王女殿下の死神

三笠 陣

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過去編 王女殿下の初陣

31 慟哭と抱擁

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 するりと地面に落ちて広がった大外套。
 一糸まとわぬエルフリードの裸身が、炎に照らされていた。
 少女としての膨らみに乏しくはあったが、幼い頃から鍛えていたからだろう、一切の無駄のない均整の取れた肢体であった。
 筋肉をまといながらも、しなやかさを感じさせる、高度な調和の上に成り立った肉体。
 まるで最高の鍛冶師によって鍛え上げられた剣のようであった。
 白い肌が、炎を艶めかしく反射していた。

「……何のつもり?」

 戸惑いや当惑よりも、警戒感を滲ませたリュシアンの声。

「私はっ……!」エルフリードは途方に暮れて泣き出しそうな幼子のような声で言った。「私はっ、お前に報いてやれるものが、これくらいしかないっ……!」

「エル……」

「私は、お前に証明したかったんだっ! 私だって、お前と共に戦えるのだと! なのにっ……!」

 流れ出てきた涙を、エルフリードは乱暴に拭った。

「そんなっ……、そんな私の下らない見栄の所為で、お前は足を砕かれた! 私はただ、お前の邪魔をしただけだ!」

 しゃくり上げながら、彼女はなおも続けた。

「私は、お前の力になりたかったっ……お前の苦しみも痛みも、減らしてやりたかったっ……背負ってやりたかったっ……なのにっ……」

 最初にリュシアンが人を殺したのは、エルフリードを守るため。
 その時から徐々に快活さを失っていき、心をすり減らし、髪すら白ませてしまった幼馴染の少年に対して、少女は何もしてやれなかった。
 人殺しを重ねていく少年を、止めようともしなかった。
 だってそれは、自分が心のどこかで望んでいたものなのだから。
 自分が王位に就くための手駒となりそうな人間。リュシアン・エスタークスという少年は、まさしく自らが望んだ通りの人間だった。
 それがどれほどの罪であるのか、幼いエルフリードはまったく自覚していなかった。
 犯してしまった罪は、一生、消えることはない。だからエルフリードは、一生をかけてリュシアンに償わなくてはならないのだ。

「なのにっ、私はお前に何もしてやれていないっ……!」

 自分自身に対する怒りと苛立ち、無力感、それらの感情で少女の表情は情けないほどに崩れていた。

「だったらもう、この身をお前に差し出すしかないじゃないか……」

「エル……」

 リュシアンはそっと、腰をかけていた丸太から立ち上がった。

「―――っ」

 すると、エルフリードが怯えたように一歩、後ろに下がった。身を守るようにして胸の前で手を組んで、きゅっと体を硬くしている。
 リュシアンはそんな少女の前まで進むと、落ちている大外套を拾い上げた。それをふわりとエルフリードの肩にかけてやる。

「俺は、エルにそんなことをして欲しくない」

 エルフリードの精神を追い詰めてしまった原因の一端は、確実にリュシアンにもある。
 自分は魔術師だからといって、何でも一人で解決しようとしてしまっていた。もし自分とエルフリードが逆の立場であれば、やはり自分も彼女と同じような思いを抱いたことだろう。
 相手に頼り切るだけの何も出来ない自分というのは、辛い。
 リュシアンが魔術師であり、エルフリードが常人ただびとであったことも、より少女の無力感に拍車をかけたに違いない。
 何か自分に出来ることがないかと思い悩んだ末の結果が、体を差し出すという行為だったのだろう。
 それはひどく不毛な結論で、哀れさすら感じさせた。

「……私には、抱く価値もないのか?」

 か細い声で、不安に揺れた瞳で、エルフリードはリュシアンを見つめてくる。よくない方向に、少女の思考が向かっていた。

「そうじゃない」リュシアンは首を振った。「俺は、エルにそれ以上の価値を感じている。だから、君の価値を貶めるようなことはしたくない」

「迷惑、だったか……?」

 しかし、エルフリードは納得していないようだった。

「迷惑なんて思ってない」リュシアンは少女から視線を逸らさずに言った。「俺にとって、エルは大切な存在だから。何かの代償で、君を抱くなんてことはしたくない」

「なら、私はお前に何を渡せばいい? 何をしてやればいい?」

 迷路から抜け出す方法を求めるような、切実な声音だった。

「代償や対価なんてもので、俺と君は繋がっているわけじゃないでしょ?」

 流石に、少しだけ怒ったような声が出た。自分たち二人の関係を、他ならぬエルフリード自身に貶めてもらいたくなかったのだ。
 幼い頃の約束。
 二人を繋いでいるものは、それであるべきなのだ。

