王女殿下の死神

三笠 陣

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過去編 王女殿下の初陣

12 野営地の一幕

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「そういえば、会った時に思ったのだが、お前、少し身長が伸びたか?」

「そう? 俺的には大して伸びたようには感じていないけど」

「まあ、私の周囲にいる軍人どもと比べるとまだまだ低いし、何より細っこい。初めてお前に逢った時と同じだよ。何となく弱っちく見えるのは否定せん」

「これでもそれなりに鍛えているんだよ」

 ちょっとだけ不満そうな口調で、リュシアンはエルフリードに返す。

「私としては、“ああ、お前も男の子なのだな”と思ったぞ。もっとも、私の身長を追い抜かしているのは、何となく気に喰わんものを感じるが」

「エルだって身長は伸びているでしょ?」

「伸びてはいるが、まだまだ足りん」エルフリードの声は不満そうだった。「これでは将校としての威厳も何もあったものではない」

「でも、軍服姿のエルは凜々しくて格好いいから、問題ないと思うけど」

 不意に、パシャリとリュシアンの首筋に水が掛けられた。
 反射的に振り返ると、仕切り布の隙間からエルフリードが何となくむすっとした表情のまま頬を若干赤くしていた。

「……お前なぁ、そういうことを臆面もなく言われると、逆にこちらが恥ずかしいであろうが」

「俺は本音を言っているだけだけど」

 リュシアンはいつもながらの抑揚に乏しい素っ気ない口調で言った。

「なおのことたちが悪いではないか。まさかお前、他の女にもそうしたことを言っているのではあるまいな?」

「俺は、エル以外の人の“色”なんて判らないから」

 リュシアンが淡々と答えると、途端にエルフリードはばつの悪そうな表情になった。
 この少年が精神的な理由で色を認識出来なくなってしまっていることを、エルフリードだけが知っている。そしてその代償として得た彼の魔眼のことも。

「……そうであったな。つまらぬことを聞いた」

「それと、早く閉めてくれ。から」

「うん?」

 リュシアンの目に映っていたのは、長い黒髪が湿って体に張り付いた、エルフリードの水に濡れた裸身であった。

「なっ、何故それを早く言わんのだっ!」

 羞恥と混乱の混じった声を出して、エルフリードは乱暴に仕切り布を閉めた。白い裸身が、布の向こうで影となる。
 行水中に不用意に仕切り布を開ける奴があるか、とリュシアンは思ったが、お互いの気安さ故の事故だろう。
 リュシアンの背後には、仕切り布の向こうで盥の水で体を洗っているエルフリードがいた。レナ高地に籠もっている間はそうした時間が取れたはずもないから、実に数日ぶりの入浴ということになるのだろう。
 現在、レナ高地から後退した騎兵第十一連隊の中核部隊である四個騎兵中隊は、後方地域の農場に野営していた。すでに日は暮れ、農場では警戒のためにかがり火が焚かれている。
 この農場は戦場となっているレーヌス河流域から二十キロほど離れた位置にあるが、農場主はすでに家畜などと共に逃げ出していたらしい。家畜小屋には、わずかな鶏がいただけであった。
 兵士たちは交代で馬の世話をしたり、農場の周囲に歩哨として立っていたりする。
 また、女性であるエルフリードを除き、他の将兵たちは井戸の周囲で交代交代で体を洗っていた。エルフリードだけは、木々の間に仕切り布を渡して、盥に汲んだ水を使っている。
 まさか王女殿下の行水を覗こうとする不埒者はいないであろうが、念のためリュシアンが見張りをしていた。
 さて、部隊の後退は特に問題なく成功した。歩兵第七十五連隊も、念のためリュシアンがレナ高地到着直前まで上空支援に当たったが、敵騎兵に襲撃されることはなかった。
 敵騎兵部隊がこちらの後方兵站線を狙っていたが故の結果であろうが、恐らくどちらの部隊の将兵も拍子抜けしたに違いない。
 現在、連隊本部は農場主の家に置かれ、窓からは明かりが漏れている。すでに西部方面軍司令部との連絡は確保しており(リュシアンがいるのだから魔導通信に不自由しない上、司令部と直接通信を繋ぐことが出来る)、弾薬と物資の補給が受けられるよう手配したそうだ。
 命令通り、ライガー大佐はこの地で部隊の再編と補充を行い、次の戦闘に備えるつもりなのだろう。

