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本編 王女殿下の死神
11 モノクロの世界で
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男は、倉庫街の裏路地で死神に遭遇していた。
死人のように青白い肌、完全に白くなった髪、感情を映さない赤紫の瞳。そして、全身を覆う漆黒の大外套。
男よりも小柄であるその少年に、彼は心の底から恐怖を覚えたのだ。
貴賤の別なく、魂を刈り取っていく死神。
いや、それは死に取り憑かれたモノの顔だった。
「何を怖がっているのか知らないけど」少年の姿をした死神は言った。「別に、俺はあんたを殺すつもりはないよ。だって、この状況で一人消えたら怪しまれるでしょ?」
自分と倍以上年齢が違うだろう少年が、何でもないことのようにそう言うのだ。
他者の生殺与奪権を握っているという意味では、まさしく死神だ。
今、男は後ろ手に縛られて裏路地に転がされていた。しかも、両手の親指だけをきつく縛り上げるという形で。
拘束を逃れようと無理に力を入れると、指が千切れそうなほどの激痛が走る、実に陰湿な拘束方法だった。
「それにしても、議事堂の爆破か……」
少年は地面に転がした男を無視して、何かを考え込む素振りを見せた。
年齢に似合わない仕草すら、男には不気味だった。
組織では、若者たちを煽動するための活動を行ったこともある。若者というのは総じて判断力が未熟で、激情に駆られやすい。人民のための大義ある行動だと繰り返し繰り返し吹き込めば、簡単に煽動出来る。
アリシア・ハーヴェイという例外もいるにはいるが、彼女は彼女で若者らしい義憤と復讐心で活動している。魔術師という得体の知れない存在ではあるものの、断じてこのような不気味な存在ではない。
「ねえ、あんた」と、死神は訊いた。「大義に殉ずるのと、賢く生きるのと、どっちがいい?」
それは、気まぐれのような口調で放たれた問いだった。
どちらの答えを出そうと、少年は必要な処理を淡々とこなすだろう。そうした空虚さが、この死神からは感じられた。
明日の朝には運河に死体が上がっているか、仲間を裏切るか。
そうした選択を、死神は迫ってきているのだ。殺すつもりはないと言っておきながら、死という選択肢は常にこの少年には付きまとっているのだ。
「……うん、まあすぐには答えが出ないだろうから、はい、これ」
少年が渡してきたのは、一枚の呪符。
「俺に連絡したくなったら、いつでもしてきて。連絡したいって、その呪符に念じるだけで繋がるから」
それを、拘束された手の中に握り込ませてくる。そのついでとばかりに、親指の拘束がほどかれた。
「じゃあ、あんたが頭の良い人間だってことを、俺は期待しているよ」
本当に期待しているのか怪しいほどに、少年の抑揚に乏しい声が裏路地に響く。
「しなくていい『処理』なら、しないで済むのが一番だからね」
そう、呪いのような言葉を残して、死神は男の前から去って行った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
王室機密情報局は、連合王国中興の祖と讃えられるアリエノール女王の御代にまで遡ることの出来る組織である。
当時の外交官で女王秘書官も務めた経験のあるウォルシンガムという人物が発足させた組織であり、各国の諜報機関の中で最も歴史のあるものの一つだろう。
現在、ロンダリア連合王国には王室機密情報局の他に、内務省防諜局、外務省情報局、軍務省国防情報局が情報機関としてそれぞれ存在しているが、組織としての歴史が最も古いのは王室機密情報局であった。
軍事制度に関してはヴァルトハイム帝国に一日の長があるが、諜報分野に関してはロンダリア連合王国に一日の長があるというのが、歴代の機密情報局局長の自負であった。
もちろん、現局長であるサー・ハリー・ファーガソン准将も、そうした責任感の下に職務に精励していた。
「実に結構、実に結構」
