秋津皇国興亡記

三笠 陣

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第一章 皇都の次期当主編

17 更けてく夜の出来事

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 そうして結城家屋敷に到着すると、執務室のところに初老の女性が少し戸惑い気味の様子で立っていた。

「……なる、どうした?」

「ああ、景紀様」

 その女性は、景紀の姿を確認すると恭しく頭を下げた。その所作には、気品があった。
 彼女の名は、益永なる。結城家筆頭家老益永忠胤の妻であり、先日、景紀が宵の世話掛を命じた女性でもあった。
 ちなみに、武家出身の女性の名は漢字一文字、読みだと二字の名前が多い。逆に公家出身の女性であると、名前の最後に「子」が付く人物が多かった。
 宵などは、恐らく「良い」と掛けた名前なのだろう。一方、長尾公の娘である多喜子は母親が公家出身のため、武家の娘ながら「子」が付いている。

「実は宵姫様が……」

 済は少し困ったように微笑みながら、執務室の扉を静かに開けた。

「……なるほど」

 景紀が中を覗くと、執務室の中に置いてある応接用の長椅子に宵が座っていた。しかし、その体はいささか猫背気味になっており、体が不安定になっている。どうやら眠ってしまっているようだった。
 実際、彼女の体には、寒くないようにと衣が掛けてある。

「……景紀様のお帰りをお待ちになっていたのですが、どうやらお疲れのようでして」

 やはり、慣れない環境、見知らぬ人間たちに囲まれて、宵もここ数日、気を張っていたのだろう。彼女は婚礼の儀でも見せた無表情のまま、平然とした態度で結城家での生活を送っていたが、表に出さないだけで体の疲労も心の疲労も溜まっていたに違いない。
 それでも少年の帰りを待とうという義務感から起きていたのだろうが、済の言うとおり、疲れが出てしまったに違いない。

「お起こしするのも何ですし、かといってお部屋にお運びするのも景紀様を待とうと思ってらっしゃる宵姫様に悪いかと思いまして」

 それが、済の困惑の理由であるらしい。しかしその態度には、どこか実の娘に向けるような微笑ましさが宿っていた。

「宵には、悪いことをしたな」

 とはいっても、先に寝ていてもいいと言われたところで、宵は自分の帰りを待っていそうな気もするが。
 景紀は済を振り返った。

「寝所は整えてあるのか?」

「はい。すぐにお休みになれるようにと」

「そうか、面倒をかけたな。すまん」

「いえ、姫様の世話役ですから。勿体なきお言葉です」

 さも当然という態度で、筆頭家老の妻は頭を下げた。

「宵は俺が部屋まで連れていこう」

 景紀はそう言って、背後に控えたままの冬花を見た。

「冬花。そういうわけだから、今日はもう下がっていいぞ」

「……かしこまりました。お休みなさいませ」

 冬花はちょっとだけ複雑そうな表情を浮かべながらも、従者然として頭を下げた。そうして、景紀の前から下がっていった。
 ここで冬花に手伝ってもらうのは彼女にとってあまり面白くないだろうと景紀は思ったのだが、どのような選択肢であっても陰陽師の少女の心中を複雑なものにしてしまったのかもしれない。
 とはいえ、それは仕方のないことだろう。冬花には冬花の、宵には宵の立場がある。
 そして、それを冬花も判っているからこそ、彼女は景紀の言葉に従ったのだ。

「……済、部屋まで付き添ってくれ」

「かしこまりました」

 そう言って、彼女は角灯を手に取った。
 景紀は執務室に入ると、そっと宵の肩を揺り動かした。

「……んぅ」

 小さな呻き声と共に、宵が薄目を開ける。

「かげのり、さま……?」

 どこか舌っ足らずな声と共に、少年の存在を認識したらしい。景紀に向けられた瞳は、とろんとしていて少し焦点が合っていない。
 端正な美貌を持つ少女だが、一方で幼さを残した容姿をしているため、そうした仕草をするとあどけなさが際立ってしまう。
 床入りの儀で見せた硬質な覚悟の宿った表情とはまた違った、少女の一面を見た気がした。

「……すみません、お迎えもせずに……」

 ぼんやりと、眠気と倦怠感を多分に混ぜ込んだ声で、宵はそう言った。

「お前も疲れていたんだろ? 気にするな。疲れてるなら、無理せずに先に寝てて良いんだからな?」

 景紀は、なるべく宵が気負わないよう軽い口調で応じた。

「こんなところで寝ててもしょうがないから、部屋に運ぶぞ」

 景紀が宵を抱え上げようとすると、恐縮したのか、彼女は自力で立ち上がろうとした。しかし、すでに頭に靄が掛かっている状態らしく、ふらついてしまう。疲れもあったのだろう。