「……」

 リュシアンは丸太に座ったまま、目の前のたき火で軽くパンを炙っていた。背後では、水の音が響いている。
 連隊司令部が家屋を使用しているということは、エルフリードを王女として特別扱いしないということだろう。恐らく、それは彼女にとって幸運なことに違いない。
 もともと、エルフリードは自身を“王女”という無個性な記号で見られることを酷く嫌う少女なのだ。
 リュシアンは温めたパンを切り、間にハムとチーズを挟んだ。
 背後で衣擦れの音がする。仕切り布を開けて、再び軍服をまとったエルフリードが出てきた。

「……ふぅ、さっぱりしたな」

 そう言って、黒髪の王女はリュシアンの隣に腰を下ろした。体は洗えたものの、下着や軍服は替えがないのでそのままだ。しかし、エルフリードはそのことに不平一つ漏らさなかった。

「はい」

 そう言って、リュシアンはハムを挟んだパンをエルフリードに渡す。

「うむ、すまんな」

 体を清めて人心地ついたからか、どこかほっとしたような表情でエルフリードはパンを受け取った。そのまま、パンにかぶり付く。

「……美味いな」

 ゆっくりと味わうように咀嚼して呑み込むと、しみじみとした調子で感想を漏らす。

「このところ、ずっと固いビスケットと干し肉だけだったからな。パンの香ばしさと小麦の甘みが身に染みる」

 戦闘中の部隊というのは、当然ながら調理をしている暇などない。温かい食事というものと無縁なのだ。だからこそ逆に、出来たての食事、温かい食事を指揮官が兵に提供出来るかどうかというのは、部隊の士気にも関わってくる重要な要素だった。
 その点、ライガー大佐は優れた野戦指揮官だった。
 農場の倉庫に残されていた小麦粉を根こそぎ接収し、烹炊班だけでなくパン屋出身の兵士までかき集めて八〇〇個近いパンを焼かせたのだ。卵や牛乳などが入手困難であったために、流石に街のパン屋のような質には仕上がらなかったが、それでも将兵にとっては久しぶりの温かな食事であった。
 とはいえ、農場主が持ち出しきれなかった分の食糧なので、量はそれほど多くはなかったらしい。
 パンは一人一つを支給された程度であり、ハムも薄く切ったのを一人一枚だけが支給されている。ライガー大佐は、そこに将校と兵卒の別を設けなかった。王女たるエルフリードとて例外ではない。
 速やかに補給が届かなければ、明日からまたビスケットと干し肉の食生活に逆戻りだろう。
 リュシアンは一応、ライガー大佐に転移魔法による食糧の輸送を提案してみたが、断られている。曰く、あまりリュシアンに頼っていると、いざリュシアンが部隊を離れた時に兵卒の士気が低下する可能性があるとのことであった。
 ライガー大佐からは、よほど切羽詰まった状況にならない限りは、王女殿下の面倒でも見ていてくれと頼まれている。むろん、リュシアンとしてもそのつもりだった。彼にとっての優先順位の先頭は、いつだってエルフリードなのだ。

「……干し果ドライフルーツ、食べる?」

 リュシアンは手の平の魔法陣から取り出した小さな麻袋を、エルフリードに差し出す。

「……もらうとしよう」

 一瞬だけ間があったのは、部隊の他の者たちに対する遠慮があったからだろう。
 袋の中に入っていたのは干しぶどうや干しりんご、干し桃に干し杏などで、他にも南国の果物である鳳梨パイナップルなども含まれていた。この時代にしては、中々豪華な干し果ドライフルーツであった。

「……うむ、甘い」

 リュシアンも何粒か取り出して口に放り込んだ。彼も彼で、任務の都合上、こうした携行糧食を持ち歩いている。

「もう一口、いいか?」

「ん」

 手を伸ばしたエルフリードに合わせて、リュシアンも袋を差し出す。
 エルフリードは干し果ドライフルーツの甘みを噛みしめるように時間をかけて咀嚼していた。

「……美味かった。礼を言う」

「そう、よかった」

 エルフリードの安堵が移ったのか、リュシアンもわずかに口元を綻ばせる。
 しばらく沈黙している二人の間に、パチパチとたき火の爆ぜる音が響く。砲声も聞こえず、塹壕の悪臭もここにはない。戦場故の緊張感は野営地全体に漂っているが、それでもレナ高地に籠もっていたころのような悲壮感の混じったものではなかった。