ファーガソンは、リュシアンを前にして上機嫌だった。
「やはりお前さんは役に立つ。王女殿下の専属魔導官をやっておるよりも、儂の下にいた方がお前さんの能力を十全に発揮出来るだろうに」
ファーガソンは、本気でリュシアンがエルフリードの専属魔導官であることを国家にとっての損失であると思っている。
魔術を神聖視せず、それを最も効果的に使う手段を心得ている魔術師。
それが、リュシアンに対するファーガソンの評価だった。
もちろん、クラリス・オズバーンもこの評価に当てはまるのだが、警察という組織故の限界もある。基本的に、警察は国内の治安維持を目的とする組織である。外国の諜報機関との抗争に用いるには、リュシアンの方が都合がいいのだ。
「議事堂爆破の陰謀に、ヴェナリア執政府情報調査局の拠点、これらを察知出来たことは大きいぞ」
「准将、判っていると思うけど」
「判っておる、判っておる。この功績はエルフリード殿下のものだし、儂はお前さんと姫殿下に借りを作った。判っておるとも」
実際、共和主義者による議事堂爆破陰謀とヴェナリアの情報調査局の拠点を把握した件について、王室機密情報局は何ら関わっていない。
だが、ファーガソンはリュシアンが勝手に動くだろうと思っていたのだ。この少年は、世間のことに無関心である癖に、エルフリードのことになると必死になる。
一連の事件に対する功績を譲ると言えば、リュシアンは動いてくれるだろうと踏んでいたのだ。
彼は王室機密情報局の人間ではなく、従ってファーガソンの部下でもないが、その操縦方法は判っている。ファーガソンにとって、実に有益な駒だった。
「憲兵隊と警察による共和主義者の拠点の摘発も順調に進んでおる。これで奴らの陰謀を潰せば、王都に少しは平穏も戻るだろうて」
そして彼は、リュシアンから渡された呪符を見る。
「しかし、今回の最大の戦果はこれだな」
その呪符は、リュシアンが発見したヴェナリア料理店を偽装した情報調査局の拠点、そこの盗聴を行えるものだった。対となる呪符が、拠点となっている料理店に貼り付けてある。
エルフリードに掛けられた呪詛と、術者であるアリシアは繋がっている。だからこそ、リュシアンは彼女たち共和主義者の拠点を知ることが出来、ヴェナリア情報調査局の拠点を特定することが出来たのだ。
とはいえ、ファーガソンはリュシアンの魔眼のことを知らない。これを知っているのは、エルフリードと彼の師であるクラリスだけである。
そしてファーガソンは、リュシアンに特別な力があると察しつつも、それを訊くことはしなかった。
「我々諜報機関は、情報を抜き取られることを何よりも嫌う。逆に、いかにして相手の情報を抜き取るかが、諜報機関の腕の見せ所なのだ。お前さんは、それをよくわかっておる」
ファーガソンにとって重要なのは、リュシアンが有益な人材であること。この少年がどのような能力を持っていようとも、ファーガソンにとって重要なのは結果だけなのだ。
「当分、あの料理店は泳がせておこう。中々美味いと評判の店のようだからな。今度、一緒に食事に行ってみるかね?」
そんな悪趣味な提案を、リュシアンにしてみる。
「いいよ。俺は姫と一緒に行くから」
ある意味、お決まりの台詞が少年から返ってきた。
「ああ、ちなみに一応確認だが、姫殿下はお前さんが儂を訪ねていることを知っているのかね?」
「知らない」リュシアンは即答した。「だって、姫は准将のことを嫌っているから、きっと情報を俺と姫のところで止めて、俺たちだけで対処しようとするだろうから」
「ふむ、お前さんの賢明な判断に感謝するよ」
リュシアンはエルフリードに功績を挙げてもらいたいと思っているが、彼女を危険に晒すことは嫌っている。情報を共有することで、より確実に共和主義者に対処することが出来るのならば、リュシアンは自らの得た情報をファーガソンに開示することを厭わない。
「では、我々も我々で対処させてもらうとしよう。お前さんと姫殿下が爆破の阻止に失敗する可能性も、こちらとしては考慮に入れなければならんのでな」