「っと……、無理すんな」

 景紀はそうなるだろうと予測していたので、危なげなく宵を支えた。そして、彼女の背中と膝裏に手を入れて、少女の体を持ち上げる。
 宵は、今度は抵抗しなかった。ただちょっと気恥ずかしそうな顔をして、それを見られないようにするためか、景紀の胸に顔を押し付けた。
 そんな少女の稚気の感じられる仕草に、景紀の口元に自然と笑みが浮かぶ。無表情で取り繕うことなく、そうした仕草を自分に示してくれることを、何となく嬉しく感じたのだ。
 そのまま、角灯を持った済に導かれて景紀は宵を抱えたまま執務室を出る。
 軽いな、と景紀は思った。むしろ軽すぎるくらいなのではないだろうか?
 もともと線が細く、十五歳としては幼い体つきをしているが、それでも本当に食べているのだろうかと心配になってしまうほどの軽さであった。
 もともとあまりなかった体重が、結城家に嫁いでさらに減ってしまったのではないかとも思えてくる。
 やはり自分たちはもっと仲を深めて、少しでもこの少女が安らかに過ごせる環境、そして人間関係を築いてやらねばならないだろう。
 暗い廊下を角灯を持った益永済に先導されて歩きながら、景紀はそんなことを思った。





 ちなみに。
 宵は無事、景紀の手によって寝所へと運ばれたのだが、その後、着替えを済ませて布団の中に入ると先ほどの運ばれ方を思い出して、こっそりと羞恥に悶えていたという。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 男は血の流れる頬を抑えながら、暗い路地をひたすらに走っていた。
 途中で酔っ払った男とぶつかりもしたが、そのようなことは気にしていなかった。
 報酬は、前払いで半額。成功すれば残りの金額が払われる。
 護衛も大して付けていない六家の若造を斬るだけの、簡単な依頼であるはずだった。
 男はこれまでにも、人を斬ってきた。西洋諸国との貿易拡大を説く商工省の役人であるとか、西洋との交易で財を成した豪商であるとか、男の信じる攘夷論に照らして“国賊”を思われる人間、あるいは攘夷派浪士の仲間たちに示唆された人間など、少なくともこれまでに三人は殺してきた。
 そうした男であったため、暗殺や脅迫といった裏の仕事を生業とすることに疑問を持っていなかった。
 すでに暗殺で手を汚している自分は、まともな仕官は出来ない。であるならば、自分と同じ思想を持つ者たちと手を組み、攘夷を邪魔する人間たちを消すことで皇国を変えるしかない。
 彼は衆民院の攘夷派政党(民権派議員からは六家の「御用政党」と批判されている)と繋がりを持ち、政党の院外団(壮士を含め、暴力的な政治活動の他、議員や演説会場の警護などを担当する者たちの集団)の一員として雇われていた。
 男は、自分は志士であると信じていた。
 信じていたが故に、武士たちの頂点に立つべき六家の一部に、軟弱な思想を持つ者たちが存在していることを許せなかった。将家とは、その武威によって夷狄からこの国を守るべき存在のはずである。それを忘れた将家に、将家たる資格はない。
 だから今回、政党の幹部に密かに呼び出され、結城景紀の暗殺を依頼された時、二つ返事で了承してしまったのだ。その幹部が一色家から多額の政治献金を受け取っていることを、男は知っていた。
 だが、暗殺は失敗に終わってしまった。しかも、小娘に顔を傷付けられるという屈辱まで味わって。

「おのれ、汚らわしい混じり物の分際で……!」

 顔に傷を付けられてしまった以上、人相に特徴が出来てしまう。警察の捜査から逃れるのは難しいだろう。だが、この国に巣喰う奸賊はまだ多い。自分たちが斬らねばならぬ人間は多いのだ。ここで捕らえられるわけにはいかなかった。
 しかし、依頼主である政党幹部からは暗殺に成功していれば逃走経路を用意すると言われていた一方、失敗した場合のことについては何も言われていない。
 つまり男は、自身を捕らえようとする警察と、口封じのために自身を始末しようとするかもしれない依頼主(と、その背後にいるだろう一色家)の双方から逃げなければならない立場に追い込まれていたのである。
 幸い、報酬の半分は前払いとして自身の懐に入れてある。逃走資金としては、十分だろう。
 だが一方で、自分を虚仮にした結城の軟弱者と白髪の少女への怨みは相応に存在する。
 牢人に堕ちたとはいえ、男も武士であった。何も為せぬまま皇都から逃亡するというのは、彼自身の矜持が許さなかった。
 何とか皇都のどこかに潜伏し、復仇の機会を伺いたかった。
 幸い、攘夷派浪士仲間に匿ってもらうことは可能だろう。
 まずは医術の心得もある仲間の元に行き、頬の傷を看てもらうべきか。
 それにしても、先ほど、自分を助けた術者は誰だったのだろうか……?
 そのような思考が過ぎりつつ、男は暗い路地をひたすらに走っていた。

「―――っ!」

 だが、人気の少ない細い道の先に、自身の針路を塞ぐように立っている人影を見つけ、男は足を止めることになった。

「―――護国党に雇われた、伊東玄斎だな?」

 人影が声を発した。口調は険しく、重々しかった。まるで、消えない苦悩に苛まれているかのような、そのような声であった。

「貴様、何者だ?」

 攘夷派浪士の男―――伊東玄斎という名の牢人は警戒感を滲ませたまま問い返した。
 周辺の建物や空からの微かな明かりだけが差し込む路地に佇む相手を見る。
 そこにいたのは、網代笠を被り、手には錫杖を持った僧衣の男性であった。
 剣術を修めた伊東が警戒せざるを得ないほどに、その体格は良い。網代笠の下にある顔は、いささか頬がこけていたが、それが逆に僧衣の男に凄みを与えている。

「ふむ、私か」声には、相変わらず渋みが混ざっていた。「我が名は、丞鎮じょうちん。諸国を遍歴する、しがない僧侶の一人に過ぎん」
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