「……お前が隣にいてくれて、ほっとするよ」

 たき火を見つめながら、ぽつりとエルフリードが言った。

「俺はライガー大佐から聞いただけだけど、レナ高地はそんなに酷かったの?」

「いや、そういう意味ではない」エルフリードは首を振った。「あのような光景は、どうせ古今東西の戦場で見られたことだ。今さら驚くには値せんだろうよ」

 戦場を体験していながらそう言ってのける彼女は、どこか正常な感性が欠落しているのだろう。リュシアンがそうであるのと同じように。

「私が言いたいのはな、お前が隣にいてくれないとどうにも落ち着かんということだ。お前の従軍を拒んでおきながら、何を言っているのかと思うかもしれんがな」

 ははっ、とエルフリードは乾いた笑い声を上げた。

「思わないよ。俺も、エルが隣にいないと落ち着かないから」

「……そうか」

 エルフリードはどこか嬉しそうに頷いた。

「なあ、お前にとって、戦場は不本意なのではないか?」

 それでも一抹の不安を覚えて、エルフリードが問う。

「まあ、好きになれそうもないことだけは確かだね。人殺しの大義名分が、自分の中に見出せない」

「それでも、私の隣にいたいと思うのか?」

「エルの居場所の隣が、俺の居場所だから。昔、君がそう言ったでしょ?」

 あるいはその約束は、魔術師という立場から見れば契約であり、呪いであったのかもしれない。しかし、そのことにリュシアンは後悔を覚えていない。
 出逢った頃のエルフリードはこの世界のすべてを敵視しているような女の子で、だからこそ孤独だった。
 今だって、大して彼女の周囲は変わっていないだろう。ライガーという指揮官ですら、エルフリードを部下として扱いつつも、どこかで王女という一線を引いているはずである。
 自分が最初にエルフリードに抱いた感情は、もしかしたら幼い子供が同い年の女の子に抱いた憐憫だったのかもしれないが、彼女の隣に居たいという感情に偽りはない。

「ふふっ、お前は律儀だな」

「別に。俺は俺がそうしたいから、エルの隣に居るだけだから」

 いつも通りの素っ気ない口調の中ではあったが、エルフリードはリュシアンが本心からそう言ってくれていることが判った。たき火を見つめながら、かすかに頬を緩ませた。

「……本当に、お前という存在のありがたさをつくづく感じたよ。このお守りの件も含めて、な」

 エルフリードは襟元から首にかけたお守りを取り出し、リュシアンに示した。
 細い鎖に繋がれた、縞瑪瑙。
 彼女の身を守るため、縞によって構成された層の一つ一つに守護の術式を丁寧に組み込んだリュシアンの力作である。エルフリードが士官学校を卒業したときに、リュシアンから贈られたものだ。

「どう、役に立った?」

「ああ、感謝している。お前には、感謝しかないよ」

「そう。ありがとう」

 リュシアンはあるかなきかの嬉しそうな笑みを浮かべた。エルフリードはたき火に照らされたその横顔に、かつての快活だった少年の面影を見たような気がした。

  ◇◇◇

「……うっ、ここは?」

 リリアーヌ・ド・ロタリンギアは、一瞬、自分がどこにいるのか判らなかった。
 木目の天井。自分は寝台に寝かされているらしい。

「ようやく起きたか」

 叱責するような声でリリアーヌの意識が戻ったことを確認したのは、オリヴィエ・ベルトラン宮廷魔導官であった。
 徐々に、リリアーヌの意識がはっきりとしてくる。だが、寝台から起き上がろうにも、体に力が入らなかった。普段の三倍以上の時間をかけて、ようやく上体を起こす。

「……戦況は、砲兵隊の皆さんはどうされたのですか?」

 呻くような調子で、彼女は同僚たる宮廷魔導官に尋ねる。

「軍直轄砲兵隊は壊滅的打撃を受けた」

「っ……!」

 リリアーヌの脳裏に、血塗れで地面に横たわる幾多の将兵の映像が脳裏を駆け巡った。
 治癒魔法でも救えなかった者たち。
 故郷の母の名を呼びながら死んでいく兵士、国王陛下万歳を呟きながら息を引き取った将校。
 首のない死体。内臓が腹腔から漏れ出した死体。手足のない死体。黒焦げになった死体。
 リリアーヌはその惨劇に対して何も出来なかった悔しさと無力感で、奥歯をきつく噛みしめた。