「まあ、妥当な判断だろうね」
リュシアンはファーガソンの言葉に、素直に同意した。
◇◇◇
リュシアンが人気のないエスタークス伯爵家の町屋敷に帰ってきたのは、すでに日付も変わり、あと数時間で明け方となる午前三時であった。
使用人などいない、がらんどうの屋敷。
でも、自分はその方が落ち着くのだ。
子供の頃、世界はもっと面白いものだと、楽しいものだと、美しいものだと、思っていた。自分の見たことのない世界は驚きと興奮に満ち溢れていているのだと、そう思っていた。
何も知らない、無知で愚かな子供の妄想だ。
自分の見たことのない世界は、醜く薄汚いモノに満ち溢れていたというのに。
汚泥を噴き出し続ける、底なしの沼。それがこの世界なのだ。
そうして、リュシアンの世界から色が失われた。
視覚的な色ではない。精神的な色だ。どれほど鮮やかな色を、どれほど美しい色彩を、視覚が捉えても、彼は心を動かされなくなってしまった。すべての色が、単調なモノクロと同じようにリュシアンの心には映るのだ。
だからこそ、魔力を“視る”ことの出来る魔眼が発現したのだろう。
魔術とは、精神の動きによって現実世界に影響を与える技術。
だからこそ、自分の世界から色が失われたことによって、新たに見えるようになったものがあるのだ。
初めて人を殺した十一歳のあの日。
エルフリードが血に塗れた自分を見て嗤っていたことを、リュシアンは覚えている。
彼女のそんな表情を見て、リュシアンは感じたのは安堵だった。殺人を犯したことへの罪悪感ではなく、彼女に見捨てられなかったことに対する安心感を、あの時覚えたのだ。
その瞬間、リュシアンは人間というものの持つ醜さに気付いた。
人を殺したリュシアンを見て満足げに嗤うエルフリード、そんな彼女に見放されずに安堵する自分、そして自分の魔力によってぐしゃぐしゃになった死体。
人間とはこれほどまでに醜かったのかと、初めてリュシアンは思った。
だからリュシアンは、すべてが面倒になってしまったのだ。何も知らずに見ていた世界は、面白く楽しいものだった。だけれども、真実は醜く、おぞましいモノだった。
だから、この目に映るものすべて、どれが真実の姿なのか、美しいのか、醜いのか、考えるだけ馬鹿らしい。
この世界はすべて醜いのだと、思考を簡略化させてしまえばいい。そうすれば、醜さを知って打ちのめされることもなくなる。
……ただ、どうしても、リュシアンが醜いと断じきれないものがあった。
それは、幼い日の自分とエルフリードの関係。
あの無邪気さに満ち溢れた日々だけは、どうしても醜いと思うことが出来なかった。エルフリードという少女は、その身に宿す昏さと醜さを以ってしてなお、リュシアンの中で輝いていたのだ。
エルフリードという存在を無個性な“王女”という記号の中に押し込めようとする周囲に屈せず、背を伸ばして凜と歩く姿は、リュシアンの目に映る色のない世界の中にあってなお、色彩を失わなかった。
彼女は、彼女自身であることに真摯なのだ。
エルフリードだけは、リュシアンがその美しさを絶対に守らなければならない存在だった。同時に、この醜いだけの世界で、リュシアンが唯一縋れる存在だった。
だからきっと、自分はまだ期待しているのだ。
自分の行く末を見届けてくれと言ってくれた、幼き日のエルフリード。彼女が連れて行ってくれるその“果て”にあるものを。
「……戻ったのか、リュシアン」
暗い部屋の中で、淡く光る魔法陣。
その中心に置かれた寝台の上で、夜着に着替えていたエルフリードが起き上がっていた。
「まだ起きてたの?」
「……お前だけ働いて、私だけ寝ていられるか」
屋敷に置いてけぼりを喰らったことで、エルフリードは少しむくれているようだった。
「明日も陸大なんだから、早く寝ないと」
「ふん、講義中に居眠りするほど怠惰ではないわ。お前こそ、こんなに遅くまで起きているから、真っ昼間から寝る羽目になるのだぞ」
「夜の方が行動しやすいんだから、仕方ないよ」
