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過去編 王女殿下の初陣
33 遙かなるレーヌス河
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リュシアンとエルフリードは、墜落から六日目を迎えていた。
三日目以降は追跡らしい追跡もなく、森の中で多少歩きにくいということ以外は、極めて順調に東に進むことが出来ていた。
「……」
今、リュシアンは双眼鏡を構えて、目を凝らしていた。ガラスを隔てた向こう側には、なだらかな丘陵地帯に麦畑が広がっていた。点々と、農家らしき建物も見える。
「……」
そのさらに向こう、大気による屈折でかなり朧気ではあるものの河が見えた。この周辺の地域にあれほど大きな河川はレーヌス河以外に存在しないので、間違いないだろう。
リュシアンは双眼鏡を仕舞うと、するすると木の幹を降り始めた。
「どうだった?」
アルデュイナの森の東端付近、一際大きな木の上にまで登って東側を確認してきたリュシアンに、根元で待っていたエルフリードが尋ねた。
「レーヌス河らしいものが見えた。国境線まで、三〇キロもないと思う」
「ああ、そうか」
押し寄せてきた安堵感で脱力してしまったのだろう、エルフリードは木の幹に背を預けて深く息をついた。そんな少女の様子を見て、リュシアンもかすかに口元を弛緩させる。
とはいえ、問題がないわけではないのだ。
「……ここから先は、身を隠せる森がなくなる。平地と丘陵地帯が混ざり合った地形の中に点々と畑と農家がある。それに国境付近では軍事的緊張が続いているだろうから、北ブルグンディア軍も警戒態勢を敷いているはず。昼間の移動はまず無理だろうね」
リュシアンの服は何とか誤魔化せるかもしれないが、ロンダリア陸軍騎兵科将校の軍服を着ているエルフリードは厳しい。
以前、村から食糧を確保した時に、村娘の服も一緒に確保しておくべきだったかと後悔する。食糧の確保に汲々として、他のことを考えられていなかったのだろう。
とはいえ、国境線を突破するに際してはどの道、夜間に行動しなければならない。結局は一緒だった可能性はある。
何とも判断しがたいところだった。
「ああ、いや……そうでもないか」
「どうしたのだ?」
思わず出てしまった独り言に、エルフリードが反応した。独り言が出てしまうあたり、リュシアンも大分気が緩んでいるらしい。
「いや、どうやって北ブルグンディアの国境警備網を突破しようかって考えていたんだけど……」
「そんなもの、お前の幻影魔術でどうとでもなるのではないか?」
エルフリードは実にあっさりした口調だった。岡目八目というわけでもないのだろうが、案外、彼女の方が魔術を利用する勘所を押さえているのかもしれない。
「うん、完全に失念してた」
今でも追撃を警戒してリュシアンは魔術の使用を必要最小限以下に留めているが、ロンダリア領内に逃げ込める直前であればそれほど神経質になる必要もないだろう。
いざとなれば身体強化の術を使い、エルフリードを抱えて強行突破すればいい。流石に長時間の使用は肉体に負荷をかけ、筋の切断や血管の破裂といった代償を払わなければならないだろうが、残り五キロ地点あたりならば何とかなるだろう。
「取りあえず、昼間は森の中で大人しくしていよう。多分、夜の移動はこれまで以上に体力を使うことになるだろうから」
「判った」
森の中ほど歩きにくくはないだろうが、上り下りのある丘陵地帯を越えて、さらにレーヌス河は川幅と水深からして泳いで渡る必要性があるだろう。
ここまでは疲れたら休むということが出来たが、残りの逃走経路はそうもいかない。
森を出たならば、夜が明ける前までにレーヌス河を越えなければならない。休んでいられる時間は、ほとんどないだろう。
ただ、河さえ越えてしまえば何とかなると思えば、精神的にはだいぶ楽だろう。それは恐らく、肉体的な疲労度にも影響するはずだ。
「なあ、リュシアン」
休むのに適当な場所まで移動したところで、エルフリードが言った。
ちょうど、朽ちた大樹の洞があり、そこに潜むことにしたのだ。
「何?」
薄暗い洞の中で身を寄せ合うリュシアンが、声の主に顔を向けた。
