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過去編 王女殿下の初陣
終 帰還
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西部方面軍の前線司令部となっているホテルに到着したのは、その日の昼前であった。
「王女殿下、無事のご帰還、お喜び申し上げます」
ホテルの玄関先で、エルフリードとリュシアンはオークウッド大佐の出迎えを受けた。
ここを発つ前のオークウッド大佐はエルフリードを一介の陸軍随員、単なる少尉として扱っていたが、今は王女として扱うつもりらしい。
大佐の地位にある者が一少尉の安否を心配するというのは、軍の規律と宮中序列を混同することになるので、ある意味で当然の対応といえた(また、エルフリードを一少尉として扱うと、官吏等級において勅任官であるリュシアンの方が王女である彼女よりも立場が上になるという、非常にややこしい事態になる)。
「エスタークス勅任魔導官の働きあってのことだ。それに、貴殿らにも随分と心配をかけたようだな」
エルフリードもそのあたりの機微は心得ているので、王族としての口調で応ずる。
「まあ、恐らくはエスタークス魔導官ほどの苦労はしておりませんよ。エスタークス魔導官も、よくぞ殿下を連れて帰ってきてくれた。臣下の一人として、礼を言わせて貰おう」
「別に」リュシアンの声は、自身への賞賛など興味がないかのようにあっさりとしていた。「姫を守るのは、俺の役割だから」
「なかなか献身的な騎士ぶりではないか」
オークウッドは揶揄うように言ったが、それに対するリュシアンの態度は普段通りの淡々としたものだった。それが逆に、この大佐にとっては面白かった。
「まあ、ここで立ち話もなんでしょう。丁度昼食に相応しい時間ですから、食堂にでも向かいましょう」
エルフリードとリュシアンの通された食堂は、町の外観と同じように古風な内装であった。
年代を経た木製の調度品が置かれた、非常に落ち着いた雰囲気の食堂であった。王宮や貴族屋敷の食堂のような、煌びやかな印象はまったくない。
軍がこのホテルを接収した際に徴用したのだろう、ホテルの従業員と思しき給仕が食事の支度を進めている。
染み一つない白いテーブルクロスの掛けられた食卓を見て、エルフリードもリュシアンも妙な気分になった。逃避行の最中の食事とのあまりの落差に、感覚がおかしくなっているらしい。
「なあ、リュシアン」
「姫の言いたいことは判るよ」
なんとも文明的な食事処だな、と互いに顔を合わせて皮肉ではなく本気でそう思う。
「さて、私は軍務中なので酒は飲めませんが、まずは殿下の無事のご帰還を祝わせて貰いましょう」
オークウッドがそう言って、白く透き通る液体の注がれたグラスを掲げた。
エルフリード、リュシアン、オークウッドがグラスをぶつけ合って澄んだ音が響くが、少年少女はさほど感銘を受けなかった。あの軽銀製のカップを打ち合わせた時に比べれば、この乾杯はどこか白々しさすら感じられる。
それが公的な地位にある者同士の交流として必要なことであるとはエルフリードも理解しているが、やはり一種の虚しさのようなものを覚えてしまう。
とはいえ、グラスに注がれた白ブドウジュースはなかなかの味わいであった。恐らく、ワインとなる前にアルコールの発生を止めて作られたものだろう。すっきりとした甘さで、逆に口の中が乾くようなしつこい甘みはまったくない。
特に甘い物好きのリュシアンは気に入るだろうな、とエルフリードは思う。
「さて、率直に言わせて貰えますならば、現在の西部方面軍において殿下のなすべき任務は一切ありません。第十一連隊への原隊復帰命令が、正式に出ております」
「リュシアンについてはどうするつもりなのだ?」
自分の処遇についてはある程度予想がついていたので、エルフリードとしても驚きはない。しかし、リュシアンだけを前線に残してくことは、彼女としては許容出来なかった。
この白髪の少年は自分の魔術師であり、軍に人間兵器として良いように利用させるわけにはいかない。
自然と、エルフリードの声は固くなる。
「エスタークス魔導官については、殿下の護衛です。そのまま、殿下と共に王都に向かって貰うことになります」
「ならばよい」
エルフリードの内心を察したのかは知らないが、オークウッドの答えは彼女の望むものであった。
「ところで、レーヌス河周辺地域の現状はどうなっているのか聞きたい」
「一夜明けて、向こう岸もだいぶ穏やかになりました。そして先ほど、北ブルグンディアの第五軍司令部より、王女殿下襲撃事件を防げなかった責任を取って、司令官ピエール・ド・ジュルジュ中将が自決したと、連絡が入りました。向こうはあくまで、現地の一部部隊の暴走として事件に幕を引きたいと見えますな」
「よく言うね」白ブドウジュースを飲みながら、リュシアンが言う。「追われていた俺たちには判るけど、あれは一部の軍人の暴走なんてものじゃなくて、もっと組織的なものだったよ」
「つまりジョルジュ将軍は、トカゲの尻尾切りに遭ったというわけか」