そう言って、リュシアン小さく欠伸を噛み殺した。
エルフリードの寝台を背もたれにするように、彼は床に座り込む。そのまま、目を閉じようとした。
「おい」
エルフリードの手が、リュシアンの肩を掴んだ。
「そんなところで、まともに睡眠がとれると思っているのか」
彼女は有無を言わさぬ口調と共に、リュシアンを自身の寝台に引きずり込んだ。お互いの体温を感じられるほどの至近距離。
凜とした鋭さを感じさせる、少年のようなエルフリードの顔がすぐ側にあった。
そっと、彼女の手がリュシアンの頬をなぞる。幼い頃から剣を握っていた所為で、その手はまめが潰れて硬くなっていた。
それでも、その体温はリュシアンに安らぎを与えるものだった。
「……隈が出来ているな」
リュシアンの目の淵を指でなぞりながら、すまなそうに沈んだ口調でエルフリードは言う。
「君だって、呪詛に苦しんでいるんだ。お互い様だよ」
「だが、発端は私だ」
「エルは俺の半身で、俺はエルの半身。君がそう言ってくれたんだ。それが、俺には嬉しい」
「……」
エルフリードはそっと、自分の胸にリュシアンの頭を抱き寄せた。
「今の私には、お前にこれくらいしかしてやれない」
魔術に関して、彼女がリュシアンにしてやれることは少ない。それが、エルフリードにはもどかしかった。
「大丈夫。俺には、それで十分だよ」
どこか安心したような声でリュシアンはそっと呟き、ゆっくりと眠気に身を委ねていった。
死人のように青白い肌、完全に白くなった髪、感情を映さない赤紫の瞳。そして、全身を覆う漆黒の大外套。
男よりも小柄であるその少年に、彼は心の底から恐怖を覚えたのだ。
貴賤の別なく、魂を刈り取っていく死神。
いや、それは死に取り憑かれたモノの顔だった。
「何を怖がっているのか知らないけど」少年の姿をした死神は言った。「別に、俺はあんたを殺すつもりはないよ。だって、この状況で一人消えたら怪しまれるでしょ?」
自分と倍以上年齢が違うだろう少年が、何でもないことのようにそう言うのだ。
他者の生殺与奪権を握っているという意味では、まさしく死神だ。
今、男は後ろ手に縛られて裏路地に転がされていた。しかも、両手の親指だけをきつく縛り上げるという形で。
拘束を逃れようと無理に力を入れると、指が千切れそうなほどの激痛が走る、実に陰湿な拘束方法だった。
「それにしても、議事堂の爆破か……」
少年は地面に転がした男を無視して、何かを考え込む素振りを見せた。
年齢に似合わない仕草すら、男には不気味だった。
組織では、若者たちを煽動するための活動を行ったこともある。若者というのは総じて判断力が未熟で、激情に駆られやすい。人民のための大義ある行動だと繰り返し繰り返し吹き込めば、簡単に煽動出来る。
アリシア・ハーヴェイという例外もいるにはいるが、彼女は彼女で若者らしい義憤と復讐心で活動している。魔術師という得体の知れない存在ではあるものの、断じてこのような不気味な存在ではない。
「ねえ、あんた」と、死神は訊いた。「大義に殉ずるのと、賢く生きるのと、どっちがいい?」
それは、気まぐれのような口調で放たれた問いだった。
どちらの答えを出そうと、少年は必要な処理を淡々とこなすだろう。そうした空虚さが、この死神からは感じられた。
明日の朝には運河に死体が上がっているか、仲間を裏切るか。
そうした選択を、死神は迫ってきているのだ。殺すつもりはないと言っておきながら、死という選択肢は常にこの少年には付きまとっているのだ。
「……うん、まあすぐには答えが出ないだろうから、はい、これ」
少年が渡してきたのは、一枚の呪符。
「俺に連絡したくなったら、いつでもしてきて。連絡したいって、その呪符に念じるだけで繋がるから」
それを、拘束された手の中に握り込ませてくる。そのついでとばかりに、親指の拘束がほどかれた。
「じゃあ、あんたが頭の良い人間だってことを、俺は期待しているよ」
本当に期待しているのか怪しいほどに、少年の抑揚に乏しい声が裏路地に響く。