「本当に、ここまでよくやってくれた。感謝する」
少し羞恥の混じった、エルフリードの声。
「感謝されるには、まだ早いよ」
「だが、お前がいてくれなければここまで逃げることは出来なかった。私一人では、どこかで捕まっていただろうからな」
そこで、エルフリードは可笑しそうに笑いを零した。
「どうしたの?」
「いや、なに。私が翼竜に乗れなくて良かったと、つくづく思ったのだ」
「どうして?」
「私が翼竜に乗れないからこそ、お前と一緒に乗ることになったではないか。もし私が翼竜乗りであったのなら、墜とされていたのは私だけであったろうからな。そうすれば、私は一人だ」
「そんなことないよ」
いつも通りの抑揚に乏しい茫洋と響く口調で、リュシアンは強く否定した。
「え?」
「エルが墜とされたら、俺は必ずエルを追って地上に降りたと思う」
その声には何の迷いもなく、ただ決まり切ったことを伝えるような素っ気なさがあった。
「そう、か」
少年の言葉を噛みしめるように、エルフリードは目を伏せた。そして、こてん、と少女は少年の肩に頭を預ける。
「ああ。本当に、お前でよかった」
◇◇◇
夜の訪れを待って、リュシアンとエルフリードは行動を開始した。
魔力反応が逆探知されることも厭わず、リュシアンは残った食糧などの余分な荷物をすべて転移魔法陣の中に仕舞った。エッカートG38も同様だった。少しでも身軽になり、歩く際の負担を減らすためである。
食糧については破棄も考えたが、万が一の事態もある。まだ食糧はとっておくべきだろう。
「これ、羽織っておいて」
リュシアンは洞から出ると、自らの羽織っていたフード付き大外套をエルフリードに渡した。
「しかし、これは……」
目の前に差し出された大外套を見て、黒髪の少女は躊躇した。これは、リュシアンの霊装〈黒の法衣〉なのだ。
「エルはロンダリア陸軍の軍服を着てるでしょ? 夜だからあまりないとは思うけど、遠くから見られたら俺が幻影魔術で相手の記憶を操作する暇がない。そもそも、遠くから発見されたら俺だって気付かないかもしれない。だから、その服は隠しておいた方がいい」
「……お前がそう言うのであれば」
まだ迷いはあったものの、リュシアンにそう言われた以上は、受け取るしかない。エルフリードは大外套を羽織り、その軍服姿を隠す。
「じゃあ、行くよ」
「うむ」
そうして二人は、国境線へと向けて歩き出した。
森を抜けたお陰で、夜でも周囲が真っ暗ということはなかった。澄んだ月や星の光で、ぼんやりと地上の情景は見えている。
リュシアンはなるべく街道を避けるようにしてレーヌス河へと歩くことにしていた。
北ブルグンディア側がエルフリードの身柄確保を諦めたという確信が持てない以上、検問の敷かれているかもしれない街道沿いをゆくのは危険であった。
そして、なるべく丘陵地帯の稜線に隠れるようにして歩くことを心がけた。
ロンダリア陸軍西部方面軍との戦闘において北ブルグンディア軍が大損害を受けたとはいえ、未だそれなりの人数が河の西側に存在しているはずだ。両軍が河を挟んで対峙している以上、現地軍同士の停戦協定が発効されたとはいえ、将兵たちは殺気立っているだろう。
なるべく、自分たちの姿が見咎められないようにしないといけない。
残り三〇キロ前後なのだから魔術を使って多少は大胆に行動することも出来たが、慎重さを捨てた結果、蹉跌を踏むのも馬鹿らしい。せっかく、ここまでは何とか逃げ延びることに成功しているのだから。
「……」
森を出て二時間ほど進んだところで、リュシアンは小さな丘の稜線から国境線方向を観察していた。腹ばいになって、双眼鏡を構えている。
農村らしき集落が、点々としている。夜になって火が焚かれているらしく、その位置はよく判る。
ただ、そこにいるのが農民であるのか、疎開して無人になった家を軍が接収して利用しているのかは判らない。
どの道、近付くことが危険であることに変わりはないだろう。
今のところ、上手く誰とも遭遇することなく進めている。このまま何事もなく河まで進めればいいのだが……。
一応周囲の状況を確認した後、リュシアンとエルフリードは再び歩き出した。