「まあ、どの道、敗戦で責任は取らされただろうし、連中からすれば丁度良い生贄だったんだろうね。多分、他の人間たちもあの宮廷魔導師連中に記憶の操作を受けてるよ」
リュシアンの声には、いささかの嫌悪感が混じっていた。
「つまり、ロンダリア側が事件の真相を追究するのは、事実上、不可能になったわけか」
オークウッドは、さして落胆も見せずにそう言った。もともと、事件の真相究明については北ブルグンディア側が隠蔽工作をするであろうから不可能だろうと思っていたのである。
「これ以上の紛争の継続を防止するために、我が国も北ブルグンディアの言い分を受入れるしかあるまい」
「殿下の仰る通りですな。外務省の方でもその方向で停戦交渉を開始するつもりのようですし、内務省は国内の世論が対外強硬化しないように新聞等の検閲を厳重にしているとのことです」
「まあ、うちのお姫様が襲われたんだから、国民感情として納得しかねる部分はあるだろうね」
「私はもう、別にどうでもいいがな」エルフリードは無関心な口調で言った。「連中の手から逃げ切ったことで意趣返しは済んだのだ。これ以上、私一人の身のために外交問題を拗らせるわけにもいくまい」
「ご立派な態度であります、王女殿下」
「ふん、余計な世辞は要らぬ」
エルフリードは本気で、自分を襲った北ブルグンディア軍のことをどうでもよいと思っている。彼女が許せないのはリュシアンを傷付けた北ブルグンディアの魔導師たちだけで、それだって一人は死に、二人には手傷を負わせている。報復は十分に済んだとは言い難いが、エルフリード自身に魔術師を相手にする力はない。
最早、エルフリードにとってもリュシアンにとっても関心を向けるべき対象ではないのだ。
その後、久々に小麦で作られた白いパンを食べ、食卓に並べられた鴨のコンフィや茹でた馬鈴薯などを食したが、あの野営地でリュシアンと共に食べた干し果の味の方がはるかに美味だったとエルフリードは思った。
リュシアンとする何気ない食事の時間の方が、きっと自分にとって最高の調味料だったのだろう。
◇◇◇
王都への出発は、明日の朝と決められた。
レーヌス河事変とその後の王女襲撃事件と逃避行のために国境地帯では軍事的緊張状態が続き、鉄道ダイヤが軍事輸送優先になっていたためである。
民間輸送のための鉄道は、明日の朝にならないと到着しないらしい。
エルフリードとしては、翼竜に乗ってその日の内に王都に向かえと言われなくて、ほっとしている。それに、彼女自身の疲労も溜まっていた。
流石に昼寝をするのは体面的によろしくないと思ったので、午後はここ数日の各社新聞を読んで、自分たちがいない間の国内・国際情勢の把握に努めていたのだが、それでも眠気は如何ともし難かった。
夜になって夕食と湯浴みを済ませると、エルフリードは早々に寝台に入ることにした。
軍服の上着と靴を脱いで布団を被る。
体が寝台に沈み込むような心地だった。今までまともな寝床などない場所で眠っていたので、余計、そう感じるのだろう。
「……こうやってふかふかのベッドに潜り込むのも、ずいぶんと久しぶりな気がするな」
これに関しては文化的な生活万歳といったところだとエルフリードは思う。
「なあ、リュシアン」
「何?」
エルフリードの枕元で、彼女の軍服の上着を衣桁に掛けているリュシアンが応じた。
「一つ、お前に王女として命令してもいいか?」
「珍しいね、エルがそういう言い方をするの」
エルフリードは、あまりリュシアンを命令で縛ることをしない。頼み事という形で言うことはあるが、それだってリュシアンに合意が得られなければ諦めることもあった。
公的な場面ではその限りではないが、私的な場面でエルフリードがそうしたことを言い出すのは、本当に珍しかった。
「お前には、私のために死なない欲しい。私のために、生きて欲しい」
命令というには高圧的な調子はなく、どこか子供じみた懇願であった。
「俺はずっと、そのつもりだけど?」
「私はな、あの逃避行の中でただ一つ、怖かったことがある。お前が、連中に殺されてしまうのではないか、とな」
「君を守るのが、俺の役目だからね」
リュシアンは何の気負いもなく、普段通りの口調で言う。それは少年にとって、あまりにも自明なことなのだ。
「私を守るためにお前に死なれても、私は嬉しくはない。むしろ、お前を恨むだろう」
「俺は、エルを守れないことの方が怖い」
「私は、お前を失いたくない」
「それは、王位を諦めてでも?」
「―――っ!?」
一瞬、心の内に生まれてしまった葛藤を、エルフリードは認めずにはいられなかった。
「卑怯な質問だってことは判っている」リュシアンはすまなそうに目を伏せた。「でも、俺はエルに野心を遂げて欲しいと思っている。それが、俺が惹かれたエルフリードって女の子だから」
「……王位もお前も私のモノにしたいと思うのは、欲張りだろうか?」
「別に。エルはエルらしく生きればいいよ。俺はそれを支えるし、君の傍に居たいとも思ってる。レナ高地でも言ったよね? 俺は、君に庇護されるような存在は嫌なんだ。ただ傍に居てくれればそれでいいなんてエルが言っても、俺は納得出来ない」
「それはかえってお前への侮辱になる、か……」
