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1巻

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   プロローグ


「とーたま。と、とーたま?」
「そうですわ! エドヴァルド様がお喜びになられますよ!」

 庭でよわい一歳半の可愛い女の子が日向ぼっこをしている。
 ラグマットを敷いたベンチの上で、温かい日差しを浴びながらちょこんと座っている彼女の名をカティという。
 カティはエドヴァルド・ユリ公爵の一人娘だ。エドヴァルドは、現在二十一歳ながら優秀かつ無慈悲で冷徹と称されるローベンス王国の若き宰相である。
 そんな公爵に溺愛されていると噂のカティは、天使のようにかわいい赤ん坊だ。
 ピンクがかった明るいライトブラウンの髪は日の光にきらめき、好奇心旺盛で明るい印象を見る者に与える茶色の目はぱっちりとしている。きめの細かい白い肌にピンクの可愛らしい唇を持ち、愛嬌もある。
 そんなカティは屋敷中の人気者だったが、舌足らずな言葉らしい音を紡げるようになるとますます愛くるしくなり、可愛がられているのだった。
 今も、侍女たちはカティに言葉を教えている。
 カティは覚えたての言葉を一生懸命に披露していたが、ふいに庭の綺麗に剪定された低い生垣の向こうに目を向けた。
 先ほど会ったばかりの二人の紳士に、カティは無邪気に手を振る。

「あいあ~い」

 執事に先導されて門に向かって歩く二人も、カティに気がつくと笑顔で応え、遠ざかっていく。
 その姿を見てまた侍女たちが顔をほころばせた。

「まあ! きちんとご挨拶が出来るなんてすばらしいですわ、カティ様」
「カティ様は天才ですわ。エドヴァルド様がお喜びになりますよ!」

 皆に褒められたことが分かるのか、カティは嬉しそうに笑う。

「さあさあ、カティ様。涼しくなってきましたから屋敷に戻りましょうね」

 新芽が吹き、花々がつぼみをつけるこの時期は昼間の日に照らされる間だけ暖かい。少し日が傾くとすぐにひんやりした空気が混ざり始める。
 カティは、侍女のミンミに温かいお包みに包んでもらい屋敷に戻った。
 屋敷に入り、廊下に下ろしてもらったカティはおぼつかない足で立ち、廊下の向こうに現れた姿に声をかける。

「とーたま!」

 先ほど練習していた、とっておきの言葉。
 侍女のマーサに手をつながれてよちよち廊下を歩いていたカティは、近づいてきたエドヴァルドに抱き上げられる。
 しかし、愛娘から初めて「とうさま」と呼ばれたというのに、エドヴァルドはにこりともしない。
 宰相エドヴァルドは冷静沈着で優秀な頭脳をもち、王宮でも社交界でも一目置かれている。しかしその反面、冷酷、冷血、無慈悲と恐れられており、あまりその表情が変わることもない。
 エドヴァルドは無表情のままカティを抱っこして、執務室に入った。
 執務室は、深いブルーグレーを基調としていて、落ち着いた雰囲気を醸しだしている。
 この部屋でひと際存在感を示すのは、濃い茶色の艶やかなる美しい大きな執務机だった。
 そしてその広い執務机の上には、そこには不釣り合いな可愛らしいとうで編んだ籠が置かれている。
 エドヴァルドはクッションが敷かれた籠にカティを下ろすと――

「それで?」

 と、冷たい声で聞いた。
 すると先ほどまで侍女や客人たちに、にこにこと愛想を振りまいていたカティの表情がスッと消え、真面目な顔になったかと思うと流暢に話し始める。


「とう様、先ほど屋敷に来ていたお二人、リーカネン侯爵とキルッカ伯爵が黒幕っぽいです」
「ほう」

 エドヴァルドは驚くことなく、真剣な表情でカティの言葉を聞く。

「とう様たちが出て行ったあと私を覗き込んで……」

 カティも、真面目な表情で何があったかをエドヴァルドに語りだした。


 エドヴァルドに面会に来た二人が応接室に案内されてきた時、カティもその部屋に寝かされていた。
 二人――リーカネン侯爵とキルッカ伯爵は、最初のうちカティに友好的だった。
 しかし、エドヴァルドが部屋をわざと立ち去った後、二人は即座に立ち上がって、ベッドに寝ているカティを覗き込んだのだ。

