王女殿下の死神

三笠 陣

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過去編 王女殿下の初陣

40 アナバシスの終わり

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 従兵が淹れた黒々とした珈琲を口に運び、オークウッド大佐はその相貌をわずかに歪めた。
 熱さと苦みが舌を刺激する。
 とはいえ、そのために飲んでいるのだから、従兵に文句をつけるわけにもいかない。お陰で、眠気もいささか緩和される。

「大佐殿、少しはお休みになった方が……」

 ライアン少佐が心配そうに進言するが、オークウッドは軽く手を振って拒絶の意を示した。

「この状況では、何が起こるか判らん。王女殿下の件もそうだが、不用意な軍事衝突が起きないとも限らんのだ。今、司令部を離れるわけにはいくまい」

 そう言って、この参謀本部作戦課長はもう一度コーヒーを口に含んだ。香りは良いのだが、やはり熱さと苦みがそれを上回っている。もし喫茶店の店主が淹れたものならば、その人間には店主たるの資格なしと客に言われるような代物であった。
 そのまま、じりじりと時間だけが過ぎていく。
 オークウッド大佐が部屋にかけてある振り子式時計を確認すれば、日の出まで二時間を切っていた。
 通信用魔導兵たちがもたらす情報は、ほとんどが川向こうの北ブルグンディア軍の動向に関するものであった。エルフリード王女とエスタークス魔導官の安否に関連する情報は、一向にもたらされない。
 レーヌス河西岸で何度か小規模な魔導反応があったそうだが、それがエスタークス魔導官の魔力波であったかどうかを確認することは出来なかった。
 通信を担当する魔導兵たちも、疲弊してきているのだ。オークウッドは自身の疲労よりも、彼らの疲労の方を慮っていた。そのため、三時間交代で休息を取らせている。
 通信が不能になることだけは、何としても避けなければならないのだ。そうでなければ、前線部隊の統制に影響が及んでしまう。

「……大佐殿、第四師団司令部から緊急通信です」

 不意に、一人の通信兵が報告した。緊急というわりに声に切迫した調子はなく、どちらかといえば安堵感が滲んでいた。それで、オークウッドも通信内容を察した。

「続けたまえ」

「はっ。レーヌス河右岸に展開する麾下部隊が、河を渡ってきた少年少女各一名を保護したとのことです。彼らはそれぞれ、エルフリード王女殿下とエスタークス勅任魔導官を名乗っているそうです」

「身元確認はどうなっている?」

 可能性は低いだろうが、敵の魔導兵が幻術でこちらを攪乱しようとしていることも考えられる。オークウッドは慎重だった。

「部隊に配属されている魔導兵の検査によれば幻術等による敵の謀略の可能性はなく、身元についてもエスタークス魔導官を名乗る白髪の少年の方が勅任魔導官であることを示す王室の紋章入りの徽章を持っていたとのことで、間違いはないかと」

 ならば確実にあの二人か、とオークウッドは口に出さずに納得する。

「二人の、特に王女殿下のお体に異常はないか?」

「疲労こそ激しいとのことですが、二人とも打撲や擦り傷程度の怪我しか負っていないとのことです」

「判った」オークウッドは頷いた。「では、その通信内容を私の名で参謀本部に転送してくれたまえ。王都も二人の安否については気にしているだろうからな」

「はっ。了解いたしました」

 レーヌス河を挟んだ両軍の緊張状態はしばらく続くだろうが、それをもたらしていた最大の原因がなくなった今、前線の状況は徐々に落ち着いていくだろうとオークウッドは思う。
 エルフリード王女とエスタークス魔導官を取り逃がしてしまった以上、北ブルグンディアとしてもようやく外交の席に付く諦めがついただろう。ここから先は、軍人ではなく外交官の領分だ。
 ようやく肩の荷が下りたような気がして、オークウッドは深く息をついた。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 軽銀製のカップから伝わる熱が、エルフリードの両手を温めていた。
 冷えて指の感覚すら覚束ない今の自分には、痛いくらいの熱さの方が丁度良いらしい。碗の中身を飲めば、喉から胃に珈琲が落ちていく感覚すら判るほどだった。
 それほどまでに、自分の体は冷えていた。
 隣では、リュシアンが同じように両手で包んだ碗から珈琲を飲んでいる。その表情が気怠げに見えるのは、きっと気のせいではないだろう。