諦観じみた息を漏らして、エルフリードは言う。
「出逢った時は弱っちそうな奴だと思ったが、なかなかどうして、お前も男なのだなぁ」
自分も大概意地っ張りで見栄っ張りだと自覚しているが、リュシアンも同じらしい。エルフリードはそう思った。
「そうだよ。今さら気付いた?」
「そうだな」
互いに相手が大切だからこその、意地の張り合い。リュシアンがエルフリードという少女の在り方を尊重してくれるのであれば、自分もまた少年の在り方を尊重すべきだろう。
自分も彼も何が譲れて、何が譲れない一線なのか。
それは、幼少期からの付き合いで判りすぎるほどに判っている。
それでも、エルフリードはリュシアンという少年を失うことが怖いのだ。そしてリュシアンに見抜かれた通り、きっと自分はリュシアンを失っても野心を遂げようとするだろう。そんな自分の在り方が、もっと怖かった。
だから、エルフリードにとってこの少年は失うことの出来ない存在なのだ。
「だが、それでも私の命令を聞き届けて欲しい」
「約束は出来ない。でも、君の傍にいると誓うことは出来る」
「それは、魔術師としてか?」
「ああ、そうだよ」
魔術師にとっての誓い。それは契約と並んで、術者自身の魂を縛るほどに重いものなのだ。
これが正式な魔術的誓約でないことはエルフリードにも判っていたが、それでもリュシアンの覚悟は少女にも伝わってくる。
「ならば、私の傍にいろ。離れることは許さん」
「ずっと、そのつもりだよ」
「……ふん」
リュシアンの声には、あまりに躊躇というものがなかった。
それが何となく嬉しくて、それでいて生意気に感じて、そしてそれ以上に羞恥を覚えた。だって、自分だけが恥ずかしいことを言っているようではないか。
あの水辺での出来事を考えれば今さらなのだが、それでも、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
だからエルフリードは自分の顔を見られたくなくて、寝返りを打ってリュシアンから顔を背ける。
「……おやすみ、エル」
それで少女の気が済んだと思ったのか、リュシアンはそんな声を掛けてきた。背後で、リュシアンが踵を返す気配がする。
一応、リュシアンはエルフリードの護衛という名目なので、この部屋には寝台が二つある。
「……おい」
だが、エルフリードは手を伸ばしてリュシアンの大外套を掴んだ。
「傍にいろと、離れるなと、そう言ったはずだ」
この寝台は寝心地が良さそうだったが、あの逃避行の中で常にあった彼の温もりだけがなかった。
少年が自分のために死ぬところを想像してしまった所為で、少し寂しかったのかもしれない。
「……そうだったね、ごめん」
リュシアンの声には、素っ気ない中にも幼子を宥めるような柔らかさがあった。少年は、少女の耳が微かに赤くなっていることに気付いていた。だが、それを指摘することはない。
大外套と上着を脱いで、エルフリードと同じ寝台に入る。
少女が背を向けたまま寝台の片側に寄り、空いた場所にリュシアンは体を潜り込ませた。
「そっち、狭くない?」
「いや、これでよい」
お互い、背中合わせで横になっていた。背に、互いの体温が伝わってくる。逃避行の中で、二人の拠り所となっていた温もりだった。
「おやすみ、エル」
「ああ、おやすみ。リュシアン」
そう言って、少年少女は同時に瞼を落とした。
訪れた眠りは、とても安らかなものであった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
翌日、朝に鉄道で王都へと発ったリュシアンとエルフリードであるが、王都中央駅に到着した頃にはすでに夕刻になっていた。
「やはり、地に足が着いている乗り物というのは良いものだな」
一等客車から降り立ったエルフリードは、開口一番にしみじみ言った。
「まあ、自分で手綱を握ったり天測航法に頼る手間が省けるっていう意味では、楽だよね」
「ああ、別にお前に恨み言を言っているわけではないぞ。ただ、どうにもやはり空というのは苦手なのだ」
「判ってるよ」
何気ない軽口を叩きながら、二人は駅の出口へと向かう。
半円形に鉄骨が組まれ、ガラス張りとなった天井からは夕日が差し込んでいる。連合王国最大の駅舎だけあって、実に壮大な建築物であった。構内には何本もの線路がひかれ、機関車に引かれた車列が出入りを繰り返す。
ロンダリアの発展ぶりを示す場所の一つが、この中央駅だった。
「―――随分と長い家出だったじゃないか、坊や」
駅舎の出口付近で、一人の女性がリュシアンとエルフリードを待ち構えていた。
短く切り揃えた鮮やかな赤髪、俊敏な鷹のような鋭い目付き。もともと小柄なリュシアンであるが、それと対比しても随分と長身な印象を受ける長外套の人物。
口には火の点いた煙草を咥えていた。
「クラリス、わざわざ迎えにきたの?」
女性の名前はクラリス・オズバーン。王都警視庁で特別捜査官を務める勅任魔導官であり、リュシアンの師匠でもあった。
「なんだ、不満でもあるのか?」
「いや。ありがとう」
「ははっ、面と向かって言われると案外恥ずかしいものだな」