「こいつがあの宰相が溺愛しているという娘か。これで他の奴ら同様、宰相の動きを封じるのはどうだ? 奴隷法案の件、撤回させられるかもしれんぞ。くくっ」
「ああ。この娘をさらって言うことを聞かせた後は貧民街にでも捨てればいいだろう。公爵家の娘が貧民街暮らしとは愉快じゃないか。生きのびられるとは思えんが」

 そう言って笑う二人に、その時のカティは何も分からないふりをしたまま、にこにこと笑みを返した。
 ――体にかけられたふんわりした上掛けの中で、こぶしをプルプル震わせながらだが。


「あやつら許すまじ‼」

 カティは頬を目いっぱい膨らます。
 現在、貴族の一部の中では孤児などを奴隷にして過酷な仕事を無給でさせたり、私的に奉仕させたり、鉱山でこき使ったりするなど、昔のしき慣習がまかり通っている。
 それに対して、先日エドヴァルドはとある法令を提案したのだ。
 罪人への奴隷刑は認めるが、それ以外の私的奴隷を禁止し、人としての尊厳を踏みにじらないようきちんと雇用契約を結ぶ法律だ。
 真っ当な貴族は法案に賛成していたが、ある日から賛成派の貴族の家族が事件や事故に巻き込まれることが頻発した。
 その後、意見をひるがえす貴族が増え、法案成立が危うくなっている。
 そこに一部の、奴隷制が消えては困る者たちが絡んでいるとエドヴァルドは考え、調査を開始した。
 そして捜査対象に浮かんだ者たちを、夜会や王宮、ときにはこうして公爵邸でカティが探っていたのだ。
 残念ながら幼子であるカティの証言には強い力はない。しかし、後ろ暗い人間であることさえ確信出来れば、公爵位を持つ宰相であるエドヴァルドはある程度強引にでも彼らの捜査を行えるのだ。
 カティの証言を聞いて、エドヴァルドは小さく頷いた。

「ふむ、よくやってくれた。その二人には身の程を知ってもらわねばならんな」
「はい。再起不能にむしってやってください」

 貧民街に捨てられると言われて怒りが収まらないカティは赤ちゃんにしか見えないが、エドヴァルドと流暢に話す。
 それどころか、エドヴァルドの捜査に協力し、まるで諜報員スパイのようだ。
 しかし、エドヴァルドはそれに驚くこともなく、その成果を褒めカティを腕に抱き頭を撫でる。
 そう、カティは、自身が小さい赤ん坊であることを最大限に利用し、いろんなところに潜り込んで情報収集をしている。
 赤ん坊らしく寝たふりをしては、狭いところやソファの下に潜り込んだりして聞き耳を立てる。万が一、見つかってもただの赤ん坊だ、泣くか笑うかすればいい。
 時には堂々と相手に抱かれてきゃっきゃと愛嬌を振りまきながら、潜入捜査をすることもある。警戒されることもなく、誰かに詳細に報告すると疑われることもない。
 それで集めた大切な情報は、やり手の父エドヴァルドに報告する。そうすれば、恐ろしいほど頭の切れる宰相はそれを十二分に生かす。
 数日後、リーカネン侯爵とキルッカ伯爵の後ろ暗い所業が白日の下にさらされた。
 爵位を剥奪され、あっという間に両家は力を失った。当の二人は自らが好んでいた奴隷制度のもと、奴隷として一生鉱山で働かされることに決まった。
 そして暴力を恐れ、脅迫されていた貴族たちの賛成票を得られ、奴隷禁止令が可決された。




   〇赤ちゃん諜報員、誕生


 今代のローベンス王国の政治は宰相エドヴァルドのおかげで、腐敗せず正しく回っていた。
 まだ若いエドヴァルドが宰相の地位にいるのは、その頭脳や地位だけではなく、魔法のコントロール、魔力量ともに優れていることも要因だ。この王国では国民の半数ほどが魔力を持っているが、エドヴァルドの魔力は類を見ないほど大きい。
 エドヴァルドはその魔力と、公爵家でつちかった手練手管をいかんなく発揮して、無能な大臣、不正を行っている貴族など情け容赦なく処分した。相当恨まれもしたが、忖度そんたくなど一切なく、処分していく姿に恐れおののき、いつしかみんな真っ当に職務をこなすようになったのだ。
 また、外交でもエドヴァルドの力は発揮され、周辺国とも協定を結んだり、友好関係を築いたりした結果、長らく王国では平和が続いている。
 このようにエドヴァルドはこの国になくてはならない存在なのだ……と考えながら、報告を終えたカティは自室で銀のフォークでケーキを突き刺す。

(――そしてそんなエドヴァルドの活動を支えているのが私! とう様に信用され、諜報活動を行っているスーパー赤ちゃんなの! ……まあ、ここまで来るには大変なことが色々あったけど!)

