やわずかに残された土地の運用で何とか持っている感じです」
「政府の方は持ちそうか? 下手に閣内不一致、内閣総辞職ということになれば、列侯会議も衆民院も開会早々に大混乱だぞ?」
「その点については頼朋翁が手を回しているのを、景くんなら知っているんじゃないですか?」
「あの爺さんが何から何まで、俺に情報提供してくれるわけじゃない。多分、そうしているだろうと思ってはいるが、実際に政府の情報を得られる立場にある奴から確認を取りたい」
「兵部大臣の坂東友三郎大将は、六家のどこの派閥にも属していない軍人ですが、常識的な考えの持ち主です。兵部大臣が強硬に予算案を通そうとして、閣内不一致、内閣総辞職とはなりにくいかと。そもそも兵相自身が、伊丹・一色派の人間が押し付けてきた膨大な予算案に内心、苦々しい思いを抱いているようですし」
「まあ、そういう人間だからこそ、頼朋翁が兵部大臣に据えたんだろうが」
「現状の内閣は、内相や蔵相、法相といった主要閣僚を有馬閥が占めていますからね。なので、その点については心配ないと思いますよ。まあ、この世界に絶対と言えることはありませんが」
「それについては、俺もよく理解している。とはいっても、伊丹と一色がなりふり構わぬ倒閣運動に走る、なんて可能性も考慮には入れてる。お飾りで据えた公卿出身の大臣なんかに圧力を掛けて無理矢理辞職させる、なんてな」
「まあ、僕に出来るのは情報提供くらいです。あまり、お役に立つような情報を手に入れられなくて申し訳ないですが」
「いや、それで十分さ。後は、面倒臭いっちゃ面倒臭いが、俺たち六家の仕事だからな」
「ふふっ、景くんは相変わらずですね」
ごく自然な仕草で、貴通は笑った。単純に、景紀のものぐさ発言を面白がっている響きしかない。
「……でも、いいなぁ、景くんは」
だが、直後に貴通の口調は陰鬱で偏執的な憧れの混じったものへと変貌した。初めて聞く者がいれば、先ほどの優しげな喋り方からの豹変ぶりに、怖気を震うことだろう。
「結城家で辣腕を振るい放題じゃないですか。いいないいないいなぁ、本当にいいなぁ」
暗く澱んだ、妬みの感情を少年は呪いのように吐き出し続ける。
「僕なんて、どんなに頑張っても、所詮は愛妾の子供なのに……」
公家にとっても将家にとっても、正室の子でない人間というのは珍しくない。側室の子、あるいはそうした公的な地位すら与えられない愛妾の子というのは、ごく一般に存在する。実際、華族当主の三分の一程度は正室でない女性の子であるという。
「……はぁ、すっきりしました」
再び、貴通は突然に口調を変えた。元の優しげで丁寧な口調に戻り、狂気すら感じられた憧憬と嫉妬の感情は、どこにも見えなかった。
「ホント、兵学寮時代は良かったですね。景くんに気軽に愚痴を零せましたし。近衛将校となった今じゃ、そんな相手なんて一人もいませんし。そもそも、軍人らしい仕事なんてほとんど回ってきませんし」
「まあ、一人で抱え込むのがしんどくなったら、いつでも俺の所に来ればいいさ」兵学寮時代から、貴通のある種の危うさを知っている景紀は、慣れた口調で慰めた。「幸い、俺は当分は皇都にいることになるんだしな」
貴通には、年の離れた弟がいる。その弟は正室の子であり、そうである以上、貴通はその出自故に絶対に当主にはなれなかった。そして、何れどこかの段階で将来的に正室の子を脅かす存在として、穂積家から排除されるだろうことも予測していた。
分家という形での放逐ならばまだ良いが、事故死に見せかけた暗殺など、命を狙われる可能性すらあるのだ。実際、穂積通敏の正室は貴通の存在を酷く疎んでいると、景紀は彼自身から聞いている。
貴通の精神的な危うさは、そうした彼自身の不安定な立ち位置に由来しているのだろう。
「本当に危なくなったら、遠慮なくうちの屋敷に逃げてこい。まあ、俺がどうにかしてやる」
自分でも甘いと感じながらも、景紀は兵学寮同期生にそう言った。最悪、父親に頼み込んで貴通を結城家の養子にしてもらうことまで考えている。
切り捨てるには彼は貴通と親密になり過ぎており、また自分と争ったその才能を惜しいとも感じていた。
そんな景紀に対して、貴通は自己嫌悪に塗れた言葉を返す。
「やっぱり、僕って狡いですね。六家次期当主の景くんと関係を築いておけば、父上から軽々しく捨てられることはないって子供の考えで君に近づいて、今もこうやって同期生って理由で関係を保とうとしているんですから」
「別にお前が嫌いだったら、俺は会おうとも思わんし、情報を提供してくれとも言わん」
「ふふっ、ありがとうございます」
背中合わせのまま、貴通は儚げな笑みを見せた。
「とりあえず、今回の報酬だ」懐から取り出した小さな布袋を、景紀は赤い敷布の上を滑らせた。「言っておくが、返す必要はないからな」
「……提供出来る情報の質と報酬が合っていないような気がします」
少し躊躇いがちに受け取った貴通は、咎めるように言った。彼に手にした布袋は、小さいがずっしりと重かった。金貨が袋一杯に詰め込まれているのだ。
公家華族とはいえ、貴通自身に自由に出来る金はほとんどない。しかも将校とくれば、軍から生活必需品はすべて支給される兵卒と違い、基本的には自弁である。まだ尉官でしかなく、将家の家臣団でもないためその方面からの俸給もない貴通は、比較的貧しいのだ。
「俺はお前という情報提供者を繋ぎ止めておきたい。そのための金だと思ってくれ」
友人の窮状を見かねて、ということであれば、貴通はこの金を絶対に受け取ろうとしないだろう。だから、何か理屈を付けておく必要があった。
「……判りました。僕自身、もっと景くんのお役に立てる情報を集められるよう努力します」
自分自身を無理矢理納得させるような口調で、貴通は返した。
と、不意に景紀の視界に鳥が映った。紙の鳥、呪術師が操る式だ。それが彼の手の平の上に降りてきて、鳥の形から単なる紙片へと変わる。
そこには、文字が書かれていた。景紀には見慣れた、冬花の文字である。
「……拙いな」
さっと内容に目を通すと、ぼそりと景紀は呟いた。
「どうしましたか?」
その呟きに不穏な気配を感じて、貴通は問うた。
「貴通」
景紀の声は固かった。
「はい」
「お前、ここに来るまでに怪しい連中に尾けられていなかったか?」
「いいえ。そこは僕も警戒していますから」
「俺の方も、そういう連中の気配はなかった。尾行しようとする奴らがいれば、少なくとも相手が術者でない限り、俺の護衛が気付く」
「それはつまり―――」
それだけで、貴通はすべてを察した顔になった。
「ああ、宵や冬花の方に、ちょっかいを掛けてきた奴らがいたらしい」
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