顔立ちから受ける印象とは裏腹に、クラリスの笑みは弟子への優しさが感じられるものだった。
「まったく、坊やは面倒事に巻き込まれる質なのかねぇ。今回のはとびきりじゃないか?」
「面倒事が勝手に向こうからやってくるんだ。仕方ないよ」
ぼやくように言ったリュシアンの頭を、クラリスは笑みを浮かべて掻き回した。
「まあ、坊やが無事でなによりだ。よく、お姫様を守り通したな」
「……うん」
なすがままにされているリュシアンは、ちょっとだけはにかむような笑みを浮かべた。
「……」
その様子を、横でエルフリードはそっと見守っていた。少しだけ、羨ましいという感情がある。王族という立場故に、あんな風に他者から褒められた経験が少女にはほとんどないのだ。
国王たる父親にも、王妃たる母親にも、あのようにされた経験はない。
「……何だ、お姫様もして欲しいのか?」
すると、少女の目線に目敏く気付いたクラリスが悪戯っぽい笑みと共に問いかけてくる。
「ふん、私はそのような子供ではないわ」
だが、エルフリードとしては自分の内心を見透かされたことを認めたくなくて、ついつい刺々しい声を出してしまう。
一方で、自分を「王女」という記号だけで見ないこのリュシアンの師匠のことを、エルフリードは好ましくも思っていた。
「まあ、坊やがどんな顔して帰ってくるのかと心配だったんだが、案外、大丈夫そうじゃないか。それはお姫様、あんたのお陰だよ。あんたがこいつの傍にいてくれたお陰だ。坊やの師匠として、それだけは礼を言っておく」
「……そうか」
エルフリードはその言葉で、何故クラリスがわざわざ出迎えに来たのかが判った。
彼女は、弟子である少年のことが心配だったのだ。戦場で多くの敵兵を殺すことを求められたリュシアンの心を、この師匠は案じていたのだろう。
もしかしたら内心では、リュシアンを戦場に引っ張り出す原因となったエルフリードに恨み言の一つでも言いたいのかもしれない。
それでもクラリス・オズバーンは、エルフリードがリュシアンの傍にいてくれたことを感謝してくれている。それは、素直に受け取っておこうと思った。
「さて、坊やたちの生還祝いにパブで一杯引っ掛けたいところなんだが、流石にお姫様を酒場に連れていくのはなぁ」
「生憎と、私はこの後、原隊に帰着の報告をせねばならん。次の休暇の時にでも、リュシアンがいつも世話になっている礼も兼ねて、そちらを訪ねても構わんが」
「ほぉう、なかなか付き合いのいい王女様じゃないか」赤髪の魔術師は面白いものを見るような表情になった。「それじゃあ今度じっくりと、坊やとお姫様の冒険譚を聞かせて貰いたいものだな」
煙草を咥えたまま、クラリスはにやりと笑みを浮かべる。
「それじゃあ坊や、ここまで来たんだ。お姫様を最後までしっかりと送り届けてやれよ」
そう言ってクラリスは長外套の裾を翻すと、駅舎を出て行く人の流れの中に消えていった。
「……よい師匠であったな」
「うん」
その背中を眺めていたエルフリードの感慨に、リュシアンが迷いなく頷いた。
「じゃあ、俺たちも行こうか、エル」
「うむ、そうだな」
どちらからともなく、リュシアンとエルフリードは手を繋ぎ合わせた。
そのまま、クラリスと同じように駅舎を出て行く人の流れの中へと、少年少女の姿は消えていった。
二人はようやく、帰還を果たしたのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あとがき
作中で出てきた官吏等級の問題ですが、リュシアンの「勅任魔導官」という地位は相当偉いです。
「王女殿下の死神」の登場人物も含めて簡単に記しますと、次のようになります。
ライオネル・ド・モンフォート(外相なので親任官。官僚の最高位)
↓
クラリス・オズバーン(王都警視庁特別捜査官の勅任魔導官。勅任官としてはリュシアンよりも先任)
↓
リュシアン・エスタークス(勅任魔導官。伯爵位持ち)
↓
サー・ハリー・ファーガソン(准将なので奏任官。王室機密情報局局長)
↓
アラン・オークウッド(大佐。参謀本部作戦課長)
↓
エリオット・ライアン(少佐。参謀本部作戦課員)
↓
エルフリード・ティリエル・ラ・ベイリオル(少尉。王女)
実は王女であるエルフリードが、純粋に官吏等級だけで考えると一番の下っ端になるという状況です。
さて、これにて、実験的異世界戦記小説として執筆を始めました「王女殿下の初陣」は完結となります。
ここまでのお付き合い、誠にありがとうございました。
書きたい要素を詰め込みすぎたため、番外編として書きながら本編である「王女殿下の死神」よりも字数の多い作品となってしまいました。
拙作に対するご意見・ご感想を賜りましたらば幸甚。
正直、筆者としましてはまだまだリュシアンとエルフリードの物語を書いてみたいと思っております。
本作での経験を活かして、魔術ファンタジー小説と戦記小説を融合させながら、世界大戦編を描きたいとも考えているところでございます。
現状では構想段階に留まっておりますが、いつかの機会に執筆してみたいです。
その場合、「王女殿下の死神」は改稿の上、改めて長編小説として執筆し直したいと思います。
その際は、何卒よろしくお願いいたします。