 鬼畜の所業に耐え、様々な事件にも巻き込まれながらも頑張ってきた自分を褒めてやりたい。
 カティは今回の活躍のご褒美ケーキを頬張りながら、ここに至るまでの経緯に思いをせた。


   §


 カティがこの世界を認識し、エドヴァルドに出会ったのは一年以上前のこと。
 目を開けた時、真っ白な天井と華美に飾られた柱が視界に入った。

(あれ? ここどこ? ……病院? こんな豪華な?)

 起き上がろうとしたが、手足がバタバタするだけで、頭も持ちあがらず体が思うように動かない。

「うや~ああ?」

 なんで? と、声に出したつもりなのに訳の分からない声しか出なかった。

(ど、どうなってるの⁉)

 事故か病気で寝たきりにでもなってしまったのだろうか。
 焦ってもう一度声を出そうと思った時、白い天井が映る視界に急に巨大な顔が現れた。

(ぬおうっ⁉)

 びっくりして体が強張る。
 すると、仰向けに寝ている自分を覗き込んだのはホワイトブリムを頭につけた女の子だった。

「カティ様! ああ、よかった! エドヴァルド様に知らせてまいります!」

 メイド喫茶のコスプレのような衣装を着た若い可愛い女の子が走っていく。
 あのような看護師がいるはずもない。ということは病院ではない。となると、なおさら今置かれている状況が分からなくて、不安が募る。

(ちょっと待って! 何? あなたは誰? カティって誰~⁉)

 そう言ったつもりなのに、口から出る言葉はふにゃふにゃした音にしかならない。
 そこで、何かがおかしいことに気が付いた。
 よく見ると、先ほどの女の子だけではなく視界に入る窓や天井、柱も調度品も何もかもが大きい。まるで自分がアリスにでもなってしまったようだ。
 もう一度、恐る恐る体を動かして、手を目の前に持ってきてみる。

「ああ~! や~⁉」
(な、何このプニプニ⁉ 赤ちゃんの手~⁉ まさかまさか……嘘でしょ⁉)

 呆然としていると、扉が開いた。
 そして先ほど出て行った女の子とともに数名が入ってきて、こちらを上から覗き込む。

(こ、怖っ! ちょ、ちょっと近いんですけど)

 大きな顔が目の前を圧迫するように並ぶ。しかも全員がとんでもない美男美女ばかりだ。メイドさんが数人と、男性が二人。男性の一人は白衣を着ている。

(白衣? やっぱり病院なの?)

 しかし寄ってたかって見つめられると恥ずかしいことこの上ない。自分の平凡な顔の造形はよく分かっている。そんな自分をじろじろと見てくるなんて、なんの拷問、はずかしめであろうか。

「いやいうぇ」

 見ないで、と言ったつもりがやはり言葉にはならない。
 すると言葉を発したカティの姿を見て、メイドたちと白衣を着た男性は、ほっとしたような笑顔になった。しかしただ一人、ピクリとも表情を動かさない無表情男がいた。この中でひときわ見目麗しいその男は、すぐに興味をなくした様子になる。

「ミルカ、後は頼むぞ」

 そう言って彼は部屋を出ていった。

(……誰か、何がどうなってこんなことになっているのか説明してほしいんですけど……)

 自分のこの姿、現状にますます不安が募る。
 自分の手を再び見ると、やはり可愛らしいぷくぷくとしたモミジのような小さな手だった。

(やっぱりどう見ても赤ちゃんの身体……なんでこんなことに)

 眉をひそめて考え込んでいると、ミルカと呼ばれた白衣の男が診察を始めた。
 体調のチェックをされた後、ミルカがカティの手を握る。
 すると握られた手の平から、ピリピリと電流のようなものが流れてきて、思わず体が跳ねた。

「ごめんね、びっくりさせちゃったね。大丈夫だからね」

 ミルカの声掛けに、カティははっきり縦に首を振った。

「……」

 ミルカが一瞬目を見開いて「びりびりしましたか?」と聞いてきたので再び頷く。

「……特別痛いところはありましたか?」

 今度は首を微かに横に振って否と意思を示す。

(あれ、首を横に振るのはちょっと難しいかも)