「しなくていい『処理』なら、しないで済むのが一番だからね」
そう、呪いのような言葉を残して、死神は男の前から去って行った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
王室機密情報局は、連合王国中興の祖と讃えられるアリエノール女王の御代にまで遡ることの出来る組織である。
当時の外交官で女王秘書官も務めた経験のあるウォルシンガムという人物が発足させた組織であり、各国の諜報機関の中で最も歴史のあるものの一つだろう。
現在、ロンダリア連合王国には王室機密情報局の他に、内務省防諜局、外務省情報局、軍務省国防情報局が情報機関としてそれぞれ存在しているが、組織としての歴史が最も古いのは王室機密情報局であった。
軍事制度に関してはヴァルトハイム帝国に一日の長があるが、諜報分野に関してはロンダリア連合王国に一日の長があるというのが、歴代の機密情報局局長の自負であった。
もちろん、現局長であるサー・ハリー・ファーガソン准将も、そうした責任感の下に職務に精励していた。
「実に結構、実に結構」
ファーガソンは、リュシアンを前にして上機嫌だった。
「やはりお前さんは役に立つ。王女殿下の専属魔導官をやっておるよりも、儂の下にいた方がお前さんの能力を十全に発揮出来るだろうに」
ファーガソンは、本気でリュシアンがエルフリードの専属魔導官であることを国家にとっての損失であると思っている。
魔術を神聖視せず、それを最も効果的に使う手段を心得ている魔術師。
それが、リュシアンに対するファーガソンの評価だった。
もちろん、クラリス・オズバーンもこの評価に当てはまるのだが、警察という組織故の限界もある。基本的に、警察は国内の治安維持を目的とする組織である。外国の諜報機関との抗争に用いるには、リュシアンの方が都合がいいのだ。
「議事堂爆破の陰謀に、ヴェナリア執政府情報調査局の拠点、これらを察知出来たことは大きいぞ」
「准将、判っていると思うけど」
「判っておる、判っておる。この功績はエルフリード殿下のものだし、儂はお前さんと姫殿下に借りを作った。判っておるとも」
実際、共和主義者による議事堂爆破陰謀とヴェナリアの情報調査局の拠点を把握した件について、王室機密情報局は何ら関わっていない。
だが、ファーガソンはリュシアンが勝手に動くだろうと思っていたのだ。この少年は、世間のことに無関心である癖に、エルフリードのことになると必死になる。
一連の事件に対する功績を譲ると言えば、リュシアンは動いてくれるだろうと踏んでいたのだ。
彼は王室機密情報局の人間ではなく、従ってファーガソンの部下でもないが、その操縦方法は判っている。ファーガソンにとって、実に有益な駒だった。
「憲兵隊と警察による共和主義者の拠点の摘発も順調に進んでおる。これで奴らの陰謀を潰せば、王都に少しは平穏も戻るだろうて」
そして彼は、リュシアンから渡された呪符を見る。
「しかし、今回の最大の戦果はこれだな」
その呪符は、リュシアンが発見したヴェナリア料理店を偽装した情報調査局の拠点、そこの盗聴を行えるものだった。対となる呪符が、拠点となっている料理店に貼り付けてある。
エルフリードに掛けられた呪詛と、術者であるアリシアは繋がっている。だからこそ、リュシアンは彼女たち共和主義者の拠点を知ることが出来、ヴェナリア情報調査局の拠点を特定することが出来たのだ。
とはいえ、ファーガソンはリュシアンの魔眼のことを知らない。これを知っているのは、エルフリードと彼の師であるクラリスだけである。
そしてファーガソンは、リュシアンに特別な力があると察しつつも、それを訊くことはしなかった。
「我々諜報機関は、情報を抜き取られることを何よりも嫌う。逆に、いかにして相手の情報を抜き取るかが、諜報機関の腕の見せ所なのだ。お前さんは、それをよくわかっておる」
ファーガソンにとって重要なのは、リュシアンが有益な人材であること。この少年がどのような能力を持っていようとも、ファーガソンにとって重要なのは結果だけなのだ。