では、次回作でまた皆様とお会い出来ることを切に願っております。
ありがとうございました。
「王女殿下、無事のご帰還、お喜び申し上げます」
ホテルの玄関先で、エルフリードとリュシアンはオークウッド大佐の出迎えを受けた。
ここを発つ前のオークウッド大佐はエルフリードを一介の陸軍随員、単なる少尉として扱っていたが、今は王女として扱うつもりらしい。
大佐の地位にある者が一少尉の安否を心配するというのは、軍の規律と宮中序列を混同することになるので、ある意味で当然の対応といえた(また、エルフリードを一少尉として扱うと、官吏等級において勅任官であるリュシアンの方が王女である彼女よりも立場が上になるという、非常にややこしい事態になる)。
「エスタークス勅任魔導官の働きあってのことだ。それに、貴殿らにも随分と心配をかけたようだな」
エルフリードもそのあたりの機微は心得ているので、王族としての口調で応ずる。
「まあ、恐らくはエスタークス魔導官ほどの苦労はしておりませんよ。エスタークス魔導官も、よくぞ殿下を連れて帰ってきてくれた。臣下の一人として、礼を言わせて貰おう」
「別に」リュシアンの声は、自身への賞賛など興味がないかのようにあっさりとしていた。「姫を守るのは、俺の役割だから」
「なかなか献身的な騎士ぶりではないか」
オークウッドは揶揄うように言ったが、それに対するリュシアンの態度は普段通りの淡々としたものだった。それが逆に、この大佐にとっては面白かった。
「まあ、ここで立ち話もなんでしょう。丁度昼食に相応しい時間ですから、食堂にでも向かいましょう」
エルフリードとリュシアンの通された食堂は、町の外観と同じように古風な内装であった。
年代を経た木製の調度品が置かれた、非常に落ち着いた雰囲気の食堂であった。王宮や貴族屋敷の食堂のような、煌びやかな印象はまったくない。
軍がこのホテルを接収した際に徴用したのだろう、ホテルの従業員と思しき給仕が食事の支度を進めている。
染み一つない白いテーブルクロスの掛けられた食卓を見て、エルフリードもリュシアンも妙な気分になった。逃避行の最中の食事とのあまりの落差に、感覚がおかしくなっているらしい。
「なあ、リュシアン」
「姫の言いたいことは判るよ」
なんとも文明的な食事処だな、と互いに顔を合わせて皮肉ではなく本気でそう思う。
「さて、私は軍務中なので酒は飲めませんが、まずは殿下の無事のご帰還を祝わせて貰いましょう」
オークウッドがそう言って、白く透き通る液体の注がれたグラスを掲げた。
エルフリード、リュシアン、オークウッドがグラスをぶつけ合って澄んだ音が響くが、少年少女はさほど感銘を受けなかった。あの軽銀製のカップを打ち合わせた時に比べれば、この乾杯はどこか白々しさすら感じられる。
それが公的な地位にある者同士の交流として必要なことであるとはエルフリードも理解しているが、やはり一種の虚しさのようなものを覚えてしまう。
とはいえ、グラスに注がれた白ブドウジュースはなかなかの味わいであった。恐らく、ワインとなる前にアルコールの発生を止めて作られたものだろう。すっきりとした甘さで、逆に口の中が乾くようなしつこい甘みはまったくない。
特に甘い物好きのリュシアンは気に入るだろうな、とエルフリードは思う。
「さて、率直に言わせて貰えますならば、現在の西部方面軍において殿下のなすべき任務は一切ありません。第十一連隊への原隊復帰命令が、正式に出ております」
「リュシアンについてはどうするつもりなのだ?」
自分の処遇についてはある程度予想がついていたので、エルフリードとしても驚きはない。しかし、リュシアンだけを前線に残してくことは、彼女としては許容出来なかった。
この白髪の少年は自分の魔術師であり、軍に人間兵器として良いように利用させるわけにはいかない。
自然と、エルフリードの声は固くなる。
「エスタークス魔導官については、殿下の護衛です。そのまま、殿下と共に王都に向かって貰うことになります」
「ならばよい」
エルフリードの内心を察したのかは知らないが、オークウッドの答えは彼女の望むものであった。
「ところで、レーヌス河周辺地域の現状はどうなっているのか聞きたい」
「一夜明けて、向こう岸もだいぶ穏やかになりました。そして先ほど、北ブルグンディアの第五軍司令部より、王女殿下襲撃事件を防げなかった責任を取って、司令官ピエール・ド・ジュルジュ中将が自決したと、連絡が入りました。向こうはあくまで、現地の一部部隊の暴走として事件に幕を引きたいと見えますな」
「よく言うね」白ブドウジュースを飲みながら、リュシアンが言う。「追われていた俺たちには判るけど、あれは一部の軍人の暴走なんてものじゃなくて、もっと組織的なものだったよ」
「つまりジョルジュ将軍は、トカゲの尻尾切りに遭ったというわけか」
「まあ、どの道、敗戦で責任は取らされただろうし、連中からすれば丁度良い生贄だったんだろうね。多分、他の人間たちもあの宮廷魔導師連中に記憶の操作を受けてるよ」
リュシアンの声には、いささかの嫌悪感が混じっていた。