そうして三〇分ほど歩いて、畑の合間にある細い農道を突っ切ろうとした時のことだった。
「……」
「……」
互いに、唐突に立ち止まることになった。
「声がするな」
そっと、エルフリードが言った。ガヤガヤとまとまりのない会話声が、後ろの方から聞こえてきたのだ。
「隠れよう」
リュシアンはエルフリードの手を引いて畑の中に引き込んだ。息を殺して身を伏せる。麦を掻き分けた時に出してしまったカサカサとした葉のこすれる音すら、今の自分たちには心臓に悪い。
ただ幸いにして、その畑の作物は初夏にかけて生長する大麦だったのか、身を隠せるだけの茂り具合であった。
「……」
「……」
声の集団は、自分たちと同じ農道を辿ってきたらしい。あそこまで話し声を響かせているのだから、追っ手ではないだろう。運悪く、同じ道を歩いていたのだ。
大麦の間に隠れて息を潜めている二人の少年少女の目の前を、相変わらずまとまりもなく会話している集団が横切っていく。
軍人らしいが、軍服は乱れていた。足並みも、行進のように揃ってはいない。それぞれが好き勝手に歩き、会話しているようだった。
リュシアンは彼らの喋っている言葉を、脳内で翻訳してみる。
「まったく、シケた村だったな」
「ホントだよ、もっと美味いもんや酒なんかがあると思ったのに」
「おまけに若い女は真っ先に疎開させたときていやがる。歳食ったババアしかいねぇんじゃ、楽しみもねぇよな」
会話の内容は、ほぼすべてが不平不満のようであった。
兵士たちはそれぞれが荷袋を抱えていた。どうやら、近隣の村から物資を徴発した帰りらしい。恐らく、戦地の憂さ晴らしとして自国の農家から略奪まがいの徴発を行ったのだろう。
農家の娘が疎開したと言っていたが、本当は両親が必死になって家の中に隠していたのかもしれない。
敗残の軍で、軍紀が乱れているのか。
「……奴ら、本当に軍人なのか」
兵士の一団が通り過ぎた後、憤りと困惑が混ぜ合わさったような声でエルフリードが言った。将校である彼女にとって、あからさまに軍紀の乱れた兵士たちの存在は許容しがたいのだろう。
「それだけ、会戦での敗北で兵士たちの心が荒んでいるんだろうね」
彼らを統制すべき将校も、もしかしたら徴発の名を借りた略奪行為を黙認しているのだろう。そうすることで兵士たちの鬱憤を晴らし、脱走兵が出ることを防ごうとしているのかもしれない。
実際問題、戦地における略奪はこの時代、下級兵士たちの重要な収入源でもあった。戦地での略奪行為が戦争犯罪とされるのは、この時代から半世紀以上の時を待たなければならない。
略奪を許容することによって兵士たちの士気が維持出来るのであれば、将校としては黙認するのが当然の選択となるだろう。
そうした意味では、エルフリードの嫌悪感は同時代的に見ればいささか潔癖に過ぎるとも評価出来よう。もちろん敵地での略奪と自国領での略奪では、自ずと意味合いが違ってくるので、その点については彼女の感情にも正しい面があったが。
「ただ、そうだとするとちょっと拙いかもしれない」
「そうだな」リュシアンの呟きにエルフリードが同意した。「このまま歩いていては、不意にまた敵兵と遭遇しかねん」
「きっちりと等間隔に歩哨を立ててくれていれば、逆に幻術とかで誤魔化しやすかったんだけど」
とはいえ、リュシアンたちにはどうしようもない問題である。
「最悪、不意に遭遇したら強行突破しよう」
「やむを得んな」
麦畑から出たリュシアンとエルフリードは、互いに頷きあった。
だがこの時、二人はもっと別の点において認識を摺り合わせておくべきだったかもしれない。軍紀の乱れた軍において何が起こるのか、少なくともリュシアンには薄らと予想はついていた。倫理と道徳の箍が外れた時、人が何を行うのか、少なくとも彼は魔術師を相手にしていて理解しているはずであった。
だが、リュシアンはそうした可能性についてエルフリードに告げることをしなかった。少年の心のどこかで、エルフリードも理解していると思い込んでいたのかもしれない。
そもそも軍人を志したのはエルフリード自身なのだ。きっと判っているのだろうと、無意識的に思い込んでいたのかもしれない。
それはエルフリードに対する信頼であると共に、甘えの感情でもあったのだろう。