 まだ首が据わってないのかもしれない。
 そう思いながら、じっとしているとミルカはカティの額に触れた。

「……。カティ様、ちょっと失礼いたしますね」

 冷たい手の平だなあと思っていると、頭の中に何かが侵入してくるような気持ち悪さを感じた。

(うう……なんか怖い……!)
「や、あ!」

 思わず強く拒否するように、首を振るとミルカの手が額からパンとはじかれた。カティの力など大したものではない。自動的にはじかれたようにすら見えて、カティがぽかんとする。
 同様に驚愕した顔でミルカがカティを凝視していたが、何も言わずに扉へ向かう。

(ええっ? ちょっと⁉)
「ミルカ様⁉」

 残されたメイドも驚いたように声をかけたが、ミルカはすぐに出ていってしまった。

「――診察はどうだったのでしょうね。でも、カティ様が目を覚まされて良かったですわ」
「本当に。こんな可愛い子を手にかけようとするなんて信じられないわ」
「ましてや自分の子よ。ユリアンナ様がいくらエドヴァルド様に懸想けそうしてたからって……我が子を害するなんて恐ろしい」

 残されたメイドたちがそう言いながら、濡れたタオルで顔を拭いてくれる。

(ん~、気持ちいい……。いや、そうじゃなくて‼ まさかそんな……)

 聞こえてきたその内容に驚く。
 どうやらカティは、ユリアンナという母に顔を枕に押し当てられたらしい。
 そして、エドヴァルドという人物に命を救われ、先ほど目を覚ましたばかりのようだった。
 殺されかけた記憶も、ユリアンナという名前にもエドヴァルドという名前にも聞き覚えはないけど……

(……私……「お母さん」に殺されかけたの?)

 カティはひどくショックを受けた。
 同時に、昔のこと……自分の前世を思い出した。
 その人生では、母が自分を生んですぐ亡くなったあとに、再婚するからと言って父に施設に預けられた。両親の顔も、家族の愛情も知らない人生だった。
 それでも、母というものは無条件で味方であり愛してくれるものだと思っていたし、施設で育ってきた自分にとって、母というのは憧れで、恋焦がれるものだった。
 施設では友達に恵まれたし、先生たちも優しくて幸せだったのは間違いない。
 でも辛いことがあって布団の中で泣いている時には強く抱きしめてほしかった。大丈夫だと背中をさすってほしかった。熱を出して寝込んだ時に手を握ってほしかったし、悪いことをした時は叱ってほしかった。
 当たり前にお母さんがいる子たちがうらやましくて、自分にもしお母さんがいればどんな生活だったのだろうといつも夢想していた。

(……あんなに切望していた『お母さん』に殺されかけたんだ。そっか、前はお父さんに捨てられたし、私ってどこにいてもいらない子なんだなあ……)

 胸が痛くて苦しい。ポロッと涙が一つこぼれたのを皮切りに、涙が止まらなくなる。
 急に火が付いたように泣き始めたカティを、メイドが慌てて抱き上げてくれたが、涙はまったく止まらなかった。
 するとちょうどその時、先ほど出ていったミルカが、あの見目麗しい男を連れて部屋に戻ってきた。

「……泣いているのか?」

 そう言うと、泣いているカティに無表情のまま男が手を伸ばす。

「それをよこせ」
「カ、カティ様をですか?」

 メイドが戸惑った声で聞く。

「そうだ」

 男が頷くと、メイドは恐る恐るカティを彼に渡した。
 すると、男はカティを観察するように、ただ無言で見つめる。
 その顔の近さに驚いたせいか、ぴたりと涙が止まった。
 視界が明瞭になると同時に、男の顔がはっきりと見える。

(近い近い近い‼ 顔面凶器級の男前が近い!)

 光の加減で銀色にも青味を帯びたようにも見える黒髪に、青みがかった黒い瞳。意志の強さと冷たさを感じさせるような眉と涼しげな目、そしてスッと鼻筋の通った端正な顔立ち。
 滲み出る威圧感と冷ややかなまなざしでさえ、その美貌をさらに引き立てている。
 そんな恐ろしいほどの美形が至近距離かつ無言で自分を見つめるのだから、怖くて涙も止まるというものだ。
 周りにいたメイドやレオたちは泣き止んだカティに驚いたように顔を見合わせている。
 こんな無表情で温かさの欠片かけらもないこの男に抱っこされて泣き止む要素がどこにあるのかとびっくりしたのに違いない。