「つまり、ロンダリア側が事件の真相を追究するのは、事実上、不可能になったわけか」
オークウッドは、さして落胆も見せずにそう言った。もともと、事件の真相究明については北ブルグンディア側が隠蔽工作をするであろうから不可能だろうと思っていたのである。
「これ以上の紛争の継続を防止するために、我が国も北ブルグンディアの言い分を受入れるしかあるまい」
「殿下の仰る通りですな。外務省の方でもその方向で停戦交渉を開始するつもりのようですし、内務省は国内の世論が対外強硬化しないように新聞等の検閲を厳重にしているとのことです」
「まあ、うちのお姫様が襲われたんだから、国民感情として納得しかねる部分はあるだろうね」
「私はもう、別にどうでもいいがな」エルフリードは無関心な口調で言った。「連中の手から逃げ切ったことで意趣返しは済んだのだ。これ以上、私一人の身のために外交問題を拗らせるわけにもいくまい」
「ご立派な態度であります、王女殿下」
「ふん、余計な世辞は要らぬ」
エルフリードは本気で、自分を襲った北ブルグンディア軍のことをどうでもよいと思っている。彼女が許せないのはリュシアンを傷付けた北ブルグンディアの魔導師たちだけで、それだって一人は死に、二人には手傷を負わせている。報復は十分に済んだとは言い難いが、エルフリード自身に魔術師を相手にする力はない。
最早、エルフリードにとってもリュシアンにとっても関心を向けるべき対象ではないのだ。
その後、久々に小麦で作られた白いパンを食べ、食卓に並べられた鴨のコンフィや茹でた馬鈴薯などを食したが、あの野営地でリュシアンと共に食べた干し果の味の方がはるかに美味だったとエルフリードは思った。
リュシアンとする何気ない食事の時間の方が、きっと自分にとって最高の調味料だったのだろう。
◇◇◇
王都への出発は、明日の朝と決められた。
レーヌス河事変とその後の王女襲撃事件と逃避行のために国境地帯では軍事的緊張状態が続き、鉄道ダイヤが軍事輸送優先になっていたためである。
民間輸送のための鉄道は、明日の朝にならないと到着しないらしい。
エルフリードとしては、翼竜に乗ってその日の内に王都に向かえと言われなくて、ほっとしている。それに、彼女自身の疲労も溜まっていた。
流石に昼寝をするのは体面的によろしくないと思ったので、午後はここ数日の各社新聞を読んで、自分たちがいない間の国内・国際情勢の把握に努めていたのだが、それでも眠気は如何ともし難かった。
夜になって夕食と湯浴みを済ませると、エルフリードは早々に寝台に入ることにした。
軍服の上着と靴を脱いで布団を被る。
体が寝台に沈み込むような心地だった。今までまともな寝床などない場所で眠っていたので、余計、そう感じるのだろう。
「……こうやってふかふかのベッドに潜り込むのも、ずいぶんと久しぶりな気がするな」
これに関しては文化的な生活万歳といったところだとエルフリードは思う。
「なあ、リュシアン」
「何?」
エルフリードの枕元で、彼女の軍服の上着を衣桁に掛けているリュシアンが応じた。
「一つ、お前に王女として命令してもいいか?」
「珍しいね、エルがそういう言い方をするの」
エルフリードは、あまりリュシアンを命令で縛ることをしない。頼み事という形で言うことはあるが、それだってリュシアンに合意が得られなければ諦めることもあった。
公的な場面ではその限りではないが、私的な場面でエルフリードがそうしたことを言い出すのは、本当に珍しかった。
「お前には、私のために死なない欲しい。私のために、生きて欲しい」
命令というには高圧的な調子はなく、どこか子供じみた懇願であった。
「俺はずっと、そのつもりだけど?」
「私はな、あの逃避行の中でただ一つ、怖かったことがある。お前が、連中に殺されてしまうのではないか、とな」
「君を守るのが、俺の役目だからね」
リュシアンは何の気負いもなく、普段通りの口調で言う。それは少年にとって、あまりにも自明なことなのだ。
「私を守るためにお前に死なれても、私は嬉しくはない。むしろ、お前を恨むだろう」
「俺は、エルを守れないことの方が怖い」
「私は、お前を失いたくない」
「それは、王位を諦めてでも?」
「―――っ!?」
一瞬、心の内に生まれてしまった葛藤を、エルフリードは認めずにはいられなかった。
「卑怯な質問だってことは判っている」リュシアンはすまなそうに目を伏せた。「でも、俺はエルに野心を遂げて欲しいと思っている。それが、俺が惹かれたエルフリードって女の子だから」
「……王位もお前も私のモノにしたいと思うのは、欲張りだろうか?」
「別に。エルはエルらしく生きればいいよ。俺はそれを支えるし、君の傍に居たいとも思ってる。レナ高地でも言ったよね? 俺は、君に庇護されるような存在は嫌なんだ。ただ傍に居てくれればそれでいいなんてエルが言っても、俺は納得出来ない」
「それはかえってお前への侮辱になる、か……」
諦観じみた息を漏らして、エルフリードは言う。
「出逢った時は弱っちそうな奴だと思ったが、なかなかどうして、お前も男なのだなぁ」
自分も大概意地っ張りで見栄っ張りだと自覚しているが、リュシアンも同じらしい。エルフリードはそう思った。