「……」

 エルフリードも同じ思いだったのか、黙り込んでしまった。しかし感情に折合いは付いていないようで、表情はこれ以上の涙を堪えようとしているかのように歪んでいた。

「……それでも私は、お前に何かをしてやりたい」

 絞り出すように、エルフリードは己の心情を吐露する。
 その想いを否定するのは、流石に酷だろう。それだけ、リュシアンが想われているということなのだから。
 リュシアンも、エルフリードの想いを否定したいわけではないのだ。

「……じゃあ」

 少し躊躇ためらった末、リュシアンは言った。

「少しだけ、君の存在を感じさせて」

 エルフリードに向けて手を伸ばしたリュシアンは、そっとその体を抱きしめた。

「……えっ?」

 ふわりと彼女の黒髪が揺れ、包み込むように少女の体を腕の中に収める。一瞬だけ、エルフリードの体が強ばった。

「リュ、リュシアン……?」

 少年の腕の中で、当惑しきった少女の声が響く。なすがままに、エルフリードは魔術師の少年に己の体を預けていた。
 互いの鼓動が、直接、体に感じられる。
 少し冷えているエルフリードの体。それでもリュシアンは、確かな温もりを感じていた。

「……」

「……」

 たっぷり一分ほど、リュシアンは少女を抱きしめていた。

「……うん、元気出た。ありがとう」

 抱きしめた時と同じく繊細な仕草で、少年は少女の体を離す。

「こんなもので、いいのか……?」

 リュシアンを見上げるエルフリードの瞳は、不安そうに揺れていた。

「ああ、十分だよ」

 リュシアンは穏やかに頷いた。少女の温もりは、まだ少年の胸の内に残っている。心に火を灯すには、十分な温かさだった。

「……ならば、よい」

 ようやく納得してくれたのか、エルフリードの声は落ち着きを取り戻していた。

  ◇◇◇

 湿った大外套と湖で洗ったエルフリードの服を魔術で乾かすと、後は何もやることがなくなってしまった。

「今日は、火を熾したままで寝ようか?」

 今夜中の追撃はないとリュシアンは判断していたので、逃避行が始まって初めて、火を熾したまま寝ることが出来そうだった。
 火を焚いておけば、暖を取ることも出来るし、獣避けにもなる。
 北ブルグンディアの追跡はないと考えているものの、リュシアンは慎重を期して周辺に警戒用結界を張っていた。
 万が一、焚き火の炎が発見されても、寝込みを襲われる心配はない。

「ああ、そうしよう」

 エルフリードも森の中の冷える夜を思ってか、すぐに頷いた。
 椅子代わりにしていた丸太に背を預ける形で、リュシアンは地面に腰を下ろした。エルフリードが焚き火を回ってきて、少年の隣に並んで腰を下ろす。
 肩を寄せ合って、毛布代わりにリュシアンの大外套を被った。
 焚き火の爆ぜる音、フクロウだかの鳴く声が、時折耳に届く。それ以外は静寂そのものであり、まるで世界に二人だけで取り残されてしまったかのような錯覚を与えた。
 しかし、リュシアンもエルフリードも、孤独を感じているわけでは決してなかった。
 お互いが近くにいるならば、孤独を感じることなどない。

「……」

 眠るためにリュシアンが目を瞑って、少し経った頃だった。

「……なあ、リュシアン」

 同じ大外套にくるまっているエルフリードが、不意に囁いた。リュシアンは薄目を開けて、隣の少女を見る。互いの目が合った。

「さっきのこと、私がお前に対する負い目や責任感からやったとは思わないでくれ」

 声には、どこか真剣さが感じられた。

「私は、好きでもない男に身を委ねるような真似はしない。お前ならば……本当に構わないと思ったのだ」

 エルフリードが羞恥を堪えて必死に想いを伝えようとしていることが、リュシアンにも判った。

「だから、な」

 大外套の中で、少女は唐突に姿勢を変えた。不意打ち気味に、リュシアンの唇に柔らかい感触が押し付けられる。
 視界いっぱいに、エルフリードの顔があった。琥珀色の瞳が、切なそうに揺れている。

「……私のお前に対する気持ちだけは、どうか受け取って欲しい」

 そっと唇を離し、黒髪の少女は言った。

「お前という存在を、私が都合よく利用していることは、自覚している。でも、手駒に対する所有欲ではない、リュシアン・エスタークスという個人に対する好意も、持っているんだ。お前には身勝手と思われてしまうかもしれないが、それが、私の本心なのだ」