「当分、あの料理店は泳がせておこう。中々美味いと評判の店のようだからな。今度、一緒に食事に行ってみるかね?」
そんな悪趣味な提案を、リュシアンにしてみる。
「いいよ。俺は姫と一緒に行くから」
ある意味、お決まりの台詞が少年から返ってきた。
「ああ、ちなみに一応確認だが、姫殿下はお前さんが儂を訪ねていることを知っているのかね?」
「知らない」リュシアンは即答した。「だって、姫は准将のことを嫌っているから、きっと情報を俺と姫のところで止めて、俺たちだけで対処しようとするだろうから」
「ふむ、お前さんの賢明な判断に感謝するよ」
リュシアンはエルフリードに功績を挙げてもらいたいと思っているが、彼女を危険に晒すことは嫌っている。情報を共有することで、より確実に共和主義者に対処することが出来るのならば、リュシアンは自らの得た情報をファーガソンに開示することを厭わない。
「では、我々も我々で対処させてもらうとしよう。お前さんと姫殿下が爆破の阻止に失敗する可能性も、こちらとしては考慮に入れなければならんのでな」
「まあ、妥当な判断だろうね」
リュシアンはファーガソンの言葉に、素直に同意した。
◇◇◇
リュシアンが人気のないエスタークス伯爵家の町屋敷に帰ってきたのは、すでに日付も変わり、あと数時間で明け方となる午前三時であった。
使用人などいない、がらんどうの屋敷。
でも、自分はその方が落ち着くのだ。
子供の頃、世界はもっと面白いものだと、楽しいものだと、美しいものだと、思っていた。自分の見たことのない世界は驚きと興奮に満ち溢れていているのだと、そう思っていた。
何も知らない、無知で愚かな子供の妄想だ。
自分の見たことのない世界は、醜く薄汚いモノに満ち溢れていたというのに。
汚泥を噴き出し続ける、底なしの沼。それがこの世界なのだ。
そうして、リュシアンの世界から色が失われた。
視覚的な色ではない。精神的な色だ。どれほど鮮やかな色を、どれほど美しい色彩を、視覚が捉えても、彼は心を動かされなくなってしまった。すべての色が、単調なモノクロと同じようにリュシアンの心には映るのだ。
だからこそ、魔力を“視る”ことの出来る魔眼が発現したのだろう。
魔術とは、精神の動きによって現実世界に影響を与える技術。
だからこそ、自分の世界から色が失われたことによって、新たに見えるようになったものがあるのだ。
初めて人を殺した十一歳のあの日。
エルフリードが血に塗れた自分を見て嗤っていたことを、リュシアンは覚えている。
彼女のそんな表情を見て、リュシアンは感じたのは安堵だった。殺人を犯したことへの罪悪感ではなく、彼女に見捨てられなかったことに対する安心感を、あの時覚えたのだ。
その瞬間、リュシアンは人間というものの持つ醜さに気付いた。
人を殺したリュシアンを見て満足げに嗤うエルフリード、そんな彼女に見放されずに安堵する自分、そして自分の魔力によってぐしゃぐしゃになった死体。
人間とはこれほどまでに醜かったのかと、初めてリュシアンは思った。
だからリュシアンは、すべてが面倒になってしまったのだ。何も知らずに見ていた世界は、面白く楽しいものだった。だけれども、真実は醜く、おぞましいモノだった。
だから、この目に映るものすべて、どれが真実の姿なのか、美しいのか、醜いのか、考えるだけ馬鹿らしい。
この世界はすべて醜いのだと、思考を簡略化させてしまえばいい。そうすれば、醜さを知って打ちのめされることもなくなる。
……ただ、どうしても、リュシアンが醜いと断じきれないものがあった。
それは、幼い日の自分とエルフリードの関係。
あの無邪気さに満ち溢れた日々だけは、どうしても醜いと思うことが出来なかった。エルフリードという少女は、その身に宿す昏さと醜さを以ってしてなお、リュシアンの中で輝いていたのだ。
エルフリードという存在を無個性な“王女”という記号の中に押し込めようとする周囲に屈せず、背を伸ばして凜と歩く姿は、リュシアンの目に映る色のない世界の中にあってなお、色彩を失わなかった。