あるいは、エルフリードの潔癖さを汚すことを無意識に恐れていたのか。
ある意味で彼もまた、倫理や道徳から外れた存在だったのかもしれない。
三日目以降は追跡らしい追跡もなく、森の中で多少歩きにくいということ以外は、極めて順調に東に進むことが出来ていた。
「……」
今、リュシアンは双眼鏡を構えて、目を凝らしていた。ガラスを隔てた向こう側には、なだらかな丘陵地帯に麦畑が広がっていた。点々と、農家らしき建物も見える。
「……」
そのさらに向こう、大気による屈折でかなり朧気ではあるものの河が見えた。この周辺の地域にあれほど大きな河川はレーヌス河以外に存在しないので、間違いないだろう。
リュシアンは双眼鏡を仕舞うと、するすると木の幹を降り始めた。
「どうだった?」
アルデュイナの森の東端付近、一際大きな木の上にまで登って東側を確認してきたリュシアンに、根元で待っていたエルフリードが尋ねた。
「レーヌス河らしいものが見えた。国境線まで、三〇キロもないと思う」
「ああ、そうか」
押し寄せてきた安堵感で脱力してしまったのだろう、エルフリードは木の幹に背を預けて深く息をついた。そんな少女の様子を見て、リュシアンもかすかに口元を弛緩させる。
とはいえ、問題がないわけではないのだ。
「……ここから先は、身を隠せる森がなくなる。平地と丘陵地帯が混ざり合った地形の中に点々と畑と農家がある。それに国境付近では軍事的緊張が続いているだろうから、北ブルグンディア軍も警戒態勢を敷いているはず。昼間の移動はまず無理だろうね」
リュシアンの服は何とか誤魔化せるかもしれないが、ロンダリア陸軍騎兵科将校の軍服を着ているエルフリードは厳しい。
以前、村から食糧を確保した時に、村娘の服も一緒に確保しておくべきだったかと後悔する。食糧の確保に汲々として、他のことを考えられていなかったのだろう。
とはいえ、国境線を突破するに際してはどの道、夜間に行動しなければならない。結局は一緒だった可能性はある。
何とも判断しがたいところだった。
「ああ、いや……そうでもないか」
「どうしたのだ?」
思わず出てしまった独り言に、エルフリードが反応した。独り言が出てしまうあたり、リュシアンも大分気が緩んでいるらしい。
「いや、どうやって北ブルグンディアの国境警備網を突破しようかって考えていたんだけど……」
「そんなもの、お前の幻影魔術でどうとでもなるのではないか?」
エルフリードは実にあっさりした口調だった。岡目八目というわけでもないのだろうが、案外、彼女の方が魔術を利用する勘所を押さえているのかもしれない。
「うん、完全に失念してた」
今でも追撃を警戒してリュシアンは魔術の使用を必要最小限以下に留めているが、ロンダリア領内に逃げ込める直前であればそれほど神経質になる必要もないだろう。
いざとなれば身体強化の術を使い、エルフリードを抱えて強行突破すればいい。流石に長時間の使用は肉体に負荷をかけ、筋の切断や血管の破裂といった代償を払わなければならないだろうが、残り五キロ地点あたりならば何とかなるだろう。
「取りあえず、昼間は森の中で大人しくしていよう。多分、夜の移動はこれまで以上に体力を使うことになるだろうから」
「判った」
森の中ほど歩きにくくはないだろうが、上り下りのある丘陵地帯を越えて、さらにレーヌス河は川幅と水深からして泳いで渡る必要性があるだろう。
ここまでは疲れたら休むということが出来たが、残りの逃走経路はそうもいかない。
森を出たならば、夜が明ける前までにレーヌス河を越えなければならない。休んでいられる時間は、ほとんどないだろう。
ただ、河さえ越えてしまえば何とかなると思えば、精神的にはだいぶ楽だろう。それは恐らく、肉体的な疲労度にも影響するはずだ。
「なあ、リュシアン」
休むのに適当な場所まで移動したところで、エルフリードが言った。
ちょうど、朽ちた大樹の洞があり、そこに潜むことにしたのだ。
「何?」
薄暗い洞の中で身を寄せ合うリュシアンが、声の主に顔を向けた。
「本当に、ここまでよくやってくれた。感謝する」
少し羞恥の混じった、エルフリードの声。
「感謝されるには、まだ早いよ」