 慎重に、そして己の醜さをさらけ出す覚悟と共に、エルフリードは言葉を選んでいた。

「きっと私はこれからも、自分のためにお前を利用する。それでも、私のお前に対する気持ちだけでも、知っておいて欲しいのだ」

 それはまるで、主人に見捨てられることを恐れる子犬のような、儚い懇願だった。

「……馬鹿だね、エルは」

 罵倒になっていない罵倒の声で、リュシアンは応じた。

「俺たち、出会ってそろそろ九年になるんだよ。それで君がどういう性格の人間か判らないままに、俺が君を大切だと思っているとでも考えていたの?」

「お前の好意は、十分伝わっている」

 エルフリードの声は固かった。そこに、少女の真剣さが見て取れた。

「だがな、それならば私のお前に対する想いも包み隠さずに言っておかなければ、不誠実だと思ったのだ。私のお前に対する好意には、不純物が多すぎる」

「誰かを好ましく思うってのは、そういうことじゃないの?」リュシアンは言う。「逆に純粋な好意って何だよ、って話になる。相手に対する執着心や独占欲のない好意の方が、少ないと思うよ」

「よいのか、お前はそれで?」

「いいんだよ。俺は別に、王女だからだとか、婚約者だからだとか、専属魔導官だからだとか、そんな理由でエルが大切なんじゃない。君が好きだから、大切なんだ。エルの良いところも悪いところも含めて、ね」

「……相変わらず、小っ恥ずかしいことを平然という奴だな」

 呆れたように、それでもどこか安心したように、エルフリードは表情を緩めた。

「だが、嬉しかった」

 少女の両手が伸びて、少年の頬を包んだ。エルフリードは再び、己の唇をリュシアンのそれに重ね合わせた。
 今度は少し長く。
 自分の中に生まれた熱を、リュシアンに分け与えるように。
 そしてゆっくりと、名残を惜しむように、唇を離し、手を離した。

「ありがとう、リュシアン」

 凜とした中に艶めかしさを混ぜ込んだ、少し上気した表情と共に、エルフリードは言った。
 普段の険などまるで感じさせない、年相応の、少女の顔。
 その表情に、リュシアンはしばらく呆けたように見取れていた。

「……どういたしまして、と言うべきなのかな?」

「何だ、それは?」

 可笑しそうに、エルフリードは吐息を漏らした。

「あぁしかし、やはりお前がいてくれないと私は駄目なようだなぁ」

 しみじみとした感慨を込めて、少女は呟く。そこには自責も自虐もなく、ただリュシアンへの親愛の情だけがあった。

「何日か前にも聞いたね、似たような言葉」

「私の本心だ。何度言ったって構わんだろう?」

 どこか悪戯っぽく、エルフリードは微笑む。
 矜持プライドが高くて、意地っ張りで、ちょっと捻くれている少女は、いつになく素直だった。
 吹っ切れたという面もあるのだろうが、多分、敵地に放り出されて二人だけという状況で、互いに対する想いがより剥き出しのものになっているのかもしれないとリュシアンは思う。

「俺も、エルがいてくれないと嫌だ」

「お互い、難儀な性格だな。いや、私とお前の関係は、その方がいいのかもしれんな。単純な男女の関係など、私たちには似合わんだろうからな」

 そこでエルフリードはこてん、とリュシアンの肩に頭を預けた。

「だがまあ、たまにはそういう単純な関係も悪くない」

「ああ、そうだね」

 そう言って、リュシアンが乱れてしまった大外套を改めて掛け直そうとした時だった。

「―――ぃつ!?」

 リュシアンの全身に、痺れのような、痛みのような、感覚が走った。
 全身の血管を無理矢理広げられているような、ひどく不快な感覚。
 この感覚には、覚えがあった。
 ―――まさか、こんな時に!?
 リュシアンは己の体の不調の正体に気付き、愕然とする。しかし、どうして唐突に?

「おい、どうした!?」

 すぐにエルフリードが異変に気付いたのだろう。

「―――」

 声を出そうとして、舌先に針を刺されたような痛みと痺れに襲われる。
 そこでリュシアンは、恐ろしい可能性に気付いた。
 さっき、自分たちは何をした?
 それは、リュシアンにとってあり得べからざる可能性だった。
 だが、リュシアンの全身を恐怖が支配する前に、彼の意識は急速に暗くなっていった。

「心配、しないで……」

 少年の最後の意識的な行動は、そうエルフリードに伝えることだけであった。
 その言葉を最後に、リュシアンの意識は闇に呑まれた。
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