「……なぁに?」

 見られていることに気付いたのか、リュシアンが不思議そうに顔を向けてくる。

「いや、お互い、体が冷えているなと思ってな」

「そりゃ、水温冷たかったし、ずぶ濡れだったからね」

 レーヌス河右岸に展開する友軍に保護された二人は今、角灯カンテラの明かりに照らされた天幕の中にいた。濡れた服や下着はすべて脱いで、支給された毛布にくるまっている。

「……ようやく、帰ってこられたのだな」

 コーヒーの表面に浮かぶ自身の顔を見下ろしながら、エルフリードはしみじみと言った。

「長い六日間、いや、七日か、だったね」

「ああ、そうだな。だが、不思議と絶望は感じなかった」

「エルは、強いね」

「お前のお陰だぞ、リュシアン」

 エルフリードの内心とは違う方向で評価しようとするリュシアンに、少女は告げる。

「お前が傍にいてくれたから、私は心折られずにすんだのだ。お前は、たった一人で私を守り切ってくれたのだ。一国の姫を守ったのだ。それは、誇って良いことだ」

 きっとリュシアンは、自分の功績を過小評価しているのだろう。エルフリードがあの状況で取り乱したりしなかったから、逃避行が成功したと思っているかもしれない(エルフリード自身としては、何度もリュシアンに対して醜態を晒してしまったという思いの方が強い)。
 だが、エルフリードがあの逃避行の中で自分自身を見失わずに済んだのは、リュシアンが一緒にいてくれたからなのだ。
 リュシアンが自分を評価してくれることは素直に嬉しいが、だからといって彼自身を過小評価して欲しくはない。それが、エルフリードの偽らざる想いだった。

「……それは、俺の方がよっぽどだよ」

 リュシアンは何でもないことのように、静かに言った。それは、少年にとってあまりにも自明なことなのだ。

「俺の方がよっぽど、エルの存在に助けられてる」

「……そうか」

 魔術師ではないエルフリードは、本当の意味で彼と共に戦うことは出来ない。自分の身に宿る魔術的特質が判明した今だって、それは変わらない。その体質によって、エルフリード自身が魔術師になったというわけではないのだから。
 それでも、心の支えという意味で自分がリュシアンの力になれているのなら……。

「多分、お互いのどっちかが欠けていても、ここにはいられなかったと思う」

「そういうものか」

「魔術的な表現が許されるなら、俺とエルは、そういう“魂”の形をしているんだと思う」

「ああ」思わず、エルフリードは穏やかに頷いていた。「そうであるならば、とてもよいな」

 心から、エルフリードはそう思った。

「ならば」

 そう言って、黒髪の少女は珈琲の入った碗をリュシアンに向けて掲げてみせた。

「私とお前が、今、生きてここにいることに」

「ああ、そうだね」

 リュシアンも応ずるように、碗を掲げる。
 少年のように朗らかな笑みを浮かべたエルフリードと、穏やかに微笑むリュシアン。二人は互いに掲げ合ったカップをコツンとぶつけ合った。
 それが、ささやかながらも生還を祝っての乾杯であった。

  ◇◇◇

 リュシアンとエルフリードは、夜が明ける前に友軍の野営地を出発していた。
 濡れた服や下着は、リュシアンの火焔魔法を応用して短時間で乾燥させた。
 エルフリードとしても未だ緊張続く国境警備の部隊を自分の世話のために煩わせることは躊躇われたし、自分たちを保護していた部隊長もどうやら自分たちを追い出したがっているようであった。
 王女の身柄を預けられても、部隊長としては処遇に困ったのだろう。下手な扱いをして王女の不興を買いたくはなかったろうし、北ブルグンディア軍の動向に警戒を払わなければならない状況で王女の警備という余計な面倒事を背負いたくもなかったろう。
 オークウッド大佐からの出頭命令をエルフリードが受けたこともあり、二人は輜重部隊の馬車の一台に便乗して、西部方面軍司令部へと向かうこととなった。
 今、エルフリードとリュシアンは幌付きの馬車の荷台で揺られながら、東へと続く道を進んでいる。
 荷台には、彼ら二人の他に座席に座っている者は一人も居ない。
 ゴトゴトと音を立てながら、馬車は進んでいく。