「そうだよ。今さら気付いた?」
「そうだな」
互いに相手が大切だからこその、意地の張り合い。リュシアンがエルフリードという少女の在り方を尊重してくれるのであれば、自分もまた少年の在り方を尊重すべきだろう。
自分も彼も何が譲れて、何が譲れない一線なのか。
それは、幼少期からの付き合いで判りすぎるほどに判っている。
それでも、エルフリードはリュシアンという少年を失うことが怖いのだ。そしてリュシアンに見抜かれた通り、きっと自分はリュシアンを失っても野心を遂げようとするだろう。そんな自分の在り方が、もっと怖かった。
だから、エルフリードにとってこの少年は失うことの出来ない存在なのだ。
「だが、それでも私の命令を聞き届けて欲しい」
「約束は出来ない。でも、君の傍にいると誓うことは出来る」
「それは、魔術師としてか?」
「ああ、そうだよ」
魔術師にとっての誓い。それは契約と並んで、術者自身の魂を縛るほどに重いものなのだ。
これが正式な魔術的誓約でないことはエルフリードにも判っていたが、それでもリュシアンの覚悟は少女にも伝わってくる。
「ならば、私の傍にいろ。離れることは許さん」
「ずっと、そのつもりだよ」
「……ふん」
リュシアンの声には、あまりに躊躇というものがなかった。
それが何となく嬉しくて、それでいて生意気に感じて、そしてそれ以上に羞恥を覚えた。だって、自分だけが恥ずかしいことを言っているようではないか。
あの水辺での出来事を考えれば今さらなのだが、それでも、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
だからエルフリードは自分の顔を見られたくなくて、寝返りを打ってリュシアンから顔を背ける。
「……おやすみ、エル」
それで少女の気が済んだと思ったのか、リュシアンはそんな声を掛けてきた。背後で、リュシアンが踵を返す気配がする。
一応、リュシアンはエルフリードの護衛という名目なので、この部屋には寝台が二つある。
「……おい」
だが、エルフリードは手を伸ばしてリュシアンの大外套を掴んだ。
「傍にいろと、離れるなと、そう言ったはずだ」
この寝台は寝心地が良さそうだったが、あの逃避行の中で常にあった彼の温もりだけがなかった。
少年が自分のために死ぬところを想像してしまった所為で、少し寂しかったのかもしれない。
「……そうだったね、ごめん」
リュシアンの声には、素っ気ない中にも幼子を宥めるような柔らかさがあった。少年は、少女の耳が微かに赤くなっていることに気付いていた。だが、それを指摘することはない。
大外套と上着を脱いで、エルフリードと同じ寝台に入る。
少女が背を向けたまま寝台の片側に寄り、空いた場所にリュシアンは体を潜り込ませた。
「そっち、狭くない?」
「いや、これでよい」
お互い、背中合わせで横になっていた。背に、互いの体温が伝わってくる。逃避行の中で、二人の拠り所となっていた温もりだった。
「おやすみ、エル」
「ああ、おやすみ。リュシアン」
そう言って、少年少女は同時に瞼を落とした。
訪れた眠りは、とても安らかなものであった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
翌日、朝に鉄道で王都へと発ったリュシアンとエルフリードであるが、王都中央駅に到着した頃にはすでに夕刻になっていた。
「やはり、地に足が着いている乗り物というのは良いものだな」
一等客車から降り立ったエルフリードは、開口一番にしみじみ言った。
「まあ、自分で手綱を握ったり天測航法に頼る手間が省けるっていう意味では、楽だよね」
「ああ、別にお前に恨み言を言っているわけではないぞ。ただ、どうにもやはり空というのは苦手なのだ」
「判ってるよ」
何気ない軽口を叩きながら、二人は駅の出口へと向かう。
半円形に鉄骨が組まれ、ガラス張りとなった天井からは夕日が差し込んでいる。連合王国最大の駅舎だけあって、実に壮大な建築物であった。構内には何本もの線路がひかれ、機関車に引かれた車列が出入りを繰り返す。
ロンダリアの発展ぶりを示す場所の一つが、この中央駅だった。
「―――随分と長い家出だったじゃないか、坊や」
駅舎の出口付近で、一人の女性がリュシアンとエルフリードを待ち構えていた。
短く切り揃えた鮮やかな赤髪、俊敏な鷹のような鋭い目付き。もともと小柄なリュシアンであるが、それと対比しても随分と長身な印象を受ける長外套の人物。
口には火の点いた煙草を咥えていた。
「クラリス、わざわざ迎えにきたの?」
女性の名前はクラリス・オズバーン。王都警視庁で特別捜査官を務める勅任魔導官であり、リュシアンの師匠でもあった。
「なんだ、不満でもあるのか?」
「いや。ありがとう」
「ははっ、面と向かって言われると案外恥ずかしいものだな」
顔立ちから受ける印象とは裏腹に、クラリスの笑みは弟子への優しさが感じられるものだった。
「まったく、坊やは面倒事に巻き込まれる質なのかねぇ。今回のはとびきりじゃないか?」
「面倒事が勝手に向こうからやってくるんだ。仕方ないよ」