「だが、お前がいてくれなければここまで逃げることは出来なかった。私一人では、どこかで捕まっていただろうからな」
そこで、エルフリードは可笑しそうに笑いを零した。
「どうしたの?」
「いや、なに。私が翼竜に乗れなくて良かったと、つくづく思ったのだ」
「どうして?」
「私が翼竜に乗れないからこそ、お前と一緒に乗ることになったではないか。もし私が翼竜乗りであったのなら、墜とされていたのは私だけであったろうからな。そうすれば、私は一人だ」
「そんなことないよ」
いつも通りの抑揚に乏しい茫洋と響く口調で、リュシアンは強く否定した。
「え?」
「エルが墜とされたら、俺は必ずエルを追って地上に降りたと思う」
その声には何の迷いもなく、ただ決まり切ったことを伝えるような素っ気なさがあった。
「そう、か」
少年の言葉を噛みしめるように、エルフリードは目を伏せた。そして、こてん、と少女は少年の肩に頭を預ける。
「ああ。本当に、お前でよかった」
◇◇◇
夜の訪れを待って、リュシアンとエルフリードは行動を開始した。
魔力反応が逆探知されることも厭わず、リュシアンは残った食糧などの余分な荷物をすべて転移魔法陣の中に仕舞った。エッカートG38も同様だった。少しでも身軽になり、歩く際の負担を減らすためである。
食糧については破棄も考えたが、万が一の事態もある。まだ食糧はとっておくべきだろう。
「これ、羽織っておいて」
リュシアンは洞から出ると、自らの羽織っていたフード付き大外套をエルフリードに渡した。
「しかし、これは……」
目の前に差し出された大外套を見て、黒髪の少女は躊躇した。これは、リュシアンの霊装〈黒の法衣〉なのだ。
「エルはロンダリア陸軍の軍服を着てるでしょ? 夜だからあまりないとは思うけど、遠くから見られたら俺が幻影魔術で相手の記憶を操作する暇がない。そもそも、遠くから発見されたら俺だって気付かないかもしれない。だから、その服は隠しておいた方がいい」
「……お前がそう言うのであれば」
まだ迷いはあったものの、リュシアンにそう言われた以上は、受け取るしかない。エルフリードは大外套を羽織り、その軍服姿を隠す。
「じゃあ、行くよ」
「うむ」
そうして二人は、国境線へと向けて歩き出した。
森を抜けたお陰で、夜でも周囲が真っ暗ということはなかった。澄んだ月や星の光で、ぼんやりと地上の情景は見えている。
リュシアンはなるべく街道を避けるようにしてレーヌス河へと歩くことにしていた。
北ブルグンディア側がエルフリードの身柄確保を諦めたという確信が持てない以上、検問の敷かれているかもしれない街道沿いをゆくのは危険であった。
そして、なるべく丘陵地帯の稜線に隠れるようにして歩くことを心がけた。
ロンダリア陸軍西部方面軍との戦闘において北ブルグンディア軍が大損害を受けたとはいえ、未だそれなりの人数が河の西側に存在しているはずだ。両軍が河を挟んで対峙している以上、現地軍同士の停戦協定が発効されたとはいえ、将兵たちは殺気立っているだろう。
なるべく、自分たちの姿が見咎められないようにしないといけない。
残り三〇キロ前後なのだから魔術を使って多少は大胆に行動することも出来たが、慎重さを捨てた結果、蹉跌を踏むのも馬鹿らしい。せっかく、ここまでは何とか逃げ延びることに成功しているのだから。
「……」
森を出て二時間ほど進んだところで、リュシアンは小さな丘の稜線から国境線方向を観察していた。腹ばいになって、双眼鏡を構えている。
農村らしき集落が、点々としている。夜になって火が焚かれているらしく、その位置はよく判る。
ただ、そこにいるのが農民であるのか、疎開して無人になった家を軍が接収して利用しているのかは判らない。
どの道、近付くことが危険であることに変わりはないだろう。
今のところ、上手く誰とも遭遇することなく進めている。このまま何事もなく河まで進めればいいのだが……。
一応周囲の状況を確認した後、リュシアンとエルフリードは再び歩き出した。
そうして三〇分ほど歩いて、畑の合間にある細い農道を突っ切ろうとした時のことだった。
「……」
「……」
互いに、唐突に立ち止まることになった。
「声がするな」