「まったく、治癒魔法で己の魔力を使い果たすとは。おまけに意識まで失って、第五軍司令部からこちらの苦情が寄せられたのだぞ」

 だが、ベルトランはそうした少女の心情を一切斟酌することなく、責めるような口調で言った。
 実際問題、衛生兵が宮廷魔導官であるリリアーヌの搬送に割かれ、他の負傷者の搬送に遅滞が生じていたのだ。ベルトランとしては、これでは何のために彼女を前線に派遣したのだか判らなくなってしまう。
 宮廷魔導団が紛争地帯に派遣されたのは、決して軍部の足を引っ張るためではないのだ。
 もちろん、彼女の治癒魔法で救われた者もいるだろうが、識別救急トリアージの知識のない魔術師の治癒魔法にどれほどの意味があるというのか。もし軍の衛生班と共同していたら、もっと効率的に治癒魔法が使えただろう。厳しい言い方にはなるだろうが、結局のところ、彼女の個人的感情を満足させるためだけに治癒を施したに過ぎないのだ。
 その上、己の魔力が尽き、意識を失うまで魔術を使い続けるというのは、やはり宮廷魔導官としてあるまじき失態である。

「その様子では魔力が完全に回復するまで数日はかかるだろう。大人しく静養しているのだな」

「待って下さい」

 踵を返して部屋から出て行こうとするベルトランを、リリアーヌは呼び止めた。

「ロンダリアには、間違いなく高位魔術師がいますわ」

「知っている。我々があの高魔力反応を感知出来ていないとでも思ったか?」

「ではなぜ、こんな所にいるのですか?」

 今度は、リリアーヌが責めるような口調になった。

「ロンダリアの魔術師に、我が軍の兵士が虐殺されたのですわよ。我々宮廷魔導団が彼ら仇を討たなくて、どうするというのです?」

「それは我々が勝手に動いていい理由にはならん。我々は軍と協力して動かねばならんのだ。貴官もそう言っていたと記憶しているが?」

「それは……っ」

 リリアーヌは反論の言葉を探そうとして、しかし言葉を詰まらせた。
 もっとも、ベルトランも彼女の意見には一理あると思っている。敵の高位魔術師が以後も戦場に現れるようでは、第五軍の損害は急増するだろう。
 レナ高地周辺で使われた二度の大規模爆裂術式で魔力を消費して、当面、行動不能になっていればいいが、希望的観測をすべきではないだろう。こちらと同じく、敵魔術師も複数である可能性がある。
 今は早急に軍との協力体制を整え、第五軍を援護すべき状況なのだ。
 しかし、どうも第五軍のジュルジュ中将は宮廷魔導団の消耗を恐れているらしく、自分たちの投入に消極的である。
 そして、エルネスト・フランソワ・ド・アルベール宮廷魔導官もまた、魔術師を人間兵器として使うことに否定的な魔術観の持ち主である。とはいえ、そうであるが故にロンダリアの魔術師に対して怒りを覚えているらしく、かの魔術師を誅殺すべきであるとベルトランに漏らしている。しかし、依然として軍への協力には否定的であった。
 ロタリンギア魔導官が単独行動を行った結果、魔力喪失に陥ってしまったことは痛手だが、今度はアルベール魔導官の単独行動、伝統的魔術観を持つが故の義憤から暴走することも警戒しなければならない。
 まあ、流石に血気盛んな若者であるロタリンギア魔導官と違い、アルベール魔導官はある程度、自分たちの置かれた状況を弁えていることが多少の安心材料ではあるのだが。
 とにかくも、派遣された宮廷魔導団は身動きが取れない状態にあった。
 あるいは、ロタリンギア魔導官が魔力を失っていなければまた違った展開になっていただろう。三人の中で最強硬派であった彼女ならば、軍と協力しての敵魔術師討伐任務を積極的に唱え、ベルトランも彼女の意見を後押しすることで軍との協力体制が構築出来たかもしれない。
 しかし、その少女は今は寝台の中だ。
 どうしたって、自分とアルベール魔導官だけでは、年長で爵位などの宮中序列も高いアルベール魔導官の意見が優先される状態になってしまう。
 ベルトランは内心で溜息をついた。今回の大損害の原因が、軍と宮廷魔導団の協力体制の不備によるものだと理解していたからだ。

「……絶対に、報いを受けさせますわ」

 一方、寝台の上で俯いていたリリアーヌは涙の滲んだ声に激情と怨嗟を混ぜ込ませていた。

「あの、悪魔の如きロンダリアの魔導師に……っ!」
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