彼女は、彼女自身であることに真摯なのだ。
エルフリードだけは、リュシアンがその美しさを絶対に守らなければならない存在だった。同時に、この醜いだけの世界で、リュシアンが唯一縋れる存在だった。
だからきっと、自分はまだ期待しているのだ。
自分の行く末を見届けてくれと言ってくれた、幼き日のエルフリード。彼女が連れて行ってくれるその“果て”にあるものを。
「……戻ったのか、リュシアン」
暗い部屋の中で、淡く光る魔法陣。
その中心に置かれた寝台の上で、夜着に着替えていたエルフリードが起き上がっていた。
「まだ起きてたの?」
「……お前だけ働いて、私だけ寝ていられるか」
屋敷に置いてけぼりを喰らったことで、エルフリードは少しむくれているようだった。
「明日も陸大なんだから、早く寝ないと」
「ふん、講義中に居眠りするほど怠惰ではないわ。お前こそ、こんなに遅くまで起きているから、真っ昼間から寝る羽目になるのだぞ」
「夜の方が行動しやすいんだから、仕方ないよ」
そう言って、リュシアン小さく欠伸を噛み殺した。
エルフリードの寝台を背もたれにするように、彼は床に座り込む。そのまま、目を閉じようとした。
「おい」
エルフリードの手が、リュシアンの肩を掴んだ。
「そんなところで、まともに睡眠がとれると思っているのか」
彼女は有無を言わさぬ口調と共に、リュシアンを自身の寝台に引きずり込んだ。お互いの体温を感じられるほどの至近距離。
凜とした鋭さを感じさせる、少年のようなエルフリードの顔がすぐ側にあった。
そっと、彼女の手がリュシアンの頬をなぞる。幼い頃から剣を握っていた所為で、その手はまめが潰れて硬くなっていた。
それでも、その体温はリュシアンに安らぎを与えるものだった。
「……隈が出来ているな」
リュシアンの目の淵を指でなぞりながら、すまなそうに沈んだ口調でエルフリードは言う。
「君だって、呪詛に苦しんでいるんだ。お互い様だよ」
「だが、発端は私だ」
「エルは俺の半身で、俺はエルの半身。君がそう言ってくれたんだ。それが、俺には嬉しい」
「……」
エルフリードはそっと、自分の胸にリュシアンの頭を抱き寄せた。
「今の私には、お前にこれくらいしかしてやれない」
魔術に関して、彼女がリュシアンにしてやれることは少ない。それが、エルフリードにはもどかしかった。
「大丈夫。俺には、それで十分だよ」
どこか安心したような声でリュシアンはそっと呟き、ゆっくりと眠気に身を委ねていった。
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私の名前はエリザベート・ノイズ
公爵令嬢である。
前世の名前は横川禮子。大学を卒業して入った企業でOLをしていたが、ある日の帰宅時に赤信号を無視してスクランブル交差点に飛び込んできた大型トラックとぶつかりそうになって。それからどうなったのだろう。気が付いた時には私は別の世界に転生していた。
ここは乙女ゲームの世界だ。そして私は悪役令嬢に生まれかわった。そのことを5歳の誕生パーティーの夜に知るのだった。
父はアフレイド・ノイズ公爵。
ノイズ公爵家の家長であり王国の重鎮。
魔法騎士団の総団長でもある。
母はマーガレット。
隣国アミルダ王国の第2王女。隣国の聖女の娘でもある。
兄の名前はリアム。
前世の記憶にある「乙女ゲーム」の中のエリザベート・ノイズは、王都学園の卒業パーティで、ウィリアム王太子殿下に真実の愛を見つけたと婚約を破棄され、身に覚えのない罪をきせられて国外に追放される。
そして、国境の手前で何者かに事故にみせかけて殺害されてしまうのだ。
王太子と婚約なんてするものか。
国外追放になどなるものか。
乙女ゲームの中では一人ぼっちだったエリザベート。
私は人生をあきらめない。
エリザベート・ノイズの二回目の人生が始まった。
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