ぼやくように言ったリュシアンの頭を、クラリスは笑みを浮かべて掻き回した。
「まあ、坊やが無事でなによりだ。よく、お姫様を守り通したな」
「……うん」
なすがままにされているリュシアンは、ちょっとだけはにかむような笑みを浮かべた。
「……」
その様子を、横でエルフリードはそっと見守っていた。少しだけ、羨ましいという感情がある。王族という立場故に、あんな風に他者から褒められた経験が少女にはほとんどないのだ。
国王たる父親にも、王妃たる母親にも、あのようにされた経験はない。
「……何だ、お姫様もして欲しいのか?」
すると、少女の目線に目敏く気付いたクラリスが悪戯っぽい笑みと共に問いかけてくる。
「ふん、私はそのような子供ではないわ」
だが、エルフリードとしては自分の内心を見透かされたことを認めたくなくて、ついつい刺々しい声を出してしまう。
一方で、自分を「王女」という記号だけで見ないこのリュシアンの師匠のことを、エルフリードは好ましくも思っていた。
「まあ、坊やがどんな顔して帰ってくるのかと心配だったんだが、案外、大丈夫そうじゃないか。それはお姫様、あんたのお陰だよ。あんたがこいつの傍にいてくれたお陰だ。坊やの師匠として、それだけは礼を言っておく」
「……そうか」
エルフリードはその言葉で、何故クラリスがわざわざ出迎えに来たのかが判った。
彼女は、弟子である少年のことが心配だったのだ。戦場で多くの敵兵を殺すことを求められたリュシアンの心を、この師匠は案じていたのだろう。
もしかしたら内心では、リュシアンを戦場に引っ張り出す原因となったエルフリードに恨み言の一つでも言いたいのかもしれない。
それでもクラリス・オズバーンは、エルフリードがリュシアンの傍にいてくれたことを感謝してくれている。それは、素直に受け取っておこうと思った。
「さて、坊やたちの生還祝いにパブで一杯引っ掛けたいところなんだが、流石にお姫様を酒場に連れていくのはなぁ」
「生憎と、私はこの後、原隊に帰着の報告をせねばならん。次の休暇の時にでも、リュシアンがいつも世話になっている礼も兼ねて、そちらを訪ねても構わんが」
「ほぉう、なかなか付き合いのいい王女様じゃないか」赤髪の魔術師は面白いものを見るような表情になった。「それじゃあ今度じっくりと、坊やとお姫様の冒険譚を聞かせて貰いたいものだな」
煙草を咥えたまま、クラリスはにやりと笑みを浮かべる。
「それじゃあ坊や、ここまで来たんだ。お姫様を最後までしっかりと送り届けてやれよ」
そう言ってクラリスは長外套の裾を翻すと、駅舎を出て行く人の流れの中に消えていった。
「……よい師匠であったな」
「うん」
その背中を眺めていたエルフリードの感慨に、リュシアンが迷いなく頷いた。
「じゃあ、俺たちも行こうか、エル」
「うむ、そうだな」
どちらからともなく、リュシアンとエルフリードは手を繋ぎ合わせた。
そのまま、クラリスと同じように駅舎を出て行く人の流れの中へと、少年少女の姿は消えていった。
二人はようやく、帰還を果たしたのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あとがき
作中で出てきた官吏等級の問題ですが、リュシアンの「勅任魔導官」という地位は相当偉いです。
「王女殿下の死神」の登場人物も含めて簡単に記しますと、次のようになります。
ライオネル・ド・モンフォート(外相なので親任官。官僚の最高位)
↓
クラリス・オズバーン(王都警視庁特別捜査官の勅任魔導官。勅任官としてはリュシアンよりも先任)
↓
リュシアン・エスタークス(勅任魔導官。伯爵位持ち)
↓
サー・ハリー・ファーガソン(准将なので奏任官。王室機密情報局局長)
↓
アラン・オークウッド(大佐。参謀本部作戦課長)
↓
エリオット・ライアン(少佐。参謀本部作戦課員)
↓
エルフリード・ティリエル・ラ・ベイリオル(少尉。王女)
実は王女であるエルフリードが、純粋に官吏等級だけで考えると一番の下っ端になるという状況です。
さて、これにて、実験的異世界戦記小説として執筆を始めました「王女殿下の初陣」は完結となります。
ここまでのお付き合い、誠にありがとうございました。
書きたい要素を詰め込みすぎたため、番外編として書きながら本編である「王女殿下の死神」よりも字数の多い作品となってしまいました。
拙作に対するご意見・ご感想を賜りましたらば幸甚。
正直、筆者としましてはまだまだリュシアンとエルフリードの物語を書いてみたいと思っております。
本作での経験を活かして、魔術ファンタジー小説と戦記小説を融合させながら、世界大戦編を描きたいとも考えているところでございます。
現状では構想段階に留まっておりますが、いつかの機会に執筆してみたいです。
その場合、「王女殿下の死神」は改稿の上、改めて長編小説として執筆し直したいと思います。
その際は、何卒よろしくお願いいたします。
では、次回作でまた皆様とお会い出来ることを切に願っております。
ありがとうございました。
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