「……」

 エルフリードが隣を見れば、大外套にくるまったリュシアンは、半分寝て、半分起きているような様子だった。馬車の揺れに合わせるように、ふらふらと体が揺れている。

「寝たらどうだ、リュシアン?」

「……」

 白髪の少年は、眠気を堪えている人間特有の、ちょっと不機嫌そうな目線をエルフリードに向けてきた。
 結局、服を乾かすのにも魔術を使った所為で、彼の疲労は相当に溜まっているはずなのだ。熱く苦い珈琲程度では吹き飛ばせないほどの眠気が襲っているのだろう。

「私に気兼ねする必要はなかろう。眠いなら寝て構わぬ。どうせ、司令部まではまだ大分かかる」

「……」

「それに、もうお前が気を張る必要はないのだ。ここは、ロンダリアの地なのだからな」

 逃避行の間、リュシアンはエルフリードよりも必ず後に寝ていたようだった。それだけ、自分を守ろうとしてこの少年は心を砕いていたのだろう。だが、もうその心配はない。
 だから今度は、エルフリードがリュシアンの眠りを見守る番なのだ。

「……じゃあ、ごめん」

 気怠そうにそう言って、リュシアンは腕を組んで首を前に落とした。

「それでは、寝辛かろう」

 案ずるようにエルフリードは言い、少年の頭を自らの膝の上に誘導する。

「エル……」

 弱々しい抗議の声が上がる。ほとんど寝そうな目で、リュシアンがエルフリードを見上げていた。
 少女はそっと、少年の目に掛かっていた髪を除けてやる。

「ありがたく為すがままにされているがよい。ロンダリアの姫からの褒美だ」

 ちょっと悪戯っぽく威厳を込めて、エルフリードはリュシアンに言う。若干、照れ隠しの意味もあるのだが。

「……ありがとう」

 それがエルフリードなりの気遣いだと判ったのか、リュシアンは眠そうな声でそう言った。そのまま、微睡むように少年はその赤い目を閉じる。しばらくして、規則正しい寝息が聞こえてきた。

「おやすみ、リュシアン」

 少女はそっと、少年の額へと唇を落とした。

「……」

 そして、リュシアンに膝枕をしたまま、視線を荷台の後方に向ける。そこから見える、薄らと太陽の光に照らされ始めた大地。
 そこには地表を覆っていた緑が失われ、レーヌス河へと注いでいた小川のせせらぎも泥で汚され、農家も無残に破壊された荒野が広がっていた。
 北ブルグンディア側で見たものと、同じ光景。
 それを、目に焼き付けておこうとエルフリードは思った。
 自分は望んで軍人となる道を選んだ。もちろん、軍人というものへの幼い憧れもあったが、一方で最も判りやすく王族としての功績を挙げられる手段だったからというのもある。
 孤立した最前線の陣地で戦った王女という経歴は、王族として十分な箔付けになるだろう。少なくとも、王都の近衛連隊で事変の間もぬくぬくと過ごしていた兄よりは、目に見える功績を挙げられたといえよう。
 だが、それはこうした光景、そしてその下に眠る数多の将兵の白骨の上に成り立っているものなのだ。
 一将功成りて万骨枯る、とは東方の諺だったか。
 捕虜となって虐殺された自国兵の無残な姿が、脳裏に浮かぶ。
 自分の中にはそうした行為に対する憤りもあるし、嫌悪感もある。だが、死んでいった者たちに許しを乞おうとは思わなかった。
 呪いたければ呪えばいい。怨みたければ怨めばいい。
 今さら、死者のために自分自身の在り様を曲げようとは思わない。
 怒りも嘆きも悲しみも、すべて生者の傲慢であるならば、自分はその傲慢のままに生きてやろう。
 ただ、自分が王位を目指そうとする過程で踏み台とされた者たちがいたことだけは、忘れないようにしておこうと、王女たる少女は思った。
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