「ミルカ、これの魔力は測定出来るか?」
「神殿か王宮の魔法宮に行けば測れます。エドヴァルド様であればいつでも……」
「内密にだ」
「そうなりますと……」

 硬直している周囲もカティも放置して、エドヴァルドとミルカが会話をしている。
 二人の話を聞いて、今自分を抱っこしている恐ろしいほどの男前が、エドヴァルドという名前だとカティは理解した。
 しかしそんなことよりも! 
 二人の会話のなかに聞き捨てならない言葉を耳にしたカティは、衝撃を受けた。

(魔力測定! 魔法宮‼ こ、これは流行りの異世界転生とかいう……)

 ようやく自分の身に起きたことが分かった。いや、ありえないとは思うけどそれしか説明がつかない。
 よく考えれば、部屋の装飾、皆の衣装や姿、名前にいたるまで慣れ親しんだものではない。
 それに魔法まであるとなると、異世界にしか思えなかった。
 自分は何らかの事情で亡くなり、この体に転生したのだ。
 ――この魔法のある世界に。

(おおっ‼ もしや私も魔法が使える⁉ 不思議な力で街中に夢と希望を振りまける⁉)

 母に殺されかけた事実は確かに重くて辛い。しかし、幸いにも事件のことは丸々記憶にない。
 傷つきはしたけど、母親の顔も知らないせいでどこか他人ひとごとのようでもある。
 しかもおそらくそのおかげでこの前世の記憶が戻ったのだ。魔法の世界への転生というビッグニュースの前には、顔も知らない母のことなんて、カティにはどうでもよくなっていた。

(変身したり、空を飛んだり、瞬間移動とか出来ちゃったりして!)

 ニヨニヨ笑っていたら、美しいブルーブラックの目と目が合った。
 思わず、すっと視線をそらす。

「なるほどな」

 何か意味ありげにつぶやくエドヴァルド。

(な、何がなるほど? 恐いんですけど……)

 何も悪いこともしていないし、バレるはずもない。それなのに、エドヴァルドの鋭い視線にさらされるとドキドキしてくる。

(そもそもこのエドヴァルドとかいう人は何者? お父さんではなさそうだし……お母さんとはどういう関係? これからどうなるんだろ……)

 カティは一人で考えを思いめぐらしていると、またエドヴァルドがミルカに言った。

「誰にも悟られずに魔力測定をしたかったのだが」
「……そうですね、カティ様は特別な力をお持ちかもしれませんから、あまり知られるのは良くないやもしれません。私も自分の魔力が弾かれるなど初めてのことです」
(ん? 私に特別な力ですと?)

 カティは思わずにやける。
 すると、そんなカティを横目で見ながら、エドヴァルドは恐ろしいことを言う。

「魔術医のお前の魔力が弾かれるか……。それが発覚すれば、魔法宮で研究対象として人体実験されるかもしれぬな」
「そうですね、彼らは魔法の研究となると周りが見えなくなりますからね。少々倫理感も欠けておりますし」
「ひぇ⁉」

 エドヴァルドとミルカの恐ろしい言葉に思わず体がびくっと震え、声が出てしまった。
 その声にエドヴァルドの視線がカティに向けられる。その目は明らかに、カティを愛らしい赤ちゃんだと思っているようには見えない。

(うううっ……人体実験なんて冗談じゃない。あ……赤ちゃん。私は普通の赤ちゃん!)

 そう思いつつ、親指をちゅぱちゅぱ吸ってみた。

(ね? ね? 何の変哲もない可愛い赤ちゃんだから‼)

 指を吸いながらエドヴァルドをちらっと見ると、また目が合ってしまって、慌ててそらす。
 な、なんか怪しまれている? これはもう何が何でも全力で普通の赤ん坊になりきらないと。
 人生最大のピンチ! 恐ろしさに顔を引きつらせながらも、必死で無邪気を装う。
 初めは、エドヴァルドは確実にカティに興味なんてなかった。魔術医に何を聞いたのか知らないけど、このまま捨ておいてほしい。そして両親がこの世界でもいないのだとしたら、このままどこか施設とか警察とか乳児院とか……そのようなところへぜひともお預けいただきたい。
 ドキドキと沙汰を待っていたが、やがてエドヴァルドにベッドの上に寝かされ、上掛けをかけられる。これは必殺赤ちゃん返りが功を奏したかと、名演技を自画自賛しホッとしたのもつかの間。

「これは私の娘とする」

 エドヴァルドの悪魔のような宣言が聞こえた。

(え? いやいやいやいや‼ お父さんじゃないんでしょ⁉ じゃあわざわざお父さんになってくれなくていいから‼ どこかの施設に連れて行ってくれていいから!)


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