そっと、エルフリードが言った。ガヤガヤとまとまりのない会話声が、後ろの方から聞こえてきたのだ。
「隠れよう」
リュシアンはエルフリードの手を引いて畑の中に引き込んだ。息を殺して身を伏せる。麦を掻き分けた時に出してしまったカサカサとした葉のこすれる音すら、今の自分たちには心臓に悪い。
ただ幸いにして、その畑の作物は初夏にかけて生長する大麦だったのか、身を隠せるだけの茂り具合であった。
「……」
「……」
声の集団は、自分たちと同じ農道を辿ってきたらしい。あそこまで話し声を響かせているのだから、追っ手ではないだろう。運悪く、同じ道を歩いていたのだ。
大麦の間に隠れて息を潜めている二人の少年少女の目の前を、相変わらずまとまりもなく会話している集団が横切っていく。
軍人らしいが、軍服は乱れていた。足並みも、行進のように揃ってはいない。それぞれが好き勝手に歩き、会話しているようだった。
リュシアンは彼らの喋っている言葉を、脳内で翻訳してみる。
「まったく、シケた村だったな」
「ホントだよ、もっと美味いもんや酒なんかがあると思ったのに」
「おまけに若い女は真っ先に疎開させたときていやがる。歳食ったババアしかいねぇんじゃ、楽しみもねぇよな」
会話の内容は、ほぼすべてが不平不満のようであった。
兵士たちはそれぞれが荷袋を抱えていた。どうやら、近隣の村から物資を徴発した帰りらしい。恐らく、戦地の憂さ晴らしとして自国の農家から略奪まがいの徴発を行ったのだろう。
農家の娘が疎開したと言っていたが、本当は両親が必死になって家の中に隠していたのかもしれない。
敗残の軍で、軍紀が乱れているのか。
「……奴ら、本当に軍人なのか」
兵士の一団が通り過ぎた後、憤りと困惑が混ぜ合わさったような声でエルフリードが言った。将校である彼女にとって、あからさまに軍紀の乱れた兵士たちの存在は許容しがたいのだろう。
「それだけ、会戦での敗北で兵士たちの心が荒んでいるんだろうね」
彼らを統制すべき将校も、もしかしたら徴発の名を借りた略奪行為を黙認しているのだろう。そうすることで兵士たちの鬱憤を晴らし、脱走兵が出ることを防ごうとしているのかもしれない。
実際問題、戦地における略奪はこの時代、下級兵士たちの重要な収入源でもあった。戦地での略奪行為が戦争犯罪とされるのは、この時代から半世紀以上の時を待たなければならない。
略奪を許容することによって兵士たちの士気が維持出来るのであれば、将校としては黙認するのが当然の選択となるだろう。
そうした意味では、エルフリードの嫌悪感は同時代的に見ればいささか潔癖に過ぎるとも評価出来よう。もちろん敵地での略奪と自国領での略奪では、自ずと意味合いが違ってくるので、その点については彼女の感情にも正しい面があったが。
「ただ、そうだとするとちょっと拙いかもしれない」
「そうだな」リュシアンの呟きにエルフリードが同意した。「このまま歩いていては、不意にまた敵兵と遭遇しかねん」
「きっちりと等間隔に歩哨を立ててくれていれば、逆に幻術とかで誤魔化しやすかったんだけど」
とはいえ、リュシアンたちにはどうしようもない問題である。
「最悪、不意に遭遇したら強行突破しよう」
「やむを得んな」
麦畑から出たリュシアンとエルフリードは、互いに頷きあった。
だがこの時、二人はもっと別の点において認識を摺り合わせておくべきだったかもしれない。軍紀の乱れた軍において何が起こるのか、少なくともリュシアンには薄らと予想はついていた。倫理と道徳の箍が外れた時、人が何を行うのか、少なくとも彼は魔術師を相手にしていて理解しているはずであった。
だが、リュシアンはそうした可能性についてエルフリードに告げることをしなかった。少年の心のどこかで、エルフリードも理解していると思い込んでいたのかもしれない。
そもそも軍人を志したのはエルフリード自身なのだ。きっと判っているのだろうと、無意識的に思い込んでいたのかもしれない。
それはエルフリードに対する信頼であると共に、甘えの感情でもあったのだろう。
あるいは、エルフリードの潔癖さを汚すことを無意識に恐れていたのか。
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